伯備線の優等列車といえば、381系の特急【やくも】でしょう。
伯備線は岡山・倉敷-米子を結ぶ陰陽連絡線の中核を担っており、 特急【やくも】のほか、東京直通の寝台特急電車【サンライズ出雲】や貨物列車も行き来する主要幹線となっています。
伯備線の【やくも】が設定されたのは、1972年・山陽新幹線岡山開業の時でした。当時、伯備線は非電化だったため、キハ181系で運用されていました。【やくも】は、気動車時代から他の山陰特急とは「別格」の扱いだったようで、新幹線連絡という重要な役割を持っていたこともあって、L特急並みの本数が設定され、気動車では珍しいL特急でした。運行区間は大半の便は岡山~出雲市間でさほどの長距離ではないものの、食堂車は連結。また、1往復だけ岡山-益田間直通もありました。以降、伯備線は、山陽地区ばかりか、首都圏や関西圏と山陰を結ぶ幹線ルートとして重要視されるようになり、従来の山陰本線や福知山線経由の列車に取って代わることになります。10年後の1982年、伯備線は電化され、【やくも】は381系に置き換えられ、運転区間も岡山-出雲市間に統一。
伯備線の優等列車は、非電化時代から既に特急【やくも】が主体的だったが、【やくも】を補完する急行列車【伯耆】も2往復だけ設定されていました。山陽新幹線開業以前は、宇野から伯備線・山陰本線・山口線を大回りする急行とか、芸備線の急行【たいしゃく】が新見から岡山へ直通するというのもあったようですが。【伯耆】はもちろん気動車(キハ58系)で、確か岡山機関区所属でした。地味な存在ながら、グリーン車(キロ28)も連結されるが、全車自由席であまり華やかさはなかったようです。【伯耆】は1982年の電化で廃止、【やくも】に一本化されます。
【伯耆】は、他の岡山発着気動車急行【砂丘】と運用は独立だったように思います(【砂丘】にはキハ65形が必ず組み込まれたはずなので)。同じく岡山機関区が受け持っていた姫新線の【みまさか】とは共通運用があったのでしょうか?
コメント
コメント一覧 (4)
中央西線「しなの」(名古屋運転所)、奥羽本線「つばさ」(秋田運転所)に続いて3番目にキハ181系が米子運転所に投入されました。
「おき」は隠岐諸島に由来したが、山陽新幹線岡山開業までの繋ぎであり、
1972年3月にキハ181系のまま「やくも」へ引き継がれました。
「おき」という特急列車は山陽新幹線が博多まで全通した1975年3月に米子~小郡(現・新山口)を結ぶ山陰本線~山口線特急に復活しましたが、
山口線で初めての特急でした。
山口線「おき」は名古屋運転所から米子運転所へ転属されたキハ181系が運用されることになり、キハ181系が初めて山口県に進出しました。
中央西線「しなの」は中津川~塩尻間電化から3か月後の1973年10月に半数が神領電車区381系へ置き換えられ、
キハ181系は四国(高松運転所)へ転出、
その試作形式として1967年に製造されたキハ91系は名古屋運転所のまま高山本線へ運用変更
が行われました。
1975年3月の「しなの」全電化時、同年11月の奥羽本線電化時にキハ181系は高山本線「ひだ」への転属が予定されていましたが、
名古屋運転所の反対で米子運転所や高松運転所へ転属となったようです。
キハ91系はその翌年9月に休車、名古屋運転所へ放置後に解体されています。
この後登場する特急は、食堂車無しが当たり前でしたから、古き良き時代の最後の特急とも言えまんな。
伯耆は元々は、大阪ー米子間を津山経由で結ぶ急行で、岡山ー米子間運転となったのは50-3ダイヤ改正からなんですね。
つまり、やくもより後なんですな。
本来はやくもの増発をしたかったのに車両が無かったので急行を増発したのでせうかね。
伯耆はキロ28を連結してはいるものの、4-6連で指定席は無かった事から、当時8-11連のやくも増発は不要と判断したのか。
ありがとうございます。
伯備線最初の特急は【おき】ですね。新大阪~益田間という、これまたロングランだったとは・・・。
キハ181系は名古屋運転所の保守現場では嫌われていたようですね。電化が進んだこともあって東日本から追われ、最終的に西日本(山陰、四国)に集約されましたね。
ありがとうございます。
1代目の【伯耆】は【みささ】そのものですね。
伯備線の急行としての【伯耆】が、【やくも】よりも後に登場したとは意外です。ご指摘のように特急用気動車が足りなかったんでしょうね。【伯耆】はグリーン車は連結されているものの、短い編成で全車自由席だったため、長編成・食堂車連結の【やくも】とは対照的に、地味な存在だったようですな。