2016年06月

今日は京阪バス過去路線についてレポートを書く。
今回は、寝屋川営業所管内の【16】号経路・<枚方市駅~寝屋川市駅>で行く。

【16】号経路・<枚方市駅~寝屋川市駅>は、かつての京阪国道線の名残。もともと<天満橋~三条京阪>間だったのが1970年代に入り<天満橋~枚方市駅>に短縮、その後も分割・短縮を繰り返して、1975年ごろ、当該【16】号経路が誕生する。分割後の<大阪市内~寝屋川>に相当する路線系統は、【1】号経路<京阪京橋~寝屋川市駅>と思われる(京橋乗り入れは2008年廃止。現在も【1】・<京阪守口市駅~寝屋川市駅>は運行中)。

【16】号経路の運行経路は、

枚方市駅北口~枚方公園口~伊加賀~(国道170号・府道京都守口線経由)~菅原神社前~池田本町~寝屋川車庫~寝屋川市駅

で、主に工場・事業所の並ぶ国道・幹線道路を走行するゆえ、道路渋滞が多発しやすいこともあって利用客は少なかったと思われる。1970年代後半の一時期だけ枚方営業所が担当していたこともあったようだが、その後1995年6月の廃止まで寝屋川営業所が担当していた(枚方営業所の車両でこの【16】号経路の方向幕が入っているのを見たような記憶がある)。運行本数は1987年当時、平日10往復、休日5往復だった(「京阪時刻表1987」巻末のバス時刻表より)。

私は、枚方市駅で【16】寝屋川市駅行きにBタイプ(路線・観光兼用車)のK-RC301P(社番B-3461)が入っているのを何度か見た記憶がある。1980年代後半~90年代初頭のことだった。一度乗ってみたかったが、結局乗ることもなく、気がついたら廃止されてしまっていた。

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B-3461(K-RC301P) 他サイトさまより拝借

【16】号経路・枚方寝屋川線廃止後、枚方市南西部においてはバス路線空白地帯となる。しかし、淀川河川敷に近い伊加賀・出口地区は住宅地やマンションの開発が進んでいて、同地区へのバス路線があっても不思議ではなかった。そこで、伊加賀・出口地区から枚方市駅・枚方市中心部へのバス利用客需要を見込んで、2001年夏、同じ【16】号経路として、枚方出口線が誕生する。運用担当は高槻営業所。ただし、国道へのアクセスが便利ゆえもともとマイカー利用の多い地域であり、近年の枚方市駅周辺の商業・集客施設の衰退などもあり(今年5月、枚方近鉄跡にT-SITEがオープンしたが)、出口線の利用状況からして、高槻の大型車では輸送力過剰なようなので、枚方営業所に移管して中型車で招提線【38】号経路と共通運用を組んだほうが効率的だと思われる。

参考までに、枚方営業所担当時代の【16】号経路関連の運用についても興味がある。当時は交野営業所開設前で、星田線【41】号<寝屋川市駅~四条畷駅>、【43】号<枚方市駅南口~四条畷駅>なども枚方営業所管轄だった。ゆえに【16】号経路は寝屋川市駅からの星田線への送り込み運用もあった可能性はありそうだ。ただし、笠松-正縁寺間の狭隘区間対応のため、星田線には専用の短尺車が使用されていたので、実際はどうだったかはわからない。


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梅田に停車中の普通・北千里ゆき(2011年)


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嵐山線で最後の活躍(2008年)


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桂に停車中の看板車2309F・嵐山行きと8300系急行・河原町行き
京都線の「急行」も過去のものとなった


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京都京阪バス(旧・京阪宇治バス)維中前バス停(宇治田原町)と周りの風景写真をアップしてみました。
バス回転場と待合室が完備していて小さなバスターミナルのような感じになっています。
ここから京阪宇治、近鉄新田辺、宇治田原工業団地、緑苑坂各方面へのバスが発着します。
かつては宇治田原町のかなり奥のほうの茶屋村とか、府県境を越えて大石小学校~石山駅へのバスもあったが、廃止されてしまいました。なお、茶屋村へは町営バスの運行となっており、町営バスもここ維中前バス停から発着しています。

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京田辺市の隠れ里にある京阪バス天王バス停。
新田辺・穂谷・枚方市駅から1日数本だけここ天王まで乗り入れている。
先日、天王付近で土砂崩れが発生したため、現在天王の一つ手前、宗谷(枚方市)で折り返し運用を行っているようだ。

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京阪バスと近鉄バスの発着する四条畷駅の写真を何枚かアップしてみました。
【32】巣本経由寝屋川市駅行きは廃止されてしまったし、【33】砂経由・寝屋川市駅行きも1往復だけの免許維持路線になってしまいました。枚方市駅まで直通する【43】号経路も発着していました。
近鉄バスは瓢箪山行きと清滝団地行きが発着しています。

ちなみに、JR四条畷駅の所在地は大東市です。

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建替え前のピーコック 「大丸ピーコック」だったのがイオングループの店に


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香里ヶ丘11番街(現・CONOBA)


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真夏のこもれび水路(旧・公設市場付近)

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さくら通り(香里ヶ丘5~6丁目) このあたりの住棟も全て取り壊された
現在、この界隈は病院・メディカル施設が整備されつつある

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TOP WORLD向かい側(旧・A地区)が更地だった頃
その後、民間のマンションが建てられる

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ピーコック通り商店街にあった三輪そうめんの店

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ABCセンター この付近は昔と大きく変わっていない
地階食料品スーパーは今月閉店するようだ

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紅葉輝く頃のけやき通り

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新香里バス停

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ピーコック商店街西側 奥は香里ヶ丘図書館
現在、ここは新しい商業施設CORIOと駐車場に変わった


2003~04年ごろに撮影した香里団地の点景写真をアップしてみました。
香里団地の建替えは1998年ごろより既に始まり、かなり景観が変わってしまいました。
2003~04年ごろといえば、建て替えで高層化した住宅と、1950~60年代の古い中層住宅がまだ共存していた頃です。それほど昔のことのようには思えないが、当時デジカメで撮影しまくってた写真を引っ張り出して整理すると、あれから街の様子が大きく変わったんだなということを痛感しますね。

