1996~97年(平成8~9年)ごろの枚方・交野近辺のことを、思いつくままに挙げてみました。
○1997年3月、朝ラッシュ時の下り京阪特急が枚方市に停車、9000系セミクロス車を導入
○JR東西線(京橋-尼崎間)開通、学研都市線(片町線)がJR東西線を介してJR神戸線・宝塚線と1本につながる。併せて列車本数大増発
○阪急京都線の特急が終日高槻市に停車
○京阪特急(8000系)にダブルデッカー連結&8両化(1998年初までに完了)
○京阪交野線に5両編成増加
○京阪寝屋川市駅高架化工事開始
○枚方市北山に大阪工大・摂南大学キャンパスが相次いで開校
○大阪モノレール門真市開通、京阪沿線から大阪国際空港へのアクセスが便利に
○枚方市津田に平和堂「アルプラザ枚方」開業
○ニチイ交野店が「サティ」に店名変更(→現・イズミヤ交野店)
○ 1996年夏、O157食中毒事件で全国的大騒動、堺市の小学校で臨時休校
○香里団地の建替えが始まる
ぐらいでしょうか・・・。
1995年阪神・淡路大震災を機に、京阪神の鉄道輸送体系は大きく変わりました。いち早く復旧したJRは、京都線・神戸線の新快速に223系電車の投入を開始。従来、国鉄・JRよりも運賃面や本数などで有利だった私鉄の苦戦が目立つようになります。
枚方市東部・交野市を走るJR学研都市線も、以前はローカル線の印象が強くて、「牛より遅い片町線」と揶揄されるぐらい不便だったが(長尾以東は非電化だった)、JR東西線開通に合わせ207系電車を投入して沿線のイメージを一新、神戸・宝塚方面と一本の電車で結ばれます。
京阪間の私鉄特急(阪急、京阪)ももちろん無風というわけにはいかず、京阪間ノンストップ運転を断念。高槻市や枚方市など中間の駅に停車することで、中間沿線需要に応える路線へ転換します。京阪特急の枚方市停車も、1997年の時点では朝ラッシュ時下り(大阪行き)のみだったが、2003年には枚方市そして樟葉にほぼ終日停車となりました。
京阪交野線では1996年より5両編成運用が開始、2600系に加えて1900系も姿を見せるようになりました。JR学研都市線・東西線を意識してのことか、2003年より交野線と本線との直通列車が設定されました(→その後、交野線はワンマン運転に合わせ4両に戻る。2013年には本線直通列車も廃止)。
* * * *
枚方市津田には、平和堂の店舗・「アルプラザ枚方」が開業。滋賀県を拠点とする平和堂として、枚方市1号店であり、大阪府北部への本格進出を睨んだ足がかりとなったものと見られます(2年後には寝屋川市に「アルプラザ香里園」開店)。なぜ枚方市の津田が選ばれたのかといえば、大阪と滋賀を最短で結ぶ国道307号線の影響でしょう。
この頃の枚方市駅前といえば、ビオルネやステーションモールが新しく、既存の三越や近鉄百貨店は10年前に比べてあまり魅力的でなくなりましたね(三越・近鉄百貨店はいずれも閉店)。近鉄百貨店でスーツを作ってもらったり、たまに服を買うことはあったが、それ以外で積極的に行くことは・・・。北口にあった長崎屋も数年後閉店しました。
O157事件では、枚方市でも王仁公園プールが閉鎖となるなど、少なからず影響がありました。堺市の小学生は夏休みもろくに楽しめず、本当に気の毒でした。O157の原因が(給食で出た)カイワレ大根だとか、国会で議論になりましたね(当時、薬害エイズ問題を鋭く追及された、かの市民運動家議員は、のちの民主党政権下で首相になりましたね)。今般のコロナ災禍はO157のときのような局地的・限定的なものでは到底済まさるものでなく、全国的そして世界的な規模で深刻なダメージが広がりつつあります。
1997年4月には消費税5%への増税が実施され、持ち直しかけたバブル崩壊以降の景気低迷を悪化させる引き金になったと言われます。半年後の秋には、「金融ビッグバン」として山一證券や北海道開拓銀行が倒産するなど、景況感はいっそう冷え込みました。そして、「失われた平成時代」がいよいよ本格化・・・。
* * * *
戦時中の広大な火薬製造所(旧東京第二陸軍造兵ショウ香里製造所)から新しく生まれ変わった香里団地は、1997年ごろ入居開始から40年以上経過し、建替え工事が順次始まります。建替え後の住宅(UR)は高層化され、低中層の住戸が並ぶ「昭和の団地」から景色が大きく変わりました。2003年には桑ヶ谷の下水処理場跡地に枚方市南部市民センターがオープンしました。
