再び、枚方・交野近辺の昭和についての思い出話などを。
今回は、1982年(昭和57年)ごろのことを思いつくままに挙げてみたいと思います。
○ 京阪電車では架線電圧1500V昇圧を前に新1800系登場。前年に続き、夏には交野線に冷房車(2600・2200系)が入る。
○京阪交野市駅前にニチイ(→現・イズミヤ)が開業。
○枚方市立杉中学校開校。
○枚方市立楠葉公民館・図書館新設。
○京阪バス・京阪宇治交通には冷房車が続々投入。香里団地に深夜のおりば専用「けやき1番」「けやき2番」開設。
○TSUTAYA1号店が枚方市駅前に開店。
○8月初旬、台風10号の影響で近畿・東海地方に被害をもたらす。
京阪電車では、翌年1983年12月の架線電圧1500V昇圧を前に、旧型の吊り掛け車(600・1300・1700系)が最後の活躍を続ける一方、600系の車体を活用して2代目1800系が登場(1代目1800系は、1700系と同じ車体でありながら日本初の新性能車)。1700系と600系の混結編成も初めて出現、ファンの目が離せませんでした。1300系ほか吊り掛け車のたまり場だった交野線にも、夏場には冷房車2600系(そして2200系4連口)が入り、好評を博しました(翌年以降は2600系が当たり前になる)。翌年春、新型車両6000系がデビュー、従来の京阪スタイルを刷新する颯爽たる姿で衝撃的、1984年にはローレル賞を受賞しました。
交野市内には次々と新しい大型集客施設がオープン。1981年、郡津駅前に「京阪スポーツセンター郡津」(スイミング・テニス・体操)がオープン、いよいよ最盛期を迎えます(2003年ごろ閉鎖)。交野市駅前にはニチイを核店舗とするショッピングセンター「Jumbo」が開業。当初はドムドムやミスドもあって、香里園のダイエーやイズミヤ枚方店などに負けないぐらい楽しいところでした。ニチイはのちにSATYに店名を改め、2003年に閉店するが、後釜にイズミヤが入り今日に至ります。
枚方市東部(津田・藤阪・長尾・尊延寺・穂谷ほか)の住宅地開発が進み、杉中学校が開校。杉中学校の通学区域は菅原東・氷室小学校区のほか、近年藤阪小学校の校区も加わって(おそらく藤阪~田口南のバイパス開通による道路状況の変化によるものだろう)、とにかく広範囲。氷室台・尊延寺・穂谷方面からはバス通学も認められているそうです。また、1984年に穂谷に関西外大キャンパス(→2018年閉校・移転)、そして1988年ごろには杉に大阪国際大学キャンパスがそれぞれ開校しました。加えて、府立枚方津田高校も1986年に開校。
国鉄片町線(→JR学研都市線)は長尾-木津間非電化。電化区間の片町-長尾間も非冷房の101系が多かったが、1983年より東海道・山陽緩行線から103系が続々転入、冷房化率が大幅アップするとともに、1986年には7連に増強、そして1989年には全線電化が完成しました。非電化区間では1982年当時、キハ35系やキハ40が主力となり、キハ20は姿を消しました。
京阪バスには冷房車が続々投入、非冷房車は数を減らしつつありました。しかし、まだ非冷房車に当たる確率も小さくはなく、夏場にこれが来たときはがっかりでした(しかし、引退寸前の日野・金産車体はバス窓時代の面影を感じるもので、なかなか面白かった)。この頃の新車である日野K-RC301は、従来のRE系と違ってエンジン音は強力化、モノコックながらスタイル(特にフロント)が京阪特注でかなり洗練された印象があります(以前の日野車体のバスは野暮ったい印象が強かったので)。香里団地の快速系統廃止、および深夜のおりば専用停留所新設も、この頃に実施されました。
京阪宇治交通についても、同様に冷房車を続々納車。樟葉・男山地区の車両は、三菱ふそう・呉羽車体でほぼ統一されていたはずだが、三菱自工のみのものと思っていた「ブルドック」(K-MP118)が、いつの間にか宇治交にも登場していて、軽く驚きました(京阪バス・宇治交とも、末期の「ブルドック」は呉羽車体製)。古参のバス窓車(MR470)も残っていて、松井ヶ丘方面の長距離系統を中心に運用されていた記憶があります。翌年1983年以降、宇治交60周年を記念して、塗装変更が順次行われました。