※他の写真も随時追加アップします。


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京阪交野線の2600系も今や過去のものとなってしまった。

交野線に2600系がデビューしたのは1981年夏のことだったと記憶している。
当時、交野線は吊り掛け車1300・1700・600系(4両編成)のたまり場だった。交野線には小型車500形が最後まで残っていたようだ(1976年全廃)。1980年ごろより1900系も時折顔を見せるようになるが、いずれも非冷房車ばかりで夏場は敬遠したくなるようなところだった。

そんな交野線に、1981年夏のある日、初の冷房車2600系が姿を現す。これに出会ったときはワクワクした。2600系はクーラーのほか、ブリッジ式行先種別表示機まで付いていて、他の旧型車とは一線を画するピカイチの存在だった。当時、2600系が製造中の過程にあったが、実際は旧2000系の卵形車体・台車を再利用したもので、1983年に控えている架線電圧1500V昇圧対応目的で2000系からの代替新造であり、別に新しい車両ではなかった(これとは別に2600系30番台という純正たる新造車もある)。とはいえ、クーラー付きの車両は鉄道ファンのみならず一般利用客にも新鮮に映って歓迎されたことにはちがいない。

2600系に加えて2200系2210Fの4連口も時折交野線の運用に入るようになる。2200系は既に冷房化工事済みだったが、2600系とはちがって当時は方向板使用だった。

ただ、秋から冬場にかけては、交野線で2600系はあまり見なくなり、依然として旧型車が幅を利かせていたように記憶している。それでも、1300系や600系の吊り掛け車は楽しく、600系の編成に1両だけ1300系中間車を組み込んだ凸凹編成なんかは面白かった。

翌年1982年も夏が訪れると、交野線に再び2600系が入ることが多くなり、やはり暑いときは600系や1300系は敬遠したくなった。同年秋までに2600系が全部出揃い、さらに年が明けて1983年、待望の1500V昇圧を控えて新車6000系が斬新なスタイルで登場し、吊り掛け車を全部置き換える。6000系は12月の昇圧前日まで暫定的に4連を組んで交野線の運用にも入る。

以降、交野線の車両は2600系が主役となる(1996年の5連運転開始後は1900系も)。しかし、2600系(0番台)の老朽化も進んで、支線区のワンマン運転にも対応した新車10000系が2002~06年に製造され、2007年秋には交野線のワンマン運転が始まる。ワンマン化以降は基本的に10000系(2012年からは13000系も加わる)で運用され、2600系・1900系(5連)は朝・夜の本線への直通「おりひめ」「ひこぼし」などに限られるようになる。2008年の中之島線開業を前に1900系は引退、「おりひめ」「ひこぼし」は2600系5連専属となるが、2013年3月ダイヤ改正で本線直通列車は廃止され、交野線での2600系運用は消滅する。

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1・2年ほど前まで活躍していた西日本JRバス京北線、旧・エアロスターMの2ステップ車。
今年に入って、新型エルガ・ノンステップが衝撃デビューで一気に置き換えられてしまったようです。
5年前に京都駅前で撮影したエアロスターMの写真を1枚アップしてみました。

少し昔のバス乗り継ぎの旅について書き綴ってみたくなった。
今日は1996年秋の江坂から交野までバス乗り継ぎについて書くことにする。

ある夕方、江坂での用が済んでバスに乗り継いで帰ってみようと思い立った。
このときに乗車した路線系統の多くは、その後廃止されてしまっている。

まず、阪急バスのJR吹田行きに乗る。当時、江坂界隈を走る阪急バスといえば、吹田営業所のみに配置されていた狭隘路線用の日野ブルーリボン短尺車(P-RK172B)を思い出す。当時の阪急バスは西工58MC+三菱ふそうが標準スタイルだったゆえ、この日野車は異色の存在だった。途中、垂水、豊野を経由し、吹田市役所前(阪急吹田駅)からJR吹田に至る。

吹田から守口方面へ京阪バスに乗り換えるわけだが、今回は吹田八尾線の【52】号経路(廃止)に乗る。吹田から守口へは上新庄・土居経由の【9A】号経路が今も40分間隔で運転されている。【52】号経路は【9A】号とは経路が大きく異なり、摂津市役所を回って中央環状線に入り、鳥飼大橋を渡って大日交差点を右折、パナソニック前を経て守口市駅に到着する。【52】号経路は阪急バスとの共同運行だった。つまり、阪急バスも京阪守口市駅まで乗り入れていたわけだ。かつては国鉄・京阪・阪急・近鉄4社の共同運行だった吹田八尾線だが、渋滞の影響を受けやすくて利用客は減り続け、大阪モノレール門真市開業の時に完全休止(全廃)される。

守口市駅からの経路はどうしようか少し迷ったが、【24】号・清滝団地行きが止まっていたので、それに乗る。西三荘駅前、京阪門真市駅、京阪大和田駅から巣本、四条畷小学校前などを経て、生駒山系麓の清滝団地までの少し長距離な路線系統だが、2008年秋に京阪大和田駅以西への直通が廃止される。平日ダイヤの朝夕のみの運転で、主にパナソニック工場への通勤客を意識して設定されていたものだろう。パナソニック城下町の守口・門真は三洋電機とともに栄えてきたが、パナソニックの完全子会社となってしまい、往年に比べて活気がなくなっているように思う。また、京阪大和田駅からは清滝峠を越えて田原台、磐船街道を大回りして京阪交野市駅までの【18】号経路も発着していたが、これも1997年8月の地下鉄門真南開業に合わせたダイヤ改正で廃止される(以降、交野~田原台1丁目間に短縮)。

終点・清滝団地で下車して、大阪平野の夜景を眺めながら麓の坂道を降り、忍ヶ丘駅前まで徒歩。
忍ヶ丘駅は四條畷市唯一の鉄道駅であり、「四条畷」駅は大東市に所在していることは有名だ。
忍ヶ丘駅で少し時間をつぶし、【45】号・京阪交野市駅行きを待つ。【45】号経路(当時)は、星田線【43】号<枚方市駅~四条畷駅>の区間系統で、いずれも廃止された。

