2016年07月
関西初の通勤冷房車 京阪2400系
京阪電車の車両の中で、2400系は初めから7両固定編成を保っているということもあって、あまりこれといった目立った特徴は見られないのかもしれない。
2200・2600・5000系に廃車が発生していてその動向に注目が集まるが、2400系も1969~70年のデビューから45年以上経過していて、今後の動向に目が離せないだろう。
2400系といえば、関西初の通勤冷房車で知られている。
当時の京阪電車は特急でさえ非冷房車の1900系だったが、この2400系の登場は特急車の動向にも影響を与え、1973年までに冷房完備の3000系に全て置き換えられることになる。1900系は特急運用から余儀なく撤退、一般車化改造が行われて各駅停車や交野・宇治線での運用が中心となるが、およそ20年後の鴨東線開通を控えて新型特急車8000系が登場すると、8000系のほうに人気が集まり3000系は一編成を残して引退することになる。余剰となった3000系は一般車に改造されることもなく大部分が廃車されたため(一部は富山地鉄や大井川鉄道に譲渡)、皮肉にも1900系のほうが冷房改造など何度も車体更新を受けながら2008年まで長寿を保つことになる。
2400系はスーパーカー2000系に始まる京阪通勤車の標準スタイルとして採用されてきた卵形車体であり(これと同時並行で戦前生まれの吊り掛け車の車体大型化更新を目的に、2000系シリーズとはちがう角張った車体スタイルの600・700系も登場)、2200系のマイナーチェンジ車という位置づけで製造されたが、初めての通勤冷房車ということをPRするかのように、屋根上にぎっしり並ぶ背の高いクーラーユニットが特徴的だ。同形式は2200系とはちがって登場時から7両固定編成とされ、暫定的なものを除いて編成の組み換えはほとんど皆無だ。編成の中間に運転台がないため、収容力に優れていることから5ドア車5000系の代走に優先的に使用されることが多かったようだ。なお、1980年代後半の2200系の車体更新中のときに、車両の需給関係から2200系や2600系2629Fと混結運用したことはある。そして2200系の車体更新完了後、さっそく2400系が更新工事を受ける。この更新工事では、正面種別・行先表示機設置のほか、内装も寒々とした緑色のものから6000系と同じアイボリーの化粧板に変更するなど、かなり気合いの入ったものだった。ただ、初めから7両固定編成ゆえ、2200系や1900系のように運転台撤去などの手間はかからなかった。また、京阪で最後まで方向板を使用していたのは2400系だった。
意外に遅かった阪急京都線の冷房化率100%達成
関西圏通勤電車の冷房サービスといえば、1969年(昭和44年)に製造された京阪2400系が初めてだった。その後、およそ20年がかりで通勤電車の冷房が普及、1989年末までには大阪市営地下鉄を除き9割近く冷房化を達成する。大手私鉄に比べて冷房化が遅れ気味の国鉄・JRも1993年までに100%を達成、そして1995年までに大阪市営地下鉄も100%冷房車となる。
大手私鉄で冷房化率100%を最初に達成したのは阪神(1983年)で、1986年の阪急、1989年の京阪(大津線を除く)と続く。近鉄・南海も主要幹線では1989年までに概ね冷房化が完了したが、一部の支線・ローカル線で冷房化が遅れていた。
ところが、阪急京都線・千里線に限って、運用車両の冷房化100%を達成したのは、実はかなり遅かった。阪急電鉄の車両冷房化完備を達成したのは1986年で関西私鉄では早いほうと言えるが、大阪市営地下鉄堺筋線と相互乗り入れする京都線(淡路-高槻市間)・千里線においては、その後も市交60系だけが非冷房のままだった。堺筋線直通用に製造された阪急3300系も冷房設置は当初見送られたが(堺筋線との相互乗り入れ開始は1969年で、ちょうと京阪2400系登場と同時期)、1980年代に入って冷房化工事が急速に進んだ。ただ、堺筋線内では阪急車両も冷房OFFの状態で運用されていたようだ。地下鉄の冷房化は、地下トンネル内の排気熱問題ゆえ宿命的に遅れをとっていたが、大阪市交では混雑の激しい御堂筋線に第三軌条初の冷房車10系を投入するなどして問題を克服してきた(大阪市営地下鉄は堺筋線のみ架線方式、長堀鶴見緑地線と今里筋線はリニア、他の路線は第三軌条)。
それにしても、市交60系は非冷房の上にガタガタ雑音が凄まじく、さらに夏場は窓全開で車内放送は聞こえにくく、何しろ阪急車に比べて外観・内装デザインも見劣りして、阪急線内においては頗る不人気だった。大阪市交通局もさすがにこれではまずいと判断されたようで、1989年にようやく60系の冷房改造車が登場するが、やはり不人気は変わらずだった。その後、60系の一部車両の冷房化工事と並行して、1990年より堺筋線用の新型車両66系が製造され、かなりイケメンな姿となって登場。1993年の天下茶屋延伸および8両運転開始の翌年、1994年までに60系のうち非冷房で残ったものを全廃、堺筋線の冷房化率100%を達成する。したがって、阪急京都線・千里線の事実上の冷房化率100%達成は1994年とかなり遅かったわけだ。
