カテゴリ:国鉄・JRグループ > 国鉄時代懐古


函館本線山線(小樽経由)を代表する優等列車の一つだった急行【ニセコ】。

函館本線(函館-旭川)は北海道最古の鉄道路線であり、かつては本州や函館と札幌および道内各地を連絡する主幹路線としての役割を果たしていたが、太平洋沿岸の室蘭本線開通後、複線区間が長くて線形の良い室蘭本線(室蘭、苫小牧、千歳経由)に幹線機能をシフト。「山線」と呼ばれる函館本線の長万部-小樽間を走る優等列車は徐々に減り、国鉄末期1986年11月ダイヤ改正では全廃され、完全なローカル線となりました(小樽-札幌間は札幌近郊区間の複線電化だが、優等列車は設定されていない)。以降、この区間を通る優等列車はニセコ方面への観光向け臨時列車、あるいは有珠山噴火で室蘭本線が不通となった際の迂回として設定されるぐらいです。

さて、急行【ニセコ】ですが、この列車の歴史は珍しい経緯をたどっています。

というのも、末期には気動車(キハ56系)を全廃して客車だけになるという、他の急行・特急列車群とは逆のパターンだからです。気動車の【ニセコ】があった時代は、はるばる根室から根室本線(滝川経由)と函館本線経由で函館まで走破するロングラン列車も存在しました。また、函館-稚内間を走破するロングラン急行【宗谷】(気動車)も山線経由で運行されていました。1980年10月1日ダイヤ改正で、千歳空港(現・南千歳)駅開業に伴い、北海道の列車体系は、本州連絡を意識した函館基準から、航空機と連携して千歳空港・札幌中心に刷新、函館本線山線を経由する優等列車にもメスが入ります。【ニセコ】の気動車列車は廃止、客車のみとなります。客車急行といえば夜行が中心というイメージがあるが、北海道においては、【ニセコ】【天北】のように老朽化するキハ56系を客車に置き換えた例が存在します。

【ニセコ】は1981年2月より、特急用14系客車が充当され、急行列車としては破格の、「乗り得」列車になりました。キハ56系はおろか、キハ80系特急型気動車よりも快適だったようですね。その14系客車は、1980年10月改正で廃止された関西~九州連絡の山陽筋急行列車からの捻出だったみたいです。北海道向けに改造が行われ、特に客用扉は折り戸から引き戸に変更されるなど、本州用とは印象がかなり変わりました。

ちなみに、山線経由の特急には【北海】があり、1981年には急行列車の格上げで、2往復に増強され、新型キハ183系も充当されました。しかし、1986年11月ダイヤ改正までに山線経由の優等列車は全廃。このほか、函館本線には北海道で最後まで旧型客車が残り、函館-札幌間の夜行普通列車などで活躍してきたが、やはり1986年11月ダイヤ改正で廃止。


100131-01

国鉄末期の京都駅に停車中の奈良行き105系です。
昨日、桜井・和歌山線の営業運用から引退したばかりです。

本日、1984年10月1日奈良線電化から、ちょうど35周年を迎えました。

電化当初、奈良線は普通列車オンリーで、105系の2両編成を主体に、時折113系春日色(元祖・大和路快速色)4連が加わるという格好で、桜井線・和歌山線ともども典型的な電化ローカル線でした。一方、桜井線などと共通運用を組むことから、桜井線桜井・高田方面への直通列車も設定。しかし、奈良線は京都近郊区間ゆえ、利用客は漸増、105系の2両では輸送力不足となることから(ラッシュ時間帯には最大6両編成の運用もあったが)、10年後の1994年には103系に置き換えられ、奈良線の運用から撤退。113系春日色も奈良地区からの撤退は早く、1995年までに消滅しました。この間、奈良線に快速が新設され、当初は117系が充当されるが、2001年の部分複線化に合わせた増発を機に、221系に置き換えられ、現在に至ります。数年後の複線区間拡張完成時には、奈良線もまた大きく変わりそうですね。



1980年(昭和55年)の近畿圏の国鉄に関するニュースを挙げてみました。

○東海道・山陽本線新快速に117系<シティライナー>投入、7月までに153系を置き換え完了

○東海道・山陽本線快速電車113系のグリーン車(サロ) 連結を10月ダイヤ改正までに廃止

○草津線・桜井線・和歌山線(王寺-五条)電化、113系の新造または転属(関西線快速用に春日色2000番台6連×3本新造、湖西線・草津線用2700番台新造、非冷房車4連口春日色を桜井・和歌山線に)(3月3日)

○関西~九州間(夜行)急行列車全廃(10月ダイヤ改正)

○東海道本線の名阪急行【比叡】を1往復に削減、所属も宮原→大垣に変更(10月ダイヤ改正)

○夜行1往復だけ残存の電車急行【鷲羽】(新大阪-宇野)廃止(10月ダイヤ改正)

○紀勢本線(亀山機関区)からDF50が引退(3月1日)

○急行【くまの】<京都-紀伊勝浦>(草津線経由)廃止、【しらはま2・3号】<京都-白浜>(奈良・桜井・和歌山線経由)を【紀ノ川】<京都-和歌山>に短縮、【しらはま1号】<新宮→名古屋>(和歌山・高田・奈良経由)を【かすが8号】<奈良→名古屋>に短縮(10月ダイヤ改正)

○特急【くろしお】(381系)を9往復から12往復に増強(10月ダイヤ改正)

○阪和線に103系高運転台車を6連×3本投入

○急行【美保】<福知山-出雲市>を<鳥取-出雲市>に短縮(10月ダイヤ改正)


かつての鹿児島本線の名門列車、特急【有明】。

特急【有明】は1967年に登場。1970年鹿児島本線全線電化後は485系で運転されるようになり、山陽新幹線博多開通(1975年)以降、新幹線との連絡を考慮したダイヤで大増発が行われ、鹿児島本線を代表する優等列車として定着しました。1982年11月までに鹿児島本線の電車急行を【有明】に格上げし、最盛期には1日30往復を超える大世帯となりました。JR九州発足から1年後、783系(ハイパーサルーン)が投入され、早速JR九州の看板列車としててこ入れが行われます。

1992年7月ダイヤ改正で大きな転機が訪れます。【有明】のうち西鹿児島(現・鹿児島中央)発着列車を【つばめ】、熊本以北のみの列車を【有明】として系統分離が行われました。【つばめ】と一部の【有明】には787系が投入され、ビュッフェも連結するなど、九州新幹線全線開通までの花形列車として君臨。1994年ごろまでには、485系が【有明】から撤退し、【にちりん】【みどり】などに転用。

2011年九州新幹線全線開通後、【つばめ】は廃止、【有明】も大幅に減便。以降、ダイヤ改正ごとに【有明】は減便が続きます。2018年3月以降、平日片道1本のみ、運転区間も大牟田→博多のみの短距離となり、通勤特急の様相が濃厚に。かつての名門ロングラン特急が、ここまで凋落するとは信じられません。

なお、【有明】は国鉄末期~JR初期の頃、485系の3両編成という「ミニ特急」もありました。


東北新幹線開通前の東北本線優等列車について一つレポートしたいと思います。

急行【くりこま】。

【くりこま】は東北本線北半分の仙台-青森間を走破する電車急行。運用車両は交直流急行型電車455・457系。「くりこま」の由来は、宮城・秋田・岩手3県境にまたがる栗駒山(標高1626m)。東北新幹線盛岡開通前(1982年)のダイヤでは、【くりこま】は3往復の運転でした。 交直流急行型電車も東北地方北部ではどちらかといえば数は限られ、電化区間も含めて急行列車は気動車(キハ58系)のほうが圧倒的だったようです。盛岡まで到達していた電車急行(455・457系使用)は、【くりこま】3往復のほか、【いわて】(上野-盛岡、2往復)、【もりおか】(上野-盛岡、常磐線経由、2往復)のみで、盛岡以北は【くりこま】だけでした。

実を言うと、私個人的に青森での455・457系電車は想像しづらいです。同じ交流電化の羽越本線や奥羽本線米沢以北では、急行列車は気動車または客車の独壇場で、かのロングランの日本海縦貫【しらゆき】(金沢-青森間)も気動車でした。【しらゆき】は455系電車での運用が可能だったのではとの見方もあるが、北陸本線は交流60Hz、羽越・奥羽本線は50Hz、その中間の信越本線などは直流電化と、3つの異なる電気方式を跨ぐことになるため、充当できる急行型電車がなかったことも一つの理由だとされています(もっとも、非電化支線区直通の【白馬】【千秋】などと併結できるメリットもあるが)。


伯備線の優等列車といえば、381系の特急【やくも】でしょう。

伯備線は岡山・倉敷-米子を結ぶ陰陽連絡線の中核を担っており、 特急【やくも】のほか、東京直通の寝台特急電車【サンライズ出雲】や貨物列車も行き来する主要幹線となっています。

伯備線の【やくも】が設定されたのは、1972年・山陽新幹線岡山開業の時でした。当時、伯備線は非電化だったため、キハ181系で運用されていました。【やくも】は、気動車時代から他の山陰特急とは「別格」の扱いだったようで、新幹線連絡という重要な役割を持っていたこともあって、L特急並みの本数が設定され、気動車では珍しいL特急でした。運行区間は大半の便は岡山~出雲市間でさほどの長距離ではないものの、食堂車は連結。また、1往復だけ岡山-益田間直通もありました。以降、伯備線は、山陽地区ばかりか、首都圏や関西圏と山陰を結ぶ幹線ルートとして重要視されるようになり、従来の山陰本線や福知山線経由の列車に取って代わることになります。10年後の1982年、伯備線は電化され、【やくも】は381系に置き換えられ、運転区間も岡山-出雲市間に統一。

伯備線の優等列車は、非電化時代から既に特急【やくも】が主体的だったが、【やくも】を補完する急行列車【伯耆】も2往復だけ設定されていました。山陽新幹線開業以前は、宇野から伯備線・山陰本線・山口線を大回りする急行とか、芸備線の急行【たいしゃく】が新見から岡山へ直通するというのもあったようですが。【伯耆】はもちろん気動車(キハ58系)で、確か岡山機関区所属でした。地味な存在ながら、グリーン車(キロ28)も連結されるが、全車自由席であまり華やかさはなかったようです。【伯耆】は1982年の電化で廃止、【やくも】に一本化されます。

【伯耆】は、他の岡山発着気動車急行【砂丘】と運用は独立だったように思います(【砂丘】にはキハ65形が必ず組み込まれたはずなので)。同じく岡山機関区が受け持っていた姫新線の【みまさか】とは共通運用があったのでしょうか?


阪和線に「新快速」電車が運転されていた時代がありました。

国鉄時代の1972~1978年のわずか6年間のみでしたが、阪和線天王寺-和歌山間に料金不要の最速達列車・「新快速」が設定されました。運転開始は京阪神(東海道・山陽本線ほか)の新快速運転開始と同じ1972年3月15日ダイヤ改正。京阪神の新快速には153系の青帯(ブルーライナー)が用意され、阪和線の新快速には京阪神の新快速と同じ塗装を配した113系が充てられました。その113系は東海道山陽本線(大鉄局)からの転属で、冷房付きでした。旧型国電の巣窟だった阪和線においては貴重な冷房車でした(転属前当時、大鉄局管内においても貴重な冷房車だったので、阪和線への転出には抵抗があったとか)。阪和線の新快速運転開始は、ブルーライナー113系40年間の歴史の始まりでもありました。

阪和線の新快速は、途中の停車駅は鳳のみ。所要時間は45~51分でした。これは前身の阪和電気鉄道の超特急以来のものだったと言われます。ダイヤは日中の9時台~15時台に60分間隔の運行でした。

京阪神の新快速は順調に利用客を増やして今日まで成長を遂げたのに対し、阪和線の新快速は京阪神間に比べて直通需要が少なく、停車駅が少ないこともあって利用状況は伸び悩んだようです。1977年に和泉砂川と熊取を停車駅に加えましたが、利用状況は改善されることなく、1978年10月紀勢本線電化開業のダイヤ改正で快速に統合される形で廃止となりました。

以降、阪和線に新快速が運転されることはありませんでした。ただ、その後も113系そして103系の方向幕には、なぜか「新快速」が入っていたりし(JR西日本書式の幕に取り替えられた後も)、将来の新快速復活を視野に入れたものなのかと思わせます。

新快速ではないが、JR時代に「関空特快ウィング」という最速達列車が設定されたことはあります。運用車両は223系0番台、指定席も設定されるが、やはり利用状況は芳しくなく、関空快速・紀州路快速に統合される形で短命に終わりました。

現在、阪和線の料金不要の最速達列車と言えるものに、関空快速・紀州路快速、そして「快速」の3種類があります(運用車両は223・225系)。紀州路快速は、日根野-和歌山間各駅停車化されたことに加え、日根野以北では関空快速と連結が行われるため、阪和間の所要時間は延び、国鉄時代の快速電車よりも遅くなっており、サービスダウンと言えます。


国鉄時代の天王寺鉄道管理局などにおける気動車については、本ブログで度々レポートを投稿してきました。この度、大阪鉄道管理局管内向日町・宮原所属のキハ58系急行型気動車について書いてみることにしました。

大阪鉄道管理局管内で気動車が配置されていた車両基地に、

向日町(大ムコ)、宮原(大ミハ)、加古川(大カコ)、姫路(大ヒメ)

が挙げられます。加古川・姫路は、支線の加古川線や播但線・姫新線ローカル用の一般型気動車専門なのに対し、全国的広域運用の拠点である向日町・宮原には特急・急行型気動車が大量に配置されていました。また、向日町には山陰本線京都口ローカル用の気動車(キハ10・20系→キハ47形)も所属。

当記事では、向日町と宮原に所属していた国鉄末期のキハ58系についてレポートしたいと思います。

1984年現在、向日町・宮原に所属していた気動車の陣容は、

(向日町)
キハ181系:キロ180(7)、キハ181(13)、キハ180(28)
キハ80系 :キロ80(4)、キハ82(8)、キハ80(9)、キシ80(4)
キハ58系:キロ28(3)、キハ65(5)、キハ58(10)、キハ28(7)
キハ40系:キハ47(19)

(宮原)
キハ58系:キロ28(4)、キハ58(12)、キハ28(6)

(出典:鉄道ジャーナルNo.210 1984年8月号)

向日町運転所には、主に優等列車用の電車(485系・583系)から気動車・客車まで、多士済々な車両が揃っていました。一方、宮原機関区は電車区・客貨車区と併設であり、電車の顔ぶれは急行型165・167系(団体・波動用)、117系(新快速)、113系(東海道山陽ほか快速)、103系黄色(福知山線普通)なのに対して、気動車はキハ58系急行型気動車のみでした。

向日町の特急型気動車は日本海側の山陰本線・福知山線・播但線方面向けなのに対し、急行型気動車は京都発着・南近畿(主に天王寺鉄道管理局管内)の【紀ノ川】【志摩】のみを担当していたのが興味深いです。【紀ノ川】は奈良・桜井・和歌山線経由で京都・和歌山間を結び、【志摩】は草津線経由で参宮線の鳥羽まで足を伸ばしていました。【紀ノ川】【志摩】は共通編成で、キロ28に加えキハ65×2を組み込む贅沢な5両編成でした。高出力のキハ65が2両も組まれた理由として、関西本線の加太越えや和歌山線北宇智のスイッチバックに対応するためだったと言われています。【紀ノ川】【志摩】編成は、朝の奈良線や山陰本線京都口の普通列車にも運用されていました。【紀ノ川】は1984年10月奈良・和歌山線電化で廃止。【志摩】は1985年3月改正で2往復体制になるが(内1往復は【平安】の建て替え分、亀山機関区担当)グリーン車無しとなり、1986年10月、国鉄最後のダイヤ改正で廃止されました。