【52】・【24】号経路は門真営業所、【45】号経路は交野営業所の担当だった。



久しぶりに京阪バス過去路線系統のレポートを書く。

今回は高槻営業所管内の旧【2】号経路・<高槻~香里団地>についてレポート。

運行経路は、枚方高槻線と香里団地線をつなげたようなもので、

阪急高槻→枚方公園口→枚方市駅南口→藤田川→新香里→開成小学校前→香里橋→枚方市駅
(降車・南口、乗車・北口)→枚方公園口→阪急高槻


という半ば循環系統だった。香里団地から高槻方面への通勤通学客を意識して設定されたものと思われるが、実際の旅客需要がどれだけあったのかは不明。朝夕ラッシュ時間帯のみの運行だったが、1993年には夕方の便を廃止、朝のみとなり、2004年1月のダイヤ改正で廃止される。

京阪電車枚方市駅高架前は、高槻行きの便も「枚方市駅南口」バス停(踏切手前の専用停留所)で乗降扱いを行っていたが、南口・北口連絡道路完成後の1998年に、北口ロータリーへの乗り入れを開始する。

私も何度か香里団地からこの【2】号経路に高槻まで乗車したことがある。香里団地方面から枚方大橋以北へ乗りとおす旅客もそれなりに多かったように思われる。確かに高槻までそのまま座って行けるので、一睡するにも便利だったが、やはり長距離路線系統は削減・廃止される傾向があり、この【2】号経路も例外ではなかった。

なお、この【2】号経路の区間便として、香里団地営業所担当で

(枚方市駅南口→)藤田川→新香里→開成小学校前→香里橋→枚方市駅

があり、現在も運行中である(早朝のみ)。

あれから10年後の2014年、朝一番の新幹線連絡などを目的に、長尾・出屋敷方面から阪急・JR高槻への「早バス」【1A】号が設定される。この便は枚方営業所の担当で、JR高槻到着後、【1A】枚方市駅行きとなって折り返す。せっかくなので、通常運賃の倍額でもよいから、香里団地から高槻への「早バス」も欲しいところだ。

ちなみに、この【2】号経路の名残なのか、「枚方大橋地区」定期の利用範囲は、

枚方市駅~藤田川~新香里~枚方公園駅前、枚方市駅~枚方公園口~春日町・鮎川

が指定されているが、香里団地から枚方公園駅前まで出て、徒歩連絡で枚方公園口から高槻・茨木方面行きのバスに乗り継ぐ旅客需要も一定存在すると思われる。私もごくまれに、高槻からのバスに乗るとき、気分転換に枚方公園口で下車し、枚方公園駅前から香里団地方面行きのバスに乗り継ぐこともある(特に近鉄百貨店閉店後、T-SITEができるまで、枚方市駅南口でバスを待つのに多少のストレスを感じることもしばしばだった)。

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夕刻の三条に停車中の1300系宇治急(他サイトより拝借)


かつて、宇治線(中書島-宇治)の列車は、終日京阪本線の三条まで直通運転を行っていたが、2000年7月のダイヤ改正で特急の中書島終日停車以降、三条直通は廃止される。

宇治線には1980年代まで三条発着の直通急行宇治急)もあった。
平日ダイヤの朝夕ラッシュ時のみの運転(朝・三条行き、夕・宇治行き)、宇治線内各駅停車だったが、1980年3月ダイヤ改正で朝の三条行きは廃止され、夕方の宇治行きのみが残る。宇治線内は5両対応だが、夕方の宇治急については4両編成のみでの運用で、1983年の架線電圧1500Vへの昇圧前は吊り掛け車600系や1300系が入ることも多かったようだ。特に1300系は4両編成のみで交野線・宇治線での運用が基本的だったゆえ、夕方の宇治急は1300系にとって唯一の優等運用の華やかな場面だった(1300系は一時期特急色に塗り替えて特急車予備として選抜された車両もあったが、1970年代以降は短編成化され交野・宇治線での運用がメインとなる)。

夕方の宇治急のダイヤは、三条駅(もちろん地上時代)では4番ホームの普通・宇治行きと並んで3番ホームからの発車、途中深草で先発の普通・淀屋橋行きを追い抜き、丹波橋では特急通過待ち、中書島で5分ほど停車、中書島から宇治線内の各駅停車だった。深草で追い抜かされた普通は、特急の通過後、深草を発車、中書島では、先の宇治急に追いつくというオチだった・・・。

宇治急は、1989年秋の鴨東線開通後、準急・出町柳→樟葉に代替されて廃止。京都地下線(1987年開通)内で宇治急が見られたのはわずか2年余りだった。京都口の準急は、従来深夜に淀屋橋発三条行きが萱島以東各駅停車(現在と同じ)として1本だけ運転されていたが、この準急が廃止され、中書島以北急行と同じ停車駅、中書島以南各駅停車として、京都口に新たな優等種別・準急が設定される(近鉄京都線の「準急」も似たようなもの)。この準急も宇治急の名残なのか、5両という短い編成の列車も2本ほどあり、最終便あたりには7両編成が入るも、普通との共通運用ゆえ8両編成での運用はなかった(前運用は淀発出町柳ゆき普通、後運用は樟葉発出町柳行き普通)。

しかし、この京都口での樟葉準急も長くは続かず、11年後の2000年ダイヤ改正では「普通・樟葉」に格下げとなる。宇治急の成れの果てといったところだ。さらに2003年ダイヤ改正以降(特急の枚方市・樟葉停車)、準急の停車駅が1989年以前の萱島以東各駅停車に戻り、京阪間直通の準急が終日運転されるようになる。


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JR学研都市線(片町線)・長尾駅の駅舎が新しくなる前のバスロータリーの写真をいくつかアップしてみました。

長尾駅は大阪府最東端にある鉄道駅で、学研都市線の電化・非電化の境界であり、長尾-木津間は気動車が1~2時間に1本だけのローカル線でした。

学研都市線全線電化以降、快速電車の大増発によって都市鉄道としての利便性が大きく上がり、北山・家具団地付近に大阪工大キャンパス開校および新興住宅地開発が進んで、年々バスの発着本数も増えていました。それにもかかわらず、長尾駅ロータリーは狭いままであり、バスの出入りには苦労が多かったことと思います。長尾駅ロータリーの交通整理係募集の車内広告をしばしば見かけたように記憶しています。

