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飯田線の旧型国電を置き換える目的で、1983年に登場した国鉄近郊型電車119系。

105系と同様、電化ローカル線用の新性能車で、1M1T方式を採用。駅間距離が短く、カーブや勾配が連続し、200km近くにも及ぶ飯田線に合わせた仕様とされ、3ドア・セミクロスシート車。総数57両を投入。登場時の塗装は飯田線に寄り添う天竜川にちなんで、水色(青22号)に灰色の帯を配したデザインでした。配置は豊橋機関区(静トタ)。119系は新潟地区の越後線・弥彦線電化用にも投入する計画だったようです(結局国鉄財政難により、115系で賄われました。奈良・和歌山線電化開業用にも105系が新造される予定だったが、同様の事情で103系1000番台からの改造で対応)。

119系は全車両JR東海の所属となり、主に飯田線で2013年まで活躍。引退した119系の一部はえちぜん鉄道に譲渡され、MC7000形に改造されました。

国鉄最末期~JR発足初期にかけての一時期、119系の一部が東海道本線に栄転し、「するがシャトル」用に抜擢された時期もありました。国鉄末期の頃、広島をはじめ各地の地方都市圏で利用しやすい「国電型ダイヤ」が導入され、静岡エリアの東海道本線では国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正で「するがシャトル」大増発が行われました。「するがシャトル」は1984年から113系で運用されていたが、増発用に119系2両編成×8本が引き抜かれ、静岡運転所(静シス)に転属。改造対象となる車両には、白と赤の「するがシャトル」新塗装に塗り替えられ、合わせて冷房改造(AU75形)なども行われました。「するがシャトル」に持って行かれた分は、余剰となった165系で補われました。冷房未改造の119系も、JR東海独自仕様のC-AU711D-G3形クーラーが搭載されました。

「するがシャトル」用の119系は、当初興津-島田間を中心とする運用に就いていたが、しばらくして御殿場線にも運用を拡大し、東海道本線内では2両編成×4本の8両編成運用も登場。ただ、119系は加速重視の特性があり、さらに冷房搭載による自重増加も加わって最高速度が90km/hに抑えられるゆえ、駅間距離が長く運転速度の高い東海道本線では運行に多くの支障をきたし問題になっていました。結局2年余で「するがシャトル」は113・115系および新製211系5000番台に置き換えられ、119系は飯田線に里帰りしました。

ちょうど同時期、119系の東海カラーへの塗り替えが始まり、過渡期には飯田線でオリジナル飯田色・するがシャトル色・東海色をつないだ3色3編成の列車も出現しました。



国鉄時代には名古屋を起点とする個性豊かな急行列車が多数存在しました。特に、【赤倉】(名古屋-新潟、中央本線・篠ノ井線・信越本線経由)、【紀州】(名古屋-天王寺、紀勢本線経由)、【大社】(名古屋-出雲市、北陸・小浜・宮津・山陰本線経由)は400~500kmを超えるロングラン気動車急行のキング御三家として有名です。

他にも名古屋始発のロングラン気動車急行がありました。それは名古屋と奥能登を高山本線・北陸本線経由で結ぶ【のりくら】。該当列車は名古屋発夜行便で、定期列車としての行き先は金沢行きですが、臨時で金沢から七尾線~輪島線に入り、珠洲までに達するロングランでした。

当時、能登半島の奥のほうに七尾線(津幡~七尾~穴水~輪島)と輪島線(穴水~珠洲~蛸島)が通っていましたが、七尾線穴水以南を残して全廃。七尾線も津幡~和倉温泉間はJRの電化路線、和倉温泉~穴水間はのと鉄道の非電化路線に分断されています。能登半島は意外に長距離で、金沢市内から奥まで150km近い距離(所要時間3~4時間)のため、かつて金沢駅から能登半島各地を結ぶ気動車急行【能登路】がL特急顔負けの本数で設定されていました。

件の夜行【のりくら】珠洲行きは、走行営業距離472.1km、地味ながら前出の”3 kings of DC Expresse”に匹敵する距離となります。このことからも、能登半島の遠さを実感されることでしょう。美濃太田区所属車で全区間通してグリーン車連結。夜行【のりくら】は高山本線沿線への新聞輸送が主な任務でした。珠洲までの延長運転が行われた理由は、観光需要はもちろん、名古屋から能登半島への出稼ぎ帰省客需要への対応という側面もあったようです。輪島線内は定期普通列車として運転されました。途中、岐阜・富山・金沢で都合3回スイッチバック。津幡-金沢間は重複運転でした。

夜行【のりくら】は1984年2月ダイヤ改正で廃止されました。翌年のダイヤ改正で【のりくら】の富山-金沢直通も廃止。そして1990年、【のりくら】はキハ85系の特急【ひだ】に置き換えられました。

新年早々の能登大地震で輪島市や羽咋市の被害は甚大で、1000年以上の歴史を誇る輪島の「朝市通り」は壊滅的のようです。仮に今まで奥能登への鉄路が存続したとしても、この地震の被災を機に廃止という可能性も考えられます。


もし北陸本線が全線直流電化だったら、北陸本線と周辺路線はどうなったのでしょうか? 思いつくままに挙げてみました。

◎電車特急は大阪-青森間の【白鳥】を除いて直流型183・189系を大量投入、485・489系の製造両数は史実より少なかった(【白鳥】は廃止までJR東日本所属車両を使用)

◎寝台電車581・583系(「月光型」電車)の製造両数がどうなったのかは微妙。ただ、史実の通り、南福岡所属車が間合いで【雷鳥】【しらさぎ】に入った可能性はある

◎電車急行【くずりゅう】【立山】【ゆのくに】に153・165系を投入、東海道・山陽系統の電車急行と共通運用

◎普通列車電車化のペースは早く115系を投入、165系なども一部使用

◎湖西線の113系は敦賀まで直通運転

◎糸魚川~直江津間には信越本線長岡方面と直通する普通電車を運行、金沢・新潟鉄道管理局境は糸魚川付近だった可能性

◎米原口普通列車の気動車運用は早期廃止(東海道本線京都・大阪方面からの直通電車を設定)

◎583系から改造の419系「食パン電車」、そして413系電車は登場しなかっただろう(普通電車の増発は113・115系の改造で対応しただろう)

◎高山本線は全線直流電化、【ひだ】に381系投入(名鉄から直通の【北アルプス】は早期に廃止の可能性)

◎大糸線全線電化、新宿~金沢間に中央本線・大糸線経由の特急電車を運転、大糸線は全線JR東日本管内の可能性も

◎後年電化された七尾線にも113・115系を投入

◎高山本線に続き太多線も電化(→JR東海管内の非電化路線は紀勢本線・名松線・参宮線のみに)

◎急行【しらゆき】(金沢-青森)は史実と同様、気動車のままだっただろう

◎急行【きたぐに】(大阪-新潟)は廃止まで【銀河】と共通の24系客車で運用?

◎485系が【くろしお】【北近畿】に転用されなかった可能性が大きい



福知山線(JR宝塚線)で活躍していた103系。 

福知山線の103系は1981年尼崎-宝塚間電化開業時に登場しました(電化を前に同区間の複線化も完成)。大阪初のカナリアイエロー色で6両編成×6本(4M2T)を宮原電車区(大ミハ)に配置。全て新製の高運転台車で、編成単位としては103系の最終増備車でした(福岡市営地下鉄直通用1500番台を除く)。103系は大阪-宝塚間折り返しの普通電車で運用。宝塚以遠に直通する(旧型)客車や気動車(主にキハ47、一部急行間合いのキハ58系あり)スジの間を埋めるような運行スタイルでした。大阪都市圏にありながら電化が遅れローカル線同然だった福知山線であって、並行する阪急宝塚線とは競争相手にならず、せっかく電化されたのに利用客は伸び悩んだようです。

さっそく1984年2月ダイヤ改正で、福知山線用103系は6両から4両に短縮。捻出されたモハユニットは、首都圏の常磐線・山手線に転用する計画だったようです。実際、宮原から下記モハユニット2両×2本

モハ103-776 + モハ102-2033 (→池袋)
モハ103-778 + モハ102-2035 (→松戸)


へ転属しました。

残り4ユニットは、同じ大鉄局管内の片町線(学研都市線)(淀川電車区)に転属。本来6ユニット全て首都圏に渡っても不思議ではないところ、上記2ユニット以外は片町線からの転属で賄われました(すなわち、ミハからの転属による玉突き)。なぜこんな回りくどい転属を行ったのでしょうか?

ちなみに、大鉄局管内(東海道・山陽線、大阪環状線、桜島線、片町線、福知山線)の103系電動方向幕は、共通のコマ内容でした。なぜか電化未開業区間の「広野」も入っていたようですね。

(参考資料)
通勤電車シリーズ 103系 30 福知山線(B767-281のブログ)
http://b767-281.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/103-8515.html


国鉄直流急行型電車165系のクハ1両、「クハ165-169」。

とあることから、気になった車両の一つです。

まず、クハ165-169号は、京阪神の新快速で活躍した経歴があります。すなわち、「ブルーライナー」塗装になった時期があります。 同車は1968年川崎車両にて竣工、大垣電車区(名カキ)に新製配属されました。そのおよそ半年後宮原(大ミハ)に転属し 、大阪を拠点とする東海道・山陽本線の急行列車(【比叡】【鷲羽】【山陽】【はやとも】など)で活躍しました。

1972年山陽新幹線岡山開業に伴い、山陽本線の急行列車縮小により153・165系は余剰となり、京阪神地区(東海道・山陽本線草津-姫路間ほか)の新快速電車にて第二の活躍をすることになります。灰白色の車体に青帯を配した「ブルーライナー」という塗装に改め、新快速デビューを果たしました。「ブルーライナー」塗装は、阪和線用113系にも採用され、阪和線でも新快速を運転開始(阪和線の新快速はわずか6年の短命に終わりました)。新快速色の車両は、時折急行【比叡】【鷲羽】にも使用されたようです。

153・165系の新快速での活躍は長くありませんでした。私鉄王国関西にあって、急行型のボックスシートでは、特別料金なしとはいえ、ライバルの私鉄特急を凌駕することは難しかったようです。新快速用車両には私鉄の無料特急レベルのクオリティが求められるようになります。そこで、1979~80年に大阪鉄道管理局の意地をかけて設計・開発を手がけた新型近郊型電車117系を投入。153・165系は順次新快速運用から撤退し、大垣ほかに転属しました。クハ165-169も1980年2月、生まれ故郷の大垣に転属。

大垣所属時代は、名古屋地区の快速を中心に、東海道本線東京口の急行【東海】、大垣夜行(普通列車)、身延線の【富士川】、飯田線の【伊那】、さらに大阪口の【比叡】で広範囲に活躍(【比叡】は1980年10月改正にて宮原から大垣に移管)。この体制が数年続くが、その間名古屋地区快速に117系投入、【伊那】【比叡】廃止に伴い、165系にも余剰が発生。

1985年年初、クハ165-169に転機が訪れました。なんと郡山工場で交直流455系に改造されたのです。間近に迫った1985年3月ダイヤ改正では東北地方の福島・仙台都市圏において客車列車を電車に置き換えることが決まるが、国鉄の厳しい財務状況のもと新型電車を製造する余裕がなく、急行列車廃止で余剰となる455・457系などが活用されました。「待たずに乗れる」都市型(国電型)ダイヤに脱皮すべく、運用本数増加が必要になるが、何しろ先頭車が不足。そこで、苦肉の策として165系クハを種車として455系クハへの改造が行われました。結果、クハ165-169はクハ455-312に形式・番号変更。外観スタイルには目立った変化はないが、客用扉には交直流用に合わせステップを新設。

かつて、京阪神の新快速で颯爽と飛ばしていた車両が、遠く東北の地でローカル運用で余生を過ごすことになるとは、感無量ですね。クハ455-312は仙台所属となってJR東日本に継承され、2008年まで生きながらえました。2008年の時点で、既に165系ほか直流急行型電車はJR各社において形式消滅しており、クハ455-312号は「165系の生き残り」、さらに「新快速2代目の生き残り」として注目の的でした。末期は独自の派手な塗装になって磐越西線で活躍していました。


【クハ165-169に新快速色が配されたことを確証する資料】
大垣電車区急行型電車のこと(その18)
(Railway Photo Collections since 70s)
http://blog.livedoor.jp/railway_fun/archives/23755598.html




久しぶりに国鉄時代のユニークな急行列車を取り上げたいと思います。

今回は九州の気動車急行【西九州】。温泉郷・別府と西九州の港町である佐世保・長崎を久大本線・長崎本線経由で結んだ九州横断急行です。 大分県を代表する温泉郷、別府・湯布院から佐世保や長崎まで直通する列車で、九州観光にも重宝されたことでしょう。別府港は大阪・神戸からのフェリーが発着する九州の東のターミナルで、関西方面フェリーとの連絡も意識されていたようです。1964年~1980年の16年間にわたって運行されていました(1964~66年は準急、以降急行)。

走行路線は、日豊本線・久大本線・鹿児島本線・長崎本線・佐世保線。鳥栖-佐世保間は博多発着の【出島】と併結運転。【西九州】の佐世保編成と長崎編成は肥前山口で分割併合でした。気動車ならではの典型的な多層建て急行でした。

【西九州】は1980年10月1日ダイヤ改正をもって廃止されました。その後、別府~博多間の【由布】に置き換えられる格好でした。

廃止直前のダイヤ(1980年4月)は、

(西行き)
2612D 別府 8:10 → 長崎 13:53 / 佐世保 13:19 
           (グリーン車は佐世保行きに連結)
           (鳥栖-佐世保間【出島3号】と連結)
(東行き)
2611D 長崎 15:18 / 佐世保 15:49 → 別府 21:01
           (グリーン車は佐世保発に連結、大分-別府間普通列車)
           (佐世保-鳥栖間【出島10号】と連結)

でした。

同ダイヤ改正で九州の急行列車は大幅に整理縮小。関西~九州直通の夜行急行は一斉に全廃、九州内の電車急行(457・475系)は大半が特急に格上げされました(1982年11月改正の時点で九州の急行型電車は全てローカル運用に)。山陰(鳥取)から熊本までのロングラン【さんべ】は、九州内は快速に格下げとなり博多発着に短縮。筑豊地区のホープで次世代(近郊型)気動車キハ66系も、登場からわずか5年で急行運用がなくなりました。

「西九州」という類の、わかりやすい反面芸のない列車名は、のちに登場した福知山線の電車特急【北近畿】や、信越本線の急行【南越後】などの例がありますね(【南越後】はルーツがかの有名なロングラン【赤倉】で、ほどなくもとの【赤倉】に変わった。一方【北近畿】は2011年、【こうのとり】に改称)。



国鉄キハ40形2000番台の2両、2028号と2032号。

この2両はとても奇遇な人生を歩んできました。

まず、2両とも新潟鉄工製で1979年11月同日付けで、亀山機関区(天カメ)に納車。さっそく、関西本線・紀勢本線・参宮線などで活躍開始。翌年1980年3月まで3ヶ月余りの間だけ、電化前の草津線での運用歴もあります。しばらく亀山で同僚仲間として共に過ごし、のちに伊勢線(→伊勢鉄道)や片町線(木津-長尾)にも活躍の場を広げるも、国鉄分割民営化前年の1986年3月以降、彼らは運命の分かれ道を歩むことになります。

2028号は岡山(岡オカ)、2032号は伊勢(天イセ)(※1)にそれぞれ転属しました。2028号はそのままJR西日本(岡山支社)に継承。2032号は同じ天王寺鉄道管理局管内(※2)での移動だったものの、JR東海の所属となり、三重県下の紀勢本線・名松線・参宮線で引き続き活躍。