宮原のキハ58系は、【丹波1・8号】<大阪-天橋立>、【みささ1・4号】<大阪-鳥取>(姫新線・因美線経由)、【みまさか1・6号】<大阪-中国勝山>(姫新線経由)、【たかやま】<大阪-飛騨古川>を担当。【丹波1・8号】は舞鶴線・宮津線経由であり、福知山・西舞鶴で2度スイッチバックでした。【丹波】編成は【たかやま】と共通でした。宮原の気動車は1986年国鉄最後のダイヤ改正で向日町に統合。JR発足後も残った【みささ】【みまさか】【たかやま】は向日町の担当になりました。【みささ】【みまさか】はJR発足当初、ローカル急行では数少なくなったグリーン車連結だったが、2年後に廃止。【たかやま】は1999年、JR東海キハ85系の特急【ワイドビューひだ】に代わり、俗にいう「大阪ひだ」として、現在も運行中です。

【丹波】は、1986年福知山線全線電化で廃止されるが、2年後の宮福線(京都丹後鉄道)開通に合わせ、福知山線・宮福線経由で大阪-天橋立間を結ぶ【みやづ】がキハ58系で登場(向日町区担当、福知山-天橋立間快速)、かつての【丹波1・8号】を彷彿とさせるものでした。臨時列車でありながら毎日運転、普通車2両のみの身軽な姿でした。電車特急<北近畿>(485系→183系)に比べて足が遅く接客設備の古くて遜色がありすぎる【みやづ】に乗る人はほとんどなく、空気輸送だったようです(【みやづ】は1996年廃止)。


上越新幹線開業が目玉の国鉄1982年11月15日ダイヤ改正。

このダイヤ改正では、東北・上越線系統の話題が目立ちそうですが、北陸本線においても電車特急は大増発、代わりに急行列車は激減するなど、かなり大きな変更がありました。

ダイヤ改正前の北陸本線の急行列車(金沢発着の七尾線直通【能登路】を除く)は下記の通り:

【きたぐに】(12系客車+寝台)  大阪-青森(米原経由)   1往復
【越前】(旧型客車)       福井-上野(長野経由)   1往復
【能登】(10系客車ほか)     金沢ー上野(上越線経由)  1往復
【立山】(475系)        大阪-富山・糸魚川・宇奈月温泉
                      (湖西線経由)  3往復
【ゆのくに】(475系)       大阪-金沢(米原経由)   1往復
【くずりゅう】(475系)     米原-福井・金沢        5.5往復
【しらゆき】【白馬】(キハ58系) 金沢-青森・松本      1往復
【大社】(キハ58系)       名古屋-出雲市、福井-天橋立 1往復
【わかさ】(キハ58系)      東舞鶴-福井        1往復
【のりくら】(キハ58系ほか)   金沢-名古屋(高山本線経由) 2往復

関西-北陸間を結ぶ優等列車は既に湖西線経由がメインルートに移行したが、急行列車については米原経由がかなり残っていました。米原発着の【くずりゅう】はL特急並のまとまった本数だけありました(ただし普通車のみのモノクラス編成)。【大社】は中京圏・北陸と山陰を小浜線経由で結ぶ使命を担っていたが、さすがに全区間直通需要は少なかったようですね。【わかさ】は福井県若狭地方の小浜線内ローカル急行ですが、若狭地方から県都・福井市への通勤・用務需要、及び福井発着【大社】(→【はしだて】)送り込みも兼ね、本線(敦賀-福井間)に直通する便もありました(※1)。【しらゆき】【白馬】は金沢-糸魚川間連結、【しらゆき】ははるばる青森までロングラン、【白馬】は大糸線経由で松本まで直通していました。

82年11月15日ダイヤ改正では、475系ほか交直両用電車使用の急行は【くずりゅう】1往復を残して全廃、ロングラン気動車急行【しらゆき】【大社】廃止、【きたぐに】は大阪-新潟間に短縮されるなど、急行列車は壊滅状態にまでリストラ。改正後の北陸本線急行列車は、

【きたぐに】(12系客車+寝台)   大阪-新潟(米原経由)   1往復
【能登】
【くずりゅう】(475系)      米原-福井        1往復
【はしだて】(キハ58系)      天橋立-福井       1往復
【わかさ】(キハ58系)       東舞鶴-福井       1往復
【のりくら】(キハ58系ほか)   金沢-名古屋(高山本線経由) 2往復

北陸本線をメインに走行する昼間の急行列車はほぼ全滅(夜行の【きたぐに】【能登】が残る)、支線区へ直通する気動車急行のみが細々と残りました。交直流急行型電車の京都・大阪乗り入れもなくなり、【くずりゅう】1往復を除いて北陸本線内ローカルに転用。【しらゆき】は金沢-青森間の電車特急【白鳥】に格上げ。【大社】の名古屋-出雲市編成は廃止(※2)、福井-天橋立編成を【はしだて】に改称した形で残存。

(※1)北陸本線とは直接関係ないことだが、【わかさ】のうち、下り敦賀発の1本は、西舞鶴で宮津線からの【丹後】と併結し山陰本線京都まで直通

(※2)名古屋【大社】は1982年7月伯備線電化開業以降、天橋立発着に短縮



和歌山線全線電化開業(1984年10月)前の頃の気動車運用についての興味。

1980年3月の王寺-五条間電化完成の時、非電化で残った五条-和歌山間の普通列車は、基本的に和歌山機関区(天ワカ)のキハ35系(キハ35・36)を使用。紀勢本線末端区間の和歌山-和歌山市間(紀和線)と共通使用でした。電化前は奈良気動車区のキハ35系を中心に、キハ45なども使われていたが、奈良からキハ35系の一部が和歌山に転属する形となりました。和歌山機関区はもともと紀勢本線優等列車用の気動車を管轄。同区には、急行<きのくに>などに使用されるキハ58系(キハ58・28・65、キロ28)などが配置されていたが、 1980年3月以降、キハ35系が加わりました(その代わり、キハ58系の一部は奈良へ転属、急行<かすが><紀州>を担当)。ちなみに1973年9月関西本線湊町電化前は、和歌山にキハ45その他の一般型気動車も配置、紀勢本線和歌山口普通列車と和歌山線、そして王寺から関西本線に乗り入れ天王寺まで足を伸ばしていたが、電化後、一般型気動車は奈良区の一括管轄に(→関西本線電化で余剰となったキハ35系が紀勢本線和歌山市-新宮間に進出! 1978年10月和歌山ー新宮間は電化)。

五条電化後の和歌山線五条-和歌山間普通列車は、全線直通の客車列車1往復(旧型客車→50系)を除いて和歌山機関区の気動車でした。ロングシートのキハ35系が主体だったが、時折キハ58系との混結もあったようです。早朝・深夜には<きのくに>編成の間合い運用もあったようで、今年3月まで活躍していた117系電車に通じるものがあります。なお、和歌山線にキハ40系が運用されたことはありません。

急行列車は1980年10月改正以降、京都-和歌山間(奈良・桜井線経由)の<紀ノ川>が1往復。もとは紀勢本線白浜に直通する<しらはま>だったが、運転区間を短縮し<紀ノ川>に改称。<紀ノ川>は向日町運転所(大ムコ)のキハ58系使用で、キハ65形およびキロ28を組み込んだ贅沢な5両編成でした。

1984年10月の全線電化開業後(奈良線も同時に電化)、和歌山のキハ35系は亀山などへ転属。紀和線も同時に電化されました。和歌山線の客車列車および<紀ノ川>も廃止。電化後、和歌山線は普通列車オンリーとなり、113系赤帯と105系(103系1000番台からの改造)に代わりました。113系は和歌山線から姿を消して久しく、105系も今年秋までに227系1000番台に置き換えられる予定です。和歌山線電化後も残った急行<きのくに>用のキハ58系は、翌年3月に485系の<くろしお>に置き換えられ(合わせて南海から紀和線経由の南紀直通列車も廃止)、全廃。これにより、和歌山周辺から気動車が消滅しました。


かつて国鉄時代、北陸本線敦賀近辺もなかなかの気動車王国でした。

北陸本線は既に電化され、485系の特急列車などが賑やかに行き交う中、普通列車は客車または気動車が多かったです。というのも、大半が交流電化であり、高価な交直流両用の近郊型電車を北陸本線に導入する余裕がなかったことが理由のようです(国鉄時代末期になって急行列車の廃止で余剰となった457・475系電車がローカルに転用、客車列車は全廃)。また、京阪神に最も近い米原-敦賀間においては、交直流セクションにあたるため、 東海道・山陽本線からの直流電車(113・117系ほか)を直通させることが不可能で、米原口の短距離区間普通列車を中心に気動車が運用されていました。同様に、京阪神と北陸を短絡する湖西線(1974年開通)も、永原-近江塩津間に交直流セクションが設置されていたため、113系は終点・近江塩津の一つ手前の永原までしか運用できず、近江今津以北には敦賀直通の気動車列車が設定されていました。

敦賀近辺の気動車は、敦賀機関区(金ツル)が運用管轄していました。敦賀の気動車は、国鉄末期は

キハ58・28、キハ40・48、キハ20

が配置されていました。キハ40・48が投入される前は、キハ26が配置されていたようです。敦賀には西日本では数少ない寒冷地用のキハ48形が5両(0番台3両、1000番台2両)だけ配置されたことが特徴的で、0番台・1000番台自体少数派で、JR西日本に継承されました。キハ40形は暖地用の2000番台です。


敦賀区の気動車は、主に小浜線(敦賀-東舞鶴)向けであり、小浜線の急行列車<わかさ><はしだて>、そして山陰本線京都口<丹後>の小浜線直通付属編成(小浜線内普通列車)などにも充当され、山陰本線京都~福知山、宮津線天橋立まで足を伸ばしていました。<はしだて>は、1982年11月改正前は<大社>であり、福井-天橋立間(1978年以前は金沢-米子間だった)の運転で、同じ<大社>のロングラン名古屋~出雲市間編成(名古屋編成は美濃太田所属)に併結運転が行われていました。名古屋編成はキロ28連結なのに対して、福井編成は普通車のみの身軽な3両でした。敦賀所属のキハ58・28は、福知山局(福知山・豊岡区)のほか、名古屋局(美濃太田区)の気動車とも併結運転が行われていたわけです。<はしだて>の送り込みも兼ねて、朝の上り・夕方の下り<わかさ>は、県都・福井まで直通運転が行われていました。

小浜線も1984年2月改正まで客車列車が設定されていたが、全列車気動車化されました。また、小浜線・舞鶴線の普通列車として、福知山までキハ40・48やキハ20が乗り入れ、キハ47王国・福知山鉄道管理局管内では異彩を放っていました(キハ20は1982年頃まで福知山管内に在籍していたが)。逆に小浜線には福知山区のキハ47も乗り入れていたが、本数は少なく、小浜線でのキハ47はあまり馴染みがありません。

北陸本線米原口・湖西線北部末端区間のローカルには、主にキハ40・48が使用されていたが、時折キハ58・28も連結され、また米原から1区間だけ東海道本線に乗り入れ彦根まで足を伸ばしていました。

このほか、国鉄時代は越美北線の気動車も敦賀機関区が管轄していたようで、キハ23・52が使用されていました。

JR発足以降、普通列車用の気動車は新・敦賀色に塗り替えられました(急行列車の運用に入る一部のキハ58系は急行色のまま)。1991年9月、北陸本線米原-長浜間の直流化工事完成、京阪神から長浜まで新快速電車が直通運転を開始しました。これに伴い、北陸本線・湖西線での気動車普通列車は廃止、湖西線北部の普通電車にも413・419・457・475系電車が使用されるようになりました。加えて、小浜線ワンマン運転も始まり、キハ58・28がワンマン仕様に改造を受けました。キハ48ははるばる山陰本線下関口へ飛ばされます。キハ48形はその後、岡山のぼったくり急行<つやま>で有名になったり、その着せられた汚名を返上すべく、最近では七尾線の観光特急<花嫁のれん>用に大改造を受けたものもあります。キハ40系が敦賀からいなくなった代わりに、キハ53が転入。キハ53もワンマン改造を受け、2003年の電化までキハ58・28ともども小浜線のローカル運用をこなしました。また、キハ53は、なぜか急行<はしだて>格下げの天橋立快速にも使用され、宮津線(北近畿タンゴ鉄道→京都丹後鉄道)では違和感のある存在でした。



久しぶりに国鉄時代ネタを書いてみようと思いました。

山陰と九州を結んだ急行列車<さんべ>。

<さんべ>は、山陰本線西部を代表する優等列車の一つであり、JR発足後10周年まで、数少ないロングラン気動車急行として細々と残っていました。最盛期には気動車2往復に加え、夜行便(客車)という体制でした。気動車については、分割併合がフレキシブルという性能を生かし、途中の長門市-下関間において美祢線経由と山陰本線経由に分かれるものもあって、いわば「再婚列車」として有名でした。さらに、鳥取-熊本間という超ロングラン列車もあり、山陰本線西部区間において長距離特急<まつかぜ>(新大阪-博多)とともに花形的存在でした。鹿児島本線博多以南においては、主役のL特急<有明>(485系)とともに、脇役の急行<ぎんなん>(主に457・475系)、豊肥本線直通の<火の山>、肥薩線直通の<えびの>、そして山陰から直通の<さんべ>(いずれも気動車)ほか、百花繚乱の急行列車が行き交っていました。

熊本<さんべ>の気動車は米子機関区(米ヨナ)所属、間合いで三角線のローカル運用にも入っていたそうです。もちろんキロ28を連結。鳥取・米子界隈では、大阪<だいせん>、名古屋<大社>ともども、長距離気動車急行として肩を並べていたことになります。

<さんべ>の熊本直通は1980年10月ダイヤ改正で博多発着に短縮。以降、九州内(小倉-博多間)では快速列車に格下げとなります。1985年3月改正では、<さんべ>は夜行廃止で1往復のみとなることに加え、小倉発着に短縮、グリーン車連結は廃止となり、ローカル急行に転落。同時に、特急<まつかぜ>も米子以西打ち切りとなって、<いそかぜ>に系統分割。山陰本線長門市以西の優等列車は、<いそかぜ><さんべ>各1往復のみとなりました。現在、益田以西の優等列車はありません。


koumi-kiha5202

komoro-kiha5801


信州のローカル線・JR東日本小海線で活躍した国鉄型気動車についてレポートを書いてみようと思いました。

小海線は山梨県の中央本線小淵沢駅と長野県の信越本線(しなの鉄道)小諸を結ぶローカル線。八ヶ岳東麓の野辺山高原から千曲川上流に沿って佐久盆地に下ります。野辺山駅はJR線最高の駅(標高1345m)として知られます。

日本最高峰の高原地帯を通る路線ゆえ、国鉄時代は2エンジン車のキハ52・55・57・58形(中込機関区→小海線営業所、長コメ)が使用されていました。キハ57形は信越本線横軽(碓氷峠)のアプト区間対応に作られた急行型気動車(台車以外はキハ58形と共通仕様)ですが、信越本線電化で余剰となり、名古屋・小海線および四国に散らばり、国鉄末期までに大半が廃車、2両のみがJR四国に継承されるも、1991年までに全廃。小海線の国鉄型気動車は1992年に新型キハ110系に置き換えられました。

国鉄末期の小海線の気動車について、私個人的に興味があるのは、国鉄末期に近畿地方の亀山機関区(天カメ)から非冷房車のキハ58形(キハ58 643、651、1040)が転入したこと。ほかに、米子から非冷房の同じくキハ58形(641号)、岡山・西鳥取から冷房車(キハ58 204、308、427、503、675、677号)も転入、キハ55・57形などを置き換えましたが、小海線には冷房電源装置付きのキハ28形やキハ65形が配置されていないゆえ、非冷房で列車運用せざるを得ませんでした。