夕方ラッシュ時に運行される枚方市駅北口からの出屋敷線【19】号はなぜか長尾駅の一つ手前、「長尾口」までですが、どうせなら【20】号・長尾駅行きにしたらいいのにと思ったりしますが、もしかしたら長尾駅ロータリーの狭さと関係していたのかもしれませんね。

長尾駅前再整備事業が進み、2014年には現在の新しいバスロータリーに変わりました。

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地上時代の姫路駅播但線のりばの写真です(2007年8月)。
たまたまキハ181系「はまかぜ」と居合わせたので、もちろん「はまかぜ」も撮りました。
キハ181系は武骨ですね~!
ホーム上の「えきそば」も美味いですね(^-^)

ちなみに播但線には国鉄時代末期に一度だけ乗りました。
大阪・京都方面から北近畿や山陰へ行くとなれば、やはり福知山線もしくは京都駅から山陰本線経由になってしまいますね。播但線だとやや遠回りとなって本数が少ないし、普通列車は電化・非電化区間の境界となる寺前で乗り換えないといけない。近年、竹田城跡が有名観光スポットと化して、「はまかぜ」の竹田駅停車や臨時観光列車など、観光輸送に力を入れているそうですが・・・。

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このほど、京阪5000系5557Fが寝屋川車庫で「休車」となっていると、Twitterやブログで話題になっている。明日からの平日ダイヤでは5ドアで運用されていた朝の普通・三条行きなどが3ドア車に変更されるという(駅時刻表にその注意書きが貼られている)。これは5000系の一部引退を前提にした運用変更だと見られている。

実は今日、特急・淀屋橋行きに乗って寝屋川車庫前を通りがかったときに、5557Fに「休車」札が掛かっているのを確認してきた(5000系45周年副標識は掲げられたまま!)。

5557Fといえば、1980年製造の5000系最終増備車であってまだ若い。それだけに、今回の「休車」ニュースはサプライズと受け止められている。

しかし、将来のホームドア化等を前提とするなら、5000系引退は別に不思議ではないだろう。首都圏でも多扉車が撤退する中、京阪の5ドア車が未だ1両の廃車もなく現役で活躍しているのは奇跡的でさえある。というか、京阪5000が元祖・多扉車なんだけど・・・ 

5000系が登場した当時(1970年ごろ)、京阪沿線の人口が急増して混雑が激しかったようだが、1500V化が遅れていた京阪では7両以下の編成で運用をせざるを得ず、ラッシュ時間帯の乗降をスムーズにして列車遅延を防ぐことを目的に5ドア車5000系が投入された。長引く不況で利用客減の続く現在もなお、朝のラッシュ時間帯には5000系がフル回転している。しかし、今では5ドア車が特別必要でなくなってきているようで、まして5000系の代替となる5ドア車の新造など考えられず、今回運用を減らすことになったのだろう。

ハードディスクから5557Fの写真を探し出してみたが、今すぐには見つからないので、代わりにゾロ目・5555号の旧カラーの写真をアップする。

(2016.7.1追記)
5557Fに「廃車」ステッカーが貼られたようです。いよいよ5000系から廃車が発生しましたね。一説によると、座席昇降機構の不具合、もしくは部品取りが目的と言われています。また、5557Fはマイコンによる冷暖房制御機構が鉄道車両で初めて取り入れられたゆえ試作的要素が強い、最終編成から廃車するほうが残りの編成も番号順に揃って運用管理しやすい、といった説にも納得できます。


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2006年ダイヤ改正で一時的に登場した急行・天満橋行き(枚方市にて)。
天満橋折り返しの電車自体、2008年の中之島線開業前日で廃止されたが、2006年ダイヤ改正では普通・区間急行を中心に昼間の天満橋折り返し列車も多く設定されました。さらに休日ダイヤでは夕方時間帯に確か淀始発天満橋行き急行も設定されていたように思います(写真の急行の始発駅は樟葉か淀だった思う)。

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2007年4月、「青春18きっぷ」で和歌山を訪れたときに撮影しました。
このとき、JR発足20周年記念で、青春18きっぷは5日分8,000円と大変お得だったので、思わず1枚大人買いをしました。

バス車両自体および駅前の雰囲気はそれほど古くないように思えるが、当時未だ旧式の2ステップ車・方向幕車が多かったけど、今や地方でもノンステップ車の普及が急速に進んでいて、やはり9年前は一昔なんだなぁ、と実感しています。

和歌山の近鉄百貨店は今もなお健在です。

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もともと三菱ふそう車のみだった京阪バス山科営業所(1985年までは「京都営業所」)。
山科営業所の中型車といえばエアロミディのイメージが強い。

写真の日野レインボーの2ステップ車(形式・U-RJ3HJAA、1994年式、社番・A-3077)は、もともと山科には馴染みのない車両だが、日野大型車が大阪地区から相次いで転入する頃だった2007年当時、山科に在籍していた。A-3077号は寝屋川営業所の配置だったが、レインボーIIの玉突きで山科営業所に転属となったものと思われる。その後、京田辺営業所に再転属するも束の間、大阪府流入規制により2008年までに除籍された。


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近鉄初のステンレス車として1979年に1編成だけ試作的に登場。
いわば丸屋根車製造の最末期であって、この角張った車体デザインは、チョッパー制御を初めて採用すると合わせて、以降1980年代前半の近鉄通勤車(8810・9000・9200系など)に大きな影響を与えた。

所属は奈良線区だが、京都線・橿原線・天理線関係で限定運用、奈良線大和西大寺以西への営業運用された例は残念ながら知らない(その理由に生駒の急勾配に対応していないなどの説がある)。
3000系は京都市営地下鉄烏丸線(1981年京都-北大路間開業)との相互乗り入れを想定に入れて設計されたものだが、烏丸線の延伸工事が遅れることもあって、3000系は結局地下鉄乗り入れ用には使われることなく、後継の3200系(VVVF制御)が量産される運びとなる。