2028・2032号とも、JRになってから改番・改造を受けています。2028号は30年前の1993年にロングシート化改造を受け、3000番台3003号に改番されました。2023年現在に至るまで、2028→3003号は岡山エリアを離れることなく、津山線・吉備線などで活躍中です。

一方、2032号は1990年にエンジン換装(カミンズ製C-DMF14HZに交換)&冷房化改造を受け、5000番台5032(原番号+3000)に改番。 その後も伊勢所属で紀勢本線・参宮線で活躍を続けました。さらに10年後の2000年には、再び改番を受け、3000番台の3003号となります。2032→5032→3003号は2016年までに廃車されました。

2028号と2032号は、所属会社こそ違うが、最終の番号はなんと、同じ3003号を名乗っているのです! JR発足後、同じ国鉄型車両で異なる会社間で車両番号の一致する例は、少ないながらも存在しており、キハ40-3003号はその好例と言えます。すなわち、生まれは同じ新潟鐵工所→亀山機関区、最終番号は同じ3003号で一致という、なんとも奇遇ですね。2000~2016年までの間、この世に「キハ40 3003号」が2両共存していました。


(※1)(※2)天王寺鉄道管理局管内は、亀山・新宮駅を境に東側はJR東海、西側はJR西日本に受け継がれた。亀山機関区はJR西日本に継承され、2023年現在吹田総合車両所京都支所かめやま運転区に改組。伊勢運転区はJR東海伊勢車両区となったが、2016年廃止(→名古屋車両区に統合)。


6年前の投稿記事
http://katanogawara.blog.jp/archives/18287564.html
に改訂を加えました。


国鉄時代の関西本線名古屋口の急行列車といえば、気動車の【かすが】【紀州】などを連想されることでしょう。ほかに東京直通の寝台急行【大和】【紀伊】【伊勢】もあって賑やかな時期もありました。

しかし、1985年3月ダイヤ改正以降、関西本線名古屋口の優等列車は、【かすが】(名古屋-奈良)1往復を除いて特急【南紀】に一本化され、寂しいものとなりました。【かすが】はその後も細々と往年の気動車急行の面影を伝えながら21世紀初頭まで活躍を続け、キハ75系に置き換えられて将来への期待を滲ませたものの、2006年に廃止されました。これをもって、奈良県を走るJR優等列車とともに、気動車列車消滅となりました。

さて、1980年代前半の一時期、関西本線名古屋口に現われた10両編成の気動車急行について書いてみたいと思います。

1982年5月、名古屋-亀山間の電化に合わせて南近畿地区のダイヤ改正が行われました。これにより、紀伊半島の急行列車はかなり整理縮小され、関西本線名古屋口においては、【かすが】(名古屋-奈良)2往復、【紀州】(名古屋-紀伊勝浦)2往復、【平安】(名古屋-京都、草津線経由)1往復だけとなりました。しかも名古屋-亀山間では【かすが】【紀州】【平安】の併結運転が行われるため、急行の実質的な本数は2往復でした。

ただ、併結運転ゆえ、名古屋-亀山間では、紀勢本線新宮電化前、はるばる紀伊半島を一周して天王寺までのロングラン、殿様【紀州】を思い起こさせる10両編成という長編成の急行が登場しました。

該当する列車は、

朝の下り【かすが1号】・【平安】・【紀州1号】
夕方の上り【かすが4号】・【平安】・【紀州4号】

編成の内容は、【かすが】【平安】はキハ58・28のモノクラス3両編成(天ナラ)、【紀州】はキロ28込みの4両編成(名ナコ)。【紀州】についてはキハ65とかキハ57も連結され、気動車急行のオーソドックスな編成とはやや風変わりな形式組成で、管理局ごとに編成の組み方が異なる見本でもありました。

間合いで武豊線の朝ラッシュ輸送をこなしたあと、急行運用に入って奈良・京都・紀伊勝浦の各方面へ向かいました。途中、亀山と柘植で分割併合作業が行われました。亀山でスイッチバックして紀勢本線に入った【紀州1号】は、多気から先、参宮線(鳥羽)から来る【はまゆう】と併結。【はまゆう】は【きのくに】と同じ和歌山(天ワカ)所属でした。

【紀州】を切り離した亀山-奈良間の【かすが】(【平安】併結の1往復のみ)には、なぜか車両増結が行われるようになりました。名古屋-亀山間が都合10両運転でホーム有効長限界のためなのかもしれません。実際、改正前の同スジの【かすが】では、【平安】と併結であっても、名古屋-奈良間通して増結編成が連結されていました。

もともと同じ時間帯を走る【かすが】【平安】連結列車と【紀州】は別個のスジで設定され、改正前の【紀州】は伊勢線(→伊勢鉄道)経由でした。伊勢線経由の【紀州】には、1982年改正前は奈良(天ナラ)のキロ28込み6両が充当されていました(ちなみに並行する【かすが】【平安】は名古屋(名ナコ)担当だった)。伊勢線経由の【紀州】、特に下り1号(※1)は、天王寺までロングランの名門スジを引き継いだもので、天王寺直通時代は一時期美濃太田(名ミオ)の車両を充当、キハ57やキロ58込みの変わった編成として注目の列車でもありました。天王寺で白浜行き【きのくに】として折り返し、翌日紀伊田辺発の【紀州】で名古屋に帰る運用でした。1978年新宮電化以降、【紀州】は紀伊勝浦折り返しに短縮と同時に、伊勢線経由の1・6号は天ワカが担当(【きのくに】と共通運用)。その後、1980年3月ダイヤ改正で天ナラに移管されました(※2)。

もし、1982年5月の時点で伊勢線経由の【紀州】を特急【南紀】に格上げしていたら、【かすが】の亀山-奈良間増結という、謎な運用も発生しなかったでしょう。しかし、地域限定ダイヤ改正ゆえ、【南紀】増発用のキハ80系は供出できなかったようです(同年7月伯備線電化で山陰方面のキハ80系に余剰が発生するが、1985年3月博多直通【まつかぜ】の廃止まで待たなければならなかったようだ)。

1982年当時、名古屋発着の長編成気動車急行は、中央本線・篠ノ井線経由ロングラン【赤倉】(名古屋-新潟)が最大両数だったと思うが、11月ダイヤ改正で165系電車に置き換えられました。高山本線の【のりくら】が一番本数が多く編成もバラエティに富んでいたが、さすがに10両編成まではなかったようです。11月改正で廃止となった山陰へのロングラン【大社】も4~5両の短い編成でした。したがって、関西本線の【かすが】【平安】【紀州】の3層建て10両は、当時の名古屋における気動車急行の編成長として、【赤倉】電車化後は最大規模を誇っていたことになります。

1984年10月奈良線電化に伴い、天ナラの気動車配置がなくなり、【かすが】【平安】の担当区が亀山(天カメ)に変更。亀山の急行担当は、これがほぼ初めてでした。

1985年3月ダイヤ改正で【紀州】【平安】は廃止(【紀州】のうち1往復は伊勢線経由の特急【南紀】に格上げ)、【かすが】は前記の通り1往復に減便されました。残った【かすが】は、改正前の1・4号のスジを継承。その後も、なぜか【かすが】の亀山増解結体制が続きました(※3)。【平安】は【志摩】を1往復増発する形で伊勢市-京都間に行き先変更し、亀山-柘植間で【かすが】と併結運転するが、翌1986年11月ダイヤ改正で【志摩】は廃止。

(※1)列車の号数は1978年10月改正以降、下りは奇数、上りは偶数に変更。したがって、同改正以降の【紀州1号】は下り・紀伊勝浦行きのみとなる。

(※2)桜井・和歌山線(王寺-五条)電化に伴い、和歌山線五条-和歌山間用のキハ35系は天ワカの所属に変わる。玉突きで、名古屋発着の【紀州】【かすが】は、キハ35系の大量転出で余裕が生まれ、かつ距離的に近い天ナラに移管、関西本線湊町電化以来およそ7年ぶりに急行型気動車を擁することなった。

(※3)【かすが】の亀山ー奈良間増結は、JR発足2年後まで続いた。【かすが】用の車両はJR東海の所属になるが、亀山増結分はJR西日本亀山区持ちだった。


国鉄一般型気動車キハ35・45系。関西本線を中心とする近畿南部をはじめ、東北~九州の各地に分布していました。四国にもキハ35・45系が配置されました。

四国に配置されたキハ35・45系のリストを作ってみました。時期は国鉄時代末期以降のみに絞ります。

【徳島運転所(四トク) 1986年4月1日現在】
(キハ30)64 65
(キハ35)198 199
(キハ45)7 13 17 26 27 42 43 44 45 46 47 48 49 50
     51 52 53 63 64 65 66 67 68 69


3形式とも徳島に集中配置されていたようです。特にキハ45が24両も徳島に集結していたのは驚きです(キハ45のうち、番号の若い7・13・17・26・27は奈良・伊勢など天鉄局での活躍歴が長く、1985年海を渡って徳島に加わった)。運用線区は高徳本線・鳴門線・徳島本線・牟岐線・小松島線(廃止 ※1)。キハ35については、上記2両のほか、119~123の5両が徳島に新製配置されるが、前出のキハ45とは逆に早いうちに天鉄局管内(奈良・亀山)に流出、198・199のみが徳島生え抜きで残りました。

上記リストのキハ35・45系たちは、1両の廃車もなくJR四国に継承されました。ただ、キハ35系(キハ30・35形)はロングシート車かつ少数派ということもあってか淘汰は早く、1990年までに全廃。キハ45も大半は1989年までに廃車されるが、松山に転属して1年ほど生き延びた仲間もいました。1990年1月以降もJR四国に残ったキハ45は、以下の13両です。

26(松山:1990.3.31廃車)
27(松山:1990.3.31廃車)
42(松山:1991.3.31廃車)
43(松山:1991.3.31廃車)
45(徳島:1990.12.31廃車)
46(徳島:1990.12.31廃車)
48(徳島:1990.3.31廃車)
63(徳島:1990.3.31廃車)
65~69(徳島:1990.12.31廃車)


キハ45の代替車両は1000形気動車ですが、側面窓の形状がなぜかキハ45をイメージするものになっています。

なお、四国にキハ45系の両運転台車、キハ23・53形が配置された経歴はありません。

四国のキハ45について、私個人的に気になっていること。それは天鉄局からの転属組で、どうも天鉄独自の方向幕が入ったまま四国に渡ったようです。実際、白地「普通」幕表示(この書体がどうも天鉄タイプって感じ)の写真が各所でアップされていますが、もしかしたら幕回し中に天鉄書体の行先表示(「奈良-京都」「亀山-奈良」「木津-長尾」など)を見れた可能性もあります。

(※1)小松島線は1985年3月限りで廃止。よって、それ以降に転入組のキハ45は小松島線での運用歴無し。

(出典)
きはゆに資料室 気動車館

http://kihayuni.jp/DC/k-r_top.html


dc58tsuruga1987

国鉄時代末期のキハ28 2327号の写真を発掘しました。

敦賀駅に停車中の小浜線普通列車のようです。

キハ28 2327(旧327)は1963年新製当初から和歌山機関区(天ワカ)に配置され、紀勢本線の急行【きのくに】【紀州】【はまゆう】で活躍。1985年3月【きのくに】廃止まで、和歌山生え抜きでした。

【きのくに】廃止後、敦賀(金ツル)に転属、小浜線・舞鶴線の普通列車を中心に、急行【わかさ】【はしだて】そして【丹後】敦賀編成で活躍。ただ、敦賀での急行列車としての活躍も意外に長くはなく、JR発足後の1987年度にさっそく近郊化改造を受け、小浜線・舞鶴線ローカル専用に。その後、小浜線色への塗装変更を経て、しばらく小浜線を中心に活躍を続けるが、1992年播但線・姫新線姫路口に転用と同時にロングシート化改造が施され、キハ28 5514に改番。姫路鉄道部(神ヒメ)所属となりました。

しかし、播但線寺前電化(1998年)により、キハ28・58-5000番台は余剰となり、当車両キハ28 5514は1999年に廃車されました。


1981年(昭和56年)の国鉄のニュースを思いつくままに書き並べてみました。

1981年といえば、「ゴーゴートー」白紙改正で知られる1980年と、東北・上越新幹線開業の1982年の間に挟まれた年。10月に全国ダイヤ改正が実施されたものの、地域は限定的で比較的小規模なものにとどまりました。しかし、185系特急型電車登場と特急【踊り子】デビュー、石勝線開通、北海道用新型特急型気動車キハ183系をはじめ、各地域でのニュースは結構多かったと思います。以下、思いつくままに挙げてみました。

◎福塩線・宇部線・小野田線に105系投入、旧型国電を置き換え
◎福知山線尼崎-宝塚間電化、関西初の黄色103系がデビュー、尼崎港支線(塚口-尼崎港)廃止
◎185系電車登場と特急【あまぎ】・急行【伊豆】を特急【踊り子】に統合
◎総武本線津田沼-千葉間複々線完成
◎石勝線全通、札幌~帯広・釧路方面特急・急行列車の大半は滝川駅経由から石勝線経由に変更
◎夕張線紅葉山-登川間廃止
◎北海道で特急用新型気動車キハ183系量産・運用開始
◎急行【宗谷】の運転区間を函館-稚内間(小樽経由)から札幌-稚内間に短縮
◎奥羽本線大曲-神宮寺間複線化
◎神戸ポートピア博開催に伴い、臨時特急【ポートピア】を神戸-富山間にて運行
◎新駅開業:東鷲宮(東北本線)、猪名寺(福知山線)、中野栄(仙石線)、南彦根(東海道本線)
      東船橋・幕張本郷(総武本線)、甲西(草津線)、武蔵塚(豊肥本線)
◎117系ローレル賞受賞

1980年代初頭ということで、長距離旅客・荷物輸送が主体だった1970年代までの余韻がまだまだ残っていました。しかし、新幹線ネットワーク拡大と地域密着型への輸送体系改革が始まり、京阪神地区117系新快速導入(1980年夏までに置き換え完了)を皮切りに、首都圏に新時代の特急?車両185系登場、電化ローカル線車両の新性能化、首都圏(中央線、中央・総武各駅停車)に量産201系電車を投入、翌年1982年の東北・上越新幹線暫定開通(大宮-盛岡・新潟)、伯備線電化と【やくも】への381系投入、名古屋・広島をはじめ地方都市圏での列車増発(国電型ダイヤ導入)の準備、そして国鉄分割民営化への動きが水面下で着々と進行中でした。

185系はもともと急行【伊豆】の153系を置き換える目的で製造され、白を基調とする明るく斬新な塗装デザインとなるが、東海道本線東京口の普通列車で使用することも考慮して車内は(当初)転換クロスシート。ボックスシートを基本とする旧来の急行型車両よりは居住性・快適性は確かにアップしているが、料金不要の京阪神エリア新快速117系と同じ座席で、他の特急車両よりグレードダウン。急行列車で使用するならまだしも、料金の割高な特急【踊り子】で運用されることになり、不満も多かったようです。185系はその後、高崎線・上越線方面にも投入され、東北・上越新幹線上野開通(1985年)までの間、上野-大宮間の「新幹線リレー」に投入されました。

北海道では前年1980年10月白紙改正で、千歳空港駅(→南千歳駅)開業と千歳線電化を核に航空機と鉄道との連携を強化、青函連絡船を介しての本州~北海道連絡重視から、札幌中心の列車体系への刷新が始まりました。続いて1981年10月改正では、石勝線全線開通に伴い、札幌~道東方面の短絡・スピードアップを実現、また千歳空港駅乗り入れで航空機との連絡を取り、札幌重視の列車体系が補強されました。そして新時代の北海道国鉄のフラッグシップとして、キハ183系が投入されました。また、昼間の一部の急行列車は気動車(キハ56系)から14系客車に置き換えるなど、サービスアップ。