1991年夏、「青春18きっぷ」で小海線の旅をしました。前夜、急行<ちくま>で車中泊、小諸から香味線に乗りました。例によってキハ58形でしたが、非冷房でしかも観光シーズンとあって混雑、暑苦しかった思い出があります。キハ52の姿を拝むこともできました。小淵沢から中央本線で甲府、乗り換えて身延線で富士、そしてひたすら東海道本線を乗り継いで大阪へ帰る行程でした。


国鉄時代末期頃の片町線非電化区間(長尾-木津)で活躍していた気動車たちについて。

JR発足(1987)から全線電化開業(1989)までについては、JR西日本亀山運転区のキハ58系やキハ35、キハ47、キハ53が運用されていたことはよく知られるところですが、その少し前の国鉄時代1984~86年頃に片町線の運用に入っていた気動車たちの足跡に興味があります。

もともと、片町線長尾-木津間の気動車は奈良気動車区(→運転所)が担当、1970年代までは主にキハ10系およびキハ20、1980年代に入ってキハ35系やキハ45、そしてキハ40などが活躍するようになりました。関西本線や奈良線・桜井線・和歌山線などと共通で使用されていました(桜井・和歌山線は1980年3月電化)。1980年代前半当時、片町線では、昼間時間帯は

キハ35+キハ36、キハ35+キハ40、キハ35+キハ45

というペア編成が多く、時に

キハ40+キハ20、キハ35+キハ20

といった組み合わせも見られたようです。キハ20は1982年に奈良から姿を消しました。

1984年10月奈良線電化により、奈良運転所の気動車配置は廃止(→奈良電車区を新設)、非電化で残った関西本線(亀山-木津-奈良間)および片町線の気動車は亀山機関区に移管されました。当時、亀山機関区にはキハ58系が各地から相次いで転入、1983年までにキハ55形などを置き換えました。もともと亀山区には急行運用は存在せず、キハ58形は初期車や非冷房車も多く、2エンジン車の性能を生かし急勾配路線の信楽線・名松線などで使用。加えて1984年10月より、奈良区が受け持っていた急行<かすが><平安>が亀山に移管され、同区からもキハ58・28が転入。亀山区には、キハ47形や両運転台のキハ30形、キハ53形なども配置されており、同じ天鉄局管内、キハ35系の大所帯だった奈良区とはかなり異なる陣容でした。

片町線にキハ58系が姿を現すようになったのは、1985年3月ダイヤ改正の頃でした。紀勢本線の<きのくに>廃止で余剰となったキハ58・28が亀山・伊勢などに転属し、従来キハ35系の多かった普通列車にもキハ58系が使用される機会が増えました。片町線では、

キハ58+キハ35、キハ58+キハ47

という2両編成が一般的でした。時に、

キハ58+キハ30、キハ58+キハ40

という組み合わせも見られたかもしれません。朝夕の単行運転ではキハ30形またはキハ40形を使用。私個人的に、キハ58形の非冷房車(キハ58 643・651号ほか)が片町線の運用に入ったことがあるのかが気になります(亀山の非冷房車は1986年、小海線へ転出→JR東日本所属に)。亀山区所属ののちJR東海(伊勢区)に継承されたキハ58形やキハ47形(3・4・1109・1110)も、片町線に入線した経験はあるはずだと思いますが・・・。

1986年3月ダイヤ改正では、同志社大学京田辺キャンパス開校を控え、片町線長尾-木津間の列車本数増発を実施。合わせて単行運転は解消され、全列車2両編成での運用に。この時よりキハ53形が片町線に姿を見せるようになり、電化開業まで続きます。キハ53形はキハ45系の両運転台・2エンジン(すなわちキハ23形の2エンジンタイプ)として登場したが、全国的に少数派。もともと信楽線用に亀山区に配置されていたが、1984年に伊勢へ転属ののち(伊勢線単行運転のためにキハ30が亀山に追加転入、キハ40ともども片町線単行運用の分と共通化、キハ53形を勾配区間の紀勢本線に回すためのやりくりと考えられる。信楽線については主にキハ58を使用)、1986年3月亀山にカムバック。キハ53形は両運転台車にもかかわらず、キハ35またはキハ47と2両編成を組むことが一般的でした。


1973年10月関西本線奈良-湊町(現・JR難波)間電化以降、1978年の紀勢本線新宮電化開業にかけての奈良気動車区(→運転所)の気動車について、とても興味深いものがあります。

奈良気動車区はロングシート通勤型キハ35系の大所帯として有名であり、電化前の関西本線奈良-湊町間(大和路線)のラッシュ輸送に大活躍、非電化区間では異例の国電型高頻度ダイヤを組んでいました。関西本線電化後、キハ35系は奈良周辺の非電化路線で引き続き活躍、和歌山県の紀勢本線(新宮-和歌山市間)にも進出。和歌山機関区所属だったキハ45は奈良に転属、和歌山区の気動車は特急・急行型のみに整理されました。キハ45は和歌山所属時代、天王寺-和歌山間(和歌山線経由)の直通列車に入ることが多かったようです。

1973年10月以降の奈良気動車区の運用範囲は、

関西本線(名古屋-奈良)、奈良線、片町線(長尾-木津)、桜井線、和歌山線、紀勢本線(新宮-和歌山市)

と、紀伊半島西側を全面的にカバーする形に。紀勢本線の普通列車も多くが気動車化され、特に和歌山口では奈良・桜井・和歌山線と同様、キハ35系に当たる確率が高くなり、オールキハ35系ということも珍しくなくなったようです。時折キハ45やキハ10系、キハ20などが組まれたり、先頭にキハユニ16が連結されるものもありましたが。和歌山-新宮間200kmのロングランでさえ、キハ35系オンリーが当然の如く充てられることも多く(→現在の紀伊田辺-新宮間の105系のような感じ)、関西本線名古屋-奈良(-湊町)間以上の苦行を強いられることに。

一方、紀勢本線東側の気動車は亀山・伊勢所属、特に亀山区運用列車については(主に新宮以東、電化前は紀伊田辺までの運用もあった)、急勾配区間の名松線や信楽線と共通ということもあって、キハ55やキハ10系など、クロスシート車に当たる確率が高く、長距離利用客への配慮があったようです(→今では、この区間でもロングシートのキハ25系で難行苦行を強いられるようになった)。ただ、新宮電化以降、車両やりくりの関係上、紀勢東線でもキハ35系が増えたように見えます。

片町線長尾-木津間は、閑散区間ということもあって、キハ10系またはキハ20の1~2両で運用されることが多かったが、やはりここにもキハ35系が進出。

1978年10月紀勢本線電化後、奈良の気動車のうち、キハ45は半数ほど伊勢に転属。伊勢線(→伊勢鉄道)・参宮線・紀勢本線(亀山-新宮)で使用されるようになりました。キハ35系も一部転属はあった模様だが、大半はそのまま残り、関西本線奈良以東、奈良線、桜井線、和歌山線、片町線で活躍を続けました。

1980年3月桜井線・和歌山線(王寺-五条間)電化開業後、非電化で残った和歌山線五条-和歌山間運用のために一部のキハ35系は和歌山に転属。キハ35は伊勢に転属したものもありました。代わりに、和歌山からキハ58系の一部が転入、名古屋を拠点とする紀勢東線の急行<紀州>、および関西本線<かすが>の一部を担当することになりました。奈良区の気動車が紀勢本線新宮以東の営業運転に入るのは、これが初めてかもしれません。なお、湊町電化前にも、臨時<きのくに>用として奈良にキハ58系が配置されたことはあり、間合いで奈良-湊町間の快速に使用されました。

奈良の気動車はその後、1981年に初めてキハ40が3両配置。キハ20ともども、主に奈良線ラッシュ時増結および片町線で運用されていました。そして、1982年5月関西本線名古屋-亀山間電化後、亀山以東への普通列車運用はなくなり、急行運用についても<かすが><平安>(そして<かすが>崩れの快速)担当に変更となったことに加え、グリーン車連結も廃止されたため、キロ28は転出。<平安>を受け持つようになったことにより、草津線経由で京都駅への乗り入れが実現、奈良線のキハ35系ともども、京都駅に奈良区の気動車が出入りしていたのは興味深いです。ただし、<平安>編成は<かすが>と共通の普通車3両編成、午前中に京都到着後、向日町で昼寝ののち、夕刻に京都駅1番ホームから発車して名古屋へ戻る行路で、奈良線運用とは独立だった模様です。また、1982年夏にはキハ20が姿を消し、代わりに米子からキハ30形が転入。キハ35系の大所帯とはいえ、両運転台車キハ30形が奈良に配置されたのは、これが初めてのこと。

1984年10月奈良線電化直前には、キハ45の代わりになぜか奈良線でキハ40(そして、キハ58系とキハ35系の混結も)が運用されることが多かったようです。奈良線電化後、奈良の気動車配置は廃止、亀山ほかへ転属となります。急行<かすが><平安>および片町線の気動車も亀山区持ちに代わると同時に、普通列車でキハ58系が連結されることも多くなります。


国鉄福知山鉄道管理局管内にキハ47形が登場したのは1977年。
福知山(福フチ)と豊岡(福トカ)に大量配置されました。

キハ47は113・115系など近郊型電車と同じスタイル、2ドア両開き・セミクロスシート。キハ45系の基本レイアウトを受け継いだもので都会的な仕様となり、山陰本線京都口(嵯峨野線)を中心に、福知山線・舞鶴線・宮津線・小浜線など北近畿各線で活躍。

私個人的に、キハ47登場以前の福知山地区の一般型気動車について興味があります。

キハ47がデビューする前は、ローカル用に旧・準急用の1エンジン・キハ26が大量に在籍していました。なぜ福知山地区にキハ26が多かったのかは気になるところ。ほかに両運転台キハ20もあり、キハ10系、そしてキハ35系(キハ35、36形)も! キハ35系(ロングシート車)といえば、関西・紀勢本線のイメージが強く、福知山に在籍していたとは信じられないが、山陰本線京都口の近郊輸送に使用されていたそうです。京都駅には奈良線(天ナラ)に加え、山陰本線のキハ35系が発着していたことになります。福知山管理局管内では播但線で姫路(大ヒメ)のキハ35系も使用されていました。 

キハ47は1982年まで投入が続き、その過程でキハ26との混結もありました。その後、一般型気動車はキハ47形に統一。以降、普通列車はキハ47形またはキハ58系のみとなりました(小浜線・播但線など他管理局からの乗り入れを除く)。両運転台キハ20の代替が片運転台キハ47というのも気になるところです。

なお、山陰本線福知山-豊岡間普通列車について、電化前は大半が客車列車、気動車は急行列車間合い(キハ58系)が中心でした。豊岡以西も客車列車のほうが多かったが、キハ47使用の普通列車も設定されていました。


関西本線(大和路線)・奈良線・桜井線・和歌山線で運用されていた113系(赤帯)について、 一つ気になること。

それは、編成の向き。

もともと赤帯113系は阪和線・紀勢本線用青帯と共通の鳳電車区→日根野電車区所属。赤帯車は阪和線系統で運用されることもありました。関西本線系統で運用される分は阪和貨物線(廃止)経由で回送していたため、天王寺駅での阪和線と関西本線(・大阪環状線)では編成の向きが逆になっていたはずです。環状線に直通する関西本線快速(元祖・大和路快速)の、大阪駅での東海道・山陽快速用(湘南色)との向きの関係はどうだったのかも気になります。

のちに奈良線・和歌山線も全線電化され、赤帯113系は奈良線京都駅や和歌山線経由で和歌山駅にも顔を見せるようになるが、和歌山駅での阪和・紀勢系統と和歌山線用の編成も確か逆向きだったはず(京都駅での本線系統・湖西線用とも向きは逆だったのでは)。

奈良電車区開設後、関西本線系統の113系は同区所属となるが、おそらく日根野から阪和貨物線経由で転属回送したものと思われ、その後も阪和線用と逆向きである状態は変わっていないはずです。国鉄末期に静岡地区から奈良へ111系が貸し出されたとき、転属回送は日根野電車区に寄り、スイッチバックして奈良へ向かったそうです。

JR発足後、大和路快速が221系に置き換えられ、113系は阪和線(日根野)および東海道山陽筋(網干)へ転用されるが、網干転属編成も向きを揃えるために日根野へ寄った可能性はありそうですね。

同時期に、阪和線~和歌山線五条直通の快速電車(青帯113系)も設定されるが、和歌山線内での赤帯113系(奈良区)とはやはり編成の向きも逆だったでしょう。

奈良の221系はのちに阪和線快速の運用に入っていた時期もあるが、阪和線への回送は阪和貨物線ではなく、直接天王寺駅大和路線・阪和線渡り線、または和歌山線経由で入線していたため、大和路線と編成の向きが異なるということはありませんでした。


かつて、夜行列車が多かった時代、「夜行折り返し」は鉄道旅行の格安宿泊術として有力な手段でした。

「夜行折り返し」とは、夜行列車で往復しながら一夜を明かす方法。周遊券のあった時代、周遊券の有効な自由乗降範囲内で「夜行折り返し」を使って宿泊代を浮かす、ということもごく普通にありました。私・管理人も、「東北ワイド周遊券」で東北本線の急行<八甲田>折り返しを使い、青森?→郡山?→八戸という行程を取ったように記憶しています(八戸からは八戸線→三陸鉄道だったと思う)。当時の東北地方は、夜行急行や客車普通列車がまだ残っていて、鉄道旅行をゆったり楽しめた時代だったと思います。 

夜行列車が絶滅寸前の今、この「夜行折り返し」はほぼ不可能となりました。

しかし、実は今も「夜行折り返し」は可能です。

それは、<ムーンライトながら>の静岡折り返し(上り・下りがちょうど静岡で出会う)。もちろん「青春18きっぷ」シーズンのみの限定ですが、この紹介動画がYoutubeに上がっていたので少しびっくりしました。日付の変わった深夜0時以降、「青春18きっぷ」1日分と指定券往復分のみで、列車内で一夜を明かすことが可能です。

「夜行折り返し」とは少し違うが、国鉄時代、関西旅行のときに宿泊代を浮かすため、紀伊半島一周する普通<はやたま>(名古屋-天王寺)に車中泊という方もいらっしゃったようです。紀勢本線新宮電化後も奇跡的にしばらく残っていました。もちろん<はやたま>折り返し(確か南部駅で上り・下りが交換)も可能でした。


国鉄時代末期(1985~86年ごろ)の岡山気動車区(岡オカ)について少し書いてみたいと思います。

国鉄時代の岡山気動車区に在籍していた気動車は、顔ぶれがとても多彩でした。

国鉄末期の近畿圏だと、福知山鉄道管理局管内(福知山、豊岡)では急行用キハ58系(キハ28・58)と普通用キハ47形で揃えられていたり、また天王寺鉄道管理局(亀山、伊勢)では一般型でキハ35系やキハ40系(キハ40・47)が多くを占め、なおかつ急勾配区間も多く抱えていることもあってキハ58系なども普通列車で使用されることが多くなる一方、キハ20系やキハ55系は既に姿を消していて、今一つ物足りなかったようにも思います。

しかし、岡山の気動車は急行用にはキハ58系のほかキハ65形も配置され、普通列車(一般)用はキハ40系(キハ40・47形)が主力だったものの 、キハ45系もかなり残り、そしてキハ20そしてキハ26形(キハ55系)、キハ35も少数ながら在籍していて、編成もバラエティに富んでいました。ただ、一般旅客の立場からすれば、新しくて乗り心地の改善されたキハ40系、または冷房の入っているキハ58系のほうを好んでいたことでしょう。

運用範囲は津山線・因美線・姫新線・吉備線・芸備線など、岡山県内を中心に姫路・三次・鳥取・倉吉までに及んでかなり広範囲でした。これは現在のJR西日本岡山気動車区も基本的に同様。


国鉄信楽線(貴生川-信楽間)が信楽高原鉄道に転換されたのは1987年7月。3月31日の国鉄終焉、4月のJR発足から信楽高原鉄道開業前の3ヶ月余りのみ、信楽線はJR西日本の管轄でした。 

国鉄末期~JR信楽線の気動車運用などについて気になること。

信楽線には亀山機関区(→運転区)の気動車が使用されていました。33%の急勾配区間を有するため、DMH17型2エンジンの気動車が優先的に使用され、1970年代までは全国的に少数派だったキハ53形(キハ45系の2エンジン両運転台車)が信楽線の運用に入ることが多かったです。草津線非電化時代は貴生川駅で草津線の列車に連結され、草津または柘植まで直通運転を行っていました。

1980年草津線電化以降、信楽線の列車は線内折り返しのみとなり、元準急用2エンジンのキハ55形または急行型キハ58形がキハ35との混結で使用されるようになります。当時、キハ55形は信楽線のほか、同じく急勾配路線の名松線でキハ30またはキハ40とペアを組んで運用されることも多かったようです。亀山のキハ55形は1982年ごろまでに姿を消し、代わってキハ58系(キハ58・28形)が各地から転入するようになります。1985年ごろより信楽線の列車は基本的にキハ58形のみの2両編成で仕立てられるようになります。国鉄末期の1986年11月ダイヤ改正以降、亀山には1エンジン・冷房電源車のキハ28も相当数加わり普通列車への冷房サービス提供も可能となるが、信楽線運用でキハ28形の連結はあったのでしょうか? 