1982年の夏は天候不順でした。梅雨の前半は雨が少なく空梅雨気味だったものの、7月中旬より梅雨空が続き、長崎で記録的豪雨、梅雨明けは大幅に遅れました。また、8月初頭に台風10号が近畿・東海地方を直撃、その後も雨の多い不安定な夏でした。
コメント
コメント一覧 (12)
枚方市、交野市で1982年といえば、4月1日に主要地方道枚方大和高田線が国道168号へ昇格編入されましたね
(R168は大和高田市~新宮市から枚方市~新宮市へ延長)。
枚方市を走る国道だとR170の終点が和歌山県橋本市から大阪府泉佐野市へ変更されました
(河内長野市~橋本市はR371へ降格編入)。
この日は前年の国道改正に伴いR391~R449が指定施行され、
国道番号はついに400番台が登場し、
大阪府では吹田市、交野市、熊取町に国道が通るようになりました。
旧国鉄では
5月の関西本線名古屋口電化、
6月の東北新幹線大宮~盛岡開業、
7月の伯備線電化、
8月の中央総武線201系投入、
11月の上越新幹線開業
があり、
国鉄初の特急型電車として1958~67年に製造された181系
(旧20→151系、161系、純新製181系の3種に分類)
が全滅しました。
1983年1~3月だと
2月に飯田線119系投入、
3月に筑肥東線が電化され福岡市営地下鉄空港線へ相互直通開始
(博多~姪浜は廃止)、
同じく3月に京阪神緩行201系投入
がありました。
1982年はまだ石油ショック不況期でした。石油ショック不況の始まりは1973年秋の第4次中東戦争であり、
熊本太陽デパート火災(11月)や関西本線平野脱線事故(電化2か月後の12月)とともに長期不況となりました。
その石油ショックから18年後の1991年、奇しくも関西の鉄道事故と九州の大火災がバブル崩壊と重なるように発生しています
(5月の信楽高原鐵道事故、6月の雲仙普賢岳大噴火)
あの時代は今と比べるとネットもないですし物理的には豊かではないですが
まだバブルに向けて安定成長を続けている時代でもあり
人々の心は豊かだったと思いますね。
あと交野線に2200系が入っていたとはびっくりです。
当時の京阪は翌年の昇圧に向けて激動の時代でしたね。
あと1982年の夏は天候不順だったと言いますが
当時の夏休みに鳥取に海水浴に行きましたが台風でろくに楽しめなかったですね…。
ありがとうございます。
R168の枚方市への指定区間延長が抜け落ちていましたね。これは交野市初の国道でもありますね。それ以前は、吹田市に国道が存在しなかったことも意外です。
201系の京阪神緩行投入により、103系は片町線や関西本線に転属しましたね。
あと、当時の地元の鉄道ネタとしては、1983年大阪市営地下鉄谷町線の大日延伸があります。大日からさらに寝屋川市を経て高槻へ延長する構想もありましたが・・・。
1980年代は、まだゆとりのある世の中でしたよね。
交野線の2200系ですが、主に2210Fの4連口が時々入線していました。2210Fは1976年ごろから4連として宇治線に入っていたそうで、2600系登場以前は4連唯一の冷房車として別格の存在でした。2210Fの7連化のために2629Fが作られましたね。1983年昇圧後は、2200系の4連はなくなりました。
1982年は全国的に冷夏気味でしたね。私も子どもの頃、何度か日本海へ海水浴に行ったことがあるが、残念ながら冷夏でろくに楽しめなかったです。
大阪府では豊能町も1982年4月に初めて国道が通るようになりました。豊能町はその5年前は東能勢村でしたが。
1982年はE19/E20中央道の全通、
1983年はE2A中国道の全通
がありました。
1982年は3月にテレビ大阪が開局、
1983年は9月にテレビ愛知が開局
もありました。
当時、全国を見渡せば民放テレビが2局止まりの県がかなりたくさんありました。
谷町線の大日開業は1983年2月でした。大日駅の利用圏は守口市北部、門真市北西端、寝屋川市西部、摂津市南部と広範囲です。
当時の谷町線は既に6両編成となってから久しかったが、50系がかなり残っていたようです。