京阪神・近畿エリアでは、福知山線の電化はかなり大きいニュースでしょう。電化の遅れていた近畿エリア各線電化拡大の突破口となりました(5年後に福知山線全線電化が完成)。また片町線と福知山線を短絡する大阪市内の新線(地下線)計画の具体化および着工が始まり、1997年JR東西線(京橋-尼崎)開通をもって実を結ぶことになります。東西線開業に先立って、片町線の全線電化が完成しています。

神戸ポートピア開催時の臨時特急【ポートピア】は、国鉄最後~JR初期にかけて実現した大阪発着・北陸特急【雷鳥】の神戸乗り入れ定期化の試行とも位置づけられるでしょう。

1981年の京阪神・近畿エリア向け新製電車として、103系(福知山線電化用、編成単位としては、九州の地下鉄直通用1500番台を除き、これが最終)、113系2000番台(東海道・山陽本線快速)が挙げられます。1983年より東海道・山陽本線普通電車にも201系が投入されます。気動車では各地にキハ40・47・48形が投入され、奈良運転所にも初めてキハ40形を配置、主に片町線・奈良線で活躍しました。


国鉄時代、全国各地を網の目のように走った急行列車。 国鉄の優等列車(特急・急行)は基本的に大都市または県庁所在地を拠点に、各地方を結ぶ速達列車でした。ここでは、「県庁所在地を通らない」急行列車(北海道を除く)について、挙げてみたいと思います。

まず、紀勢本線・参宮線の【はまゆう】が挙げられます。【はまゆう】の運転区間は、紀伊勝浦-鳥羽間(伊勢市-鳥羽間普通列車になるものもあり)。三重県・和歌山県を走り、伊勢志摩と南紀の2観光地を結ぶ列車でした。設定本数は最大で下り(紀伊勝浦行き)1本、上り(鳥羽行き)2本。下りが1本だけなのは、鳥羽発天王寺行きのロングラン【きのくに】があったため。鳥羽・伊勢市~大阪市内へは近鉄特急が最短最速ですが、【きのくに】は紀勢本線を大回り。いずれも気動車(キハ58系)での運用でした。このほか、紀勢本線紀伊田辺→新宮のみの【きのくに】(新宮電化前は名古屋行き【紀州】だった)が設定された時期もあります。

次に日田彦山線~久大本線の【日田】(直方-由布院)、【あさぎり】(門司港-天ヶ瀬・由布院)、【はんだ】(門司港-由布院、筑豊本線・伊田線経由)、【あきよし】(江津・浜田-天ヶ瀬)。いずれも福岡県北九州市と大分県の有名観光地・湯布院を結んでいました。【あきよし】は山陰本線からの直通で、島根・山口・福岡・大分4県跨いで300km以上のロングランながら、県庁所在地は一つも通らずでした。片道(上り)のみ【ひこさん】(由布院→博多、小倉経由)もありました。やはりいずれも気動車での運用だったが、北九州・筑豊地区のみに投入されたキハ66系(2ドア・転換クロスシート)も使用されたことがあります。日田彦山線は2017年7月豪雨に伴い、現在添田-夜明間はバス代行輸送に転換されています。

小浜線・舞鶴線の【わかさ】【はしだて】。【わかさ】【はしだて】はもともと福井から敦賀まで北陸本線に乗り入れ、福井県庁と県西部の若狭地方を結ぶ県内速達が主な使命で、京都府北部の東舞鶴または西舞鶴まで乗り入れていました。【わかさ】の片道1本は、西舞鶴から【丹後】に化けて山陰本線経由京都駅まで走行。【はしだて】は、その名称の通り、西舞鶴から宮津線(→北近畿タンゴ鉄道→京都丹後鉄道)に直通し天橋立まで足を伸ばしていました。ただ、のちに北陸本線福井直通が廃止(あるいは北陸本線内普通列車に格下げ)されたため、京都行き【わかさ】1本を除き、県庁を通らない急行列車に。そして【わかさ】末期は、小浜線内完結(敦賀-東舞鶴)のローカル急行に成り下がりました。


国鉄気動車のマイナーな形式、キハ21形について調べてみました。

キハ21形は一般型気動車「キハ20系」の1形式。キハ21は、キハ20形に耐寒装備を盛り込み、寒地向けとして1957年に製造されました。主に北海道と東北地方に投入されました。

実は、キハ21形は北海道用の気動車としては、珍しい存在でした。 というのも、キハ21形は北海道仕様で標準的な「デッキ(客室・出入口間の仕切り)付き」ではなく、客用扉(片側2ドア)は本州以南向けキハ20形と同じ位置に設置されたため。ただ、寒地向けに客室窓の二重窓化、運転台室にデフトスタ設置、床下機器耐寒・耐雪装備化が施されていました。

キハ21形は1957年の84両製造にとどまり、翌1958年からはデッキ付き酷寒地向けのキハ22形(客用扉の位置は急行型や客車と同様、車両両端に)が量産されるようになりました。キハ21形は北海道向け一般型気動車の試作版と言えます。なお、キハ22形はデッキ付きであることから、一般型ではありながら(主に単行での)急行列車の運用もごく普通でした。

キハ21形はデッキがないことから、北海道では比較的温暖な道南エリア中心に活躍していたようです。東北地方では一ノ関機関区のみの配置でした。

キハ21形の引退は早く、1982年までに運用離脱、1983年に廃車され、JRに継承された車両は皆無です。


いよいよ今月末で(JR西日本)草津線から113・117系が撤退することが明らかになりました。これに伴い、三重県から国鉄型車両が完全に撤退することになります。

草津線(柘植-草津)は三重県の国鉄で最初に電化(1980年)。ただし、草津線の三重県区間は柘植駅からわずか1kmほどで、残りは滋賀県。柘植は三重県とはいえども、実感としては滋賀県ですね。なお、今月のダイヤ改正では、平日朝に柘植発網干行きの長距離電車(京都から快速)が誕生。三重県から兵庫県まで4時間にわたるロングランで、223系の8両貫通編成(近ホシW編成)が使用されているようです。

三重県に乗り入れた113系といえば、関西本線名古屋-亀山間も忘れてはなりません。名古屋-亀山間の電化開業は1982年5月でした(正確には名古屋-八田間のみ、先行的に1979年電化)。三重県の国鉄・JRでは2番目の電化路線ですが、以降県内で新たに電化されたJR線は皆無です。

さっそくですが、名古屋-亀山間電化当初、普通電車には113系が投入されました(電化前は気動車・客車。名古屋-奈良間直通のキハ35系他や、紀勢本線経由天王寺-名古屋間の長距離客車列車など、本数は少ないながらも色とりどりの車両だった)。所属は神領電車区(名シン)。4両編成(2M2T)と6両編成(4M2T)が使用され、一番新しい2000番台が多かったようです。実際、113系の最終製造ロットは、関西本線名古屋口電化用の名目だったようです。中央本線名古屋口(名古屋-中津川・坂下間)と共通運用のため、一時期、関西本線~中央本線の直通普通電車が登場しました。

ただ、関西本線名古屋口での113系運用は、わずか3年足らずで終了。1985年3月ダイヤ改正では急行列車廃止で余剰となった165系3両編成に置き換えられました。JR発足後、JR東海管轄区間となって積極的に新型車両が投入され、213系5000番台→313系ほかへと変遷をたどってきました。利用客急増に伴う輸送力増強に迫られ、一時期中央本線用の103系が関西本線の運用に入ったこともあります。

1985年3月ダイヤ改正まで、気動車急行【平安】が名古屋-京都間を関西本線・草津線経由で結んでいました。旧・東海道に沿ったルートであり、東海道本線米原経由よりも距離が短いです(ただし、大半の区間が単線ゆえ、所要時間がかかる)。名古屋-柘植間は【かすが】(名古屋-奈良)と併結運転でした。【平安】の末期は、亀山-柘植間を除いて電化区間(架線下DC)でした。


国鉄急行型気動車キハ58系、キハ58トップナンバー(キハ58 1)について。

「キハ58 1」はJRに継承されることなく、また非冷房車のまま国鉄時代末期(1987年)に廃車されました。末期は福知山・豊岡を拠点に、北近畿地区の普通列車を中心に余生を過ごすが、時折急行列車で京都駅や大阪駅に顔を出し、注目の的だったようです。当車は実は九州になじみのある車両でもあります。

「キハ58 1」は 1961年新潟鉄工にて竣工、新潟機関区に配置。1963年には九州へ渡り鹿児島所属を経て、1968年10月ダイヤ改正で小郡機関区に転属。【さんべ】【あきよし】などで使用され、引き続き九州に顔を出していました。1970年には広島運転所に転属するが、ロングランの【青島】で日豊本線を経由して、はるばる西鹿児島まで足を伸ばす花形運用をこなしていました。広島所属時代は、もちろん芸備線の【ちどり】【たいしゃく】でも活躍していたことでしょう。

1975年3月山陽新幹線博多開業をもって【青島】は廃止され、当車は豊岡に転属。以降、1985年12月まで福知山局管内の豊岡・福知山を行き来。最終的に豊岡に落ち着き、キハ26の代替として山陰本線・宮津線などの普通列車で活躍することが多くなるが、寒候期には時々【丹後】【丹波】【但馬】などにも使用されていました。

1985年3月以降、紀勢本線【きのくに】の廃止に伴い、状態の良いキハ28・58が大量に福知山・豊岡に流入し、初期車や非冷房車は軒並み廃車に。トップナンバーの当車は、非冷房にもかかわらず米子に転属して生き延びるが、国鉄終焉間際の1987年3月で廃車されました。

福知山局管内には1985年3月当時、「キハ58 2」「キハ58 3」「キハ58 8~10」も所属していました(→いずれもJRに継承されずに廃車)。ちなみに同時期、「キハ58 5」は亀山機関区(天カメ)の配置だったが、これもやはりJRに継承されることなく除籍されました。


国鉄時代~JR初期ごろまで、九州の交直流近郊型電車(421・423・415系)は関門海峡を渡って山陽本線下関以東および宇部線に乗り入れていました。国鉄時代の交直流近郊型電車は、塗装色から「ピンク電」とも呼ばれていました。

実際、小郡(現・新山口)~博多・南福岡・久留米間を直通する普通・快速電車が設定されていたが、交直流電車の最東端は徳山まで乗り入れていたようです。徳山といえば、山口県のかなり東側にあたり、岩徳線と接続。あと一歩で広島県という位置ですね。徳山までピンクの電車が来ていたとは、驚きです。今では考えられない運用ですね。

九州の元・ピンク電(→JR九州カラーに塗り替え)たちも、最盛期からかなり数を減らしており、JR発足後もしばらく、細々と小郡までの運用が残っていたが、今では下関で折り返すのみに。関門海峡(山陽本線)を通過する優等旅客列車すら消えてしまい、415系普通電車と貨物列車が行き来するのみとなっています。JR九州の電化区間は筑肥線と下関駅構内を除いて交流で完結しているため、JR九州の電車は筑肥線(~福岡市営地下鉄直通)用を除き、製造費の安い交流専用(700・800番台形式)ばかりが造られるようになり、関門海峡を渡る車両の今後が気になるところです(JR西日本側が521系を投入することも技術的には可能だが、交直両用はコストがかかるし、そもそもJR他社のために新車を用意することなど考えにくい)。


国鉄時代の紀勢本線113系について、思いつくままに書いてみました。

紀勢本線は1978年10月、和歌山-新宮間が電化されました。電化後、阪和線用の113系(青帯)が紀勢本線に進出。 阪和線の113系は1972年に運用開始。同時に阪和線にも新快速が設定され、京阪神の新快速用153系と同じ塗装でデビューしました(「ブルーライナー」とも呼ばれる)。113系は新快速・快速を中心とする運用に入っていたが、紀勢本線電化と同時に阪和線の新快速は廃止。その代わり、阪和線快速電車の一部を紀勢本線の御坊または紀伊田辺まで延長する形で直通するようになります(紀勢本線内は各駅停車)。このほか、紀伊田辺-新宮間の普通列車にも113系を投入(客車列車や急行間合いの気動車普通列車もあり)。

阪和線・紀勢本線の113系は、日根野電車区(天ヒネ)に配置されました。阪和線~紀伊田辺以北には6両編成(4M2T)、紀伊田辺~新宮間には4両編成(2M2T)を基本とする運用が組まれます。原則的に青帯車が使用されるが、関西本線用の色違い赤帯車(春日色)も一部共通で使用されました。1978年当時、関西本線(桜井・和歌山線)用の電車も日根野区の配置でした。

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阪和線・紀勢本線の113系といえばこの色

日根野(天鉄局)の113系は初期車が多く、東海道本線や横須賀線などからの転入組が多かったようです。紀勢本線電化に合わせて2000番台の青帯車が1本だけ新製配置されましたが。6両編成については、青帯車は冷房(改造)化がかなり進んでいたものの、赤帯車では非冷房車も比較的多かった印象です。

1980年3月の桜井線・和歌山線(王寺-五条)電化では、関西本線用の赤帯車にも2000番台が6両×3本新製配置される一方、赤帯車4両編成の非冷房車を投入。赤帯4両編成は桜井・和歌山線内ローカル運用を中心に、一部紀勢本線紀伊田辺-新宮間でも共通で使用されました。赤帯2000番台のほうは、阪和線・紀勢本線に入ることは多くなかったようだが、後年関西本線~大阪環状線快速(大和路快速)への221系投入の玉突きで、阪和・紀勢系統に転用され、成れの果てに御坊-紀伊田辺間ワンマン用に食パン顔に改造されたモハユニットもいます。

* * * *

1984年10月、奈良線・和歌山線全線電化と同時に、紀勢本線和歌山市-和歌山間(和歌山市内ローカル)の末端区間も電化。和歌山市内ローカルには、基本的に和歌山線と共通運用で105系または113系赤帯車が使用されるが、御坊・紀伊田辺・新宮への直通電車も設定され、青帯113系が充当されました。

ここで一つ気になること。和歌山駅基準で和歌山線と阪和・紀勢用とは編成の向きが逆転していたはずです。和歌山線用の113系は、当時日根野区から和歌山方向と逆向きに、阪和貨物線経由で王寺まで回送するため、和歌山駅では阪和線・紀勢本線用と編成の向きが変わっていたはずです。したがって、和歌山市内ローカルでは、編成向きの異なる113系どうしが営業運用に入っていたことになり、興味深い話ではあります。

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阪和線・阪和貨物線・和歌山線・紀勢本線 周辺路線略図


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国鉄時代末期(1986年ごろ)の奈良地区113系のことを思いつくままに書いてみました。

1986年春から夏にかけて、国鉄では「あなたとなら大和路」キャンペーンが開催されました。同キャンペーンに合わせ、同年夏桜井線(奈良-高田-王寺)に臨時SL列車(C56 160号機牽引)が運行され、奈良県の国鉄はエキサイティングでした。 私も友達と乗りに行こうと計画を立てていたが、指定券が取れず断念。

さて、「あなたとなら大和路」キャンペーン開催中の奈良エリアの113系(奈良電車区所属)は、カオス状態だったようです。

元祖大和路快速こと関西本線(大和路線)~大阪環状線直通の113系快速電車には、通常掲げられる「奈良-大阪」ヘッドマークの代わりに、期間限定で「あなたとなら大和路」ヘッドマークが用意されました。この快速電車を含め、奈良エリアの113系は「春日塗り」と呼ばれる赤帯の塗装が配されていました。しかし、キャンペーン開催期間中、車両需給の関係で先頭車クハ111のみ、色違いの青帯(阪和色)という6両編成が出現したようです。