60系の後継・66系 地下鉄の車両も随分スタイリッシュになったもんだと感激
阪急京都線・千里線の冷房化100%にも貢献
(「なにわの地下鉄」さまより拝借)
対岸の京阪電車(大津線を除く)は、架線電圧1500V化こそ1983年と関西私鉄で一番遅かったが(この時点で吊り掛け車は全廃、2000系の2600系への代替新造、および6000系の大量投入により、1900系と2代目1800系を除き冷房化が達成)、1989年までに1900系の冷房改造工事完了、および2代目1800系を廃車した結果、100%冷房車を実現している。
大手私鉄で冷房化率100%を最初に達成したのは阪神(1983年)で、1986年の阪急、1989年の京阪(大津線を除く)と続く。近鉄・南海も主要幹線では1989年までに概ね冷房化が完了したが、一部の支線・ローカル線で冷房化が遅れていた。
ところが、阪急京都線・千里線に限って、運用車両の冷房化100%を達成したのは、実はかなり遅かった。阪急電鉄の車両冷房化完備を達成したのは1986年で関西私鉄では早いほうと言えるが、大阪市営地下鉄堺筋線と相互乗り入れする京都線(淡路-高槻市間)・千里線においては、その後も市交60系だけが非冷房のままだった。堺筋線直通用に製造された阪急3300系も冷房設置は当初見送られたが(堺筋線との相互乗り入れ開始は1969年で、ちょうと京阪2400系登場と同時期)、1980年代に入って冷房化工事が急速に進んだ。ただ、堺筋線内では阪急車両も冷房OFFの状態で運用されていたようだ。地下鉄の冷房化は、地下トンネル内の排気熱問題ゆえ宿命的に遅れをとっていたが、大阪市交では混雑の激しい御堂筋線に第三軌条初の冷房車10系を投入するなどして問題を克服してきた(大阪市営地下鉄は堺筋線のみ架線方式、長堀鶴見緑地線と今里筋線はリニア、他の路線は第三軌条)。
それにしても、市交60系は非冷房の上にガタガタ雑音が凄まじく、さらに夏場は窓全開で車内放送は聞こえにくく、何しろ阪急車に比べて外観・内装デザインも見劣りして、阪急線内においては頗る不人気だった。大阪市交通局もさすがにこれではまずいと判断されたようで、1989年にようやく60系の冷房改造車が登場するが、やはり不人気は変わらずだった。その後、60系の一部車両の冷房化工事と並行して、1990年より堺筋線用の新型車両66系が製造され、かなりイケメンな姿となって登場。1993年の天下茶屋延伸および8両運転開始の翌年、1994年までに60系のうち非冷房で残ったものを全廃、堺筋線の冷房化率100%を達成する。したがって、阪急京都線・千里線の事実上の冷房化率100%達成は1994年とかなり遅かったわけだ。
60系の後継・66系 地下鉄の車両も随分スタイリッシュになったもんだと感激
阪急京都線・千里線の冷房化100%にも貢献
(「なにわの地下鉄」さまより拝借)
対岸の京阪電車(大津線を除く)は、架線電圧1500V化こそ1983年と関西私鉄で一番遅かったが(この時点で吊り掛け車は全廃、2000系の2600系への代替新造、および6000系の大量投入により、1900系と2代目1800系を除き冷房化が達成)、1989年までに1900系の冷房改造工事完了、および2代目1800系を廃車した結果、100%冷房車を実現している。
2011年当時の大阪駅前バスロータリー
【25】号経路・<枚方市駅~長尾駅~大阪国際大学>
京阪バス出屋敷線【25】号経路(枚方営業所管轄)についてレポートする。
運行経路は、
枚方市駅北口~ひらかた市民病院前~関西外大~出屋敷~長尾口~長尾駅~長尾台住宅~大阪国際大学
で、昼間時間帯のみ毎時1本の運行ダイヤとなっている。枚方市駅~長尾駅間は、【20】【26】【27】【29】号経路と一体的に15分間隔のダイヤが組まれている。2002年3月ダイヤ改正以前も系統番号はたまたま同じ【25】だったが、長尾駅経由は無かった。
枚方市駅から大阪国際大学方面へは、南口から【65】【66】号経路も運転されている(2014年4月より昼間時間帯は【66】・大阪国際大学経由長尾駅行きが毎時1本運転)。また、長尾駅から大阪国際大学・杉・尊延寺経由穂谷行きの【75】号経路も毎時1本ある。2014年4月改正前は【75】号経路は毎時2本の運転だったが、利用状況の割に本数過剰だったようで、【66】号経路の新設と引き換えに【75】は毎時1本に減らされる。