JR西日本・JR東海の境界にあたる亀山運転区はJR西日本所属となり、前述のキハ53形もそのまま同区所属となるが、元々信楽線向けに配置されていたにもかかわらず、JR時代に同線で運用された例も知りません(関西本線・片町線では良く見かけたが)。

もう一つ気になるのは、信楽線そして草津線の列車の担当車掌区。旧・天王寺鉄道管理局管内にあって、国鉄時代は恐らく亀山車掌区が担当していたと思うが、同車掌区はJR東海に移管され、JR西日本管轄の草津・信楽線はどこの車掌区が乗務していたのでしょうか?


1980年(昭和55年)の鉄道ピクトリアルを一つ紹介。

5月号(No.375)は私個人的に興味のある話題が多く掲載されています。

それは、

草津線・桜井線・和歌山線電化
117系新快速運転開始
京都市電(廃止)のコンクール写真
阪神武庫川線寸描
京阪電車置石事故

など、関西の鉄道ファンにとっては目の離せないネタが多いです。草津線の客車列車は、それまで旧型客車使用だったところを50系に置き換えられました。京阪神の新快速は同年夏までに117系への置き換えが完了、その直後に113系快速のグリーン車連結が廃止されました。また、京阪本線守口市-寝屋川信号所間の複々線完成に合わせ、3月23日にダイヤ改正を実施、昼間の枚方市区急(区間急行)を準急に格上げ、朝夕ラッシュ時に樟葉急行運転開始が実施されました。

ほかに

北海道用特急型キハ183系運転開始
中央西線・篠ノ井線80系を115系に置き換える訓練運用
近鉄最後の丸屋根車8800系新造

などのニュースも掲載されています。

この後、1980年10月に国鉄ダイヤ改正(ゴーゴートー)が行われます。2年後の東北・上越新幹線開通前の最後のダイヤ改正、ゴーゴートーではいわゆる減量ダイヤで、列車本数そのものが減少、特に急行列車・夜行列車は大幅整理されるなど、ネガティブ色の濃いダイヤ改正と言われるが、数少ない前向きの内容として千歳空港駅開業と北海道の列車体系を従来の青函連絡重視から札幌・千歳空港中心に刷新、東海道本線・横須賀線の線路分離と合わせて横須賀線・総武快速線直通運転開始が挙げられます。


国鉄時代の旧型客車列車について、国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正までに、和田岬線(山陽本線兵庫-和田岬)を除いて定期列車から引退したことは、ご存知の通りです。

さて、国鉄末期の旧型客車列車について思いつくままに書いてみたいと思いました。


旧型客車の整理は1984年2月ダイヤ改正から本格的に始まったものと思われます。

このダイヤ改正で、まず福知山線の旧型客車使用の普通列車は一部50系化されました。小浜線・舞鶴線にも1980年代前半まで客車列車が残っていましたが、廃止(→気動車化)時期は1984年2月ダイヤ改正だったと思います。

紀勢本線でも1984年2月ダイヤ改正で紀伊半島一周の夜行<はやたま>(天王寺・和歌山市ー亀山間、天王寺-新宮間は寝台車を連結)は12系化されると引き換えに、新宮以東の直通は廃止されました。合わせて新宮以西(紀勢西線)は12系化(→2年後1986年11月改正で紀勢本線の客車列車は全廃)。

なお、この改正の2年前、1982年5月ダイヤ改正で和歌山線に1往復だけ残っていた客車列車は50系化されました(1984年10月全線電化と同時に廃止)。


1985年3月ダイヤ改正では東北地方に多く残っていた旧型客車列車は、東北本線一ノ関以南および常磐線では電車化(455系ほか)、他は12系・50系に置き換えられ、旧客は全廃。

北陸本線でも客車普通列車は支線区直通を除いて全廃されます(→電車化)。

山陰本線については、京都口で50系化と同時に福知山で系統分割され、京都発着福知山以西への直通普通列車は廃止。福知山線は一部を除いて12系に置き換えられ、冷房化サービスの実現となります(50系の運用はわずか1年で廃止)。

紀勢本線新宮-亀山間も50系化され、亀山機関区所属で草津線と共通使用となります。


1985年3月ダイヤ改正以降、旧型客車列車が残るのは山陰本線福知山-米子・出雲市間、福知山線篠山口-福知山間、函館本線、および和田岬線のみとなります。私個人的に1986年夏、福知山-和田山間のみで旧型客車に乗りました。旧型客車のデッキ外客用扉は常に開きっぱなし(または手動式)で、安全性の問題が指摘されていました。


1986年11月ダイヤ改正では福知山線・山陰本線(宝塚ー城崎間)電化開業により、夜行<だいせん>1往復を除き電車化され、山陰から旧型客車は全廃。京都-福知山間と豊岡以西に残る客車列車は12系または50系化されます。

函館本線については函館-札幌間直通の夜行普通列車などもあったが、旧型客車全廃と同時に、優等列車(特急)は全て室蘭本線・千歳線経由となり、長万部-小樽間(通称・山線)は本線とは名ばかりのローカル線となってしまいました。


JR発足後も唯一旧型客車の残った和田岬線。和田岬線は港町の工場通勤者のための路線と化していて、列車は通勤時間帯に合わせ朝夕のみの運転となっています。さすがの和田岬線も1990年10月にはキハ35×6連に置き換えられ、さらに2001年には電化、103系で運用され今日に至ります。


山陰本線京都口非電化時代の気動車急行といえば、まず<丹後>を連想されることでしょう。

急行<丹後>は、京都駅を起点に山陰本線をストレートに福知山・豊岡・城崎(現・城崎温泉)まで行く列車もあれば、綾部から 舞鶴線に入り西舞鶴からさらに宮津線(現・京都丹後鉄道)経由で網野・豊岡そして城崎まで行く列車(宮津線内普通列車もあり)、また西舞鶴で分かれて東舞鶴から小浜線に入り普通列車に化けて敦賀へ向かう列車とか、列車ごとに行先・経路がそれぞれ異なるばかりか、途中駅で分割併合を繰り返す多層建て列車だったり、何度もスイッチバックしたりという複雑怪奇な列車として有名でした。加えて、片道(上り)1本だけ敦賀から小浜線・舞鶴線経由京都まで直通する<わかさ>もあり、やはり西舞鶴で宮津線からの<丹後>と併結運転でした。兄弟列車の特急<あさしお>も<丹後>と同様、城崎・倉吉・米子・東舞鶴そして宮津線経由城崎行きもあり、行先・経路はバラエティに富んでいました。

「丹後」は京都府北部の旧国名であり、支線区の舞鶴・宮津線へ行く列車のほうが本来ふさわしい名称にですが、山陰本線内の福知山・豊岡・城崎行きもいっしょに<丹後>を名乗っていました。

国鉄時代は、<丹後>に加え、山陰本線をそのまま鳥取・米子(さらに以前は出雲市まで)まで直通する<白兎>が1往復だけ運転されていました。見た目は<丹後>と同じキハ58系使用で大きな違いはないが、<白兎>には特別なものがあったように感じています。まず、鳥取以遠の長距離を走行する列車で、<丹後>と一線を画する貫禄があったように思います。使用車両の所属区も<丹後>は福知山鉄道管理局管内(福知山、豊岡)(小浜線直通は主に金沢鉄道管理局敦賀機関区)なのに対して、<白兎>は米子鉄道管理局管内の西鳥取気動車区でした。<白兎>の車両は、因美線・姫新線経由の<みささ>などと共通運用を組み、やはり広域運用をこなしていました。

<白兎>は1986年11月ダイヤ改正で特急<あさしお>に格上げとなり、以降1996年福知山電化までほぼ同じ形で存続しました。


JR東海発足当初、紀勢本線・参宮線・名松線でキハ30形(キハ35系の両運転台)が主にキハ58系との混結で活躍していましたが、ワンマン化を目的にキハ11の投入後、キハ30は営業運用から撤退。その後もキハ30 51号のみ車籍を残したまま美濃太田区に動態保存されるが、2008年に廃車手続きが取られました。

ここでは、JR東海に継承されたキハ30形たちについて、国鉄時代末期の動きをレポートしてみたいと思います。

JR東海に継承されたキハ30形は、

44、51、52、74、75、81

の6両だったと思います。

もともとキハ35系(キハ30・35・36形)グループの多かった関西・紀勢本線系統(天王寺鉄道管理局管内)ですが、両運転台のキハ30形は、もともと旅客需要の低い三重県の亀山と伊勢の2車両区に配置、草津線・紀勢本線・伊勢線・参宮線・名松線を中心に活躍していました。国鉄時代末期までに天王寺局管内キハ35系の大半は廃車もしくは関東鉄道などへ譲渡、キハ36形(片運転台・便所無し)は1両もJRに継承されず、キハ35形は5両だけがJR西日本亀山運転区、キハ30形は6両が上記の通りJR東海伊勢運転区の所属となりました。

JR東海に生き残ったキハ30形のうち、キハ30 44号は亀山区生え抜きののち、1979年に伊勢へ転属、そのままJR東海へ。

キハ30 51・52号の2両は加古川気動車区の所属で、1984年2月ダイヤ改正で伊勢線(→伊勢鉄道)普通列車1両運転に合わせ亀山へ転属、キハ40形ともども片町線(長尾-木津)などと共通運用をこなしていました。1986年3月片町線の単行運転解消後、伊勢へ転属。伊勢区の伊勢線運用が復活するが、JR発足直前の1987年3月に伊勢線は伊勢鉄道に転換。キハ30 51号が動態保存とはいえ2008年まで車籍があったことは特筆に値します。

キハ30 74・75・81形の3両は山陰の米子に配属、主に境線で活躍していたが、伯備線電化に合わせた1982年7月ダイヤ改正で米子を離れ、74・75号は奈良、81号は伊勢へそれぞれ転属。74・75が転入した奈良区はキハ35系の大所帯で、キハ35系たちは関西本線および周辺の各線(一時期紀勢本線和歌山市-新宮間も)で広範囲の運用をこなしていたが、両運転台のキハ30形が奈良に配属されるのは初めてのことでした。奈良周辺各線の電化も進み、非電化で残っていた奈良線・片町線(長尾-木津)を中心とする運用に入っていました。キハ30形2両の玉突きで奈良に残っていたキハ20形(470・471号)は二俣・志布志へ転属。奈良線では朝ラッシュ時、急行<紀ノ川>編成に増結する運用もありました。1984年10月奈良線電化後、奈良の気動車配置は廃止、亀山区へ転属。亀山時代は、51・52号ともども片町線・伊勢線の単行運転、あるいはキハ58系などと混結で関西本線(亀山-奈良)・紀勢本線(亀山-新宮)・参宮線の運用をこなしていたが、1986年3月に伊勢へ再転属ののちJR東海の所属に。


久しぶりに国鉄時代のダイヤ改正について、思いつくままに書いてみることにしました。

今回は1982年(昭和57年)7月1日伯備線電化開業に合わせた山陰・北近畿地区ダイヤ改正。

伯備線と同時に山陰本線伯耆大山-西出雲(当時・知井宮)間が電化され、近代化の遅れていた山陰本線にもようやく電車がお目見えしました。

このダイヤ改正の目玉といえば、381系特急<やくも>。
<やくも>は伯備線経由の陰陽連絡特急として、1972年山陽新幹線岡山開通と同時に登場。運転区間は岡山-出雲市・益田。気動車(キハ181系)では珍しく「L特急」に指定されていました。大半は出雲市折り返しだったが、1往復だけ浜田方面益田までのロングラン運用がありました。電化後は全て出雲市折り返しとなります(一部は出雲電車区入出庫の都合上、次の知井宮まで運転)。<やくも>の補完的列車として細々と残っていた気動車急行<伯耆>は廃止。また、気動車時代の<やくも>には食堂車も連結されていたが、381系化後は食堂車はなくなりました(気動車特急の食堂車営業はその後、博多<まつかぜ>や北海道のキハ80系で残るが、これも1986年までに全廃)。

当初、<やくも>には上越新幹線開通で余剰となる183系などが転用される計画だったが、当地の現場の強い意思で381系の新製が決まるという経緯だったようです。

伯備線の普通列車には115系を投入、一部は山陰本線出雲市・知井宮までの運用もありました(山陰本線内の普通列車は大半が客車または気動車)。首都圏の東北本線や高崎線ではお馴染みだった115系湘南色も、山陰地方の米子・松江・出雲市では新鮮に映ったことでしょう。

このダイヤ改正では、山陰本線の長距離客車普通列車や優等列車にも変更点が多くありました。
<やくも>から捻出したキハ181系は、<まつかぜ><あさしお><はまかぜ>に転用。
名古屋から小浜線・宮津線回りで出雲市までのロングラン急行<大社>は天橋立打ち止め(→4ヵ月後の11.15ダイヤ改正で廃止)となり、代わりに福知山線経由大阪-鳥取間<まつかぜ>(2・3号)を米子まで延長運転。同じく福知山線経由の鳥取<だいせん>や山陰本線京都発着<白兎>の末端区間を快速・普通列車化する一方、津山・因美線経由急行<砂丘>の米子始発が登場する、といった変更がありました。

このほか、呉(仁方)と松山(堀江)を結ぶ瀬戸内海の仁堀航路も廃止されました。

このダイヤ改正で米子に配置されていたキハ30形が奈良へ転出、キハ20を置き換えたことも付け加えたいと思います。


国鉄キハ66系気動車は、思えば現在の近郊型車両の礎だったと言えます。

キハ66系は1975年に登場。「一般型気動車」に分類されるが、両開き2ドア、転換クロスシート(ドア付近はロングシート)、電動式行先表示器、そして当時の気動車では珍しく通勤・近郊型電車で採用されているAU75形集中型クーラーを搭載するなど、気動車としてはピカイチした。当時、国鉄で転換クロスシートを使用している例は新幹線0系ぐらいで、急行型車両を凌駕するものでした。