理由は福知山線電化対応の113系改造転用に伴う車両不足。そのため、関西本線快速の一部は103系(黄緑色)に置き換えられる始末。さらに101系から改造のクハ103-2000番台が登場し、1年前に関西本線から引退した101系の面影を見るようでした。103系については、このほか3両編成も登場したり、首都圏からオレンジ色の車両が転入したりと、変動が大きかったし、青色(元・京阪神緩行または阪和線)も結構見られましたね。

奈良・桜井・和歌山線用の4連口113系も、なかなかのカオスだったようです。なんと中間には静岡地区から転用の廃車予定111系(湘南色)モハが一時的に組み込まれたそうです。111系という形式自体、国鉄時代終焉までに大半が廃車淘汰されるが、一部はJR四国に譲渡され、高松地区のローカル運用で余生を過ごしました(瀬戸大橋を渡って岡山まで顔を見せていた)。

国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正あたりまでに、奈良エリアの113系は落ち着きを見せたようです。その3年後、大和路快速が新型221系に統一されることになるとは、予想だにしませんでした。

この機会に一つ言いたいこと。今後JRが奈良方面へ特急列車を運行するなら、桜井線・和歌山線への直通を望みたいところ。特に奈良~天理~桜井~飛鳥の山の辺ルートは、JR桜井線が便利なので(奈良交通のバスも並行して走っているが)、これを活かしてほしいところです。


国鉄亀山機関区(天カメ→JR西日本亀山鉄道部)に所属していたキハ58系について、まとめ直してみました。

亀山区の気動車は、もともと関西・紀勢本線系統の普通列車運用が主体のため、キハ58系急行型が配置された実績は少なかったです。しかし、国鉄末期の1980年ごろから、キハ55(旧・準急型)やキハ35系(一般通勤型)などを置き換える目的で、急行列車廃止で余剰となったキハ58系が各地から少しずつ転入するようになります。

私個人的に、亀山のキハ58系たちの活躍が一番華やかだった頃は、1984年10月~1986年11月ダイヤ改正前だったと思っています。

【1、1984年10月(奈良線・和歌山線電化)以前】
まず、1984年4月1日現在の亀山区キハ58系の配置一覧表を下に示します。

【キハ58系 亀山区配置リスト(1)(1984年4月1日)】
(キハ58)  5 24 25 40 43 46 62 80 86 136 169 183 602 1025
   (非冷房車) 643 651 1040
                  (合計17両)


1984年4月現在、亀山区のキハ58系は関西本線(亀山-奈良)・信楽線・紀勢本線(亀山-新宮)・参宮線・名松線、そして片町線(長尾-木津)の普通列車で使用されていました。初期車が多く、岩国・米子などからの転入車が目立ち、非冷房車も3両いました。冷房電源車付きのキハ28は不在で、キハ35系やキハ45系、キハ40・47などとの混結編成が多く、非冷房は当たり前でした。

片町線非電化区間では、1982~83年ごろまで奈良区(天ナラ)の一般型(キハ35系、キハ40ほか)が使用されていたが、奈良線電化(1984年10月)を待たずして、1984年2月ダイヤ改正の時点で亀山に担当変更となったようです。片町線にキハ58系が入線するのも、これが初めてだと思われます。ちなみに、奈良に在籍していたキハ45も、1984年2月の時点でなぜか先立って亀山に集団転属しています。

【2、1984年10月~1985年3月】
奈良線・和歌山線電化に伴い、奈良運転所の気動車配置は廃止。急行【かすが】【平安】(名古屋-奈良・京都)は奈良区のキハ58系が使用されてきましたが、亀山に移管されることに伴い、奈良からキハ58系(そして、キハ35系、キハ40)が転入。急行列車は、キハ58+キハ28+キハ58の普通車3両で運用されていました。

【キハ58系 亀山区配置リスト(2)(1984年10月)】
(キハ28)  2313 2314 2317 2323 2324 2443
(キハ58)  5 24 25 40 43 46 62 80 86 136 169 183 401 445 559 
       571 596 600 601 602 672 684 691 719 1025
 (非冷房車) 643 651 1040
                  (合計 34両)


奈良から転入のキハ58系たちは、元をたどれば和歌山区(天ワカ)所属で、紀勢本線の【きのくに】などで使用されていた仲間たち。1980年3月の桜井・和歌山線(王寺-五条)電化に伴い、和歌山のキハ58系の一部が奈良に転属、紀伊半島東部の【かすが】【紀州】で運用されることになりました(和歌山線五条以西用のキハ35系を和歌山が受け入れるための運用整理。キハ35系の大所帯・奈良での同系列運用大幅減で、キハ58系を入れる余裕が発生した)。【紀州】は1982年5月ダイヤ改正(関西本線亀山電化)で全て名古屋区(名ナコ)に変更、代わりに【平安】が奈良区持ちになりました。

普通列車については、特に大きな変化はなかったものと思います。

【3、1985年3月~1986年11月】
1985年3月ダイヤ改正で急行【きのくに】の廃止に伴い、和歌山からキハ58系が大量に亀山に流れ込んできました。その一部は、疎開・保留目的もあり(キロ28も書類上亀山配置となった)、営業列車に使用されることなく数ヶ月経過して山陰・四国・九州各地へ散らばっていきました。亀山にはモデルチェンジ車(キハ28 3022・3023、キハ58 1101~1104)のほか、キハ65も新たに加わりました。

同改正で紀伊半島の急行列車はほぼ壊滅状態に。辛うじて【かすが】1往復と【志摩】2往復(京都-伊勢市・鳥羽)のみが残りました。亀山区では【かすが】1往復と【志摩】1往復を持つことに。増発分の【志摩】は【平安】のスジを受け継いだもので、事実上の行き先変更でした。基本的にキハ58+キハ65+キハ58(またはキハ28)の3両編成で運用、亀山-柘植間は【かすが】【志摩】の併結運転でした(改正前、名古屋-柘植間で【かすが】【平安】を併結運転していたものを引き継いだ形)。

普通列車では、キハ58+キハ35という両極端な編成をはじめ、

キハ58+キハ47
キハ58+キハ35+キハ35
キハ58+キハ35+キハ47
キハ40(またはキハ30)+キハ58+キハ35

といった編成も頻繁に出現、やはり依然として冷房車に当たるのは稀でした(キハ28・65は優先的に上記急行列車に充当)。

奈良・和歌山から状態の良い車両が多く転入したため、非冷房車や初期車は1986年~国鉄終焉までに淘汰されました。一部は遠く小海線に転属しJR東日本に継承され、東北地方のローカル線で余生を過ごした仲間もいます。

臨時列車では、急行【紀州】(奈良~亀山~紀伊勝浦、奈良発着に注目!)やハイキング号(柘植-湊町)の運用もありました。

ちなみに一般型気動車は、なぜか豊岡・浜田からキハ47が亀山に転属、玉突きでキハ45は各地に散らばりました。

【キハ58系 亀山区配置リスト(3)(1986年4月)】
(キハ28)  2313 2314 2323 2324 2443 3022 3023
(キハ58)  24 25 46 62 80 86 136 169 173 183 220 234
       445 564 571 572 573 596 597 598 599 600 601

       602 672 684 685 691 719 737 738 1025 1031 1032 
       1101 1102 1103 1104

(キハ65)  71 72 73 83 84 511 512
                  (合計 52両)

当時の亀山区キハ58系の運用範囲は、定期列車で

関西本線(名古屋-奈良)、草津線、信楽線、東海道本線(草津-京都)、片町線(長尾-木津)、紀勢本線(亀山-新宮)、名松線、参宮線

をカバー。

この頃、亀山・伊勢両区の統合の話も浮上しましたが、1987年の分割民営化に伴い、亀山駅を境にJR東海・JR西日本に分かれることになったため、立ち消えに。亀山機関区はJR西日本、伊勢運転区はJR東海がそれぞれ管轄することに決まりました(JR発足1ヶ月前、紀勢本線(亀山-新宮)・参宮線・名松線は天王寺鉄道管理局から名古屋鉄道管理局に移管)。



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JR西日本からいすみ鉄道に譲渡されたキハ28が引退すると、ニュースになっています。これに伴い、国鉄の急行型気動車キハ58系の歴史にピリオドを打つことは、ほぼ確実でしょう。 

キハ58系(キハ27・28・56・57・58・65形ほか)は北海道から九州までの全国で、電化・非電化を問わず主要幹線からローカル線まで、大半の国鉄在来線に至って、急行から普通列車まで幅広く運用をこなし、国鉄時代黄金期を陰で支える縁の力持ち的存在でした。キハ58系についての評価はいろいろあるが、多くの鉄道ファンに人気のある車両グループの一つでしょう。

さっそくですが、大阪府内各線におけるキハ58系の足あとをまとめてみました。定期旅客列車では、

東海道本線(外側線)、関西本線(大和路線)、阪和線(羽衣支線を除く)、片町線(長尾-木津)

での運用実績を残しました。


【東海道本線(外側線)】
定期列車は専ら本来の用途である急行列車のみでしょう。基本的に大阪または新大阪駅発着でした。大阪発東行きは北陸・中央・高山本線直通の【ゆのくに】【越後】【たかやま】【ちくま】ほか、新大阪・大阪発西行きは、福知山・山陰・播但・姫新線直通の【だいせん】【丹波】【但馬】【みささ】【みまさか】などが挙げられます。所属区は向日町(大ムコ)・宮原(大ミハ)・福知山(福フチ)・豊岡(福トカ)・岡山(岡オカ)・西鳥取(米トリ)・米子(米ヨナ)・美濃太田(名ミオ)・長野(長ナノ)ほか。

これらの大半は、北陸・中央・福知山線などの電化区間拡大や特急格上げ政策に伴い国鉄時代末期までに廃止、最後まで残ったのは【たかやま】。【たかやま】にはキロ28を連結、末期は車両更新&塗装変更の専用編成が仕立てられ、短い4両編成ながらも急行最盛期の面影をとどめていました。1999年ダイヤ改正で特急【ひだ】(キハ85系)に格上げされ、今も残る「大阪ひだ」ですね。

JR発足後もしばらく残った西行きの【但馬】【みささ】【みまさか】は、1989年ダイヤ改正にて新快速増発と引き換えに全廃(【但馬】は臨時を除き、姫路発着に短縮)。

JR発足初期には、大阪・神戸方面から山陰本線京都口(嵯峨野線)や北陸本線長浜方面への臨時直通列車でキハ58系が引っ張りだこでした。山陰本線は非電化であるばかりか、北陸本線長浜付近も当時交流電化だったため、113・117系などの直通運用はできず、気動車に白羽の矢が立ちました。これらの臨時列車は内側線(旧・電車線)を走行することもあったそうです。普段通勤・近郊型電車(103・113・201・205系)のみしか走らない線路上を気動車が走る光景は、違和感があったことでしょう。

JR西日本に継承されたキハ65形は前面展望式の「エーデル」などに改造され、JR西日本管内の各種臨時列車に引っ張りだこでした。大阪周辺では、福知山線から北近畿地区非電化各線へ乗り入れる特急【エーデル丹後】【エーデル北近畿】、北陸本線~七尾線直通の【ゆぅトピア和倉】(金沢まで485系【雷鳥】と併結、1991年七尾線電化で廃止)をはじめ、京阪神から北陸回り大糸線直通のシュプール・リゾート列車、草津線経由参宮線直通の伊勢初詣列車ほか、多くの臨時列車に起用されました。

【関西本線(大和路線)】
大阪府内区間は1973年奈良-湊町間電化開業後、定期列車の気動車列車は廃止。電化前は名古屋-湊町間直通の急行【かすが】や奈良-湊町間の快速列車などでキハ58系が使用されました。所属区は奈良気動車区(天ナラ)と名古屋機関区(名ナコ)。奈良所属の快速列車運用は【きのくに】臨時の送り込みも兼ねていたようです。

電化から10年ほど経過し国鉄末期になると、行楽シーズンに湊町から笠置・伊賀上野方面柘植まで直通の臨時列車(【伊賀ハイキング号】【伊賀忍者号】ほか)が運転されるようになります。キハ58系が優先的に抜擢されるが、キハ35系ほかが連結されることも珍しくなかったようです。JR発足間もない頃まで続くが、加茂電化(1988年)以降自然消滅。

【阪和線】
南紀(紀勢本線)直通の急行【きのくに】【紀州】が有名でしょう。【紀州】は紀伊半島一周して天王寺-名古屋間のロングランでした。かつて、南紀観光の需要が高く、特に【きのくに】は気動車急行の中でもトップクラスの列車本数を誇っていました。

紀勢本線新宮電化(1978年)で【紀州】の天王寺直通は廃止(名古屋-紀伊勝浦間に短縮)。【きのくに】は気動車のままで残りました。一部列車を除き、電化区間内のみ運転の架線下DCでした。1985年ダイヤ改正で特急【くろしお】(485系)に置き換えられて消滅。これをもって阪和線の定期気動車列車は廃止されました。所属区は和歌山機関区(天ワカ)を中心に、名古屋から直通の【紀州】で美濃太田区(名ミオ)などもはるばる阪和線まで足を伸ばしていました。

【きのくに】には、南海電鉄なんば駅から白浜・新宮直通の列車(キハ5500形)も仕立てられ、和歌山以南の紀勢本線内では天王寺発着編成と併結運転が行われていました。

このほか、阪和線快速8両化工事に伴う天王寺付近運休時に、南田辺-鳳間にキハ58系の臨時普通列車が仕立てられたこともあるようです(情報源はTwitterの画像を探してください)。

【片町線(学研都市線)】
国鉄時代非電化のままだった長尾-木津間での運用実績があります。片町線にキハ58系が入線したのは比較的新しく、1984年ごろから長尾-木津間普通列車で使用されるようになりました。所属区は亀山機関区(天カメ→本カメ)で、関西本線(亀山-奈良)ほか三重エリアの各線ローカルと共通使用。キハ58とキハ35・キハ47ほかとのペアを組んで2両のことが多く、せっかくクーラーを搭載していても(冷房電源車キハ28が不在のため)非冷房は当たり前でした。ただ、JR誕生前後あたりから、キハ28と組む機会も増え、時々冷房車に当たるようになりました。1989年の全線電化開業で、片町線から一夜にして気動車が撤退。これをもって、大阪府内旅客鉄道線の電化率100%を達成。

キハ58系の6両編成が天理臨団体列車で片町線を走行した実績もあるようです。長尾以西の電化区間に入線した可能性も考えられます(始発駅は四条畷あたりか?)。

* * * *

片町線全線電化と同日のダイヤ改正で、奇しくも前述の急行【但馬】大阪乗り入れ廃止、【みささ】【みまさか】が廃止され、大阪駅発着の気動車急行(定期列車)は【たかやま】のみに(このほか、ほぼ毎日運転の福知山線~宮福線経由の臨時列車【みやづ】があった)。一方、「エーデル」使用の福知山線特急を増発、城崎以西鳥取・倉吉への直通が復活しました。

1999年12月【たかやま】廃止をもって、大阪府内におけるキハ58系の定期列車は全廃に近い状況に。

同年秋のダイヤ改正で、福知山線経由の急行【だいせん】(大阪-出雲市)が、12系客車・寝台車連結の貫禄ある姿から「エーデル」に置き換えられ、わずか2両の寂しい姿に成り果てました。「エーデル」はキハ58系のイメージと異なる姿ですが、出自はキハ65形(一部キハ28・58も種車)ということで、キハ58系の仲間と見なせるでしょう。【だいせん】は2004年に廃止されました。