せっかくなので、【25】を【75】と統合して穂谷まで延長運転したらどうだろうか? もっとも、杉1丁目交差点付近の渋滞による遅延が心配だけど、枚方市駅南口~穂谷系統(【62】【70】【72】【73】ほか)のダイヤも改善再編の余地がありそうで(特に津田駅経由【72】の増便を望みたい)、この機会に【25】の穂谷延長も欲しいところだ。
あと、せっかく長尾駅東出口が開設されたので、JR踏切東詰におりば専用の「長尾駅東口」(仮称)新設も望まれよう。ただ、今後数年以内に長尾播磨谷(中村病院)~長尾東町~長尾台を結ぶ道路が開通する予定で、この【25】号経路をはじめ長尾駅周辺のバス路線にも大きな変化があるかもしれない。
運行経路は、
枚方市駅北口~ひらかた市民病院前~関西外大~出屋敷~長尾口~長尾駅~長尾台住宅~大阪国際大学
で、昼間時間帯のみ毎時1本の運行ダイヤとなっている。枚方市駅~長尾駅間は、【20】【26】【27】【29】号経路と一体的に15分間隔のダイヤが組まれている。2002年3月ダイヤ改正以前も系統番号はたまたま同じ【25】だったが、長尾駅経由は無かった。
枚方市駅から大阪国際大学方面へは、南口から【65】【66】号経路も運転されている(2014年4月より昼間時間帯は【66】・大阪国際大学経由長尾駅行きが毎時1本運転)。また、長尾駅から大阪国際大学・杉・尊延寺経由穂谷行きの【75】号経路も毎時1本ある。2014年4月改正前は【75】号経路は毎時2本の運転だったが、利用状況の割に本数過剰だったようで、【66】号経路の新設と引き換えに【75】は毎時1本に減らされる。
せっかくなので、【25】を【75】と統合して穂谷まで延長運転したらどうだろうか? もっとも、杉1丁目交差点付近の渋滞による遅延が心配だけど、枚方市駅南口~穂谷系統(【62】【70】【72】【73】ほか)のダイヤも改善再編の余地がありそうで(特に津田駅経由【72】の増便を望みたい)、この機会に【25】の穂谷延長も欲しいところだ。
あと、せっかく長尾駅東出口が開設されたので、JR踏切東詰におりば専用の「長尾駅東口」(仮称)新設も望まれよう。ただ、今後数年以内に長尾播磨谷(中村病院)~長尾東町~長尾台を結ぶ道路が開通する予定で、この【25】号経路をはじめ長尾駅周辺のバス路線にも大きな変化があるかもしれない。
205系1000番台
阪和線への225系5100番台投入で注目される205系の動き。
2007年に和歌山駅で撮影した205系1000番台の写真をアップしてみました。
205系1000番台はJR発足後の1988年、阪和線用に4両編成×5本だけ投入されました。JR西日本のもとでの国鉄テイストの強い新型車両でしたが、国鉄時代に製造されたものおよびJR東日本向けの205系(→JR西日本では東海道・山陽緩行線で使用→阪和線で使用中)とはかなり仕様がちがうものでした。
現在、205系の行先表示機はLED化されていますが、当時は方向幕使用だったので、かなり印象が変わっているように思います。
羽衣線用の車両(103系ワンマン3両編成を使用中)についても、東羽衣駅ホームを4両編成対応にして223・225系に置き換えるようです。
京都交通廃車体
寝屋川グリーンシティの広告看板
8月31日限りで寝屋川市緑町にある「グリーンシティ」(イオンモール寝屋川、旧・ジャスコ)が一旦閉店する予定です(その後、建替え)。
グリーンシティは1978年にオープン。私が子供の頃は時々車で連れて行ってもらいました。ただ、京阪電車の寝屋川市駅と香里園駅のちょうど中間地点にあるがゆえ、交通の便はあまり良くありません(一度だけ自宅からタクシーで連れて行ってもらったこともある)。
これを補完すべく、寝屋川団地方面から京阪バスが運行されていましたが、利用客があまり多くなかったのか、廃止されました。その後、「タウンくる」の寝屋川市駅―香里園駅西口系統が運行されるようになり、グリーンシティへのアクセスは改善されました。しかし、すでにアルプラザ香里園が開店していて、グリーンシティ(そしてダイエー香里店)の衰退ぶりが目立つようになります。昨年のイオンモール四條畷オープンにより、閉店はいよいよ決定的となりました。
先日、久しぶりにグリーンシティを訪れてみました。店内展示の写真コーナーに、なんと京阪バス車両の「グリーンシティ」広告の写真が掲載されています。1990年代前半まで交野・寝屋川営業所の車両に掲示されていましたが、いつの間にか見なくなりました。
1999年当時の京阪電車動画―宇治快速、淀快速ターフィン号
1999年当時の京阪電車の面白い動画を発見したのでアップさせていただきます。
淀快速ターフィン号の9000系、宇治快速の7200系5連や1900系などが登場します。