香里団地といえば星型の中層マンション(スターハウス)も特徴で、今も数軒残っています。公設市場や大丸ピーコック(1号店)など、商業施設の建物も建替えが進みました。団地の土地の一部は民間に売却され、戸建て住宅に変わったり、病院の移転などに活用されています。今夏、香里ヶ丘図書館の新建物がオープンする予定です。
コメント
コメント一覧 (6)
ニチイは元が衣料品の店だったためか特に衣料品が強かったような印象があります。
千林にも店がありましたがこれも閉店しましたね。
あと枚方の三越・近鉄ですが1985年に京阪百貨店が守口にできてから影響を受けたと思いますね。
同じ京阪沿線と言うことで。
大阪市内の北浜三越、天満橋松坂屋も最終的に閉店しました。
長崎屋は枚方市の他寝屋川市や千林にもありましたね。
枚方の長崎屋は今100円ショップになっていると思います。
(221系は快速へ格下げ)、
今や223系2000番台第1~2次車はくたびれています。
快速の8両以上化とともにそろそろ新快速・快速は225系100番台へ置き換えて欲しいです。
おおさか東線直快の225系化、
加古川線(西脇市以南)・播但線(寺前以南)への227系1000番台の投入
もですが。
1996年は中学校入学、
1997年は4月1日が綴喜郡田辺町が市制し、
和歌山県田辺市との区別から京田辺市となりました。
JR東西線は開業当日(1997年3月8日)に乗りました。開業まで阪神と北河内の結び付きはあまりなかったのですが。
余談だが、東西線開業日はSKE48の松井珠理奈が生まれた日でした。姓が松井というのも何かと縁があります。
東西線は開業以降、小学(5年生以前)の同級生に会いに行く時や甲子園へ行く時は京橋~海老江を何度か乗りました。
1999年から3年間は高校通学で京橋~鴻池新田をほぼ毎日利用していました。
戻りますが、1997年はなみはや国体の開催に伴い8月22日に大阪モノレールの大阪空港~門真市が直結、1週間後に大阪市営地下鉄(当時)長堀鶴見緑地線が全通しました。
両線とも最初の開業が1990年で、
長堀鶴見緑地線京橋~鶴見緑地は今年3月20日に30周年、
大阪モノレール千里中央~南茨木は6月1日に30周年を迎えました
当時は京阪旧3000系ダブルデッカー車がデビューして間がなく、旧3000系を見る度に新鮮な気持ちでした。この年のくらわんか花火大会開催時に初めて樟葉に特急が臨時停車しましたね。その7年後に樟葉に特急が終日停車するなんて想像もていませんでした。
それ以外にも、くずはモールに「くずはコート」がオープンしたのもこの頃だったかと思います。TSUTAYAでよくレンタルビデオを借りていました。
後、ひらかたパークがリニューアル工事が竣工して、「ひらパー」と呼ばれるようになったのもこの頃でしたね。
最後にもう一つなんですが、南くずはに「トップセンター」があったのですが、平成8年頃に閉店して「トップワールド」として翌年リニューアルオープンしたのはご存知でしょうか?私が小学校卒業直前にはまだ「トップセンター」はあったのを覚えています。
そうそう、ニチイは衣料品が強いために、ビブレが生まれたんですよね。
枚方ビオルネにビブレができて、ここでよく服を買っていたけど、イオンになってからは全然ですな。
三越・近鉄は、ご指摘のように守口の京阪百貨店の影響は決して小さくないでしょう。ビオルネができてからは、考えるまでもないでしょう。
枚方の長崎屋の入っていた建物は、地階に100円ショップ、1階はドラッグストアが入っています。
ありがとうございます。
地元民としては、京田辺市誕生も忘れてはいけませんな。
1997年といえば、JR東西線、地下鉄長堀鶴見緑地線の門真南延伸、大阪モノレール門真市開業、そして京都市営地下鉄東西線開通など、関西の鉄道路線網がかなり変わりましたね。京阪京津線路面区間の廃止は残念だったが、その代わり京阪特急のダブルデッカー連結と叡山電車「きらら」の登場は魅力的だったと思います。
南駐車場の「くずはコート」は、くずはモールの本格リニュアル後、南館に生まれ変わっりましたね。D51に代わって「SANZEN広場」もできて楽しくなりました。
ひらかたパークもなぜか「ひらパー」と呼ばれるようになりましたね。
「トップセンター」は香里団地にもありましたよ。元はボーリング場でした。香里団地の建て替えが進む中、トップの建物はそのままでリノベーションが施され、2003~04年ごろ「トップワールド」に変わりました。