キハ58系の引退間近を控え、2003~04年にかけてリバイバル【きのくに】【但馬】などが運転されました。リバイバル【きのくに】には山陰本線鳥取地区快速から引退したばかりの車両を使用、梅田貨物線~大阪環状線経由で天王寺駅(もしくは日根野電車区?)まで送り込まれました。

このほか、姫路・和歌山方面からの修学旅行団体列車(奈良・伊勢方面)に、向日町(→京都総合車両所)のキハ58系が使用されてきたが、2002年度よりキハ181系に交代。和歌山方面からの分は阪和貨物線(杉本町-久宝寺)を走行するところも見どころだったが、阪和貨物線そのものも2004年に廃止されてしまいました。姫路発の分は山陽・東海道本線経由、京都から奈良線に入り、奈良を見物したあと、関西本線~紀勢本線~参宮線経由で伊勢・鳥羽へ向かうルートでした(帰りは草津線経由)。


首都圏で最後まで残った客車普通列車といえば、常磐線がよく注目されることと思います。

実は高崎線にも客車普通列車が1往復だけ残っていました。廃止時期は常磐線と同じ、1982年11月15日ダイヤ改正。 

該当列車・ダイヤは、

上野   06:15 → 高崎 08:53 2321列車
高崎   19:16 → 上野 21:55 2326列車


で、なぜか時間帯が偏っていますね。

高崎線の客車普通列車は、信越本線全区間(高崎-長野-直江津-新潟)の普通列車と運用がつながっていました。以下がその運用ダイヤ(1980年4月当時)です。

(下り)
高崎   09:49 → 長野 12:52 321列車
長野   16:18 → 新潟 22:41 323~1323列車

(上り)
新潟   05:55 → 直江津 10:13 1322列車
直江津  11:25 → 長野  14:01 322列車
長野   15:04 → 高崎  18:30 326列車


下り列車だと、早朝に上野を発った編成は郵便車・荷物車をそれぞれ1両ずつ連結した13両編成ですが、高崎で旅客車6両を切り離して長野行き、そして長野で郵便・荷物車を切り離して新潟行きに変わるというもの。これらの客車普通列車が残っていた理由は、荷物・郵便輸送を兼ねていたためです。長野で切り離された郵便・荷物車の2両は、この先荷物列車に連結されて、北陸回りで米原まで走っていたとのこと。もう少し時代を遡ると、長野~米原間の客車普通列車も運行されていたようです。

旧型客車使用だったが、廃止間際になって検査切れで運用できなくなったため、突如12系客車が使用されたそうです。

信越本線は首都圏~新潟ルートとしては遠回りで、横川-軽井沢間の急勾配(廃止)を控えていたことや、北陸本線との合流点・直江津駅を境目に性格が大きく変わって一体感は薄く、全区間通しの旅客列車が運転された実績は知りません。信越本線の旅客優等列車の運転系統は、上野~軽井沢・長野・妙高高原・直江津~金沢方面(首都圏~信州・北陸)と、大阪~金沢~新潟・青森方面(日本海縦貫)が主体的でした。上野~長岡・新潟以北の列車は、もとから上越線経由が基本でした。

北陸新幹線の開通に伴い、信越本線は横川ー軽井沢間が廃止され分断、軽井沢ー篠ノ井間と長野-直江津間は第3セクター化、全区間にわたって優等列車が激減してしまいました。

【参考資料】
都心に出入りしていた旧客鈍行
http://www.akoart.sakura.ne.jp/jnr/tokyo_local_pc.html




国鉄末期の福知山線について一題。

大阪口に2往復設定されていた快速列車についてです。運行区間は大阪-篠山口間。宝塚電化(1981年)以前から運行されていたもので、気動車(キハ26ほか→キハ47)を使用。停車駅は、

大阪、尼崎、伊丹、宝塚、三田、相野、藍本(一部列車のみ)、古市、篠山口

で、現在の区間快速はおろか、丹波路快速・快速よりも停車駅は少ないですね。ただ、大阪~篠山口間の所要時間は1時間40~50分で、当時単線非電化ということもあって、現在の普通電車(各駅停車)に比べても遅いです。

これとは別に、毎年春・秋の行楽シーズン、および夏の篠山デカンショ祭りの時などに、臨時快速が運行されていました。

快速は1986年の全線電化時に一旦廃止され、しばらくの間、優等列車(特急・急行)を除いてほぼ普通(各駅停車)オンリーに。JR発足から2年後の1989年、大阪口にほぼ現在の形の快速電車が登場。ただし、気動車時代の「快速」とは別物で、停車駅も異なり、毎時2本以上の本格的な都市近郊タイプの速達列車です(→その後、JR東西線・学研都市線直通にも拡大)。


岡山デスティネーションキャンペーンの一環で、先日往年の急行【鷲羽】がリバイバル運転されました。使用車両は近郊型115系の湘南色6両編成(岡山電車区)、運転区間は姫路-宇野間でした。また同日、瀬戸大橋開通以来34年ぶりに、一日限りの宇高連絡船も復活運航しました。

今回のリバイバル【鷲羽】は、通常岡山地区の普通列車で使用される115系を使用ということや、撮り鉄のトラブル炎上のニュースなどもあって、「しらけムード」も漂っていたように感じます。私個人的に、正直あまり興味を感じていません。

しかし、せっかくなので、この機会に【鷲羽】の歴史を簡単におさらいしたいと思います。 

急行【鷲羽】は関西と宇野を結び、本州~四国連絡を担う優等列車でした。山陽新幹線岡山開業(1972年)までは、新大阪-宇野間に最盛期9往復以上運転され、東海道新幹線~【鷲羽】~宇高連絡船という東京~四国連絡ルートを形成。もちろん使用車両は153・165系急行型電車でした。

山陽新幹線岡山開通後、【鷲羽】は夜行1往復を残して廃止。余剰となった153・165系は、「ブルーライナー」の爽やかな塗装に塗り替えられて京阪神地区の新快速で活躍することになりました。

1980年10月ダイヤ改正で【鷲羽】は廃止。その少し前に、新快速電車も117系に置き換えられました。【鷲羽】の153・165系は【比叡】(名古屋-大阪)と共通で使用、新快速用とともに宮原電車区所属でした。【鷲羽】の間合いで宇野線の快速にも使用されていました。

* * * *

【鷲羽】廃止後、今回も含め何度かリバイバル運転が行われました。

まず、1986年秋。中央東線の【アルプス】から紀勢本線ローカル用に先行転属したばかりの165系(日根野)と、宮原区の波動用167系との連結編成が使用されたようです。

次に2002年春。山陽新幹線岡山開業30周年を記念し、また紀勢本線の165系引退前というタイミングで、リバイバル【鷲羽】を165系6連で運転。

そして、今回(2022年9月)。さすがにもはや本来の急行型車両は存在しないので、115系湘南色を使ってそれっぽく見せたのでしょう。運転区間も姫路-宇野間に短縮され、今一つ物足りなかったようです。

ただ、115系は瀬戸大橋開通前、岡山-宇野間の快速電車にも使用され、連絡船シャトルの定期優等列車として運用された実績があります。その系譜は大橋開通後の快速【マリンライナー】に継承されています。急行【鷲羽】が担っていた役目も、【マリンライナー】が受け継いでいると言えるでしょう。


根室本線の急行列車【狩勝】について調べてみました。

地味ながら、根室本線の起点・滝川駅を経由して同本線を純粋に走行する急行列車で、私個人的に気になる存在でした。 そう、もともと札幌と釧路・根室を滝川経由で結ぶ急行列車で、石勝線が開通(1981年)するまでは根室本線の花形列車だったのです。列車名の由来は「狩勝峠」(石狩川と十勝川の分水嶺)から。

石勝線開通前の1980年4月当時、【狩勝】は以下4往復のダイヤでした。

(下り)
【狩勝1号】札幌 7:05 → 釧路 13:47 401D 
      旭川 7:57 ↑  (富良野線経由、富良野線内普通列車)
【狩勝3号】札幌 12:20 → 釧路 18:40 403D
【狩勝5号】札幌 18:30 → 帯広 22:42 405D
【狩勝7号】札幌 21:35 → 釧路 6:15 417(寝台車連結)

(上り)
【狩勝2号】帯広 6:50 → 札幌 11:27 402D
【狩勝4号】根室 8:32 → 札幌 17:53 404D
【狩勝6号】釧路 15:25 → 札幌 22:00 406D 
             ↓ 旭川 21:02 (富良野線経由、富良野線内普通列車)
【狩勝8号】釧路 21:30 → 札幌 6:33 418(寝台車連結)


上り【狩勝4号】のみ根室始発で根室本線を全線走破、1978年10月改正前は【(上り)ニセコ2号】として、さらに函館(小樽経由)まで足を伸ばす超ロングラン列車でした。昼間3往復(気動車)はいずれもグリーン車(キロ)連結でした。

1981年10月石勝線開通後、【狩勝】のうち札幌-帯広間昼行列車と札幌-釧路間夜行列車の各1往復が、石勝線経由に変更、列車名も【まりも】に改称されました。特急【おおぞら】は全て石勝線経由に変更。【狩勝】は2往復に半減し、以降ローカル急行に転落。根室本線を走る特急・急行は石勝線経由(札幌および新千歳空港からの最短ルート)にシフト、根室本線滝川-新得間はローカル線になってしまいました。1981年10月の時点では、根室始発の【狩勝】が辛うじて残るも、1984年2月ダイヤ改正で【ノサップ】と系統分離(釧路乗り換え)。

そして、国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正で【狩勝】は1往復(札幌-釧路)だけに(帯広-釧路間普通列車)。既にグリーン車の連結もなくなり、普通車のみ2~3両編成のローカル色の濃い姿でした。

JR北海道への移行後も、しばらく急行【狩勝】1往復が走り続けるが、1990年9月には快速に格下げ。列車名の【狩勝】はそのまま残るも札幌直通は廃止、滝川・旭川-帯広間のみの運転となりました。運用車両もキハ40に。

その後、快速【狩勝】は2016年までほぼそのままのダイヤが踏襲されるが、同年夏の台風10号に伴う被災により、東鹿越-新得間が不通となり、余儀なく系統分断されてしまい、現在に至ります。根室本線不通区間の復旧の目処は立たず、廃止がほぼ決まっているようです。


これまで時刻表「気動車急行縛りの旅」シリーズを何度か投稿してきましたが、今回は目先を変えて同シリーズ「京都発長崎行き」 のプラン一例を挙げたいと思います。1980年4月の時刻表を使用します。

(1日目)
京都    09:24 → 白浜    14:15 511D【しらはま2号】
                     (奈良・桜井・和歌山・紀勢本線経由)
白浜    16:30 → 新宮    18:41 306D【きのくに18号】(紀勢本線経由)

(2日目)
新宮    09:45 → 名古屋   14:19 902D【紀州2号】(紀勢・関西本線経由)

(3日目)
名古屋   10:03 → 松本    13:10 2801D【赤倉】(中央・篠ノ井線経由)
松本    14:05 → 富山    18:25 4502D【白馬】(大糸・北陸本線経由)

(4日目)
富山    00:03 → 岐阜    04:06 708D【のりくら12号】
                     (高山本線経由)
岐阜    09:56 → 出雲市   20:07 401D【大社】
                   (東海道・北陸・小浜・宮津・山陰本線経由)

(5日目)
出雲市   11:10 → 小倉    17:42 803D【さんべ3号】(山陰・山陽本線経由)

(6日目)
小倉    07:17 → 大分    11:13 2701D【日田】~【由布1号】
                    (日田彦山線・久大本線経由)
大分    15:04 → 博多    19:51 1706D【火の山6号】
                    (豊肥・鹿児島本線経由)

(7日目)
博多    08:17 → 長崎    13:43 1501D【平戸】
                    (筑肥・松浦・大村線経由)

可能な最短ルートは山陰本線~関門トンネル~鹿児島本線~長崎本線ですが、あえて紀伊半島~中央~信越~北陸をジグザグ巡り、また九州内では由布院・大分・熊本を大回り、さらに博多から松浦半島大回りの【平戸】に乗車するルートを取ってみました。


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もともと首都圏エリアでは、キハ40系気動車は馴染みの薄い車両だったかもしれません。

国鉄時代に首都圏エリアに在籍していたキハ40系のリストを作ってみました。

<1984年2月現在>
【高崎第一機関区(高タカ)】
(キハ40) 2085 2086 2087 2088 2089
使用路線:八高線・足尾線・(川越線?)

【宇都宮運転所(北ミヤ)】
(キハ40) 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017 2018 2019 2020
使用路線:烏山線(東北本線宇都宮-宝積寺間を含む)

【水戸機関区(水ミト)】
(キハ40) 2021 2022 2023 2024 2025 2026 2138 2139 2140 2141 
(キハ47) 187 188 189 1129 1130
使用路線:水郡線・磐越東線ほか


上記車両は全てJR東日本に継承されています。

北関東に集中するが、特別寒冷地というわけでないので、暖地用のキハ40-2000番台、そして水戸には東日本では少数派のキハ47(0番台、1000番台)が配置されていました。

八高線のキハ40は東京都内の八王子駅まで乗り入れていました。ただし、高崎のキハ40はJR発足後の1989年、水戸・宇都宮などに転属。以降八高線は八王子-高麗川間電化(1996年)まで、キハ35系&38(ロングシート車)に統一されました。ちなみに足尾線は、1989年「わたらせ渓谷鉄道」に転換されました。

宇都宮(烏山線用)のキハ40は国鉄末期よりロングシート化改造が施され、1000番台に改番されました。

ちなみに東日本エリアのキハ47形は、このほか寒冷地用として500・1500番台が新潟に配置されました。ただ、弥彦線電化などに伴う余剰で、半数弱が遠く広島・四国・九州に転属、それぞれJR西日本・四国・九州の所属となりました。

首都圏エリアにおける国鉄末期の新型気動車は、上記キハ40系に加え、千葉鉄道管理局管内の木更津区に、キハ37形が3両投入されました(使用路線は久留里線・木原線)。また、八高線にはキハ35形の車体を改造したキハ38形も登場。いずれもロングシート車でした。


中央本線(名古屋-塩尻、通称:中央西線)・篠ノ井線の客車普通列車について。

中央西線全線電化完成(1973年)後、同線の普通列車は大半電車化され、中津川以北のローカル区間には基本的に80系電車が充当されました(1980年以降は115系)。電化後も中津川-長野間に1往復だけ客車普通列車が残りました。

該当列車の1980年4月当時の時刻は、

中津川  07:39 → 松本 11:16着/12:39発 → 長野 15:05 (825~2825列車)
長野   11:41 → 松本 13:43着/14:03発 → 中津川 17:54 (836列車)


で、中津川~長野間の所要時間は6~7時間もかかっています。

なぜこんなに時間がかかっているのかといえば、理由の一つは荷物輸送を兼ねての長時間停車のため。国鉄時代の長距離客車普通列車は荷物・郵便輸送の役目も大きく、途中駅での優等列車の待避・接続と合わせ、荷物積み下ろしのための長時間停車もごく普通のことでした。

この客車普通列車も1982年11月15日ダイヤ改正で廃止。長野運転所(長ナノ)の旧型客車座席車3両+荷物列車という編成だったとのこと。

廃止の数ヶ月前、塩尻駅改良工事が完成し、名古屋方面から篠ノ井線松本・長野方面行きの列車の塩尻でのスイッチバックは解消され、所要時間短縮に貢献しました(それまで、中央本線は東京と名古屋を結ぶ1本の本線ということで、塩尻駅は東京-名古屋間直通を優先した中間駅タイプの配線構造だった)。

中央西線の旧型客車といえば、このほか夜行急行【きそ】1往復もありました。夜行【きそ】も、1982年11月15日ダイヤ改正で寝台車連結廃止、12系客車に置き換えられ、中央西線での旧型客車は終わりを迎えました。