1900系は5両×9編成が全て現役だったし、9000系は登場から2年経過したばかりで輝いていましたね。
特急の丹波橋・中書島終日停車開始の前年で、宇治線から三条までの直通列車も運転されていました。
少し昔の阪急バス―千里中央にて
絹延橋
大阪・兵庫の府県境を挟んだ猪名川に架かる絹延橋。
池田市と川西市との境界にあたる。
池田市から川西市方向
橋を渡ったすぐのところに能勢電鉄の駅が
川西市側からの撮影(池田市との境界より)
背後には阪神高速池田線と五月山が
絹延橋駅で1700系電車のすれ違い
池田市から川を渡って川西市に越境したところに、ちょうど能勢電鉄の絹延橋駅がある。川西能勢口駅から一つ目で、両駅間の大カーブは能勢電の有名撮影スポットとなっているようだ。
なお、上の写真は2007年に撮影したもので、現在道路拡幅に合わせて新しい絹延橋に架け替えられたようだ。
「絹延橋」という地名だが、西暦272年(応神天皇3年)に呉から移り住んだ工女たちがこの地で機織・多色染をする際、猪名川の清流で織布を洗って河原に干したことから、「河原の絹延」と呼ばれるようになったことに由来するそうだ。昭和40年代まで、この付近に木村友禅という工場があった。
池田市と川西市との境界にあたる。
池田市から川西市方向
橋を渡ったすぐのところに能勢電鉄の駅が
川西市側からの撮影(池田市との境界より)
背後には阪神高速池田線と五月山が
絹延橋駅で1700系電車のすれ違い
池田市から川を渡って川西市に越境したところに、ちょうど能勢電鉄の絹延橋駅がある。川西能勢口駅から一つ目で、両駅間の大カーブは能勢電の有名撮影スポットとなっているようだ。
なお、上の写真は2007年に撮影したもので、現在道路拡幅に合わせて新しい絹延橋に架け替えられたようだ。
「絹延橋」という地名だが、西暦272年(応神天皇3年)に呉から移り住んだ工女たちがこの地で機織・多色染をする際、猪名川の清流で織布を洗って河原に干したことから、「河原の絹延」と呼ばれるようになったことに由来するそうだ。昭和40年代まで、この付近に木村友禅という工場があった。
近鉄大阪上本町地上ホームにて
阪急桂駅前にて
今春廃止された枚方徳島線
今年3月に廃止された京阪高速バス・枚方徳島線。徳島バスと共同運行でした。
2003年に新設され、去年春には南茨木駅にも停車するようになったが、それでも利用状況は好転しなかったようでした。京阪バス便の運用担当は高槻営業所でした(一時的に枚方営業所が担当していたのかな?)。
そもそもなぜ枚方と徳島なのか今ひとつわかりませんが、夏の阿波おどりを見に行くときに枚方徳島線を利用された京阪沿線住民も少なくないと思います。実は私個人的に、「青春18きっぷ」での高松・さぬきうどん巡りの帰りに、高徳線で徳島まで出て、枚方行きのバスに乗ってみたいと思ったことがあります(単純な瀬戸大橋経由の往復では、相生-岡山間の混雑もあるし、疲れて面白くないので。でも姫路の「えきそば」、岡山の名物駅弁・祭すしなど、B級グルメめぐりの楽しみはある)。
阪急京都線のロングシート特急
玉川橋団地
高槻市南西部、茨木市との境界付近に立地する玉川橋団地。
1960年代に竣工した中層公団住宅(UR賃貸)で、昭和の懐かしい雰囲気が残っている。
バス停の前には食料品スーパーがあり、団地内の商店街の核店舗となっている。
昭和の公団住宅では、住棟のほかスーパー・商店街が整備されているのが一般的だが、近年スーパーも含めて店じまいし、「シャッター通り」と化しているところも多い。さらに団地住民の高齢化も進み、「買い物難民」が社会問題化している。しかし、玉川橋団地のスーパーは営業中で、まだ恵まれているほうだと言えよう。
玉川橋団地は京阪バス枚方茨木線のほぼ中間地点にあたり、ここ玉川橋団地および白川地域から阪急・JR茨木への利用客は多い。JR茨木からは【7】【9】号経路・枚方市駅行きのほか、白川2丁目までの区間便【4】号経路などもほぼ終日運行されている。
玉川橋団地には、京阪バスのほか、JR高槻駅南から高槻市営バスも乗り入れている。しかし意外なことに本数は非常に少なく、1日わずか4本だけ。玉川橋・白川界隈で高槻市営バスはほとんど見かけることはなく、確かに京阪バスで茨木市内へ出たほうが早い。
少し昔の西大津駅前
阪神バス 三宮→尼崎間乗車回顧
時は2002年夏で比較的最近のこと。
所用で神戸三宮まで行った帰り、三宮そごう前から阪神バス(当時は阪神電鉄の直営で「阪神電鉄バス」とも呼ばれていた)阪神尼崎行き(税関前発)に乗ってみた。ひたすら国道2号線を走行するかなりの長距離路線で、現在は阪神西宮で系統分割されている。確か阪神バスが一部区間を除き200円均一運賃制を採用したばかりの頃で、長距離路線にもかかわらず三宮から尼崎まで200円という超・格安運賃が実現したわけだ。さすがに尼崎~三宮間をバスで移動するのは実用的ではなく、電車で行くほうが早いのは述べるまでもない。