山陽新幹線博多開通に合わせ、筑豊地区の快速列車に投入。
2両編成(キハ66+キハ67)×15本の30両で、その後の地方都市への投入も期待されるが、製造コストが高価ということもあって量産に至りませんでした(→その後の一般型気動車は非冷房のキハ40系となる)。キハ66系は全車JR九州に継承、九州を離れることなく終生を迎えることになりそうです。

キハ66系の登場時のカラーは急行型気動車キハ58系と同じものとし、当初は急行列車にも使用されるが、1980年10月ダイヤ改正で急行運用は消失。転換クロスシートかつ高出力エンジンということもあって、乗り心地や居住性そして機能性はキハ58系に比べて大幅に改善されるが、一部ロングシートでデッキ無しという点で優等列車にふさわしいかという疑問が残り(車内の壁の色も一般型車両と同じ緑系)、いわば「遜色急行」として語られることも多いです。

結局、わずか30両のみの少数派にとどまったキハ66系ですが、これが後世の鉄道車両に伝えた功績は大きいでしょう。

キハ66系のレイアウトは、4~5年後に登場する関西の新快速用117系電車に継承されます。大手私鉄との競争の激しい関西にあって、料金不要・高速の新快速といえども老朽化の目立つ153系急行型電車では苦戦するばかり。阪急・京阪特急を凌駕する車両デザインが求められます。大阪鉄道管理局は新快速用後継車両の設計に取りかかり、それが117系となって両開き2ドア・転換クロスシートを取り入れたものとなりました。内装は阪急を意識してか落ち着いた木目調板張りとし、足回りは特急型車両並み、ハード・ソフト両面で旧来の急行型車両を上回るものとなり、優等列車並みの接客設備で料金不要の近郊型電車としては破格の出来で好評を博します。

117系はその後名古屋都市圏にも投入され、JR発足後の大都市圏(首都圏を除く)近郊型電車に大きな影響をもたらしました。

JR発足間もない頃、JR各社から3ドア転換クロスシートの新型近郊型電車が花盛り(JR西221系、東海311系、九州811系、北海道721系)。3ドア転換クロスシートといえば、実は近鉄5200系が初めてで、子会社の近畿車輛がJR西日本に5200系のデザインを売り込んで221系を製作したという噂もあります。221系の登場は私鉄王国関西の勢力図を大きく変える突破口となりました(阪急はJRに苦戦するばかりの一方、京阪特急は8000系登場→2階建て車連結→プレミアムカー連結という豪華路線が進化している)。

3ドア転換クロスシート車も一般的となり、それは気動車にも大きな影響を与えます。JR東海・快速<みえ>用のキハ75系は気動車で初めて3ドア転換クロスシートとなり、311系と似たデザインです。キハ75系はキハ66系以来のハイクオリティな快速用気動車と言えるでしょう。JR西日本でも223系のデザインに基づいて作られたキハ122・127系が姫新線姫路口に登場しました(ただし2ドア)。キハ120よりもキハ127系のほうが断然ハイクオリティです。

キハ66系の現況ですが、筑豊本線・篠栗線電化以降、生まれ故郷の筑豊地区を離れ、長崎地区で余生を過ごしています。登場から40年以上経過しており、いよいよ引退へカウントダウンといったところでしょう。



C56-160

昨日の<北びわこ号>をもってC56 160号機は本線運行から引退しました。

C56といえば「高原のポニー」で人気者。
1973年夏に小海線でC56が2ヶ月間復活、小型軽快で高原地帯を走る姿が小馬(ポニー)をイメージさせることから、「ポニー」と呼ばれるようになったそうです。

C56 160号機は、国鉄時代末期に小浜線のSLわかさ号、桜井線のSL大和路号などで活躍、JR発足後も西日本を中心に四国から北海道まで全国各地のイベントに引っ張りだこ。近年は北陸本線の北びわこ号を中心に活躍を続けていましたが、C56は小型ゆえ勾配の多い路線での走行は苦手で、足回りなどの老朽化が著しく、パワーのあるD51に交代させ、本線運行から引退することになったようです。

引退後は京都鉄道博物館にて動態保存するとのこと。


四国の急行列車について一つレポートしてみたいと思います。

徳島線を走行した気動車急行<よしの川>。

名称の由来は、徳島線(徳島-阿波池田)沿線を流れる吉野川であり、まさに徳島線を代表する花形列車だったと言えます。 

この列車は、廃止直前の頃は徳島線内のローカル急行だったが、本来小松島港で大阪・神戸・和歌山方面からのフェリー連絡の受け皿として、関西と琴平および高知県方面を結ぶことが使命でした。そのため、もともと6~7往復の本数が設定され、小松島港線(廃止)から一部は阿波池田から土讃線の高知まで直通していました。しかし、1980年10月改正で高知直通廃止、1985年3月ダイヤ改正で小松島線は廃止され、運行本数も6往復から2往復に急減、徳島線内のローカル急行に転落。

しかし、明石海峡大橋完成による神戸-徳島間の高速道開通(1998)を前に、徳島線が再び関西と四国各地を結ぶ一つのルートとして見直されるようになります。徳島線高速化工事完成を受け、1996年3月ダイヤ改正で徳島線の優等列車が再び増発されます。特急<剣山>が3往復登場、内1往復は高知直通となります。これと引き換えに、急行<よしの川>は1往復のみに、四国最後の急行列車となりました。

2年後の1998年、特急<剣山>は4往復に増強するとともに、徳島駅から牟岐線海部駅・阿佐海岸鉄道甲浦まで直通運転を実施。急行<よしの川>もキハ58・65から<剣山>と共通のキハ185系となります。そして翌年1999年3月改正で、<よしの川>は特急<剣山>に吸収、四国から急行列車が消滅しました。<剣山>は6往復、そのうち高知乗り入れは2往復となるが、2000年3月以降、高知直通は廃止、<剣山>は徳島線(および牟岐線)内の優等列車となりました。


JR片町線(学研都市線)は京都府最南端の木津駅が起点です。

片町線は大阪北東部と奈良を最短で結ぶ鉄道路線だが、ほとんど木津で乗り換えることになります。

起点の木津では関西本線(大和路線)と奈良線に接続しています。
奈良線は京都・奈良の2大古都を結ぶ都市間路線ですが、正式区間は京都-木津間であり、奈良県を通らないのに「奈良線」と付いているのはいささか妙な感じもします。木津-奈良間は関西本線に乗り入れる形となっています。

片町線は木津から生駒山系の東麓に沿う形で北上、松井山手付近がちょうど生駒山系の末端部で丘陵地をぶった切り、南西に進路を転じて大阪府北河内の長尾・四条畷などを経て京橋に至ります。京橋で大阪環状線と立体交差で接続。ここから先はJR東西線と名称を改め、地下線で北新地などを通って尼崎で東海道本線(JR神戸線)および福知山線(JR宝塚線)と接続、神戸・宝塚方面へ直通運転を行っています。片町線はかつて京橋から大阪都心へ一歩踏み入れたところ、片町駅が終点だったが、JR東西線開通と同時に片町駅は廃止されました。


さて、ここでは奈良直通の片町線列車についてレポートしてみたいと思います。

昔から片町線も奈良直通列車が運転されているが、奈良線とは違って基本的に木津折り返しとなっています。

国鉄時代、京都府側の木津-長尾間は非電化のままで残され、長尾駅で乗り換えが必要でした。反面、奈良から長尾までの直通列車(気動車)が1日数本設定されていました。ただ、奈良線とは事情が異なり、直通による利便性確保というよりは、奈良運転所への入出庫の意味合いが強いようです。現在も、早朝・深夜に宝塚や西明石方面から奈良への直通電車が2往復だけ設定されているが、これもやはり奈良電車区での停泊が目的です。

国鉄時代末期に片町線の奈良直通列車は削減されることになります。それは、奈良線および関西本線木津-奈良間電化が開業(1984年10月)、奈良線の列車本数が増発されるためのしわ寄せだと考えられます。1985年3月ダイヤ改正では関西本線奈良-湊町(現・JR難波)間の快速電車を一部木津発着に延長、片町線奈良直通分を置き換えたものと見られます。国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正以降、片町線の奈良直通列車は1往復のみに。奈良線電化以降、片町線の気動車は亀山機関区(現・亀山鉄道部)が担当することになり、関西本線亀山-奈良間普通列車の一部は木津で分割併合作業を行い(亀山ー木津間増結という形で)、転線ののち片町線運用に仕立てるものもありました。

1989年3月、片町線全線電化が完成、木津―京橋・片町間を通す電車が終日運転されることになりました。当初は淀川電車区103系の3両(→4両)で、早朝・深夜のみ奈良直通列車が合わせて2往復設定されました。関西本線加茂以西電化(1988)以降、終日加茂から湊町および大阪環状線への快速電車が運転されることになり、奈良線のさらなる増発(→快速の新設)と合わせ木津ー奈良間の列車密度はかなり詰まっているゆえ、片町線の電車まで乗り入れさせる余裕はないという判断でしょう。木津から大阪方面へは関西本線~大阪環状線の快速(<大和路快速>ほか)のほうが距離的には遠回りだが早く、そちらを推奨しているようです(運賃は近郊区間のため経路に関係なく同額。片町線の快速は単線区間の木津ー松井山手間各駅停車)。

1997年JR東西線開通後、片町線の電車はJR東西線経由JR宝塚線およびJR神戸線へ終日直通運転を行うようになります。奈良直通電車も早朝・深夜に合わせて宝塚・新三田方面から2往復設定されます(その後、ダイヤ改正ごとに行先は西明石行きなどに変わったりする)。運用車両は207系に統一、奈良・木津-松井山手間は4両、松井山手で増解結作業が終日行われます。東西線開通当初、記念キャンペーンの一環からか、行楽シーズンに新三田方面から木津折り返しの電車を<万葉レジャー号>として奈良まで臨時延長するものもありました(奈良行きは朝の1本、尼崎・新三田行きは夕方の1本)。奈良線の快速と同様、平城山駅は通過扱いだったと思います。これについて、本来木津でそのまま折り返す列車の車両はどのようにやりくりしたかが気になります。奈良電車区に207系を1本待機させて木津へ回送していたのでしょうか? 2010年ダイヤ改正では、片町線全区間にわたって7両編成(207・321系)運用となり、途中駅での増解結は廃止されました。もちろん奈良直通電車も7両での運用となりました。

一方、2008年のおおさか東線部分開通(久宝寺-放出)で、JR東西線~片町線~おおさか東線~王寺経由尼崎-奈良間の直通快速を運転開始(朝夕のみ、朝は尼崎行き、夕方は奈良行き)。当初は福知山線の<丹波路快速>と共通で223系6000番台を使用していたが、北新地駅ホームドア運用開始により2011年以降は4ドア車207・321系の運用に変わりました。

すなわち、深夜の奈良電車区には片町線からの207・321系が2つのルートで数本集結していることになるが、おおさか東線経由直通快速の分と松井山手・木津経由の分では編成の向きが逆となるため、運用は独立しています。


久しぶりに国鉄時代の急行列車について一つレポート。

今回は京都と南紀を草津線経由で結んだ急行<くまの>。

急行<くまの> の前身、準急<くまの>は1963年に気動車で運転開始。運転区間は京都-紀伊勝浦間に1往復。
草津線には古くから京阪神および西日本各地と伊勢を結ぶ優等列車(急行<志摩>ほか)が運転されてきたが、紀勢本線全通(1959年)後、草津線は京都と東紀州(尾鷲・熊野市方面)を短絡するルートとしても脚光を浴び、南紀観光が賑やかで新婚旅行地として人気のある昭和30~40年代の時代背景に、準急<くまの>が誕生しました。

準急<くまの>は1966年に急行列車となり、以降大きな変化は見られないまま推移したが、1980年10月ダイヤ改正で廃止されました。途中の亀山駅では名古屋からの急行<紀州>と併合、紀勢本線内は<くまの>と<紀州>の2層建て列車となります。廃止までの間、1978年には紀勢本線新宮-和歌山間電化、1980年3月には草津線が電化。

廃止直前の頃の列車編成はキロ28連結だったが、紀伊勝浦行きと京都行きでは両数が異なっていたようです。向日町運転所(大ムコ)のキハ58系(キハ65含む)が使用されるが、同じ草津線経由の<志摩>と共通運用を組み、鳥羽と紀伊勝浦を結ぶ<はまゆう>で行き来し、<くまの>と<志摩>をトレードする運行体系だったそうです。なぜわざわざこのような煩雑な運用をしていたのかは謎です。さらに、午後の京都発<くまの>の間合いで、山陰本線の臨時快速<丹波路>(京都-園部間)の運用をこなしたり、紀伊勝浦到着後、間合いで新宮-串本間の普通列車にも入るなど、かなり興味深い広域運用をなしていたとのことを鉄道雑誌等で見た記憶があります。

京都と南紀を結ぶ急行列車としては、奈良・桜井・和歌山線経由の白浜行き<しらはま>もあったが(和歌山以南<きのくに>と併結)、1980年10月ダイヤ改正で<紀ノ川>に改め、京都-和歌山間に短縮(併結相手の<きのくに>は特急<くろしお>に格上げ)。<紀ノ川>は1984年10月奈良・和歌山線電化の時に廃止されました。ちなみに<しらはま>(→<紀ノ川>)の車両も向日町区が担当、<くまの><志摩>と共通の編成でした。



国鉄時代、通勤型電車以外は長距離客を考慮して基本的に禁煙車は設定されておらず、車内に灰皿が備え付けられていました。「近郊型電車」に区分される113系や115系および415系なども例外ではなく、大都市部付近を除き基本的に禁煙ではありませんでした。JR・私鉄を問わず有料特急以外の列車がほぼ禁煙である現在では信じられないかもしれません。

国鉄末期~JR発足前後になって、一般列車での禁煙化の波が広がるようになります。関西圏の113系にももちろん禁煙車が設定されるようになり、東海道・山陽本線快速電車や湖西線・草津線系統(湘南色)、阪和線・紀勢本線(青帯)では、先頭車クハを禁煙車に設定、客用扉の上に「禁煙車」シールが貼付されるようになります(灰皿も撤去)。なお、大阪都心部に近い京都-西明石間や阪和線など、いわば「電車特定区間」に当たる区間ではもとから全車禁煙とされていたかと記憶しています。

ここで面白いのは、関西本線(大和路線)系統で使用する赤帯113系。もともと阪和線の青帯と同じ日根野電車区に配置、一部の編成は阪和線・紀勢本線系統と共通運用とされていました。日根野の113系は紀勢本線和歌山以南を除いて全て禁煙でした(桜井線、和歌山線なども)。赤帯113系については、阪和・紀勢本線共通運用を持つ編成を除き、全運用区間が禁煙ということになり、灰皿は備え付けられていませんでした。1980年に新製投入された赤帯2000番台3本は確か阪和運用には入らなかったはずで、最初から灰皿は設置されず、車内にプラスチックの「禁煙」パネル(京阪などの私鉄と同じものだった)が固定掲示されました。1985年3月、奈良電車区を開設、関西本線・奈良線・桜井線・和歌山線で運用する車両が所属することとなり、赤帯113系も阪和・紀勢本線共通運用編成を除いて奈良電車区に転属。したがって、奈良区113系は全車両禁煙ということで、(禁煙車が設定されるようになる時代とはいえ)113系がこれだけ徹底的に禁煙であるのは当時としては珍しかったわけです。