【参考資料】
中央西線を走った車両16:旧型客車(昭和の鉄道員ブログ)

https://shinano7gou.seesaa.net/article/201902article_2.html



国鉄福知山鉄道管理局管内の一般型気動車がキハ47形に統一される前の頃(1977~82年)に興味があります。以前、このネタの記事
http://katanogawara.blog.jp/archives/30633800.html
を投稿しました。

改めて、福知山鉄道管理局管内の一般型気動車の配置一覧データを作ってみました。

<1978年4月現在>
【福知山機関区】(福フチ)
(キハ17) 120 122 198 287 293 295 296 313 314 316
(キハ20) 324 325 395
(キハ25) 34 225 244
(キハ26) 18 20 110 126 130 136 137 138 139 140 165 174 203 
      204 205 210 219 245 252 407 414 415 417
(キハ47) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16

【豊岡機関区】(福トカ)
(キハ17) 199 204 286 294
(キハ20) 34 240 241
(キハ25) 11 25 26 47 48 49 50 225
 

<1979年4月現在>
【福知山機関区】(福フチ)
(キハ17) 122 198 287 293 296 313 316
(キハ20) 324 325 395
(キハ26) 136 137 138 139 140 165 174 203 204 205 210 219
      245 414 
(キハ47) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
      34 35 36 37 38 39 40 41 42 67
      1015 1016 1017 1018 1019 1020 1021 1022 1023
      1024 1025 1026 1027 1028 1029

【豊岡機関区】(福トカ)
(キハ17) 199 204 286 294 295
(キハ20) 34 240 241 
(キハ25) 11 25 26 34 47 48 49 50 225 244
(キハ26) 18 20 110 126 130 252
 

福知山区へのキハ47の投入は1977年2月に始まり、1979年春に一段落。

その後キハ17の一掃などを経て、1980年末よりキハ47の投入を再開、キハ20・25・26を置き換えます。1980年以降もキハ26の福鉄局への転入が若干あったが、1984年までに全廃。キハ47の豊岡への配置は1984年が初めてとなります(福知山から一部転属)。

1979年までに配置されたキハ47のうち、3・4・1027の3両(のちに登場する1109・1110を加えて合計5両)は、国鉄末期までに遠く伊勢(天イセ→名イセ)へ転属、JR東海に継承された少数派(最終配置は美濃太田)として有名です。他のキハ47は全てJR西日本の所属となり、特に初期の車両は2022年現在まで福知山(北近畿)エリアを離れることなく活躍しているものも多く存在します。

* * * *

ちなみにキハ47の第一陣が福知山に来る前、キハ35系も配置され、主に山陰本線京都口(京都-福知山)の普通列車で活躍していました。参考までにその内容データも付けました。

<キハ35系 1977年1月現在>
【福知山機関区】(福フチ)
(キハ35) 96 97 98 99 100 101 102 103 104 132 151
(キハ36) 45 46


 キハ36形(トイレなし)はわずか2両のみで、1977年3月付けで2両とも亀山(天カメ)→和歌山(天ワカ)へ転属しており、電化前の和歌山線で最後の活躍をしました。

* * * *

福鉄局管内には、このほか敦賀区(金ツル)、向日町区(大ムコ)、姫路区(大ヒメ)の一般型気動車も乗り入れていました。

敦賀区(主に小浜線・舞鶴線)にはキハ20が遅くまで残り、また西日本エリアでは少数派のキハ48形が5両配置され、福知山周辺で異彩を放っていました。小浜線・舞鶴線の客車列車廃止(1984年)以降、敦賀にはキハ58系が和歌山などから転入、キハ20を置き換えました。

向日町区の一般型気動車はキハ47オンリー、山陰本線京都口で限定的運用をこなしていました。

姫路区は普通列車オンリー、播但線・姫新線用で、キハ20・26・30・35など雑多な形式がいましたが、最終的にキハ40・47形にほぼ統一されました。

【参考資料(出典)】
きはゆに資料室 気動車館

http://kihayuni.jp/DC/k-r_top.html


国鉄時代には、今では信じられないぐらい、数多くの面白い長距離列車がありました。 名古屋と東北地方を結ぶ臨時列車もありましたね。

その有名な列車として、地味ですが急行【あおもり】があります。運行区間は名古屋-青森間、東海道・北陸・信越・羽越・奥羽本線経由です。毎年お盆・年末年始の帰省ラッシュ時に運行されていたそうで、運用車両も12系客車(座席車のみ)。所要時間は、およそ19時間。名古屋発の列車は夜行でした。

国鉄最後の1986・87年末年始まで設定されていたようですが、JR発足後の運行については知りません(おそらくないでしょう)。JR東海・JR西日本・JR東日本3社に跨る列車ということになるが、JR東海区間は名古屋-米原間のわずか71kmだけですね。

時代を1970年代にまで遡ると、一時期、東京(東海道・東北本線)経由の【あおもり】(さらに浜松発も)が運行されたこともあるようです。名古屋駅から見て、日本海回りと真逆に進むことになるが、目的地の青森だけは同じですね。

名古屋と青森を結ぶ列車というのなら、中央本線・篠ノ井線・信越本線経由ももちろん考えられるが、このルートで青森まで運行された列車は知りません(名古屋-新潟間の急行【赤倉】はこの経路をたどっていた)。


(参考資料)
臨時夜行急行あおもり、名古屋駅→青森駅、おそらく日本最長所要時間の自由席列車!
(線路巡礼)

https://ameblo.jp/lunchapi/entry-12522546804.html

【国鉄】急行あおもり(1985年)(神戸鉄道資料館れいらっく雑記帳)
https://rail.ac/wp/2015/09/04/jr-20150904/

71年12月の急行「あおもり」の時刻について(Rail・Artブログ)
http://blog.livedoor.jp/railart/archives/3220780.html




かつて博多-長崎間を筑肥線・松浦線・大村線経由で結んでいた気動車急行【平戸】。 全長247.7kmに及ぶかなりなロングランを走っていました。博多-長崎間といえば、長崎本線経由がメインルートで、特急【みどり】などが多く運行されているが、松浦半島に沿った複数のローカル線をつなぎ合わせたルートでも気動車急行が1往復だけ細々と運転されていましたね(所要時間およそ5時間半)。

急行【平戸】の走行した路線・区間の大半は、第三セクター化されたり、線路が付け替えられ、国鉄・JRの路線としては「過去のもの」となっています。

特に筑肥線は、福岡市営地下鉄(空港線)開通(1983年)を機に、大きく姿を変えてしまいました。博多-姪浜間は地下鉄に(相互乗り入れする形で)代替、(博多ー)姪浜ー東唐津間直流電化、東唐津-山本(唐津線)間付近の経路変更、唐津線以西区間の分断など、複雑な変遷をたどりました。そのあたりの詳細については、あまりにも複雑なので割愛させていただきます。伊万里から先に続く松浦線は1988年に第三セクター化(松浦鉄道)されました。

1983年福岡市営地下鉄開通と同時に、急行【平戸】は博多-唐津間廃止され、福岡市内への直通を失い、ローカル色が濃厚に。そして、1988年松浦線第三セクター化と同時に廃止されました。

【平戸】はもともと竹下気動車区担当だったが、末期の博多直通廃止以降、長崎区に移管されました。観光色豊かなところを走るのに、グリーン車連結はなく、終始普通車自由席のみだったようです。


かつて東京と南紀を結んでいた寝台特急【紀伊】。

東京駅と紀伊勝浦を東海道本線・関西本線・紀勢本線(亀山・松阪)経由で結んでいました。前身は寝台急行【紀伊】で、参宮線鳥羽行き、関西本線王寺行き(奈良-王寺間普通列車)の3層建て列車だった時期もあります。鳥羽行き・王寺(湊町)行きには、もともとそれぞれ【伊勢】【大和】として独立した列車名が与えられていました。その詳細については、ここでは割愛。

さて、【紀伊】が特急に「格上げ」されたのは1975年3月ダイヤ改正。14系客車(品川客貨車区)に置き換えられ、東海道本線東京-名古屋間は山陰への【いなば】のちに【出雲2・3号】(京都から山陰本線経由)と併結運転でした。ただ、【紀伊】は割高な特急料金が災いして利用客は伸び悩み、また寝台特急としては走行距離600kmの比較的短距離であることや、その後の相次ぐ国鉄運賃値上げなどにより、客離れが進む一方だったようです。かつては南紀への新婚旅行客にも人気があったそうだが、新婚旅行の海外流出も【紀伊】の低迷に拍車をかけたと言われます。

【紀伊】は【南紀】(旧・【くろしお】)とはちがって伊勢線(→伊勢鉄道、1973年開通)を通らず、亀山経由でした。名古屋と亀山で2度のスイッチバック運転でした(2回以上スイッチバックの寝台特急はなかなか珍しいのでは)。名古屋以南はディーゼル機関車牽引、1980年3月まで亀山区のDF50牽引で注目の的でした。三重県を中心とする関西・紀勢本線沿線では日本最大の私鉄・近鉄が圧倒的優勢で、ローカル線同然の国鉄など見向きもされない状況だったが、東京直通の寝台列車が走っていたことだけは国鉄の唯一の強みだったのかもしれません。

【紀伊】は1984年2月ダイヤ改正で廃止。ただでさえ特急列車に恵まれなかった関西本線では、特急は【南紀】(名古屋-紀伊勝浦、伊勢線経由)のみの寂しいものとなり、河原田以西の特急列車はゼロに。

仮に【紀伊】が紀伊勝浦からもう少し西へ伸ばして白浜まで行っていたら、活路はあったのかもしれません。実際、方向幕に白浜行き用のコマが入っていたようです。ただ、いずれにせよ、遅かれ早かれ【くろしお】の新大阪直通開始を機に廃止されたでしょう。

【紀伊】の東海道本線区間では、米子車掌区担当の案内放送だったのも興味深いです。


(その1)
http://katanogawara.blog.jp/archives/37958530.html

原則は前回同様、「一筆書き」ルートです。

(1日目)
天王寺    07:20 → 新宮   12:36  302D【きのくに4号】
                      (阪和線・紀勢本線経由)
新宮     12:54 → 京都   17:52  713D【くまの】
                      (紀勢本線・関西本線・草津線経由)
京都     18:05 → 福知山  20:06  907D~4907D【丹後9号】
                      (山陰本線経由)

(2日目)
福知山    06:54 → 和田山  07:26  511D【美保】(山陰本線経由)  
和田山    07:55 → 姫路   09:14  612D【但馬2号】(播但線経由)
姫路     10:07 → 津山   11:50  811D【みささ1号】(姫新線経由)
津山     12:36 → 岡山   13:45  613D【砂丘3号】(津山線経由)
岡山     14:10 → 新見   15:39  913D【伯耆3号】(伯備線経由)
新見     17:27 → 備後落合 18:35  813D【たいしゃく3号】
                      (芸備線経由)

(3日目)
備後落合   02:51 → 松江   05:20  618D【ちどり6号】(木次線経由)
松江     08:41 → 名古屋  18:40  402D【大社】
                      (山陰・宮津・小浜・北陸・東海道経由)

(4日目)
名古屋    10:03 → 新潟   18:17  2801D【赤倉】(中央・篠ノ井・信越経由)

(5日目)
新潟     07:19 → 秋田   12:04  811D【羽越1号】(羽越本線経由)
秋田     13:04 → 青森   16:06  711D【千秋1号】(奥羽本線経由)

(6日目)
青森     07:12 → 盛岡   10:31  112D【しもきた】(東北本線経由)
盛岡     12:34 → 宮古   14:45  4612D【よねしろ2号】
                      (山田線経由)
宮古     15:30 → 北上   19:09  4614D【陸中4号】
                      (山田・釜石線経由)
北上     19:19 → 横手   20:39  705D【きたかみ5号】
                      (北上線経由)

(7日目)
横手     12:36 → 上野   21:37  402D【おが2号】
                      (奥羽・東北本線経由)

初日は紀伊半島1周して【くまの】で京都、さらにもう少し先の福知山まで進む。2日目は中国山地のローカル線をジグザグ回って、姫路・津山・岡山に寄り、備後落合から夜行【ちどり】で山陰へ抜ける。3日目はロングラン【大社】で一気に名古屋へ。続いてロングラン【赤倉】で新潟へ抜け、5日目は羽越・奥羽本線経由で青森に。6日目は三陸方面をジグザグ巡り、北上線を経て横手で1泊。最終日は上野まで【おが2号】に乗り通す。


国鉄時代の松本運転所(長モト)キハ58系の最後について、レポートしたいと思います。

もともと松本運転所には、中央東線の急行【アルプス】【こがまね】、中央西線の【きそ】などに使用されるキハ58系が大量配備されていました。中央本線の急行列車は1975年ごろまでにほぼ電車化(165・169系)され、気動車急行は【赤倉】(名古屋-新潟)1往復のみに。

その後も、大糸線を全線走破して松本と金沢を結ぶ【白馬】用に9両のみが松本に残留しました。【白馬】は北陸本線内ではロングランの【しらゆき】(金沢-青森)(秋アキ所属)と併結されるユニークな列車でした。

【白馬】は1982年11月15日ダイヤ改正で廃止されました(併結相手の【しらゆき】は電車特急【白鳥2・3号】に置き換え)。廃止直前の1982年4月1日現在、松本運転所に所属していたキハ58系の陣容は以下の通りです。

(キハ28)2506 2507 2508
(キハ58)407 408 409 410 411 710


キハ28は寒冷地向けモデルチェンジ車の1500番台3両のみでした(冷房改造後2500番台に改番)。キハ58は407~411までの5両が連番でお揃いでした。全車冷房改造済みでした。

【白馬】廃止後、松本の気動車配置はなくなり、キハ58系は各地に転属。その転出先は、

キハ28 2506~2508 → 新潟 →JR東日本
キハ58 407・408・409 → 七尾 → ※
キハ58 410・411・710 → 長野 →JR東日本


長野転属グループは1994~96年ごろまで飯山線で余生を過ごしました。

新潟グループ(キハ28 2506~2508)は、急行【べにばな】【あがの】(→のちに快速化)の冷房化に貢献し、JR発足初期までは3両とも新潟で活躍を続けました。キハ28 2506は1993年快速【あがの】へのキハ110系投入後、小牛田へ転属となり、主に快速【南三陸】で使用され、2007年まで活躍を続けました。他2両は1998年の廃車まで新潟で過ごし、快速【べにばな】や米坂線普通列車を中心とする運用をこなし続けました。

七尾転属グループのうち、キハ58 407・408は七尾線や【能登路】などでしばらく活躍を続け、JR西日本に継承。しかし、1991年七尾線和倉電化に伴い余剰となり、播但線の客車列車置き換え用に遠く姫路(神ヒメ)へ転属。同時にロングシート化改造が施され、5500番台に改番されました。変更後の車両番号は、

キハ58 407 → キハ58 5506
キハ58 408 → キハ58 5507

播但線寺前電化開業(1998年)後、これら2両は余剰となって廃車。

キハ58 409は1985年大雨による脱線事故で被災し、JRに継承されることなく同年廃車されました。

(参考資料)
神のホームページ

http://kami-kitami.sakura.ne.jp/


国鉄キハ55系気動車。

キハ55系は1956~1960年にかけて合計486両が製造。国鉄最初の準急型気動車で、日本各地に配置。顔は一般型気動車キハ20系と同じながら、客車や80系電車と同様の2ドア・デッキ付きで、気動車として初めて本格的な優等列車向けの仕様となりました(後年登場するキハ48形なども同様の車両レイアウト)。勾配線区やローカル線でも高速運転を可能にし、蒸気機関車牽引の客車列車に代わり、日本全国に気動車準急のネットワークを作り上げる立役者となりました。準急は1965年までに急行に格上げされ、キハ58系に置き換えられていきました。