デビュー当初は、8000系列など他形式との連結は不可能で3000系のみの独立運用だったが、1991年の改造工事により他形式との連結が可能となる。しかし、その後もわずか1本だけの3000系限定運用のスジが立てられて使い勝手はあまり良くなかったようだ。結局、2012年に高安工場へ運ばれ、わずか33年の生涯を閉じる。まだまだ大量に残る丸屋根車よりも先に逝くのは誠にもったいない話だが、試作的要素の多い少数派形式ゆえ、運用現場の苦労が多かったのでやむを得ない。



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来月に阪急3100系が引退するようです。

http://news.mynavi.jp/news/2016/06/15/340/

阪急3100系の動きについて詳しいことは知りませんが、現在1編成だけ残っていて伊丹線で活躍中です。

引退を惜しんで、箕面線で活躍していた看板車の写真をアップさせていただきます。

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福知山線篠山口~福知山間と山陰本線福知山~城崎温泉間のワンマン運転実施に向けて113系800番台からの改造を受けた3800番台。切妻形の先頭車が旧型電車のような野暮ったい顔で有名で、「サンパチ君」と呼ばれています。

2000年までに北近畿地区の各路線でワンマン運転が進む中、篠山口~福知山~豊岡間は3両編成以上の電車で運用されているためにワンマン化が遅れていました。2001年3月のワンマン運転に合わせて2連口が必要となったため、JR西日本お得意の113系中間車の先頭車化改造をすることになったわけですが、その顔があまりに不恰好でした。当時、JR西日本では比較的新しい国鉄型103・113・115・201系などへのN40体質改善が進んでいましたが、今回種車となった113系800番台は国鉄時代末期、福知山線電化に合わせて初期型からの改造を受けて登場したもので老朽化が目立ち、N40改造の対象外でした。先が短いと見込んでの改造だったのか、改造は最低限にとどめられ、いかにも手抜きな仕上がりでした(笑) 

あれから7年後の2008年夏、福知山地区ローカル用に223系5500番台が投入され、サンパチ君はお役御免となって吹田工場へ帰らぬ旅に出ました。


阪和線用225系5100番台(正式には5000番台)の製造が進み、いよいよ営業運転が始まろうとしています。
これにより、普通電車を中心に長年阪和線の顔を君臨してきた103系も引退するようです。
阪和線103系の引退を名残惜しんで、私が過去に撮影した写真をアップしてみました。


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山中渓にて 2007年4月


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山中渓にて 2007年4月


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天王寺に停車中の高運転台車 2012年11月


旧・京阪宇治交通の長距離路線の一つだった【17】号経路・<樟葉駅~宇治車庫>。
この路線系統は、京阪宇治交通(株)の歴史を象徴する路線と言えるだろう。

まず、【17】号経路の運行経路は、

樟葉駅(くずは)~中央センター~久保田~御幸谷~<国道1号>~新あらみ~久御山団地~日産車体前~近鉄大久保~城南高校~京阪宇治~宇治車庫

で、1972年3月に新設される。廃止は京阪バス合併後の2007年11月。全区間の運賃は廃止直前当時560円。

京阪宇治交通はもともと宇治市・城陽市・宇治田原町などを中心とするローカルなバス事業者だった。しかし、1970年代までに枚方市樟葉~八幡市男山丘陵一帯にくずはローズタウンや男山団地などの大規模住宅地が造成されて人口急増、これにより大きな輸送需要が見込まれる樟葉・男山地区へ京阪宇治交通が進出する。従来、京阪宇治交通の車庫は本社のある宇治車庫のみだったが、樟葉・男山地区の新しい路線の拠点として、1971年樟葉駅付近に仮設の車庫が設置される。男山団地の造成・入居がかなり進んだ1974年に男山営業所が開設される運びとなる。

宇治と樟葉を結ぶ【17】号経路は1972年に開設され、当初は仮設のくずは車庫が運用担当していたが、1974年より男山営業所の担当となる。もっとも、樟葉・宇治間は京阪電車(中書島乗り換え)のほうが早くて安く、全区間通しの旅客需要を見込んだわけではなかっただろうが(距離的にはバスのほうが短絡しているが)、京阪宇治交通本社のある宇治市から樟葉駅や男山車庫への書類搬送を主な目的として設定されたものと言われる。1980年の枚方市楠葉朝日への本社移転後は、本社から宇治営業所への書類搬送のための便として活用される。ほかに、樟葉・男山団地方面から久御山町の工業団地への通勤客なども意識したものとも考えられるが、もともと本数はごくわずかで大半はマイカー通勤、バス利用は少なかっただろう。

京阪宇治交通は1999年より分社化され、宇治営業所は子会社の京阪宇治交サービスの管轄となる。その後2003年には「京阪宇治バス」と社名を変更。京阪宇治交通直属だった男山・田辺営業所は、2006年4月、京阪バスに吸収合併され、「京阪宇治交通」という社名は消失する。一方、京阪宇治バスは2014年春、宇治営業所・車庫閉鎖とともに「京都京阪バス」に社名を改め、八幡市上奈良に八幡営業所を開設(京阪バス管轄となった八幡田辺線の経路上に所在)。

京阪バスへの合併後、【17】号経路は京阪バス男山営業所が担当することになるが、合併後初の2007年11月大幅ダイヤ改正では案の定、この不採算路線が廃止される。末期は登場したばかりの京阪バスカラーのブルーリボンIIなども【17】号経路の運用に入り、京阪宇治・宇治車庫まで足を伸ばしていたが、これもすぐ過去のものとなる。当時、この男山【17】号経路が京阪宇治および宇治車庫に乗り入れる唯一の京阪バス担当路線だった。かつては、京阪バス洛南営業所担当(一時期、枚方営業所に移管)だった淀宇治線【11】号経路(京阪宇治交通と共同運行、現在京都京阪バス【21】系統に統一。洛南営業所は子会社の「京阪シティバス」となるが、2014年解散)や大津営業所担当の宇治川ライン【10】号経路などが京阪宇治まで乗り入れ、宇治車庫まで回送して折り返していた。男山【17】号経路は、京阪バス路線として、唯一の宇治車庫発着だった路線という点でも面白い。


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1990年代~末期の京阪宇治交通男山のシンボルだったエアロスターM
【17】号経路にもこのスタイルの車両がほぼ必ず入っていた

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2002年以降にカラー刷新で登場した緑のブルーリボンシティ・ノンステップ車
これが【17】号経路に入る機会も多かった


