国鉄1984年2月ダイヤ改正について
http://katanogawara.blog.jp/archives/11708229.html
で、抜け落ちていた点がいくつかあったので、追記します。



今回は1984年2月ダイヤ改正について。
このダイヤ改正は前回1982年11月の東北・上越新幹線大宮暫定開業と、翌年1985年3月の上野開業を目玉とする大改正の谷間にあって、どちらかといえば比較的地味なダイヤ改正だった印象だ。近畿圏を中心に私が知っていることを思いつくまま列挙すると、

◎寝台特急「紀伊」(東京-紀伊勝浦間)廃止

◎東海道本線電車急行「比叡」(名古屋-大阪間)廃止

◎福知山線普通電車(大阪-宝塚間)103系(黄色)を6両→4両に短縮

◎福知山線の客車列車の一部で50系を使用

◎草津線朝1本の亀山発京都行き客車列車を柘植始発に短縮

◎紀勢本線の寝台普通列車「はやたま」(天王寺-亀山間)を天王寺-新宮間に短縮すると同時に、寝台車連結を廃止

◎寝台普通列車「ながさき」廃止

◎山陰本線客車長距離普通列車824列車(門司→福知山)を出雲市で系統分割

◎山陰本線西部の夜行「さんべ」を臨時列車化

◎芸備線~木次線経由の急行「ちどり」(キハ58系)のグリーン車連結廃止

◎伊勢線(現・伊勢鉄道)の気動車普通列車(四日市-津間)を1両に

ぐらいだったか。

関西・紀勢本線を中心とする南近畿においては、寝台特急「紀伊」および紀勢本線を全通する「はやたま」が廃止され、3年後1987年の分割民営化(JR西日本とJR東海に二分)を意識した動きを見せたと言える。東海道本線「比叡」の廃止も同様だ。在来線の長距離輸送がどんどん減らされて行き、これが延いては日本の鉄道の衰退につながっているとも言えようか。「比叡」は朝の下り・大阪行きは、新幹線から離れている岐阜・大垣方面から京都への直通需要で利用状況は好調だったようだが、上り・名古屋行きは大阪発昼前という中途半端な時間帯のため、閑古鳥が鳴く状態だったらしい。

福知山線103系の編成短縮は、3年前1981年の宝塚電化にもかかわらず、思ったほど利用が伸びなかったためだと言われる。今でこそ並行する阪急からかなり客を移転させているが、沿線に深く根付いた阪急文化を切り崩すのは容易ではなかっただろう。103系電車と三田・福知山以遠方面への客車・気動車列車が共存していた。捻出されたモハユニットは、片町線(学研都市線)のほか、首都圏の常磐線に転用された。しかし、10年後の1994年、福知山線(宝塚線)103系は6両に復活、さらに1997年JR東西線開通後には7両に増強され、JR京都線高槻・京都までの直通も行われる。

京阪神緩行線(JR京都線・神戸線)への201系投入が続き、捻出された103系は片町線や関西本線(大和路線)(奈良-湊町間)に転用され、冷房化率アップに貢献する。この過程で両路線において青色の103系が見られ異彩を放っていた(その後も大和路線では阪和線とトレードでしばしば青色103系が姿を現したりする)。103系は1984年まで製造されたが、編成単位としては1981年福知山線電化用が事実上最後だった(その後、1983年に筑肥線・福岡地下鉄直通用の1500番台が登場するが、それは別として。1984年製造分については、赤羽線編成増強用の中間車のみ)。

寝台普通列車「はやたま」「ながさき」の廃止で、残りは「山陰」(京都-出雲市)だけとなる。これも翌年3月改正で廃止される。

急行「ちどり」は1980年10月に夜行便廃止、1984年改正でグリーン車が外され、さらに翌年の改正では1往復のみとなって凋落を極める。ただし、1985年改正では広島-三次間に「みよし」が新設される。

このほか南近畿では、およそ半年後の1984年10月、奈良線・和歌山線(五条-和歌山間)などが電化、105系(常磐線・千代田線直通用103系を改造)が投入される。奈良・桜井・和歌山線唯一の優等列車・急行「紀ノ川」、および和歌山線に1往復だけ残った客車列車(50系)は廃止される。

伊勢線は名古屋鉄道管理局管内だったが、普通列車用気動車は天鉄局管内亀山機関区が担当していた。伊勢線単行運転に合わせ、加古川のキハ30が亀山に転属し、片町線非電化区間(長尾-木津)などでも運用されるが、両運転台のキハ30は伊勢運転区に転属ののちJR東海に移管される。伊勢線は国鉄最後の直前に伊勢鉄道に転換された。