終点・阪神尼崎までどれだけ時間がかかったのかは記憶していないが、確か2時間はかからなかった。
国道2号線沿いの風景はなかなか楽しかった。六甲山麓山の手の高級感ある町並み、綺麗な街路樹、美味しそうな店、と車窓を長時間眺めていても飽きることはなかった。
かつて阪神バスは旧・阪神北大阪線代替として野田阪神~天神橋筋六丁目などへの路線も持っていたが、大阪市内からはほぼ撤退したようだ。
ちなみに、神戸から枚方までのバス乗り継ぎの旅は可能だ。
西宮市内でうまいこと乗り継ぎつつ、西宮北口から阪急バス・石橋行きに乗る。石橋行きは本数が少ないので事前に時刻表を調べる必要がある。国道171号線(西国街道)をひたすら走行する。石橋でJR茨木行きに乗り継ぐ。茨木行きは15分ごとに運行されているので便利だ。今度もまた171号線をほぼひたすら走行する。茨木からは京阪バスに乗り継げばよい。
所用で神戸三宮まで行った帰り、三宮そごう前から阪神バス(当時は阪神電鉄の直営で「阪神電鉄バス」とも呼ばれていた)阪神尼崎行き(税関前発)に乗ってみた。ひたすら国道2号線を走行するかなりの長距離路線で、現在は阪神西宮で系統分割されている。確か阪神バスが一部区間を除き200円均一運賃制を採用したばかりの頃で、長距離路線にもかかわらず三宮から尼崎まで200円という超・格安運賃が実現したわけだ。さすがに尼崎~三宮間をバスで移動するのは実用的ではなく、電車で行くほうが早いのは述べるまでもない。
終点・阪神尼崎までどれだけ時間がかかったのかは記憶していないが、確か2時間はかからなかった。
国道2号線沿いの風景はなかなか楽しかった。六甲山麓山の手の高級感ある町並み、綺麗な街路樹、美味しそうな店、と車窓を長時間眺めていても飽きることはなかった。
かつて阪神バスは旧・阪神北大阪線代替として野田阪神~天神橋筋六丁目などへの路線も持っていたが、大阪市内からはほぼ撤退したようだ。
ちなみに、神戸から枚方までのバス乗り継ぎの旅は可能だ。
西宮市内でうまいこと乗り継ぎつつ、西宮北口から阪急バス・石橋行きに乗る。石橋行きは本数が少ないので事前に時刻表を調べる必要がある。国道171号線(西国街道)をひたすら走行する。石橋でJR茨木行きに乗り継ぐ。茨木行きは15分ごとに運行されているので便利だ。今度もまた171号線をほぼひたすら走行する。茨木からは京阪バスに乗り継げばよい。
セミクロス時代の京阪9000系
河内磐船駅前のある日
京阪バス洛南寄り道の旅
続いて私の過去のバス旅回顧記を書く。
今度も1990年代初頭の頃だった。
京都市内から珍しい経路で枚方まで京阪バス乗り継ぎの旅をした日のことを思い出した。
それは、京阪バス有数の長距離路線【2】号・京都奈良線に乗ってみたかったことが動機だった。
伏見区某所からうまい具合に【2】号経路・奈良行きが来て、それに乗ってみた。
本当は奈良までそのまま乗り通してみたかったが、何しろ運賃がバカ高いこともあって、どこまで乗って行こうか迷う。結局、奈良まで行くのはあきらめて向島駅で下車する。しかし、もう少し先の大久保あたりまでそのまま乗車、そこから宇治や淀へのバスに乗り換えても良かったように思う。
近鉄電車に乗って新田辺まで行き、そこから京阪バスで穂谷経由枚方市駅へ出ることにした。
当時、新田辺から枚方市駅まで直通するバス(【12】号経路)が1日3往復あったが、それ以外にも関西外大穂谷キャンパス(「穂谷外大」)への直行バスも運行されていた。枚方市駅行きのバスはかなり待たないといけなかったが、タイミングよく直行・穂谷外大行きが来たのでこれに乗車する。車両は引退間近の三菱ブルドック(K-MP118M)だった。もちろんのこと女子学生が多くて、私のようなよそ者の男には場違い感いっぱいだった。
穂谷外大から枚方市駅行きのバスに乗り継ぐ。
別のある日、所用で向島に行った帰りに、京阪バス【2】号経路で京都市内へ戻ろうとした記憶がある。しかし、予定時刻を過ぎてもなかなかバスが来なくてイライラし、諦めて向島から近鉄電車&地下鉄烏丸線で四条烏丸へ移動した。長距離路線ゆえ道路渋滞に巻き込まれて遅れやすいのは仕方ないだろう(→1996年3月に廃止)。
今度も1990年代初頭の頃だった。
京都市内から珍しい経路で枚方まで京阪バス乗り継ぎの旅をした日のことを思い出した。
それは、京阪バス有数の長距離路線【2】号・京都奈良線に乗ってみたかったことが動機だった。
伏見区某所からうまい具合に【2】号経路・奈良行きが来て、それに乗ってみた。