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末期にはこのブルーリボンIIも【17】宇治行きに入ることがあった
写真は2007年当時のN-3874(現・京田辺営業所所属)

私自身、2・3回ほど宇治から樟葉まで【17】号経路で寄り道乗車したことがある。
近鉄大久保、久御山団地あたりまではそれなりに乗っていたが、国道1号線(枚方バイパス)を疾走して久保田・大芝まではほぼ空気輸送だったと記憶している。ごく稀に久御山工業団地方面から男山団地・樟葉へ向かう旅客もいただろう。樟葉駅到着後は家具団地・ポエムノール北山方面系統として折り返していたように思う。

今も男山の方向幕(W-1987、1988)には【17】宇治行きのコマが残っているので、幕回しの時に見る機会はあるだろう。


京阪バスには同じ名称のバス停が複数存在するという例が結構見られる。

例えば、

北大塚(高槻市、京都市山科区)
松原(高槻市、大津市)
春日町(高槻市、寝屋川市)
末広町(寝屋川市、門真市)
くすの木小学校(四條畷市、八幡市)

私個人的には、まず「北大塚」が頭に浮かぶ。
高槻の「北大塚」バス停だが、近くにヤマダ電機・ニトリ・Joshin・カインズモールなど大型商業施設が集積しているため、ここで下車することは多い。Joshinの建物には以前オークワが入っていて大阪北部では貴重な存在だったが、万代(カインズモール内)などとの競争が厳しいこともあったのか、3年余りで撤退した。
また、高槻市営バスの「北大塚」行きを見ることも多いが、市営バスの「北大塚」は京阪バスとは運行経路が異なって少し離れたところにあり、乗り間違いに注意が必要だ。国道170号線道なりにある京阪バス「北大塚」とは対照的に、市営バス「北大塚」バス停周辺は古い民家の多いところでローカルな雰囲気だ。

京都・山科の「北大塚」バス停は、国道1号線の大塚交差点から狭い奈良街道(府道35号線)に入ったところにある。この道を真っ直ぐ南に進めば、京阪バス山科営業所(大宅バス停)がある。山科営業所管内は狭隘な道路が多く、特に大型車だと運転士の苦労はなかなかのものだろう。


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阪急バス

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近鉄バス


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京阪バス

京阪バス「1Dayチケット」の前身と言うべき「枚方市内一日乗車券」。

1980年代半ばごろから発売されていたようで、廃止直前の2005年当時は800円だったと記憶している。発売箇所は枚方市駅案内所、枚方営業所、香里団地営業所ぐらいで、車内での販売はなく、この切符の存在自体あまり知られていなかったようだ。利用可能範囲は、京阪香里園~交野~津田駅系統以北の枚方市内路線(京阪宇治交通など他社路線では使えなかった)で、一部交野市内にも跨っていた。ただし券面の利用可能範囲図では、売れ行きが悪かったのか1980年代半ば当時のままのものの使い回しで、後年開設された枚方カントリー、大阪国際大学、ポエムノール北山、家具町2丁目南、幾野四丁目などが明記されていなかったように記憶している。

何度かこの乗車券を使用したことがあるが、はっきりいって使い勝手が良かったとは言えない。今のカード式「1Dayチケット」のように車内で購入することはできず、この乗車券の存在を知っている乗務員は少なかったようだ。確か案内所などで利用当日の日付スタンプを押してもらい、1回目のバス降車時に券面の端を切り離して運賃箱に入れる、というものだった。もちろんのこと、この乗車券で高槻・寝屋川市駅・星田・八幡・新田辺方面へ足を伸ばすことは不可能だった(ダイエースーパー行きは使えたのかな?)。

京阪の今後の車両の動きについて、いろいろ気になるところだ。

まず今夏までに13000系が4連口1本(13007F)、7連口2本(13023・24F?)が新たに加わり、来年から特急のプレミアム車(座席指定)運用が開始する予定となっている。一般車7連口の老朽化が進んでいるが、何しろ片道90分前後の所要時間を要する京阪間直通の準急・普通を中心に運用をこなすがゆえ本数が多く、新車への置き換えには相当の年数がかかりそうだ。廃車の進む2200系や2600系0番台のほか、1000系・2400系、そして5扉車5000系の今後も気になる。

そこで、少しでも老朽車の置き換えペースを上げるためにどうすればよいのか、考えてみた。

まず、特急のプレミアム車連結を機に、3ドアクロス車・3000系の一部を7連化するとともに、3000系の捻出で不足する分の特急用車両(15000系?)を製造する。3004~06Fの3本をクロスシートのまま7連化し、余剰となった中間T車3両を活用して3000系7連口3007Fを新たに1本追加する(実際に新造するのは4両だけでよい)。3000系は当初中之島線直通の快速急行を中心に使用されていたが、中之島線への旅客数が予想以上に苦戦しているゆえ、現在は不足する特急車の補完を担っている。しかし、特急では「はずれ」とされやすく、せっかくの高級スペックも持て余しているようだ。それでも、7連化して京阪間直通の準急・普通などに使用すれば、混雑しやすい特急に乗れずとも準急・普通でも運が良ければクロスシートに座れるということで大いに喜ばれるだろう(特急車間合い運用の下位種別列車は基本的に8両編成対応済みの大阪口が中心なのは残念。所要時間のかかる京阪間直通の準急や普通でこそクロスシートはほしい)。

同時に7200・9000・10000系の7連化を継続させる。
7202・9003・9004F3本の7連化改造とともに、余剰となった中間車を改造して10002F(4連)に組み込んで7連口を仕立てる。10002Fの捻出で不足する4連1本を13008Fの新造で補う。

よって、7両編成は

7202F
9003F
9004F
10002F(7202・9003・9004Fの中間車を改造して挿入)
3004F
3005F
3006F
3007F(Mc2両、M1両、T1両の合計4両新造、残り3両は3004~06FからのT車を活用)

の8本が新たに加わることになる。

しかし、それでもなお2200系・2600系0番台全部(11本)を置き換えるには至らないので、持て余している6000系8連口の3本を新たに7連化する。7連化する対象編成は6012~14Fとし、捻出された中間車3両は改造の上、10003Fも7連化する。もちろん、また4連が1本抜けるので、13009Fを追加新造で補う。