1985年3月14日ダイヤ改正といえば、東北・上越新幹線上野開業。

新幹線上野乗り入れにより、東北本線や上越線の昼間優等列車は大幅削減、特に急行列車は軒並み廃止されました(185系使用の短距離「新特急」が登場しましたが)。このダイヤ改正では全国的に急行廃止ラッシュとなり、特急格上げもしくは列車そのものの消滅の動きが目立ちました。

優等列車・普通列車とも長距離列車削減の一方で、「広島シティ電車」に始まる地方都市圏での国電型ダイヤ(大幅な本数増発と等時間隔の運行)導入の動きがさらに深化し、2年後の分割民営化を意識したものとなったように思われます。

近畿圏~西日本を中心とする改正変更内容として次が挙げられます。


●新快速の新大阪停車

●東海道山陽本線快速電車の昼間時間帯高槻以東各駅停車化

●東海道山陽本線普通電車の昼間時間帯は201系に統一、一部は草津および加古川まで延長運転

●福知山線~山陰本線経由の特急<まつかぜ>は米子で系統分割(博多直通廃止)、米子-博多間には<いそかぜ>を新設

●福知山線客車列車を12系に置き換え

●山陰本線京都口普通列車の福知山以西直通廃止(系統分割)、京都-福知山間の旧型客車は50系などに置き換え

●大阪~姫新線の優等列車・急行<みささ><みまさか>は1往復に削減

●山陰本線西部の急行<さんべ>は気動車1往復のみに(臨時格下げとなった夜行便は廃止)

●北陸特急<雷鳥><しらさぎ>などの食堂車全廃

●急行<きたぐに>を583系電車に置き換え

●特急<白鳥>のうち福井~青森間の1往復(急行<しらゆき>の格上げ分)を系統分割

●北陸本線客車普通列車全廃(七尾線直通を除く)、413・419・457・475系などに置き換え

●急行<きのくに>(キハ58系)全廃 → 485系<くろしお>登場

●急行<紀州>(キハ58系)を特急<南紀>(キハ82系)に格上げ

●急行<はまゆう><平安>廃止

●関西本線(名古屋-奈良)の急行<かすが>は1往復に削減

●関西本線名古屋-亀山間普通電車は165系に

●関西本線(奈良-湊町)快速電車の一部を木津へ延長

●紀勢本線亀山-新宮間の旧型客車を50系に置き換え

●芸備線経由の陰陽連絡急行<ちどり>は1往復、広島-三次間の<みよし>を新設

●高山本線特急<ひだ>の富山直通は休止、代わりに名鉄からの<北アルプス>を富山直通とする

●名古屋-新潟間ロングラン急行<赤倉>(中央西線・篠ノ井線・信越本線経由)の松本以南廃止

●九州内気動車急行のグリーン車(キロ28)連結廃止

●長崎本線・佐世保線普通列車の電車化を進めるため715系電車(余剰となった583系を近郊型化改造)を投入

●寝台特急<あかつき>の筑豊本線経由廃止(筑豊本線唯一の優等列車だった)


このダイヤ改正に先行する形で、前年10月には奈良線・和歌山線全線の電化が開業しており、105系電車を投入して列車本数増発する一方、奈良・桜井・和歌山線経由の気動車急行<紀ノ川>は廃止されました。また、当時非電化だった片町線長尾-木津間にキハ58系が入るようになったのも1985年ダイヤ改正の頃からでした(関西・紀勢本線系統の気動車普通列車はキハ35系が多かったが、老朽化および急行列車廃止の余剰によりキハ58系を使用することが多くなった)。


国鉄時代末期~JR発足当初にかけて関西本線電化・非電化区間を跨いで運転されていた臨時列車ハイキング号。

1973年奈良-湊町(現・JR難波)間電化以降、関西本線(名古屋-湊町間)の列車は奈良駅で分断され、急行<かすが>ももちろん奈良駅折り返しとなりました。

湊町電化から9年後の1982年春、電化・非電化区間を跨ぐ臨時列車が登場します。
「ハイキング号」の付く列車名で、柘植-湊町間に1往復運転。沿線の伊賀・笠置・柳生方面へのハイキング客を意識して設定され、主にキハ58系などの気動車を使用。1982年春は急行<かすが>用グリーン車(キロ28)連結編成が使用されたみたいですが(グリーン車は解放されていたかな)、5月の名古屋-亀山間電化完成に伴いダイヤ改正で<かすが>のグリーン車連結は廃止。したがって、グリーン車連結は1982年春限りでした。その後も1988年春までハイキング号が運転されるが(シーズンによっては亀山まで足を伸ばすこともあった)、必ずしもキハ58系ばかりというわけではなくキハ35系が連結されることもありました。キハ35系といえば、かつて発祥の地だった奈良-湊町間の主力として活躍した車両で、おそらくあの青春時代を思い出しながら全力疾走したことでしょう。

ただ、実際に湊町・天王寺から伊賀上野・柘植まで乗り通す客は少なく、大半は奈良で入れ替わっていたようです。1988年春の加茂電化直後まで運転されるが、気動車では加茂・奈良-湊町間快速電車大増発の足かせという事情もあるのか、秋以降は運転されなくなったようです。

なお、1986年夏のダイヤでなぜか湊町-松阪間(亀山経由)の臨時列車が設定されたようです(当時の時刻表を見た記憶がある)。


国鉄一般型気動車キハ40系。
キハ40・47・48の3形式で総数888両、北海道から九州まで全国各地にばら撒かれたのは周知の通りです。ただし、都道府県によってはばらつきがあります。

まずキハ40系定期運用のなかった都道府県は、

千葉県、神奈川県、山梨県、静岡県

の4県が挙げられます。キハ40系が登場する頃、千葉県内は支線の久留里線・木原線を除いて電化済み、両線ではキハ35系が活躍していました(キハ40系製造終了後、少数のみ製造のキハ37が配置)。神奈川県も非電化区間は相模線のみであり、こちらもキハ35系が主力。山梨県は小海線だけが非電化ですが、標高日本一の野辺山駅を抱えるだけあって急勾配対応にキハ52・55・58の2エンジン車を専ら使用。あと、静岡県は二俣線(→天竜浜名湖鉄道)のみが非電化で、キハ20の独壇場でした。


キハ40系の運用がなさそうで過去に定期運用の存在した都道府県は、

東京都、埼玉県、群馬県、茨城県、長野県、滋賀県、福井県、大阪府、奈良県、和歌山県

が挙げられます。

まず、東京~埼玉~群馬3都県に及ぶ八高線では例によってキハ35系が主力でしたが、キハ45やキハ40も時折組み込まれていました(その後、八王子-高麗川間電化直前にはキハ35系およびキハ38オンリーとなり、1996年同区間電化以降、非電化区間はキハ110系に置き換え)。群馬県については足尾線の運用もありました。茨城県については水郡線があり、東日本では珍しくキハ47(0・1000番台)も投入。水郡線ではキハ40系のほかキハ45やキハ35、そしてキハ58系など雑多な形式が見られました。長野県は標高の高い山岳地帯ゆえキハ52やキハ58など2エンジン車が多い印象を受けるが、飯山線には豪雪地帯ゆえかキハ40-500番台・キハ48も投入されました。

滋賀・福井両県にまたがる北陸本線彦根・米原-敦賀間と湖西線近江今津以北では、交直流セクションを控えるため、普通列車では気動車運用(敦賀機関区)もあり、主にキハ40・48が使用されました。雪の多い地域にもかかわらずキハ40は暖地向け2000番台が投入される一方、キハ48は準寒冷地仕様の0番台・1000番台のみを配置(キハ48-0・1000番台の両数はごくわずか)。また、福井県若狭湾沿いの小浜線には敦賀区のキハ58系やキハ48のほか福知山区のキハ47も乗り入れていました。このほか、滋賀県内では三重県と結ぶ草津線でも1980年電化までのわずかな間だったが、キハ40系(亀山機関区)の運用が存在していました(草津線についてはキハ35系が主体。一方、信楽線は急勾配路線ゆえ2エンジン車のキハ58・55・53などを中心にキハ35も連結)。

大阪府内でも過去にキハ40系の定期運用列車は存在しており、片町線長尾-木津間(大阪府区間は京都府境までのわずか1kmほど)と福知山線普通列車(大阪府内区間は東海道本線大阪-尼崎間のみ)が該当します。さすがに大阪駅にキハ40系(キハ47)が定期列車で乗り入れていたとは驚きでしょう。臨時列車も含めば、関西本線湊町(現・JR難波)発着伊賀方面ハイキング号にキハ40系が連結されることもあったらしく(キハ58系とキハ35が主体だが)、したがって天王寺駅にキハ40系が乗り入れていた可能性もあります。

奈良県についてはキハ35系という印象が強く、キハ40系は馴染み薄いようです。実際、キハ40系が製造される頃は県内の桜井線・和歌山線も電化開業(1980年)、非電化で残った奈良駅以北の関西本線・奈良線・片町線(主に京都府南部)でキハ40系の運用がありました。奈良県内からキハ40系が姿を消したのは関西本線亀山-加茂・奈良間普通列車が全てキハ120系に置き換えられたとき(1994年)。奈良線・片町線はもちろん電化されています。

和歌山県内の一般型気動車はやはり和歌山線キハ35系のイメージが強いが、紀勢本線新宮以東・三重県内区間普通列車ではキハ40系がキハ35系やキハ58系ほかと混結で運用されていました。2016年春に紀勢本線からキハ40系が引退、キハ25系に置き換えられたことは記憶に新しいですね。


仙台地区近郊輸送向けに製造された交直両用417系近郊型電車。

仙台地区の東北本線など交流電化幹線は当時、電車特急・急行が賑やかに行き交う一方、普通列車については長距離客車列車もしくは気動車で運転されることが多く、地方都市圏の旅客ニーズを反映した輸送体系とは言いがたいものがありました。常磐線や北九州地区で活躍する415系などの3ドア近郊型電車を地方都市圏で使えばよかったのではと思われるかもしれませんが、寒冷地・山岳路線での運用やドアステップ、そして3扉などの混雑対応設備が過剰といった問題点がありました。417系近郊型電車は、仙台近郊輸送改善を目的に設計され、1978年に3両編成×5本が製造、2ドア・セミクロスシート仕様となりました。しかし、その後の本形式の追加製造はなく、わずか15両のみにとどまっています。

417系電車は既に製造の始まっていたキハ47形と類似するスタイルでした(出入り口ステップ付きもキハ47と同じ)。
実は、豪雪地帯の新潟や羽越本線よりも都市規模が大きく雪の少ない仙台地区にキハ47形を入れるべきだったのでは、とのコメントをいただきました。実際、仙台地区には2ドア両開き近郊型スタイルのキハ45やキハ23が活躍しており、その後継と位置づけられるキハ47が本来投入されてしかるべきと思われますが、実際には片開き・デッキ付きのキハ48形およびキハ40-500番台が仙台地区に投入され、キハ48とキハ45系などとの混結も日常的に見られました。

さて、417系電車ですが、直流区間において営業運転に入った実績はなく、交流50Hz区間のみで運用され続けています。417系は全てJR東日本に継承され、近年阿武隈急行が417系を購入しています(→A417系)。

1985年ダイヤ改正で東北本線長距離客車が軒並み廃止、急行廃止で余剰となった455・457系電車が仙台地区ローカルに転用されることで、電車化が進みました。

将来的には秋田・金沢地区への417系投入が計画されていましたが、秋田地区については1993年にロングシートの701系に置き換えられ、大幅な旅客サービスダウンで不評を買うことに。金沢地区については、国鉄時代末期~JR初期にかけて417系とほぼ同じ車体構造の413系電車を製造(改造)することで対応しました。




関西本線(大和路線)快速や奈良・桜井・和歌山線などで活躍していた113系赤帯車。
奈良・春日大社の鳥居をイメージするとされるカラーデザインということで、「春日色」とも呼ばれています。

さて、春日色113系の方向幕について興味深いものを挙げてみたいと思います。

例によって天王寺鉄道管理局仕様の書式・書体が特徴的ですが、国鉄時代には幕は少なくとも1回取り替えられていると思われます。1973年奈良-湊町間電化以降、奈良~大阪環状線直通快速(→元祖・大和路快速)にこの113系が使用され、特製ヘッドマーク「快速 奈良-大阪環状線」を掲げ、「奈良-大阪」の部分を大きく強調表示することで大阪駅へ直通することをPR。並行する近鉄奈良線をかなり意識したものと見られます。方向幕は赤文字の「快速」と表示。

1980年3月桜井線・和歌山線(王寺-五条)電化の時に、方向幕が新しいものに交換されたようです。まず、「快速」の文字はなぜか赤色から水色に変更(阪和線用青帯113系も同様)。桜井線・和歌山線の運用に入るため、関西本線との乗り間違いを防ぐことを目的に、湊町~桜井線経由奈良行き快速の字幕は赤地、湊町~五条行き快速は緑地とされます。

また、この電化を目的に2000番台6連×3本も新たに投下、側面電動式方向幕もきちんと使われます。2000番台についても先頭幕は手動式で例によって天鉄局仕様のものですが、側面幕は行先のみの表示で英文字も入り、国鉄標準仕様でした(天鉄局管内でも103系冷房車や381系の電動幕、そして12系客車については国鉄標準仕様だった)。ただ、「快速」表示部分は水色で、大阪環状線直通については「快速|大阪環状線」なる字幕が使用されました。桜井線・和歌山線直通についてはそれぞれ赤地緑地としていました。

今気づきましたが、「快速」を水色に変更したのは、桜井線直通用に赤表示を充てたので混同を避けるためだと考えられます。

それから環状線直通快速の先頭幕について、国鉄末期~JR誕生直後の頃、「奈良-大阪」ヘッドマークの代わりに「天王寺博」や「ならシルクロード博」PRヘッドマークなどを掲示するときには、2段表示の

   快速
奈良-大阪環状線

が使用されました。


片町線で活躍していた101系および103系非冷房車の先頭方向幕についての興味。

片町線は大阪鉄道管理局管内で、電化区間の片町-長尾間は旧型国電の巣窟だったのが1977年より101系を投入、2年後の1979年より103系も加わりました。103系は当初高運転台車の新車のみだったが、1983年より非冷房車の101系を置き換えるため、東海道山陽線普通(緩行)用103系を転用。その中には一部非冷房車も含まれていました。

さて、101系および103系非冷房車で使用された方向幕ですが、天鉄局の方向幕と同様、

片町-長尾
片町-四条畷

のように運転区間を表示ものだったが、下に英文字が入っていたのが特徴でした(書体も天鉄局仕様とはかなり異なる)。当時、片町線の電車は桜島線・大阪環状線と共通運用を持ち、桜島線については、大阪環状線と同様、路線名「桜島線」だけを表示するものでした。「片町線」も字幕に入っていて、なぜか1986年11月ダイヤ改正前後よりこれが使われるようになりました。103系冷房車ではちゃんと行先を表示しているのに、101系だけが「片町線」では(側面幕がないので)行先がわからず不親切でしたね。

JR発足1周年を迎えた1988年ダイヤ改正では、103系と同様、「片町」「長尾」のように行先のみの表示に改められました。

片町線の101系は1989年の長尾-木津間電化直後まで残り(7両固定編成のため松井山手以西のみの運転)、桜島線へ転用ののち1991年に引退しました。


国鉄気動車キハ40系について、キハ47は両開き2ドア・デッキなし、キハ48は片開き・デッキ付きでレイアウトが大きく異なり、前者は主に温暖な西日本地区、後者は寒冷地の東北地方および高山本線向けとされていたのは周知の通り。

キハ47形とキハ48形は分布状況が大きく二分されますが、共存している路線も一部あります。近年だとJR西日本の山陰本線下関口や津山線、JR東海高山本線~太多線などが挙げられるが、国鉄時代については、以下の路線が挙げられます:

関西本線(名古屋-亀山)
小浜線・舞鶴線・山陰本線(敦賀-福知山)

まず、関西本線名古屋-亀山間については、1982年の電化直前の頃のこと。同区間の普通列車は気動車と客車が半々、かの有名な天王寺行きロングラン<はやたま>もその一員でした。気動車については、大半が天王寺鉄道管理局管内亀山機関区(天カメ)および奈良運転所(天ナラ)が担当、いずれもキハ35系が主力だったが、亀山区にはキハ40系も早くから配置、内キハ47形が4両含まれていました。美濃太田区(名ミオ)の気動車も名古屋-亀山間ローカルに加わり、1979年ごろよりキハ48形が入線していました。

小浜線については、敦賀機関区(金ツル)のキハ58系が主力でしたが、キハ48形も5両だけ配備。敦賀のキハ48は準寒冷地仕様の0番台と1000番台ですが、少数派にとどまりました(→JR西日本に継承)。小浜線の普通列車には、福知山運転所(福フチ)の急行<丹後>崩れやキハ47形も使用されていました。小浜線といえば金沢鉄道管理局管内ということもあって敦賀区キハ58系のイメージが強く、キハ47は地味な存在だったようです。しかし、それ以上に、キハ48が福知山駅まで乗り入れてたことについて意外に感じます。1986年11月以前の福知山区キハ47は山陰本線京都駅、福知山線で大阪駅、宮津線経由豊岡、そして小浜線で敦賀までと、かなり広範囲に活躍していました。

なお、小浜線には1984年ごろまで客車列車もあって、京都発敦賀行きというかなり長距離の列車も残っていました。



来年3月ダイヤ改正で、国鉄時代から使われていた「L特急」の呼称が廃止されることになりました。

https://trafficnews.jp/post/79287

「L特急」は1972年10月に登場した国鉄特急の愛称。
「L特急」は、赤字に苦しむ当時の国鉄が「特別な列車」としての特急(=特別急行)から特急大衆化を目指すべく、自由席連結、毎時00分・30分など定時間隔に運行される特急の愛称として付けられたもの。L特急の増発と引き換えに急行列車は減らされてゆきます。

もっとも、長距離で本数の少ない日本海縦貫<白鳥>や山陰本線周りの<まつかぜ>などは「L特急」とはならず、主に電化区間(でさほど長距離ではない)かつ本数の多い特急を対象に、「L特急」の呼称が与えられました。したがって、「L特急」といえば、381系、485系や183系などの電車特急といったイメージの強い方もおられるかと思います。

しかし、気動車の「L特急」もあります。国鉄時代当時は伯備線経由のキハ181系<やくも>のみで珍しかったが、国鉄末期~JR初期には「L特急」と呼ばれる気動車特急が花盛り。四国の<しおかぜ><うずしお>、高山本線<(ワイドビュー)ひだ>、北海道の<すずらん>、・・・。

ただ、短距離の特急も珍しくなくなった2000年以降、「L特急」の呼称を廃止する動きが全国的に広がります。現在、「L特急」の愛称が残っているのはJR東海の<ひだ><しなの><しらさぎ>の3つのみ。


名古屋と博多を東海道山陽経由で結んだ寝台特急<金星>。

<金星>は1968年10月改正(ヨンサントー)で登場しました。
使用車両は客車(ブルートレイン)ではなく、583系電車。
寝台電車581・583系はもともと配置区を絞り、超広域運用をこなしていたことは有名です。
西日本地区向けは当初、南福岡電車区にて一括管理、もちろんこの<金星>も担当していました。
<金星>の車掌乗務は名古屋車掌区の担当だったようです。
名古屋到着後、一旦神領電車区へ引き上げて折り返し運転をしていました。

設定当初、昼間の<つばめ>(名古屋-熊本)と共通運用が組まれていました。
1975年の山陽新幹線開通後、<金星>編成は間合いで北陸特急<しらさぎ>運用にも入ります。

上越新幹線暫定開通の1982年11月15日ダイヤ改正で廃止。

その後も、<金星>は臨時列車として残ります(ただし座席のみの14系客車で運転)。
あまり知られていないかもしれないが、JR発足後もしばらく<金星>は残り、JR東海・西日本・九州3社を跨ぐ貴重な列車でした。最終的に廃止されたのは1992年だったようです。


私の小学校の修学旅行は伊勢志摩でした。

主な交通手段は近鉄特急。京阪沿線からなので、丹波橋で近鉄に乗り換え、特急|賢島行きに乗車するため、京都駅までUターンしました(当時、特急は丹波橋に止まらなかった)。京都駅からおよそ2時間、伊勢市駅で下車、伊勢神宮外宮へ参拝。本来、伊勢神宮参拝の巡路は外宮→内宮の順とされています。ただ、内宮へは相当距離がある(宇治山田駅からバス)ためか、行程には含まれませんでした。

伊勢市駅へ戻り、ここから国鉄参宮線に乗って二見浦へ。複線電化で大阪・名古屋・京都各方面から特急が頻繁に行き交う近鉄の賑やかさとは対照的に、参宮線は単線非電化のローカル線で優等列車は京都から草津線経由の急行<志摩>ぐらいしかなく、閑散としていました。急行<志摩>は京都駅を朝9時20分ごろ発って3時間程度で伊勢市に到着するので近鉄特急よりも1時間余計にかかるが(実は京都からの賢島行き特急も発車時間は大体同じだったと思う)、時間的には<志摩>を利用しても良かったのではと思ったりもします。

二見浦で降りて、海辺へ出て夫婦岩などを見物したあと、砂浜で潮干狩りを楽しみ、近くの旅館に宿泊します。二見浦は日本初の海水浴場として有名、大正天皇もここで泳いだと言われています。夜には旅館近くの通りへお土産を買出しに行きました。なお、名物の赤福は消費期限の都合上、学校で事前に予約注文を受け付け、翌日の帰りに鳥羽駅あたりで受け取ったように記憶しています。

翌朝、二見浦から鳥羽まで参宮線に乗車。キハ58が先頭の普通列車(キハ35などと混結だったと思う)、鳥羽まで2駅の短時間ながらキハ58系を楽しみました。松下-鳥羽間では車窓左手に海が見えて最高の景色です。近鉄鳥羽線が右側から寄り添いアンダークロスすると終点・鳥羽に到着。近鉄鳥羽線はトンネルの連続する山側を走っています。鳥羽・志摩線ローカル用の680系という古風なスタイルながら冷房付き・クロスシートという個性的な車両もいました(元・京都線特急車だった、数年後に惜しまれて廃車)。

鳥羽では鳥羽湾に浮かぶミキモト真珠島などを見学しました。ミキモト真珠島はもともと無人島だった「相島」だったところ。相島は明治期の実業家・御木本幸吉が世界ではじめて真珠養殖に成功した舞台として知られるようになります。幸吉は御木本真珠店を創業して外国人客の人気を集め、海外にも店舗網を広げます。「ミキモト真珠島」は相島に見学用養殖施設を設置することで観光客に開放することにより生まれたものです。

帰りは鳥羽から近鉄の修学旅行専用列車(特急車で運行)で丹波橋まで直行。途中、新田辺にも停車したような記憶があり、主に京都線および京阪沿線の小学校を対象に仕立てたもののようでした。

この小学校の修学旅行は翌年からバスに切り替わり、その数年後には広島に行き先変更となりました。


国鉄時代の列車について、特に地方では行先表示は優等列車を除いて方向幕は「普通」などと固定的表示、側面サボを使用することが典型的でした。例外として天王寺鉄道管理局管内(ほか京阪神地区113系、長野地区115系、福岡地区401・415系などは方向幕に行先表示)などが挙げられます。

現在、JR東海管内となっている名古屋・静岡鉄道管理局管内も基本的にサボ使用、中央西線用103系の前面幕には「中央線」の固定板で塞いでサボを使用、といった状況でした。名古屋駅に乗り入れる関西本線の気動車(天王寺管理局所属分)のみが例外的に方向幕で「名古屋」「亀山」「奈良」などと行先表示をしていて、まるで国電的のようでした。

ただ、1982年の広島シティ電車を皮切りに地方都市圏に国電型ダイヤ導入(等間隔ダイヤ、高頻度、短編成)の動きが広がり、名古屋都市圏においても117系シティライナー投入、関西本線亀山電化など、都市型鉄道への脱皮をめざす動きが活発化します。脱・汽車型ダイヤを意識したものか、国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正より、名古屋・静岡両鉄道管理局管内では急行列車および東京(JR東日本管内)直通用113系など一部を除いてサボ使用を廃止、方向幕の使用開始となります。対象車両は、113・115・119系近郊型電車(119系は登場時から行先表示幕使用)、103系通勤型電車、165系急行型電車、そして気動車(キハ40系、キハ58系)。このエリアでは既に客車普通列車は廃止されていたこともあって、サボ廃止を実施しやすかったのでしょう。

旧・天王寺鉄道管理局管内の一部である三重県内の紀勢本線・参宮線・名松線もJR東海に継承されることに決まり、JR発足直前には名古屋鉄道管理局へ移管されました。伊勢運転区の気動車は当面そのまま天鉄局書式の方向幕を使用しましたが、1990年ごろよりJR東海書式の英文字入りゴシック体に取り替えられました。

急行「東海」「富士川」(165系)、「かすが」(キハ58系)についても、1990年ごろより「急行|東京」「急行|静岡」「急行|奈良」などの方向幕コマが設定されました(その後も急行列車はサボを使用)。



scan043a


国鉄天王寺鉄道管理局管内の方向幕は独特の書式で有名でした。
101・103系通勤型電車、113系近郊型電車(末期には165系急行型電車も)、そして(急行・一般型)気動車まで、積極的に方向幕を使用していました。

さて、特に以前から気になっているのは、気動車用方向幕。
普通列車についてはキハ35系以降の気動車(キハ35系、キハ45系、キハ40系、キハ58系)はサボの代わりに方向幕を使用するという徹底振りでしたが(キハ10系やキハ20系、キハ52、キハ55系はサボを使用)、紀伊半島を中心に広範囲な運用をこなしていた気動車の行先表示内容が一本物を通してどんなものだったのかがとても気になります。

特に興味があるのは1973年関西本線奈良-湊町間電化開業以降、1978年紀勢本線新宮-和歌山間電化そして1980年草津・桜井・和歌山線電化開業前の頃のもの。


まず奈良運転所のキハ35系などは、紀勢本線和歌山市-新宮間のローカルにも進出、運用範囲は

関西本線(名古屋-奈良)、奈良線、片町線(長尾-木津)、桜井線、和歌山線、紀勢本線(和歌山市-新宮)

で、名古屋・京都・長尾・王寺・和歌山・新宮などを隅に紀伊半島西側を広範囲にカバーしていました。よく使われた字幕に、

亀山-奈良
奈良-京都
木津-長尾
王寺-和歌山

などがあり、運転区間そのまま表示のいかにも天鉄局スタイルなものでした。紀勢本線運用分については、「和歌山市」「紀伊田辺」「新宮」などの行先のみの表示だったようです。


同時期の亀山機関区は、

関西本線(名古屋-奈良)、草津線、信楽線、紀勢本線(亀山-紀伊田辺)、名松線、参宮線

の紀伊半島東部をカバー。こちらでよく使われた字幕に、

名古屋
亀山-奈良
柘植-草津
信楽-草津
亀山-鳥羽
新宮
紀伊田辺

などがあります。


国鉄末期1984年10月奈良・和歌山線電化以降、気動車は亀山と伊勢に集約され、片町線長尾-木津間も亀山区が担当することになりました。末期の亀山・伊勢所属気動車の字幕には、

亀山-奈良
信楽-貴生川
長尾-木津
四日市-津(伊勢線経由)
亀山-鳥羽
松阪-伊勢奥津
亀山-新宮

などが入っていました。


1977年より地方都市圏の通勤通学向けローカル列車用に作られた50系客車。
塗装は国鉄規格「赤2号」とされ、「レッドトレイン」とも呼ばれました。
車内は当時製造中のキハ40系気動車と同様、扉付近をロングシートとし、車内の雰囲気はキハ40・48と同じです。

さて、関西圏(近畿)でのレッドトレイン50系客車といえば、まず思い出すのは草津線(京都-草津-柘植)。
1980年3月の電化まで活躍していた旧型客車を置き換え、113系に混じって朝夕ラッシュ時に運用に就きます。
草津線用には亀山客貨車区と向日町運転所に配置。
亀山からの出庫も兼ねて、1984年2月改正まで早朝1便のみ亀山発京都行きもあり、亀山-柘植間という短い区間ながら関西本線亀山以西では唯一の客車列車でもありました。

向日町に配置された50系は、山陰本線京都口(京都-福知山)でも活躍。

50系客車といえば、和歌山線も忘れてはなりませんね。
王寺-五条間は草津線などと同時に電化されるが、電化後も王寺-和歌山・和歌山市間を通す客車列車が1往復だけ残りました。1982年5月改正の頃までは旧型客車を使用、亀山-新宮間を含めた紀勢本線と共通運用でした。その後、50系客車に置き換えられ(竜華機関区配置)、和歌山線専用となるが、1984年10月の全線電化で廃止。奈良県では貴重な客車普通列車だっただけに残念です。

旧型客車の天下だった福知山線にも1984年2月より50系客車が活躍。
大阪-香住間というかなり長距離の列車にも50系が入ったそうです。
しかし、非冷房が災いして福知山線での50系も長くなく、翌年1985年には12系客車に置き換えらるが、その翌年1986年11月には全線電化、客車列車は急行<だいせん>1往復を除いて全廃されました。

紀勢本線亀山-新宮間でも1985年3月~86年10月までの1年半余りだけ50系客車が進出。亀山区配置で草津線と共通でした。おそらく和歌山線で活躍していた分が回されたのでしょう。

このほか播但線・姫新線でも50系が活躍していました。

JR発足後、関西圏の50系客車は全てJR西日本管轄となります。

JR発足当時、近畿地方で50系客車が残る路線は、草津線、山陰本線(京都-福知山、豊岡-鳥取-米子ほか)、播但線、姫新線ぐらいだったかと思います。草津線の分は東海道本線草津-京都間にも乗り入れ、異彩を放っていました。

やはり電化区間の拡大や非冷房ゆえ50系の活躍は長くなく、草津線は1989年3月改正で全て電車に置き換えられ、翌年1990年の山陰本線京都-園部間電化で京都-福知山間の客車列車は全廃(それに先駆け、1988年秋には京都-園部間の50系3往復を残して気動車化)。

播但線は1990年代に入っても客車列車の本数が多く残っていたが、冷房化サービスを目的に12系に置き換えられるも、1992年には全列車気動車化されました。これに合わせて、キハ58・28をオールロングシート化した5500番台を投入したことは有名です。その6年後、姫路-寺前間が電化、103系3500番台に置き換えられます。



国鉄末期~JR初期の頃、貨物列車の削減で余裕の生まれた線路を活用すべく、地方都市圏でも高頻度・等間隔のいわば「国電型ダイヤ」の導入が盛んに進められました。列車本数を大増発する代わりに、編成そのものは短くし、ただし財政的に新車導入は厳しいので既存の車両を改造で間に合わせる(その究極は583系寝台電車を近郊型化改造するなど)、という手法が流行りました。