本当は奈良までそのまま乗り通してみたかったが、何しろ運賃がバカ高いこともあって、どこまで乗って行こうか迷う。結局、奈良まで行くのはあきらめて向島駅で下車する。しかし、もう少し先の大久保あたりまでそのまま乗車、そこから宇治や淀へのバスに乗り換えても良かったように思う。
近鉄電車に乗って新田辺まで行き、そこから京阪バスで穂谷経由枚方市駅へ出ることにした。
当時、新田辺から枚方市駅まで直通するバス(【12】号経路)が1日3往復あったが、それ以外にも関西外大穂谷キャンパス(「穂谷外大」)への直行バスも運行されていた。枚方市駅行きのバスはかなり待たないといけなかったが、タイミングよく直行・穂谷外大行きが来たのでこれに乗車する。車両は引退間近の三菱ブルドック(K-MP118M)だった。もちろんのこと女子学生が多くて、私のようなよそ者の男には場違い感いっぱいだった。
穂谷外大から枚方市駅行きのバスに乗り継ぐ。
別のある日、所用で向島に行った帰りに、京阪バス【2】号経路で京都市内へ戻ろうとした記憶がある。しかし、予定時刻を過ぎてもなかなかバスが来なくてイライラし、諦めて向島から近鉄電車&地下鉄烏丸線で四条烏丸へ移動した。長距離路線ゆえ道路渋滞に巻き込まれて遅れやすいのは仕方ないだろう(→1996年3月に廃止)。
京都近郊バス旅回顧 大学受験合格発表の寄り道
1990年代初頭のことだった。
大学入試合格発表のために京都へ行った帰り、翌日が試験だというのに、バス乗り継ぎの旅で時間をつぶした。
立命館大学(京都市北区衣笠)の合格発表を見に行ったが、不合格だった。
こんなときにのん気にバス旅なんかやってる場合か、と叱られそうだが、別の大学の試験会場を下見に行く予定もあって、バス乗り継ぎの寄り道の旅に出てしまう。
さっそく、京都駅行きの市バス【50】系統に乗る。
北野白梅町、千本今出川から堀川中立売までやや複雑な経路をたどり、四条堀川まで堀川通を直進するかと思えば、四条西洞院から西洞院通に入るという、少し面白い運行経路だ。
次の目的地は伏見区内の大学だが、京都駅からだと鉄道よりもバスのほうが便利なので、【南5】系統に乗車(【81】系統でも行けるが、少し歩かないといけない)。
【南5】系統はもともと利用客は少ないため中型車で運用されていたが、ここ2・3年ほど前から伏見稲荷大社を訪れる外国人観光客が急増して混雑するようになり、増便および大型車で運用されるようになる。
試験会場の下見が終わり帰路に付くわけだが、ついバス乗り継ぎの寄り道を続けてしまう。
藤ノ森バス停で1日1本だけの奈良交通・大和八木行き(京都駅発着)にちょうど間に合ったので、物珍しさに誘惑されてこれに乗ってみることにした。そのまま奈良方面まで乗ってみたかったが、あまりにも時間がかかって翌日の試験にも影響が出そうなので(そして何よりも運賃がバカ高い)、適当なところで引き返すほうが無難と判断。もちろんのこと普段は空気輸送なので、いきなり変なところから乗ってきた青年一人の乗客に運転手さんはびっくりしておられた。「どこまで行かれますか」と訊かれるや、さてどこで降りようかな少し迷ったが、向島駅から近鉄で丹波橋へ戻ることに決め、「向島」バス停で下車。しかし、近鉄向島駅よりもかなり手前のところにあり、観月橋に出たほうが早いと思って、バスで来た道(国道24号線)をそのまま戻る。観月橋から中書島まで一駅間だけ京阪宇治線に乗る。
そして今度は、京阪バス【52】号経路(枚方営業所)で樟葉駅まで乗車。
【52】号経路は1983年に新設された比較的新しい長距離路線系統だが、やはり利用客が少なく減便が続き、2005年で廃止される。末期は中書島周辺は循環運転(樟葉→西大手筋→中書島→外環状線→樟葉)だったが、当時は狭い市電伏見線ホーム跡から発着、奥にあるターンテーブルで方向転換して折り返していた。
中書島のターンテーブルで方向転換する市バス 現在は駐輪場となっている
(「なつかしの京都市バス写真集」より拝借)
中書島に京阪バスが乗り入れるようになったのも、この樟葉からの【52】号経路が実は初めてで、現在は醍醐方面への【6】号経路(山科営業所)および淀・竹田駅西口方面への【24】【24A】号経路(京田辺営業所)が発着している。
大学入試合格発表のために京都へ行った帰り、翌日が試験だというのに、バス乗り継ぎの旅で時間をつぶした。
立命館大学(京都市北区衣笠)の合格発表を見に行ったが、不合格だった。
こんなときにのん気にバス旅なんかやってる場合か、と叱られそうだが、別の大学の試験会場を下見に行く予定もあって、バス乗り継ぎの寄り道の旅に出てしまう。
さっそく、京都駅行きの市バス【50】系統に乗る。
北野白梅町、千本今出川から堀川中立売までやや複雑な経路をたどり、四条堀川まで堀川通を直進するかと思えば、四条西洞院から西洞院通に入るという、少し面白い運行経路だ。