以上まとめて、

7202F
9003F
9004F
10002F(7202・9003・9004Fの中間車を改造して挿入)
10003F(6012~14Fの中間車を改造して挿入)

3004F
3005F
3006F
3007F(Mc2両、M1両、T1両の合計4両新造、残り3両は3004~06FからのT車を活用)

6012F
6013F
6014F


の12本が新たに7連口として加わって、ようやく2200系・2600系0番台を全部置き換えることになる。

3000系も含めて一般車8連口はかなり減るが、それで足りない場合、13000系4連口をあと2~3本追加新造し、支線4連運用と8連予備を兼ねるとよいだろう。

せっかくなので、交野線から本線への直通列車の復活を望みたいところ。平日ダイヤの朝ラッシュ時だけでもよいので、通勤快急「おりひめ」を2本運転とするが、交野線内は13000系4連、枚方市駅で13000系4連を増結し8両編成として本線に入る、というふうにすればよいだろう。淀屋橋到着後、昼間は萱島・枚方市普通の仕事をこなし、夕方ラッシュ時には樟葉快急・急行・準急などの運用に就くなどして有効に使えばよいだろう。そして、旅客需要はともかく運用効率の観点から、深夜時間帯に交野線への直通「ひこぼし」を運転(枚方市駅で後4両切り離して寝屋川車庫へ回送)して交野線運用に戻るようにしたほうがよいかと思われる。あるいは急行または準急淀行きの運用に入り、淀駅で分割作業を実施、その後前4両は中書島まで回送して宇治線の運用に入る、というのでも良いだろう。

2200・2600系0番台全廃後、今度は1000系と2400系、5000系、そして2600系30番台の代替が課題となるだろう。これだけでも合計23編成ある。まず1000系の置き換えが先ではないかという気がする。1000系そのものの登場は1978年でまだ古くはないが、旧700系の車体を流用していて傷みがあちこちに見られるし、扉位置も他の汎用形式3ドア車と異なるため、ホームドア対応に合わせるべく代替が急がれるのではないか。後継の車両としては、既存車活用による7連化のネタはもう出尽くしたので、13000系の7連口を本格的に増やすしかないだろう(あるいは旅客数減少加速に合わせて6000系を全て7連化するか)。

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南海高野線の正式な区間は汐見橋-高野山(極楽橋)間。
汐見橋駅は大阪市浪速区に所在、阪神なんば線(桜川駅)および地下鉄千日前線(同)との乗り換え駅となっているが、南海のこの駅の存在感は薄い。
昔、汐見橋駅が高野山へのターミナルとして賑わっていたようだが、河内長野・泉北・高野山方面への列車は難波駅からの発着となっている。汐見橋-岸里玉出間は高野線の他の区間と完全分断されていて、「汐見橋支線」と呼ばれるほどのローカル線と化している。列車本数も毎時2本だけの閑散としたもので、大阪都心部における忘れられた鉄道となっている。ただし、阪神なんば線開通後、阪神との乗り換えが可能であることから、乗降客数は増えているようだ(往年の活況時代には遠く及ばないが)。汐見橋駅からは大阪ドームなどへ徒歩可能だ。

下の改札口の写真の上の古い沿線案内図に注目!(奇跡的に今年2月まで残っていたが、撤去されたようだ)

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阪神なんば線の桜川駅は近鉄大阪難波の隣。

大阪難波から先、阪神線に乗り入れる近鉄車両は、阪神乗り入れ対応が施されている奈良線所属の通勤車のうち、シリーズ21(5820・9020・9820系)と従来型(赤色)で一番新しい1026・1270・5800系です(ほかに特急車AEC22600系が団体列車として伊勢志摩・名古屋から甲子園や神戸三宮まで乗り入れる)。

しかし、大阪難波止めの列車は全て阪神桜川駅まで回送して折り返すことになっているため、桜川駅ではアーバンライナーや伊勢志摩ライナーその他汎用特急車、および8000系シリーズ以前のいわば丸屋根通勤車、そして京都市営地下鉄烏丸線乗り入れ用の3200・3220系なども終日見ることができます。上の写真は桜川駅ホームに停車中の8600系です。近鉄丸屋根車と阪神の案内表示板のコラボレーションが見れるのは、この桜川駅のみです。

桜川駅では南海高野線に乗り換えることが可能です。南海の駅は汐見橋駅で、昔高野線の列車はこの駅をターミナルとしていたようだが、岸里玉出-汐見橋間は「汐見橋支線」として完全分断されており、大阪市内の忘れられたローカル線と化しています。

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南海バスからの移籍車はメトロ窓が特徴的ですね。
南海からはふそうエアロスターMが大量に転入してきたが、エアロスターKも1台、ほかになんと日野ブルーリボン、レインボーも1台ずつ移籍してきました。

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JR京都・神戸線(京阪神緩行)で活躍していた頃


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大阪環状線転属後、しばらくはJR京都・神戸線時代の青色だった 方向幕も懐かしい


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見づらいが京葉線東京駅地下ホーム


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香里園駅前再開発事業に伴い、2011年春、バスのりばは府道21号線の東側(建て替え前の関西医大香里病院があったところ)に移設される。
旧・ロータリーは狭いながらもバスとタクシーがうまく共有していた。現在、ここはタクシーのりば専用として使われている。

ちなみに、京阪電車香里園駅は寝屋川市に所在しているが、ギリギリ枚方市との境界が入り組んでいるところであって、「香里園」の付く町名は枚方市にある。


京阪バス京田辺(旧・田辺)営業所に最後まで残った幕車、ブルーリボンW-3787。

W-3787は、1998年に製造、交野営業所に初のワンステップ車として配置される。
その後、2006年ごろ枚方営業所に転属したのち、旧・京阪宇治交通の田辺営業所(当時)に初めての京阪バス本体の車両として登場する。田辺営業所にこのほか、枚方・高槻営業所から数台転入する。

しかし、大阪府流入規制の関係から、2008年12月までにW-3787を残して、京田辺営業所の幕車は宇治交からの譲渡車も含めて全廃となる。その後、W-3787は京阪バス京田辺営業所唯一の幕車として貴重な存在となり、最後の活躍を見せるが、2012年年初にブルーリボンII・ノンステップN-3224に置き換えられ、幕車は消滅する。