その後、キハ55系は普通列車用に転用されるが、キハ58系と混結で急行列車に使用される事例も少なからず存在しました。しかし、1970年代末になるとキハ55系が急行列車で使われることは稀となり、ほぼ普通列車用として余生を過ごし、JRに継承されることなく国鉄末期までに全廃。

残念ながら、私はキハ55系をリアルで乗車したことも見たこともありません。

国鉄末期(1978~1980年代前半)の近畿エリアでのキハ55系の活躍について、知っているままに書いてみました。

まず、福知山鉄道管理局管内(福知山・豊岡)。山陰本線京都口・福知山線・舞鶴線・宮津線の普通列車にキハ26形が多く使用されていたが、1977年よりキハ47形に置き換えられ、1982年までに引退したようです。過渡期はキハ47との混結も見られました。福知山局には一般型のキハ20(1977年以前はキハ35系も)などもいましたが、キハ47に統一されてしまいました。

天王寺鉄道管理局では末期は亀山のみにキハ55形を配置。2エンジン車が買われて、勾配線区の信楽線・名松線・紀勢本線で使用されることが多く、時折関西本線でも運用されていました。キハ35系などとの混結もごく普通でした。1980年よりキハ58形初期車に順次置き換えられ、1983年までに全廃。

このほか、姫路機関区にもキハ26形が配置され、キハ20系やキハ35系などと雑多な編成を組んで播但線・姫新線で活躍していました。ここもやはりキハ40系に置き換えられ、全廃。

周辺エリアでのキハ55系は、美濃太田(高山本線・越美南線・樽見線ほか)、敦賀(湖西線・北陸本線)、富山(北陸本線・大糸線・高山本線・神岡線)、岡山(伯備線・姫新線ほか)などが挙げられます。


dc23-tottori

キハ23-500番台の写真を発掘しました。鳥取駅に停車中の因美線普通列車(1989年)。津山線直通の岡山行きだったと思います。

キハ23は国鉄一般型(近郊型)気動車キハ45系の一形式で、両運転台・1エンジン車。キハ45系そのものがキハ40系登場までの比較的少数の過渡的なもので、キハ23も0番台(暖地用)が33両、500番台(寒地用)が21両が製造されるに止まりました。

ただ、キハ23は0番台を中心に西日本各地のローカル線に比較的多く分布しており、大半はJR西日本に継承され、寒地用500番台も半数近くJR西日本に受け継がれました(他はJR九州に0番台が3両、JR東日本に500番台11両)。キハ45形は片運転台などが災いして全国的に早く消滅したのに対して、キハ23形は両運転台が買われてワンマン改造が施され、中国・山陰・北陸エリアの各線で2000年ごろまで活躍を続けました。

JR西日本に最後まで残ったのは、キハ23 520とキハ23 1。520号は2003年廃車、キハ45系最後の稼動車だったようです。キハ23のトップナンバー(キハ23 1)は運用離脱後も保留車となるが、2009年6月付けで廃車。


いよいよ117系も引退カウントダウンを迎えたようです。新快速で活躍していた頃の117系の姿をアップしてみました。

117系といえば、やはりクリーム色&茶帯の塗装が輝いて見えます。「117」の語呂合わせも「いいな」で縁起の良い数ですね。

himeji117-1

koseisen117-1

shinkaisoku117

 


かつて中央本線東側(中央東線)にて運行されていた夜行普通列車。

最盛期は新宿発長野行き(篠ノ井線経由)として運行されていました。1980年当時のダイヤだと、

新宿発 23:55 → 甲府 02:51着 / 03:16発 → 上諏訪 05:57着 / 06:46発 
→ 松本 08:02着 / 08:17発 → 長野 09:40着 (441M)


で全区間318.5km。所要時間は9時間45分ですが、途中の甲府や上諏訪などでの長時間停車で時間を稼いでいました。新宿駅入線は21:30、2時間25分の停車で、相当余裕のあるダイヤだったようです。新宿駅入線時間から長野駅到着までの全所要時間は12時間じゃないですか!

当列車の夜行区間は、八ヶ岳などへの登山客利用に人気があり、「山男列車」とも呼ばれていました。登山シーズンなどは混雑しやすく、新宿駅ホームに長時間並んで待つことも珍しくなかったそうです。

しかし、この441M列車も、国鉄時代末期の1985年ダイヤ改正で、新宿~上諏訪間に短縮。その後、分割民営化(→JR東日本)を挟んでしばらくこの運行態勢が続くが、1992年3月改正では甲府止まりに短縮。ただ、甲府到着後、そのまま始発の松本行き普通列車に化け、甲府での車内待機も可能だったようなので、事実上松本への乗り入れが復活したことになります。

しかし、これも長く続かず、1993年12月ダイヤ改正では廃止(新宿-大月間の最終列車として残り、以遠は廃止)。

運用車両は山スカ色115系でした。夜行普通列車にはデッキ付きの急行型車両使用が慣習化していましたが、中央東線の夜行列車は115系近郊型電車でした。
 


kyotoeki1980z

1980年当時の京都駅3番ホームの画像を発掘しました。湖西線の電車を待っているところでした。

右に留置中の103系(スカイブルー)ですが、手前に写っている「モハ102-395」が気になったので、経歴を調べてみました。

モハ102-395は京阪神緩行線で活躍ののち、1983年に片町線(学研都市線)の淀川電車区へ転属しました。国鉄時代は非冷房車のまま、片町線では数少ない非冷房車103系だったようです。JR発足後もしばらく片町線で活躍、分散クーラーが取り付けられました。

長尾-木津間電化(1989年)の翌年、新規電化開業区間の編成長3→4両への増強に合わせて当車両には電気連結器が設置され、モハ102-5001に改番。

しかし、207系の登場に伴い、モハ102-5001は関西本線(大和路線)・奈良線に転用されることになり、電気連結器は撤去され、元のモハ102-395に再改番。2016年ごろまで現役だったようです。
 


豊橋と辰野を結ぶ全長195kmの長大山岳ローカル線・飯田線。もともと私鉄だったため、駅数94個にものぼり、国鉄・JRのローカル線として異例の多さです。急峻な中部山脈を貫き、天竜川の渓谷を縫うように走るため、カーブ・勾配が連続して線形が悪く、全区間を各駅停車で通して6時間以上を要します。飯田線は天竜川渓谷の車窓風景が魅力的で、旧型国電の最後の牙城として知られ、最近ではいわゆる秘境駅にもスポットが集まり、昔から鉄道ファンに人気があります。

飯田線の優等列車は、現在特急【伊那路】(373系)が豊橋-飯田間に2往復設定されています。かつて名古屋・新宿・長野の各方面から急行列車が乗り入れていました。1980年4月当時、次の急行列車が運転されていました。

(下り)
【こまがね2号】天竜峡 05:27 → 新宿 11:43 (4401M)
【こまがね4号】天竜峡 14:22 → 新宿 20:17 (4412M)
【こまがね6号】飯田  17:28 → 新宿 22:34 (4416M)

【天竜3号】  天竜峡 05:40 → 長野 09:42 (2503M)
【天竜5号】  飯田  12:37 → 長野 16:09 (2505M)
【天竜9号】  駒ヶ根 20:39 → 長野 23:14 (2509M)

【伊那1号】  大垣  06:34 → 上諏訪 13:57 (601M)
      (大垣~豊橋 普通列車)

【伊那3号】  豊橋  10:56 → 飯田 13:55 (603M)
【伊那5号】  豊橋  15:09 → 辰野 19:58 (605M)
【伊那7号】  大垣  15:48 → 飯田 20:41 (607M)
      (大垣~豊橋 普通列車)

(上り)
【こまがね1号】 新宿 06:45 → 天竜峡 12:14 (4401M)
【こまがね3号】 新宿 10:30 → 飯田  15:32 (4403M)
【こがまね5号】 新宿 17:00 → 天竜峡 23:42 (4405M)
      (飯田~天竜峡 普通列車)

【天竜2号】   長野 08:02 → 飯田  11:33 (2502M)
【天竜6号】   長野 17:07 → 駒ヶ根 19:52 (2506M)
【天竜8号】   長野 19:07 → 天竜峡 23:42 (2508M)
      (飯田~天竜峡 普通列車)

【伊那2号】   辰野 04:29 → 豊橋  09:44 (602M)
      (辰野~飯田 普通列車)
【伊那4号】   辰野 08:47 → 豊橋  13:20 (604M)
【伊那6号】   飯田 14:26 → 豊橋  17:21 (606M)
【伊那8号】   上諏訪 14:14 → 美濃赤坂 21:37(608M)
      (豊橋~美濃赤坂 普通列車)


全列車165系ほか急行型電車、普通車自由席のみです。

【伊那】の一部は大垣・美濃赤坂発着、東海道本線内は普通列車として運転されるが、これは大垣電車区への回送も兼ねていると見ることができます。もう少し以前だと米原発着もあったようです。名古屋方面から飯田・駒ヶ根方面へは中央道高速バスを利用するのが一般的で、遠回りで遅い【伊那】を利用する人はほとんどいなかったでしょう。【伊那】は1983年夏のダイヤ改正で廃止。名古屋局の153・165系は変則的な編成が多かったようです。

【こまがね】は中央本線(中央東線)内【アルプス】と併結運転でした。これもやはり中央道高速バスとの競合には完敗で、国鉄最後の1986年ダイヤ改正にて【アルプス】ともども廃止。飯田線がJR東海、中央東線がJR東日本管轄に決まったことも、廃止の一つの理由でしょう。【こまがね】には松本(長モト)の165・169系が使用されていました。

【天竜】は長野県内各地を結ぶ優等列車ということもあって、国鉄時代末期に169系アコモ改造が行われるとともに、【かもしか】に名称を改めるなどのテコ入れが施されました。JR発足後もJR会社境界を跨いで運転されるが、1988年ダイヤ改正で快速【みすず】に格下げ。その後もしばらく、169系専用編成が使用され、料金不要となった分、乗り得列車でしたね(年月の経過とともに、115系→211系に変わる)。【天竜】の車両はなぜか長らく神領電車区(名シン)の所属だったが、中央西線の急行列車が整理される1982年以降、長野局(松本または長野)に移管されました。


国鉄時代末期~JR初期頃の山陰本線京都口(主に嵯峨野線)の写真を並べてみました。

JR発足から2年後(1989年)、保津峡区間が新線に切り替わり、その翌年京都-園部間が電化されました。電化前は気動車・客車列車が行き交うローカル線でした。

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早朝の京都駅に停車中のキハ47普通列車

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京都駅に並ぶキハ47たち

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キハ181系【あさしお】

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和知駅に停車中の12系客車列車京都行き

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キハ58系普通列車
キハ58系は急行【丹後】のほか、電化直前の頃は普通列車にも多く使用された

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(おまけ)京都駅での急行【丹後】と113系普通電車(園部行き)のツーショット
園部-綾部(福知山)間電化開業(1996年)に伴い、【あさしお】【丹後】は廃止



山陰本線西部を代表する優等列車、特急【いそかぜ】。

【いそかぜ】は、新大阪-博多間ロングラン(福知山線・山陰本線経由)の【まつかぜ】を系統分割し、1985年3月ダイヤ改正で誕生。当初、米子-博多間の運転だったが、それでも全長400kmを超えるかなりの長距離です。博多【まつかぜ】はキハ80系でグリーン車・食堂車連結だったのが、【いそかぜ】はキハ181系普通車のみの4両。

国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正では、3両編成に短縮されたほかは大きな変化はありません。

急行【さんべ】ともども、山陰本線末端区間の益田-(幡生)-下関間における、数少ない優等列車でした。

【いそかぜ】は、九州においてしばらく唯一の特急型気動車として希少価値を保っていました。さらに言えば、九州に踏み入れたことのある唯一のキハ181系でもあるんですね。

しかし、1993年ダイヤ改正で、【いそかぜ】の博多撤退を強いられ、米子-小倉間に短縮。JR九州にとって、【にちりん】グループのスピードアップの「足かせ」だったのかもしれません。

その後、1997年には【さんべ】廃止で、益田-下関間唯一の優等列車に。さらに2001年、米子-益田間高速化に合わせたダイヤ改正で、【いそかぜ】は益田-小倉間に大幅短縮されてしまいました。【スーパーおき】などへキハ187系投入とは対照的に、【いそかぜ】は高速化対象とはならず、キハ181系のままで残されることに。

益田以西の斜陽化はますます進み、2005年3月、ついに【いそかぜ】は廃止。この区間での優等列車は見る影もありません。

【いそかぜ】廃止後、播但線経由の【はまかぜ】が最後のキハ181系定期列車として注目度が高まりました。5年後の2010年、キハ189系に置き換えられ、キハ181系は全廃に。

* * * *

山陰本線鳥取・島根県内高速化でせっかくてこ入れされた快速【とっとりライナー】【アクアライナー】(キハ126系)も、2022年3月ダイヤ改正で大幅減便のようで、とても気になるニュースです。JR西日本の「ローカル線見直し」のもと、山陰本線西部の一部区間でも廃止の可能性すら浮上しており、先が思いやられるばかりです。


2022年3月ダイヤ改正で、磐越西線の快速列車【あがの】 (会津若松-新潟)が廃止される予定です。

【あがの】は、もともと磐越西線全線を直通する急行列車(気動車)。1982年東北・上越新幹線開業までは、仙台-新潟を東北本線・磐越西線経由で結んでいました。2往復の運転で、内1往復は仙台-会津若松間【いなわしろ】と併結(会津若松から只見線に直通)。他の新潟行き1本は東北本線福島-郡山間で【いわき】(磐越東線経由平行き)と併結されていました。他には上野から直通(東北本線経由)の【いいで】も1往復加わり、【いわき】とともに新潟まで足を伸ばしていました。

【いなわしろ】といえば、単行の急行列車として知られ、両運転台の一般型気動車キハ52やキハ23が充当されました。そのうちの1両、キハ52-128号は、同列車廃止後、遠く山陰へ流転、木次線を中心に活躍することに(理由はキハ53の事故廃車)。同車両はファンの要望に応えてか、ツートンカラーのままの姿でJR西日本所属となり、1999年の引退まで鳥取・米子地区で活躍を続けました。

1982年ダイヤ改正後、【いいで】【いなわしろ】は廃止、【あがの】は2往復残るものの、運転区間は福島-新潟間に短縮、グリーン車連結は廃止されました。

1985年ダイヤ改正では、快速に格下げと同時に、郡山・会津若松-新潟間に運転区間を短縮。その後、JR発足を挟み、体制は大きく変わることなく数年間推移します。しかし、1993年には【あがの】は会津若松で系統分割。【あがの】は会津若松-新潟間に短縮されると同時に、キハ58系からキハ110系に置き換えられました。

10年後の2003年には、【あがの】は1往復に。その後【あがの】の運用車両には、キハE120が運用に加わったり、新潟駅高架化完成に伴いキハ110系に再び統一されたり、そして2020年には新型GV-E400系へと変遷をたどります。

しかし、昨今の新型コロナ災禍に伴う利用客減少のあおりで、全国的な列車減便の流れになり、【あがの】も廃止されることに。【あがの】は福島・新潟県境区間(野沢-津川間)を廃止、前後はそれに近い時間帯で普通列車が設定されます。

磐越西線といえば、会津若松-喜多方間の電化運転停止でも話題になっていますね。電化設備等維持の経費削減が理由のようですが、電化から非電化に変わるのは全国的に珍しいと言えます。ただ、今後、非電化化が当たり前のようになるかもしれません。