次の目的地は伏見区内の大学だが、京都駅からだと鉄道よりもバスのほうが便利なので、【南5】系統に乗車(【81】系統でも行けるが、少し歩かないといけない)。
【南5】系統はもともと利用客は少ないため中型車で運用されていたが、ここ2・3年ほど前から伏見稲荷大社を訪れる外国人観光客が急増して混雑するようになり、増便および大型車で運用されるようになる。
試験会場の下見が終わり帰路に付くわけだが、ついバス乗り継ぎの寄り道を続けてしまう。
藤ノ森バス停で1日1本だけの奈良交通・大和八木行き(京都駅発着)にちょうど間に合ったので、物珍しさに誘惑されてこれに乗ってみることにした。そのまま奈良方面まで乗ってみたかったが、あまりにも時間がかかって翌日の試験にも影響が出そうなので(そして何よりも運賃がバカ高い)、適当なところで引き返すほうが無難と判断。もちろんのこと普段は空気輸送なので、いきなり変なところから乗ってきた青年一人の乗客に運転手さんはびっくりしておられた。「どこまで行かれますか」と訊かれるや、さてどこで降りようかな少し迷ったが、向島駅から近鉄で丹波橋へ戻ることに決め、「向島」バス停で下車。しかし、近鉄向島駅よりもかなり手前のところにあり、観月橋に出たほうが早いと思って、バスで来た道(国道24号線)をそのまま戻る。観月橋から中書島まで一駅間だけ京阪宇治線に乗る。
そして今度は、京阪バス【52】号経路(枚方営業所)で樟葉駅まで乗車。
【52】号経路は1983年に新設された比較的新しい長距離路線系統だが、やはり利用客が少なく減便が続き、2005年で廃止される。末期は中書島周辺は循環運転(樟葉→西大手筋→中書島→外環状線→樟葉)だったが、当時は狭い市電伏見線ホーム跡から発着、奥にあるターンテーブルで方向転換して折り返していた。
中書島のターンテーブルで方向転換する市バス 現在は駐輪場となっている
(「なつかしの京都市バス写真集」より拝借)
中書島に京阪バスが乗り入れるようになったのも、この樟葉からの【52】号経路が実は初めてで、現在は醍醐方面への【6】号経路(山科営業所)および淀・竹田駅西口方面への【24】【24A】号経路(京田辺営業所)が発着している。
JR吹田にて
大阪駅からJR京都線各駅停車で10分ほどの吹田駅。
吹田市役所に近く(阪急千里線の吹田駅が最寄)、吹田市の代表駅とされているが、吹田駅前周辺は寂れているようです。吹田市内では旧市街地よりも地下鉄御堂筋線~北大阪急行線沿いの江坂や千里ニュータウンのほうが賑わっています。
JR吹田駅前には阪急バスと京阪バスが乗り入れています。
阪急バスはここから江坂、豊中、柱本方面への路線が出ています。
京阪バスは【9A】号経路・京阪守口市駅行き(上新庄・太子橋経由)が発着しています。
かつては、ここから吹田八尾線という長距離のバス(国鉄・京阪・阪急・近鉄4社の共同運行)なども発着していましたが、今は見る影もありません。
昭和の香りが色濃く残るダイエーも、イオングループ傘下に吸収されたため、今はイオンに変わっています。
嵯峨野線の113系
少し昔の大和路線201系
今も大和路線・おおさか東線の普通電車で活躍中の黄緑色201系(吹田総合車両所奈良支所所属)ですが、行先表示機がLED化され印象もかなり変わったかと思います。上の写真は方向幕使用時代のもので2010年8月新今宮にて撮影したものです。
環状線への新型電車323系の投入を控え、201系の動向が気になるところです。おおさか東線の新大阪開業も予定されていて、大和路線(奈良)への追加転入が予想されていますが、環状線・阪和線の電車が3ドアへ統一される方向にあって、大和路線だけ4ドア車がこの先も残り続けることは考えにくいと思います。阪和線の205系も今後どうなるのか注目です。
奈良の201系は朝ラッシュ時には桜井線経由ローカル列車の運用にも入ります。ローカル色の濃い単線区間での201系はミスマッチな感じもします。首都圏でいえば、京葉線から東金線への直通列車が、この例に該当しますね。
阪神西九条駅にて
京阪バス寝屋川営業所にいた珍車たち
交野営業所に在籍していたエアロミディ小型車
1999年ごろより交野営業所に狭隘閑散路線用として三菱エアロミディ小型車(S-1064~1067)が3台配置されました。
それまで交野営業所の車両は日野車ばかりだったので、エアロミディの配属はサプライズでした。
このタイプの小型車は、主に京阪交野市駅を拠点として【17】【17A】号経路・南星台系統および【18】号・田原線の運用に入っていました。ごくまれに星田線【41】【43】号経路などで枚方市駅南口および寝屋川市駅に顔を見せることもありました。
エアロミディ小型車は、当初山科・門真・交野営業所の配置でしたが、後年になって香里団地・枚方営業所に転属したものもありました。香里団地に転属した分は、山之上線・東中振線用でした。
