紀伊半島を一周する紀勢本線は、和歌山県側の和歌山市-新宮間はJR西日本の電化区間、三重県側の新宮-亀山間はJR東海の非電化区間であり、両者を跨いで直通する列車は特急【南紀】<名古屋-紀伊勝浦>を除いて存在しません。

しかし、国鉄時代には、1959年の紀勢本線全通を機に、紀伊半島を一周して天王寺と名古屋を結ぶ直通列車が多く設定されました。高度経済成長期にあって、南紀が新婚旅行のメッカであり、伊勢志摩~紀伊半島~奈良~京都という観光ルートも定番化。特にキハ80系で新設される特急【くろしお】は、食堂車にグリーン車(キロ)2両連結という、観光地向けのデラックスな列車で高嶺の花でした。急行【紀州】(キハ58系)ともども天王寺(・紀伊田辺)-名古屋間の直通運転を実施。【紀州】には和歌山・名古屋のほか美濃太田区の気動車も使用され、美濃太田所属編成は天王寺到着後、折り返し【きのくに】に入る面白い運用もあったそうです。

ほかに、夜行普通列車も天王寺・和歌山市ー名古屋間に設定、夜行区間の天王寺-新宮間では寝台車も連結され、大阪方面からの釣り人に重宝されるほか、新宮以東の三重県側では高校生の通学、東紀州方面から松阪への買い物など地元客に利用されていました。

紀勢本線が最も耀いていたのは、1978年和歌山-新宮間電化の数年前と言えるでしょう。
新宮付近を跨いで紀伊半島を一周する普通列車も、1973年以降は順次気動車化が進んだため、徐々に減少。 関西本線大阪口電化で捻出されるキハ35系が紀勢本線西側に進出、和歌山付近を中心に新宮までのロングラン運用も生じました。紀伊田辺-松阪間を直通する気動車普通列車もあったが、そちらのほうは亀山機関区持ちでキハ55形などが組まれることも多かったようです。

1978年の電化では、特急【くろしお】は381系電車化に伴い、名古屋直通は廃止。急行【紀州】は名古屋-紀伊勝浦間に短縮され、天王寺直通の頃に比べローカル色が濃くなりました。名古屋側にはキハ80系の特急【南紀】が新設されるものの、食堂車無しで編成も6両に短縮、格落ちの印象でした。普通列車は新宮で系統分割されるが、夜行【はやたま】1往復だけ紀伊半島1周列車が辛うじて残存。ほかに、参宮線鳥羽発天王寺行きの急行【きのくに】も片道1本だけ残りました。電化後も主に新宮以西をカバーする【きのくに】は、南海直通などもあるため、気動車で残りました。このほか、紀伊半島一周ではないが、新宮発和歌山経由和歌山・桜井・関西本線経由の大回り名古屋行き【しらはま1号】(片道のみ、和歌山までは【きのくに】、柘植-名古屋間【平安】とそれぞれ併結)も、1980年まで残ります。名古屋【しらはま】の前運用は、【紀州】夜行便で名古屋から紀伊勝浦まで下ります。

電化後もしばらくこの体制が続くが、1982年5月関西本線名古屋口電化に伴うダイヤ改正で、紀勢本線特に三重県側の優等列車も整理されます。鳥羽発の【きのくに】は廃止され、夜行【はやたま】は天王寺・和歌山市-亀山間に短縮(したがって関西本線名古屋直通は廃止)。紀伊半島一周の体裁だけは辛うじて保たれました。その【はやたま】も、1984年2月、12系化と引き換えに、寝台車連結廃止とともに運転区間も天王寺-新宮間に短縮され、紀伊半島一周列車は消滅しました。合わせて寝台特急【紀伊】<東京-紀伊勝浦>も廃止。分割民営化を意識した列車ダイヤ再編が、1978年の電化時点前後から進んでいたように見えます。