国鉄時代の九州を走った気動車特急について書いてみました。

山陽新幹線博多開通前は、関西から山陽または山陰経由で九州各地を結ぶ気動車特急が多く運転されていました。 以下の列車がありました。

【かもめ】      京都・新大阪~長崎・佐世保(山陽本線経由)
【いそがぜ】→【日向】京都・新大阪~宮崎(山陽本線経由)
【なは】       京都・新大阪~西鹿児島(山陽本線・鹿児島本線経由)
【まつかぜ】     新大阪~博多(福知山線・山陰本線経由)
(向日町運転所 キハ80系)


これとは別に九州内の気動車特急も多く設定されていました。

【有明】       門司港~西鹿児島(鹿児島本線経由)
【にちりん】     博多~宮崎・西鹿児島(日豊本線経由)
【おおよど】     博多~宮崎(鹿児島本線・肥薩線・吉都線経由)
(鹿児島運転所 キハ80系)


特に関西発着の向日町区キハ80系特急は、最盛期には北は青森(日本海縦貫)から南は九州までの広範囲をカバーし、食堂車(キシ80)・グリーン車連結の長編成で、花形的存在でした。山陽・山陰経由とも共通の編成だったようです。

鹿児島区編成のほうも向日町に負けじと、キシが組み込まれていました。

ただ、九州内主要幹線の電化拡大、および山陽新幹線博多開通(1975年)に伴い、九州から特急型気動車が徐々に撤退。新幹線博多開業後、山陽本線経由の気動車特急は全廃、関西~九州系統は山陰経由の【まつかぜ】1往復を残すのみとなりました。

九州内列車も、【にちりん】の一部と【おおよど】を除いて電車化。日豊本線は宮崎以南非電化で残っていましたが、1979年に全線電化。

1980年10月ダイヤ改正で【おおよど】廃止、【にちりん】は全列車電車化され、鹿児島区からキハ80は引退しました(一部は名古屋区へ転属、【ひだ】【南紀】に転用)。

その後、山陰からの【まつかぜ】が九州唯一の気動車特急に。新幹線博多開通以来、気動車特急として営業距離トップの座を維持、グリーン車・食堂車連結という最盛期の姿を保つが、1985年3月ダイヤ改正で博多【まつかぜ】は廃止。代替として、【いそかぜ】(2代目)が米子-博多間に新設されると同時に、キハ181系4両普通車のみの身軽な姿に様変わり、ローカル色が濃厚になりました。

この改正で向日町区のキハ80系は全廃に。【まつかぜ】は大阪-米子間に2往復、キハ181系に統一されるが、運転区間短縮や食堂車廃止など末期感を強め、翌年1986年福知山線電化に伴い廃止。

キハ80系の定期運用は1986年ダイヤ改正以降、名古屋区の【ひだ】【南紀】のみとなり、JR東海に継承されました。

九州内ではJR発足当初、キハ181系【いそかぜ】(JR西日本米子区所属)が唯一の気動車特急として異彩を放っていました。その後、久大本線や豊肥本線に残る気動車急行も相次いで特急化され、JR四国から譲渡されたキハ185系などに置き換えられました。

【いそかぜ】は1993年小倉-博多間を【にちりん】に置き換える形で廃止、九州から事実上の追放という格好でした。


国鉄時代末期の加古川線と支線群の気動車について調べてみました。

加古川線(加古川-谷川)は兵庫県の播州平野東部を南北に縦断するローカル線。加古川駅で山陽本線、谷川で福知山線と接続。加古川線から三木線・北条線・鍛冶屋線・高砂線という支線が枝分かれし、沿線を流れる加古川と支流に合わせるかのような路線体系でした。地味なローカル線という印象ですが、「日本のへそ」とされる東経135度と北緯35度の交差地点付近を通っており、1985年「日本へそ公園」駅が開業しています。

国鉄末期より高砂線廃止(1984年)、三木線・北条線の第三セクター化(1985年)、そして鍛冶屋線も廃止(1990年)され、現在JRの路線として残っているのは加古川線のみです。鍛冶屋線との分岐駅・「野村」は、同線廃止に合わせ「西脇市」に改称。鍛冶屋線は加古川線南部区間(加古川-野村)と一体で直通運転が行われ、西脇市街地を通るため一部区間に限って輸送密度は比較的高かったのに、国鉄の第3次廃止対象線区に選定され、余儀なく廃止。加古川線は2004年全線電化されました。なお、三木線(→三木鉄道)は2008年廃止。

さて、国鉄時代の加古川線系統の気動車ですが、キハ35系やキハ20を筆頭に雑多な形式の車両が活躍し、賑やかでした。加古川気動車区(大カコ)が管轄していました。1984年当時、同区所属車両は、

キハ30(6)、キハ35(13)、キハ36(3)、キハ37(2)、キハ20(17)、キハ23(6)
 ※()は両数

という陣容でした。キハ37形は1983年製造の最新車両で、通勤型キハ35系の後継車両として位置づけられるが、千葉県の久留里線用と合わせて5両の少数派にとどまりました。普通列車のみの短距離かつ平坦路線ゆえ、急行型などの配置は無し(2エンジン車が配置されていなかったですね!)。

関西エリアで遅くまでキハ20が活躍していた路線として特筆に値します。鍛冶屋線廃止と同時に加古川線のワンマン運転開始に合わせ、キハ35系およびキハ20・23は撤退、ほぼキハ40系(キハ40・47)に統一されました。キハ40系の加古川線運用開始は1986年ごろだったようです(福知山線電化に伴う余剰車が転入)。

キハ37は1999年、山陰の米子に転属されるが、使い勝手が悪かったのか2009年に廃車されました。

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鍛冶屋駅跡に存置されるキハ30 69


かつて磐越東線には気動車急行【いわき】が走っていました。 【いわき】は水戸ー福島・仙台間を磐越東線で運転、福島-仙台間は普通列車として運転されました。東北本線内(郡山ー福島ー仙台)では【いなわしろ】【あがの】などと併結される多層立て列車でした。

さて、実は臨時で水戸から新潟直通の【いわき】が運転されたことがあります。郡山から磐越西線(会津若松・喜多方経由)を走り、浜通りから会津まで福島県を東西に横断する列車でした。磐越西線内では【いなわしろ】【あがの】と併結運転。1970~1975年の間だったようです。水戸(茨城県)と新潟は地理的に遠く離れていると思いきや、磐越東・西線経由で意外に近い関係で結ばれているんですね。

該当車両の所属区は水戸または新潟。新潟区の気動車急行(キハ58系)は上野・糸魚川・長野・名古屋・秋田・郡山・仙台そして水戸までの広範囲をカバーしていたことになり、改めて驚くばかりです。一方、水戸所属の気動車は新潟ー仙台を磐越東線で結ぶ【あがの】の運用にも入っていたそうで、これまたなかなか興味深い広域運用です。

磐越東線の急行列車は1982年11月15日ダイヤ改正で廃止されました。


関西と九州を結んだ特急【明星】。

【明星】は1968年10月1日ダイヤ改正で新大阪~熊本間に1往復新設(急行【ひのくに】を格上げ)。寝台電車581・583系が充当されました。 【明星】はのちにブルートレイン(客車)も登場するが、私個人的に581・583系のイメージが強いです。

【明星】は1975年3月山陽新幹線博多開業まで本数を徐々に増やしていきます。1975年3月ダイヤ改正では7往復に増強され、電車(581・583系)3往復、ブルートレイン(14系・24系客車)4往復という陣容で最盛期を迎えます。本数的には「L特急」並みと言えるが、夜行列車ばかりです。昼間の山陽本線優等列車はほぼ全廃の反面、寝台特急【明星】でこれだけの本数が設定されるとは驚きです。運行区間も新大阪ー博多・熊本・西鹿児島の3種類に、一部【あかつき】(長崎・佐世保行き)との併結や、筑豊本線経由も1往復設定されます。

しかし、【明星】の最盛期もわずか3年半でした。さっそく1978年10月ダイヤ改正では4往復に減便されました(電車2往復、客車2往復)。その後も減便が続き、1982年11月ダイヤ改正以降、24系客車1往復(新大阪ー西鹿児島)のみが細々と運行され、1984年には【あかつき】と併結運転を開始。そして国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正で【明星】は廃止されました。

同改正以降、臨時列車(20系客車)として運行されるが、1990年3月ダイヤ改正では20系客車の老朽化によるサービス低下を理由に急行【霧島】に格下げ。【霧島】は1995年ごろまで運行されました。20系客車はJR西日本宮原区の所属でした。



「オレンジ色」103系の国鉄時代とJR西日本の色調を比較してしました。

国鉄時代は淡い色合いだったようですが、JR西日本時代の「オレンジ色」はどぎつくなった印象を受けます。

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国鉄時代末期の片町線用

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2005年の大阪環状線



阪和線の快速電車8両運転を開始したのは、国鉄時代の1983年10月。

当時、阪和線の快速電車は6両編成で、原則的に113系(青帯、時に関西線用赤帯も)使用ですが、一部103系の運用もありました。

阪和線快速8両用には103系(日根野)が充当されました。 編成は、

クハ103-モハ103-モハ102-サハ103-サハ103-モハ103-モハ102-クハ103

の貫通4M4Tで、大阪環状線(森ノ宮)と同じ組成でした。

さて、ここで一つ気になったこと。それはサハ103の捻出元。阪和線(主に普通用)ではもともと6両編成(4M2T)が基本(羽衣線を除く)で、次の2パターンの組成が存在しました。

クハ103-モハ103-モハ102-モハ103-モハ102-クハ103
クモハ103-モハ102-サハ103-モハ103-モハ102-クハ103

103系の6両編成(4M2T)だと、上の両先頭車クハ・中間車モハが標準的ですが、京浜東北線から初期車転入の多い阪和線では、先頭車クモハ・中間車サハという変わった組成も相当数ありました。

8連化に伴って、一部は元からの阪和線用サハを編成替えで賄うも、それだけでは数が足りないため、京阪神緩行(東海道・山陽線すなわちJR京都線・神戸線普通)からの転属と考えるのが自然です。

ちょうど同時期、京阪神緩行に201系の投入が始まり、103系を置き換え中でした(所属は高槻・明石)。京阪神緩行は7両編成(4M3T)で揃えられ、各編成中にサハ103が1両組み込まれていました。

置き換え対象となった103系はサハを抜いた6両編成として、関西線(大和路線)普通と片町線(学研都市線)に転属、各線の非冷房車101系を置き換えました。関西線用の電車は、当時阪和線と同じ日根野区所属でした。関西線・阪和線系統で共通運用のある快速用113系(赤帯・青帯)とは異なり、関西線普通用101・103系(ウグイス色)は阪和線と完全な運用分離(王寺留置線や奈良運転所に常時滞泊)でした。ただし、京阪神緩行時代のスカイブルー(=阪和線と同じカラー)のままの編成も関西線で運用されたりしていて、同じ日根野区の阪和線用と紛らわしかったようです。

7→6両化で余剰となったサハは、阪和線快速の8両化に転用され、うまい具合に融通できたことになります。もちろん日根野に転属。

その後、国鉄末期の1986年までに片町線7両化が順次実施されるが、もともと関西エリアではサハ103の使用路線が限定的(京阪神緩行、大阪環状線、阪和線のみ)だったため、サハのやりくりに苦労したようです(実際、101系サハからの改造サハ103-750番台が登場)。京阪神緩行からの転用の時点で片町線7両運転を開始していれば、編成丸ごと淀川区に転属したことでしょう。その代わり、阪和線8両化で別の苦労があったのかもしれません。


かつて東京-御殿場間に東海道本線・御殿場線経由運転されていた急行【ごてんば】。

東京都心と富士山麓の御殿場を直通する国鉄の優等列車でした。東京都内と御殿場線を結ぶ列車には、新宿発着の小田急のロマンスカー・特急【あさぎり】が 松田駅から国鉄御殿場線に乗り入れる形で運行されており、小田急のほうが利用客が多く優勢でした。

急行【ごてんば】(1968~1985)は、153・165・167系直流型電車で運用。東海道本線内では【東海】と併結運転され、国府津駅で分割併合。しかし、小田急のロマンスカーとは勝負にならなかったようで、運転本数は徐々に減らされ、1985年3月ダイヤ改正で廃止。

廃止直前の頃、東海道本線区間の【東海】+【ごてんば】は合わせて16両編成で、在来線旅客列車としては最長の編成でした。【ごてんば】には東京南局・田町電車区の167系4両編成(普通車のみ)が使用されました。

1985年3月ダイヤ改正といえば、南海難波駅~紀勢本線直通の急行【きのくに】が廃止されましたが、御殿場線関係では国鉄完結の列車が廃止され、私鉄(小田急)直通の列車が残るという、南海【きのくに】の逆パターンという意味で興味深いです。

その後、御殿場線はJR発足時に全線JR東海管轄となり、東京~御殿場線直通列車(東海道本線経由)も全廃されました。御殿場線は関東地方(神奈川県)の在来線では唯一のJR東海区間です。もちろん東京近郊区間には入っていません。


キハ58形のモデルチェンジ車・暖地用1100番台。そのトップである1101号の生い立ちはユニークでした。

キハ58-1101号は1968年5月新潟鐵工所にて産声を上げ、新潟に新製仮配置されました。 さっそく7月には房総海水浴輸送用に館山に転属するが、8月末には和歌山に正式配置。その後、長きにわたって紀勢本線の急行【きのくに】【紀州】【はまゆう】で活躍を続けます(間合いで和歌山線などのローカル運用もあり)。

1985年3月ダイヤ改正で紀勢本線の急行廃止に伴い、同僚仲間の1102・1103・1104号と挙って、亀山に転属。関西本線(亀山-奈良)・信楽線・片町線(木津-長尾)・紀勢本線(亀山-新宮)・参宮線・名松線のローカル列車を中心に、辛うじて生き残った急行【かすが】【志摩】の花形運用もこなしました。東は名古屋、西は奈良・長尾、北は草津~京都、南は新宮まで、三重県を中心に紀伊半島東部エリアを走り回ります(愛知・三重・滋賀・京都・奈良・大阪・和歌山の2府4県をカバー、大阪府枚方市の長尾駅まで来ていたとは改めて驚愕)。

しかしこの運用体制もわずか1年半のこと。国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正では、1102・1103は亀山に残ってJR西日本、1101は伊勢、1104は名古屋に転じてJR東海に継承されることになり、生き別れに。1101号の経歴は、ここからが面白い展開を見せます。

伊勢に転属した1101号は、しばらく紀勢本線(亀山-新宮)・参宮線・名松線のローカル運用をこなすが、1991年3月に転機が訪れます。

前年1990年より運行開始の快速【みえ】(名古屋-松阪・伊勢市・鳥羽ほか)増発・高速化に合わせ、当車キハ58-1101号は【みえ】用に追加抜擢され、名古屋に転属。合わせてカミンズエンジンへの換装、リクライニングシート化などの改造が施され、5101号に改番。(元)キハ58-1100番台としては、唯一の「みえ」カラー=JR東海カラーでもあり、【きのくに】以来の本格的な花形運用に返り咲くことになります。【みえ】は近鉄特急と完全に競合するため、料金不要の快速列車でありながら、指定席が設けられ、スピードやダイヤその他サービス面で、国鉄時代の急行列車を凌駕するものと言えるでしょう。

その後、【みえ】は新型車両キハ75系に置き換えられるが、キハ58-5101号は臨時増発用の予備車として重宝され、2001年まで現役でした。

JR東海に在籍したキハ58系モデルチェンジ車は、以下の通りです。

(キハ28)3001
(キハ58)1101(→5101)、1104、1107、1108


キハ28-3000番台(元1000番台)はトップ3001号の1両だけというのも、何かの由縁でしょうか?

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