大阪府の府道番号標識(ヘキサ)は1984年3月に登場しました。
1983年の主要地方道追加認定に基づいて導入されています
(大阪府の主要地方道で1983年認定路線は1994年以降の現行番号だとr7、r9、r15、r17、r24、r26、r28、r32、r34、r38)。
1983年は4月に統一地方選、6月に参院選、12月に衆院選と1947年以来36年ぶりに3大全国選挙が重なった選挙イヤーでした。
あれから36年の今年、G20大阪サミット明けに安倍首相がもし衆院を解散したら36年周期のジンクスが
(同時に1986年以来33年ぶりの衆参ダブル選挙へとなろう)。
それとこれはもう少し後だったと思いますが福知山線4両化で余剰になった103系モハユニットがイエローのまま片町線に転属してきたのも覚えてます。
この転属も裏話があるようで当時の国鉄本社と大鉄局の仲の悪さが伺えるエピソードらしいです。
それは本来この福知山線4連化による余剰ユニットは全て常磐快速に転用されるはずだったのが大鉄局が「折角入った新車を手放すのは嫌だ」として実際に常磐快速に転属したのは2ユニットのみで残りは片町線に転用してその玉突きで片町線の在来ユニットを常磐快速に送ったとのこと。
四條畷方面の京阪バスでもこの頃から冷房車がぐんと増えましたね。
特に門真営業所ではRCが増えた印象です。
しかしこの段階でも交野営業所の星田線は冷房車に恵まれず冷房化は2年後にRC381が投入されるまで持ち越しになりましたね。
この杉中学の校区ですが、実は藤阪小の開校当時より藤阪元町以東は杉中学の校区です。
当方実を言うと小学生時に藤阪元町に住んでいました。
一時期、片町線にはブルーの103系を見かけることもありましたね。そればかりか、黄色のモハユニットを挟んで片町線の営業運用に就いていたものもあったみたいですね。
数を減らしつつあった101系にも、冷房化改造を受けたものがありましたね。関西での101系冷房車は珍しかったように思います。国鉄時代末期、片町線が関西で唯一101系の残る路線となり、JR発足を迎えて木津電化直後まで残りました(その後は桜島線に転属ののち、2年後に引退)。
京阪バスですが、交野・香里団地管内でもRCがぐんと増えた印象です。バス窓車は1981年までに消えたように思います。金産車体・ロングシートのREは1982年まで残っていました(夏にこれが来たときはがっかりでしたが)。当時、四條畷方面には、交野営業所の車両もかなり乗り入れ、しかも大型車が四條畷まで運用していたとは、今となっては信じられませんね。
ありがとうございます。
藤阪元町はともかく、長尾谷町3丁目・藤阪西町までが杉中の校区になったのは、2010年からのようです。もともと田口山小学校・長尾西中学校の通学区域だったはずで、ここから杉中学校へはちょっと遠いような感じがしますが・・・。
初めまして、いつもご拝読いただきありがとうございます。
樟葉界隈は、くずはモールのリニュアル、くずはタワーシティ、特急の樟葉停車と、ここ30年で目まぐるしく変わりましたね。くずはモールといえば、京阪旧3000系が展示されているSANZEN広場も忘れてはなりませんね。SANZEN広場の隣に「ポポンテッタ」という鉄道模型の店があったんだけど、残念ながら閉店しました。
「くらわんか花火大会」懐かしいですね。花火大会そのものは2003年までありました。
中央線はまだ4両編成でした。
1983年当時の旧大阪市営地下鉄(ニュートラムを除く)の編成リスト
御堂筋線→8両
(1986年に9両化)、
谷町線→6両、
四つ橋線→5両、
中央線→4両、
千日前線→4両、
堺筋線→5両。
御堂筋線と四つ橋線と堺筋線は奇数編成対応、
谷町線と中央線(旧6000系を除く)と千日前線は偶数ユニット編成
でした。
四つ橋線は1991年に登場した23系も当初は5両編成でした(1997年に6両化)。
堺筋線は6両編成だった1990年に登場した66系から偶数ユニット化、
御堂筋線は1996年に10両化され現在最新型の31000系は御堂筋線で初の偶数ユニット編成
となっています。