真夏の枚方市駅南口にて
さよなら 5557F
【15】・総合スポーツセンター
JR東海のキハ40・48
残りわずか2両となった2000系1次車流用の2600系
京阪2600系(0番台)は2000系の代替新造(すなわち、架線電圧1500V化対応のため2000系を廃車とし、自社寝屋川工場にて、2000系の車体・台車を再活用の上、電装機器を新しいものに取り替えて新造)であることはよく知られている。
2600系の種車となった旧2000系の車体には大きく2つのタイプに分類され、初期に竣工した1次車と、以降2200・2400系そして2600系30番台まで脈々と続くスタイルの2次車とでは、側面の窓の形・配置と扉位置の寸法が異なる。上の写真は2000系1次車が種車のMc2624号(正面だけしか写っていないのでわかりづらいと思うが・・・)。
2600系0番台の廃車もかなり進み、最盛期には103両あったところ、現在7両編成×3本の21両が残るだけとなった。そのうち、2000系1次車のものは、このMc2624号とTc2818号の2両だけが残存している。
近い将来、京阪のホームドア導入の噂もあるが、その時に問題になるのは5ドア車5000系、3ドアでも扉位置が他の汎用形式と異なる1000系、そして2600系のうち2000系1次車が種車となった車両の処遇だろう。先日5000系5557Fが廃車となったのも、ホームドア導入への布石との見方も有力だ。
谷町線で活躍する30系の末期
京阪バス京田辺で活躍した富士重7E
2006年の京阪宇治交通と京阪バスとの合併時に、田辺営業所から京阪バスに移籍譲渡した富士重7E(日産ディーゼル)。
京阪バスにおいて富士重ボディは希少な存在であり、旧・宇治交カラーの車両だとなお物珍しい。
しかも樟葉地区ではもともと男山営業所の車両が主力であり、田辺営業所が樟葉駅まで運用する機会は少なかった。しかし、2003年の【31】・<樟葉駅~新田辺>系統(松里経由)新設後、田辺営業所の樟葉駅への運用が大幅に増える。ゆえに田辺営業所に配属されている富士重7Eも樟葉界隈で見かける機会も多くなる。
ただ、2009年からの大阪府流入規制を前に、京阪バス京田辺営業所に在籍していた旧・宇治交カラーの7Eは除籍される(7Eの一部は2007年11月の路線再編時に京阪宇治バスへ移籍、宇治田原方面の路線で活躍を続ける)。
2007年当時の浜大津にて
室生口大野にて
183系「きのさき」
個人的な愚痴―枚方・交野近辺のファミマについて
TSUTAYAの発祥地として知られる枚方。
TSUTAYAなどが発行している「Tポイントカード」は、枚方市民の4割以上が保持していると言われる。「Tポイントカード」は、TSUTAYAのほか、全国のファミマ、ガスト、ドトールコーヒー、ロッテリアなどで使えるのが魅力。さらに枚方ビオルネ内各店舗や枚方市内の個人商店でも使えるお店が増えている。私個人ももちろん、Tポイントカードを持っている。コンビニに入りたいときは、Tポイントカードの使えるファミマを優先的に選ぶ。
さて、枚方・交野近辺のファミマについて、前から気になること。
店員の接客対応の良さ、店内の清潔さなど、店舗によってまちまちだと感じている。
概ね良い店は多いが、私が特に不満に思った店をいくつか挙げると、
◎A店(京阪バス・国道田ノ口下車)
入口のごみ入れが溢れかえり散乱していた
◎B店(交野市星田界隈)
トイレがあまりきれいでなかった
◎C店(京阪バス・香里旭が丘下車)
店員の接客対応がイマイチと感じた
また、せっかく行きつけの店だったのに、残念ながら閉店してしまったところもある:
◎D店(京阪バス・変電所前下車すぐ)
TSUTAYAなどが発行している「Tポイントカード」は、枚方市民の4割以上が保持していると言われる。「Tポイントカード」は、TSUTAYAのほか、全国のファミマ、ガスト、ドトールコーヒー、ロッテリアなどで使えるのが魅力。さらに枚方ビオルネ内各店舗や枚方市内の個人商店でも使えるお店が増えている。私個人ももちろん、Tポイントカードを持っている。コンビニに入りたいときは、Tポイントカードの使えるファミマを優先的に選ぶ。
さて、枚方・交野近辺のファミマについて、前から気になること。
店員の接客対応の良さ、店内の清潔さなど、店舗によってまちまちだと感じている。
概ね良い店は多いが、私が特に不満に思った店をいくつか挙げると、
◎A店(京阪バス・国道田ノ口下車)
入口のごみ入れが溢れかえり散乱していた
◎B店(交野市星田界隈)
トイレがあまりきれいでなかった
◎C店(京阪バス・香里旭が丘下車)
店員の接客対応がイマイチと感じた
また、せっかく行きつけの店だったのに、残念ながら閉店してしまったところもある:
◎D店(京阪バス・変電所前下車すぐ)