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休日の午後、[31]号経路・樟葉駅行きに入る

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末期は樟葉長尾線の運用もこなす [97]号・藤阪ハイツ行き


京阪バス京田辺営業所は2006~07年当初、新田辺~城陽・宇治田原方面系統も管轄していたが、2007年11月以降、新田辺から山城大橋以東への路線は京阪宇治バス(→現・京都京阪バス)に移管される。その後、京阪バス京田辺営業所の一般路線(直Q京都号、空港リムジンを除く)は、従来枚方営業所管内の枚方尊延寺線や樟葉長尾線などを受け持つようになり、2013年の津田サイエンスヒルズ線の河内磐船乗り入れ以降は交野営業所のエリアにも進出する。さらに、新路線の淀長岡京線(阪急バスと共同)のほか、従来京阪シティバス(元・京阪バス洛南営業所)が担当していた京都南部線・淀山崎線も京阪バス京田辺の管轄となる。



今日の午後、雨も上がってバイク(スクーター)で南山城散策に出かけた。
天気も回復したので気分も高揚し、本当は伊賀上野あたりまで行ってみようと思った。
しかし、いろいろあって伊賀上野行きは断念。

というのも、まず磐船街道から北田原大橋を経て「ならやま大通り」に入ってから、いろいろ不愉快なことがあって気分を壊したから。私のバイクの前を行く暴音車(確か大阪ナンバーだった)が非常に喧しくて相当な不快感を覚える。

自爆しろ、この野郎!

と後から叫びたくなる。この暴音車のドライバーがどんな顔なのか見てみたい。

また、ちょうどお昼時なので、道なりのうどん屋さん、あるいはモスに入って昼飯を食べようと店に寄ってみた。しかし、店はどこも結構行列ができてて、並んで待つのに時間を費やすのもアホらしいと思って断念。やっぱり、幹線道路沿いのレストラン・飲食店は昼飯時は混雑しやすいようだ。

奈良阪から府県道44号で木津川市加茂町へ向かう。途中、梅谷というところに、有名なラーメン店があって、そこに寄ってみようかふと思ったが、やはり長い行列が出来てて、そこもパス。

結局、加茂駅前のお好み焼き屋さんで昼食をとる。

伊賀上野行きを断念したのは、他にも理由がある。
伊賀上野まで行くのは国道163号経由だとそれほど時間がかからないが、問題は帰りのコース。
単純に163号線で往復するのでは面白くないし、R422で信楽を回るのも前に何度かやってるし、他の道だとかなり遠回りとなって時間がかかりそうで、・・・


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旧・京阪宇治交通だった男山営業所。
かつてはエアロスターM(1996年以前に投入)が大量に在籍していたが、2006年の京阪バスとの合併後、大阪府流入規制もあって、2008年12月までに京阪バス色ブルーリボンIIノンステップ車などが大量投入される。この間、枚方・交野・山科営業所などから幕車も若干数転入してきて、枚方営業所と同じ書式仕様の方向幕が特別に用意された。しかし、既に行先表示機のLED化が進んでいたため、幕車は少数にとどまり、山科から転属してきたエアロスターW-1987・1988の2台のみが残る。この2台は今もなお、男山管内で地味に活躍を続けている。ただ、稼働率は低く(それよりは、同時期に登場した緑のBRCやエルガをよく見かける)、休日は京都競馬シャトルバスなどで起用されることが多いようだ。

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京阪バス山科営業所管内の方向幕も過去のものとなったようです。

山科営業所の方向幕は青地に角ゴシック体白文字、系統番号の右表示、という特徴的なデザインで、1997年の地下鉄東西線開通に合わせた白紙ダイヤ改正より使われてきました(以前は1979年大型方向幕採用以来使われてきた京阪バス標準の白地・丸ゴシック体)。しかし、行先表示機のLED化進行に伴い、方向幕車は去年までにほぼ撤退した模様です。

京阪バス全体的にも、今や方向幕の車両はレアな存在となっています。既に京田辺営業所には幕車の配置はなく、男山営業所は山科から転属したエアロスター2台(W-1987、1988)のみ、他の営業所でも2002年以前に投入されたブルーリボンシティとエアロスターのみとなっています。


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阪神・山陽・近鉄3社の電車が乗り入れて賑やかな阪神尼崎駅。
大和西大寺と並んで阪神尼崎駅を行き交う電車の顔ぶれは多彩で、長時間眺めていても飽きることはない。
最近では、阪急車(5100系)の能勢電譲渡向け改造を阪神尼崎工場で受けることが多く、そのため阪急車と近鉄車との顔合わせも時に実現したりするようだ。Twitterからの情報によると、近鉄特急22600系(臨時乗り入れ)と阪急5100系との出会いの瞬間もあったとか・・・

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阪急神戸三宮駅には山陽電鉄の車両も乗り入れてくる。

かつては山陽電車は阪急六甲、阪急は神戸高速を介して山陽電鉄の須磨浦公園までそれぞれ直通運転を行っていた。しかし、阪急神戸線内では8両編成が基本的なのに対し、山陽電鉄では6両が限界で、運用上の制約をもたらす(阪急の山陽乗り入れは6両編成で対応)。また、1984年の阪急六甲での梅田行き特急と当駅折り返しの山陽電車との衝突脱線事故による心理的影響も加わったのか、山陽電鉄への乗り入れにはだんだん後向きとなってゆき、1998年には新開地以西への阪急車乗り入れは廃止される。同時に山陽電車の阪急神戸三宮駅以東への直通もなくなった。

阪急三宮で山陽電車に出会うと違和感を覚えてしまう。




京阪のふそうP-MP218といえば、バスコレ第19弾のモデルにもなりましたね。
新呉羽ボディで後のスタイルが、方向幕と窓(2枚)が独立した配置で、同時期のエアロミディMKと同じスタイルで特徴的でした。山科・大津・高槻・枚方営業所に配属されました。交野営業所にも一時的に配置されたことはあるが・・・
除籍後は群馬中央、東野交通、諏訪バスのほか沖縄バスなどで活躍を続けます。この沖縄バスのものは今もなお現役のようですね。

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