大阪市内を中心とする関西圏も例外ではありません。

大阪市内におけるミニ編成の電車といえば、まず福知山線城崎電化に合わせて登場した113系800番台の2両編成を思い出します。福知山線は1981年宝塚まで電化され、黄色の103系が投入されるが、福知山・鳥取・米子方面への長距離列車も残り、宝塚以遠への直通普通列車は客車や気動車(キハ47ほか)で運用されていました。1986年11月の宝塚-福知山-城崎(温泉)間電化により、特急・急行は城崎までの485系<北近畿>に生まれ変わり、鳥取・米子方面直通列車は夜行<だいせん>1往復を除き廃止。普通列車は103系と113系に置き換えられ、113系は初期型を耐雪対応に改造した800番台として登場。しかし、113系は4両または2両という短編成で、客車時代は10両の長編成列車(気動車も最長で9両ぐらい)も多かったのに、本数倍増とはいえ大阪駅で2両編成ではやはり超満員で積み残しも連日発生する始末でした。さすがに国鉄・JRもこれを放置しておくわけにはいかず、113・115系を各地から急遽転用して混雑緩和対応に追われました。普通電車が207・321系の7両で運転される現在では少し信じがたいかもしれません。

大阪でのミニ編成でもう一つ忘れてはならないのは、片町線(学研都市線)の103系3両編成。
JR誕生から2年後の1989年、長尾-木津間の電化が完成、片町・京橋から同志社前・木津への直通電車を終日運転。新駅・松井山手以東への直通電車は主に快速電車で運行(長尾-木津間各駅停車)されるが、気動車時代の2両から一気に7両対応へのホーム拡張は難しく、103系の3両で運用されることになりました。松井山手駅で7両への増解結も一部行われるが、快速電車は3両編成のまま京橋・片町へ乗り入れました。さすがに京橋での3両編成では超満員で、翌年1990年春には4両に増強、そして1992年には新型207系に置き換えられました。1997年JR東西線開通後、JR神戸線や福知山線(JR宝塚線)との直通運転となり、同志社前・木津方面への電車は松井山手駅で増解結作業が必ず行われることになりました。5年後の2002年には7両運転区間は京田辺まで延長されるが、わずか一つ向こうの同志社前発着電車で増解結は常時行われ、これは何とかならんものかと問題になりました。2010年になって木津まで207・321系の7両運転が行われ、途中駅での増解結作業も解消されました(→こうなると207系の中間運転台はあまり意味をなさなくなる)。

関西本線(大和路線)普通電車の103系も1990年代前半までの一時期、3両編成がありました。
もともと6両編成での運転ですが、1986年11月改正で天王寺口にデータイム3両編成の普通電車が登場。これに合わせて103系先頭車の不足を補うべく、101系クハを改造しクハ103-2000番台が登場、1985年まで活躍していた101系を彷彿とさせる顔でした(同様に阪和線でもクハ103-2500番台が登場、101系顔の青色は一時期の京浜東北線を思い出させる姿、のちに天下のJR京都・神戸線普通電車に転用)。しかし、やはり天王寺口での3両では混雑しやすく、1993~94年ごろ6両編成に戻されました。


主要幹線から末端のローカル線まで、全国各地に隈なく急行列車ネットワークを築いたキハ58系急行型気動車。
急行型気動車には、汎用のキハ58・28形のほか、北海道仕様のキハ56・27形、横軽対応のキハ57形、モデルチェンジのキハ65形などいくつか形式があるが、急行型気動車の代名詞として「キハ58系」と総称しても意味は通じるかと思われます。

キハ58系は「レールさえあればどこでも走れる」車両として重宝され、合わせて1600両も製造されました。
急行列車から快速・普通列車、そして修学旅行などの各種団体列車まで、非電化区間はもちろんのこと、電化済みの主要幹線や、電気方式の異なる(直流、交流50Hz、交流60Hzの3種類が存在)区間を跨ぐ列車にも重宝され、日本列島各地の風景に溶け込んだ思い出の活躍シーンを織り成しました。


さて、キハ58系急行型気動車の走らなかった県はどこなのか?


答えは、静岡県一つだけ、だと思います。


大都市の東京都や大阪府からは各方面への気動車急行が多く発着していたし、国鉄の電化率が100パーセントの都道府県は国鉄末期の1987年当時で奈良県一つだけ、東京都・神奈川県・大阪府でさえまだ非電化区間が残っていたわけですから、キハ58系の走行しなかった県を探すのは難しいのかもしれません。

神奈川県は国鉄末期には相模線だけが非電化、同県にはキハ58系と縁がないと言いたいところですが、中央本線が少しだけ神奈川県を通っており、急行<アルプス>のキハ58系時代は有名です。

静岡県は電化私鉄として開業した飯田線・身延線があり、キハ58系が登場する頃には天下の東海道本線は既に電化されており、非電化区間は二俣線(→天竜浜名湖鉄道)だけでした。二俣線といえばキハ20のイメージが強く、キハ58系が乗り入れた実績は知りません。飯田線の北部には中央本線新宿から<こまがね>が気動車で乗り入れていた時代があるが、天竜峡以北の長野県内であり、県境を越えることはなかったかと思います。

参考までに、キハ58系の走行履歴のない路線区間は、

山手線、横浜線、南武線、鶴見線、根岸線、横須賀線、埼京線、京葉線、相模線、青梅線、五日市線、武蔵野線、伊東線、御殿場線、飯田線(天竜峡以南)、身延線、清水港線、東海道本線(東京-浜松?)、富山港線、大阪環状線、桜島線、片町線(長尾-片町)、阪和線(羽衣支線)、福知山線(塚口-尼崎港)、三木線、北条線・・・

ぐらいでしょうか? 主に東京・大阪の国電区間および東海道支線群が該当するが、非電化路線や廃止区間も含まれています。特に兵庫県の加古川線と支線群(三木・北条・鍛冶屋線)は普通列車オンリーでキハ35系などの印象が強く、キハ58系が走行したことはないかと思われます(加古川線・鍛冶屋線には臨時イベント列車等でキハ58系が乗り入れたことはあるが)。


梅雨明け発表ももうすぐ、いよいよ夏本番を迎えます。

海水浴で賑わっていた頃の小浜線の面白い列車について、思いつくままに書いてみたいと思いました。

せっかく電化されたにもかかわらず、現在の小浜線はあまり元気がありませんね。
舞鶴線綾部・福知山方面へ直通する列車さえなく、寂しい限りです。

しかし、国鉄時代~JR初期の頃は、京阪神・名古屋から若狭湾への海水浴臨時列車がいろいろ運転され、賑わっていました。列車名があまりに多すぎてとても覚え切れませんが、列車は大体以下の経路で運転されていました。

1)大阪・京都~(山陰本線・舞鶴線経由)~若狭高浜・小浜・敦賀
2)大阪~(福知山線・舞鶴線経由)~若狭高浜・小浜・敦賀
3)神戸・大阪・京都~(湖西線・敦賀経由)~小浜・若狭高浜
4)名古屋~(米原・敦賀経由)~東舞鶴

大阪・京都方面からは経路が3通りもあってかなり複雑でした。しかも1)3)と2)は大阪駅基準では進行方向は正反対。京都発着列車は基本的に2)のルートですが、大阪から発着することもありました(途中、新大阪・高槻に停車)。3)の湖西線・敦賀経由について、かなり古い時代の湖西線開通前は草津・米原経由で運転されたこともあります。神戸・阪神間地域からは、福知山線経由よりもむしろ湖西線経由のほうが早くて便利なようです(現在は新快速で敦賀まで一本)。列車種別・使用車両もさまざま、キハ58系・キハ181系・キハ65系「エーデル」・12系客車・20系客車ほか、より取り見取りです。

名古屋方面からは急行<エメラルド>でお馴染みでしょう。1982年までは山陰の出雲市までロングランの<大社>(宮津線経由)がありました。




関西本線(大和路線)加茂・奈良から大阪環状線に直通する快速電車、「大和路快速」。

「大和路快速」の運転開始は1973年の関西本線奈良-湊町間電化開業のときだった。
したがって、本年で44周年を迎え、かなり年季の入った老舗列車だ。

大和路快速の走行経路は、

加茂・奈良-(大和路線)-天王寺-新今宮-(大阪環状線外回り)-大阪-京橋-天王寺

という、ユニークな「の」の字運転をしている。

時刻表上では「大阪行き」と記載されるが、実際には大阪駅から環状線をもう半周して京橋・鶴橋経由天王寺まで行くわけだ。ただし、大阪-京橋-天王寺間は各駅停車。
天王寺駅の環状線ホームで折り返し、今度は環状線内回りで一周してから大和路線に入り奈良方面へ戻る。

なぜこのような運転形態を取るのかといえば、大阪駅での折り返しが物理的に難しいためだ。
かつては環状線の電車も大阪駅折り返しがあったが、大和路快速に加え、関空・紀州路快速も乗り入れるようになった現在、大阪駅での折り返し列車は存在しない。

「大和路快速」運転開始の当初、113系赤帯が使用され、「快速・奈良-大阪」特製ヘッドマークを掲げ、大阪駅直通を大々的にPRしていた。
新設1年目は土曜・休日のみの運転だったが、翌年1974年7月より毎日運転(ただしデータイムのみ)となる。

国鉄からJRに変わり、1989年にはさっそく新型221系に置き換えられるとともに、列車種別も正式に「大和路快速」と命名されるようになる。

さらに、朝と夕方以降の時間帯には大和路線から環状線直通の「区間快速」(環状線内各駅停車)も設定、緑色103系のほか環状線用オレンジ色103・201系も使用される(→323系デビュー以降は221系に統一)。環状線用8両編成の電車がローカル色の濃い木津・加茂まで直通し、亀山行き気動車と接続するのはミスマッチだろう。

221系登場から28年が経過し、車両リニュアル工事が進められているが、そろそろ大和路快速の新しい顔を期待したいところだ。



関西本線名古屋口の急行列車といえば、気動車の<かすが><紀州>などを連想されることだろう。
ほかに東京直通の寝台急行<大和><紀伊><伊勢>などもあり、かなり賑やかだった。

しかし、1985年3月ダイヤ改正以降、関西本線名古屋口の優等列車は、<かすが>1往復を除いて特急<南紀>に一本化され、寂しいものとなる。<かすが>はその後も細々と往年の気動車急行の面影を伝えながら21世紀初頭まで活躍を続け、キハ75系に置き換えられて将来への期待を滲ませたものの、2006年に廃止される。

さて、今回は1980年代前半の一時期、関西本線名古屋口に現われた10両編成の気動車急行について書いてみたいと思った。

1982年5月、名古屋-亀山間の電化に合わせて南近畿地区のダイヤ改正が行われる。これにより、紀伊半島の急行列車はかなり整理縮小され、関西本線名古屋口においては、<かすが>(名古屋-奈良)2往復、<紀州>(名古屋-紀伊勝浦)2往復、<平安>(名古屋-京都、草津線経由)1往復だけとなる。しかも名古屋-亀山間では<かすが><紀州><平安>の併結運転が行われるため、急行の実質的な本数は2往復だ。

ただ、併結運転ゆえ、名古屋-亀山間では、紀勢本線新宮電化前の殿様<紀州>を思い起こさせる10両編成という長編成の急行が登場する。

該当する列車は、

朝の下り<かすが1号>・<平安>・<紀州1号>
夕方の上り<かすが4号>・<平安>・<紀州4号>

編成の内容は、<かすが><平安>はキハ58・28のモノクラス3両編成(天ナラ)、<紀州>はキロ28込みの4両編成(名ナコ)。<紀州>についてはキハ65とかキハ57も連結され、気動車急行のオーソドックスな編成とはやや風変わりな形式組成だった。

間合いで武豊線の朝ラッシュ輸送をこなしたあと、急行運用に入って奈良・京都・紀伊勝浦の各方面へ向かう。途中、亀山と柘植で分割併合作業が行われる。

紀勢本線へ直通する優等列車は既に伊勢線(→伊勢鉄道)経由が基本となっていたが、急行<紀州>は亀山経由でスイッチバックをしていた。寝台特急<紀伊>(1984年2月廃止)も同様(名古屋・亀山で2度のスイッチバックが行われる)。

1982年当時、名古屋発着の長編成気動車急行は、中央本線経由ロングラン<赤倉>(名古屋-新潟)が最長だったと思うが、11月ダイヤ改正で165系電車となる。高山本線への<のりくら>が一番本数が多く編成もバラエティに富んでいたが、さすがに10両編成まではなかったのではないか。11月改正で廃止となった山陰へのロングラン<大社>も4~5両の短い編成だった。したがって、関西本線の<かすが><平安><紀州>の3層建て10両は、当時の名古屋における気動車急行の編成長として、<赤倉>電車化後は最大規模を誇っていたことになろう。

ちなみに、<かすが1号>の乗務を担当していた名古屋車掌区の車掌は、奈良到着後、奈良-湊町(現・JR難波)間普通電車もアルバイトで乗務していたようで、国鉄時代の広域乗務は実に興味深いものがある。



気動車急行のグリーン車連結は2003年の<つやま>が最後だった。

電車急行では、純正な急行型車両については名門<東海>(165系)が最後(1996年廃止)だったことは有名だ。特急型車両使用の列車を含めば、寝台電車583系<きたぐに>が2012年まで存続した。


さて、本記事では、主に1980年代以降の急行型電車のグリーン車(サロ)の動きについて、解説レポートする。


電車急行については、東北・上越新幹線上野開業の1985年3月14日ダイヤ改正が大きなターニングポイントだったと言える。同ダイヤ改正で交直両用車両(455・457・475系ほか)による急行運用が完全消滅したほか、上越・信越線系統を中心に直流急行電車もかなり数を減らす。


2年少し前の新幹線大宮暫定開通1982年11月15日改正で、交直両用急行型電車の運用に大きな変化が生じる。

まず、東北・奥羽本線の電車急行(<まつしま><ざおう>)は、大宮暫定開業ということもあって上野発着がかなり多く残り、乗り換えを嫌う旅客に一定の配慮がなされていた。

支線区の仙山線では、短距離ながらグリーン車連結の<仙山>が快速格下げと同時にグリーン車連結もなくなる。

新幹線の影響が小さかった常磐線でも、仙台以北直通のロングラン<もりおか>は廃止されるが、大所帯の<ひたち>は改正前とほぼ同じ本数が維持され(一部水郡線直通の気動車もあり)、特急<ひたち>と張り合う。

北陸本線では大阪発着<立山><ゆのくに>は特急<雷鳥>に格上げ、米原発着の<くずりゅう>は1往復を残して特急<加越>に格上げされる。<くずりゅう>はもともと普通車のみのモノクラス編成が使用され、この改正の時点で北陸筋において急行型電車のサロ営業は消滅。京都・大阪で交直両用急行型電車の姿が見られなくなる。

全国に先駆けて総特急化の動きが進められた九州では、1980年10月ダイヤ改正の時点で既に電車急行は大幅整理され(大阪から山陽本線経由夜行の客車急行も廃止、九州内は電車特急化)、82年11月改正で全廃。
山陽新幹線博多開通前は天下の山陽本線に乗り入れ、はるばる大阪・名古屋までロングラン<玄海>などが遠征(名古屋口では中央西線普通列車の間合い運用もこなしていたという)していたが、新幹線博多開通からわずか7年余りで九州の電車急行が陥落したことになる。
九州の急行列車は支線区直通の気動車と夜行の客車列車が残るのみとなる。


直流急行型電車(153・165・169系ほか)にもかなり大きな動きが見られた。

千葉の房総半島では高々150kmの短距離にもかかわらず特急一本化が進められ、153・165系の定期運用は廃止される。かつて気動車王国だった房総地方では、1970年代前半の電化の時点でさっそく183系特急電車が主役となり、電車急行は最初から脇役に甘んじるゆえ存在感が薄かったようだ(ただし観光列車ゆえサロは連結)。ちなみに房総半島では、海水浴シーズンには全国各地から気動車を集めて臨時の「遜色急行」も多く運転され、ロングシートのキハ35系も連結されていたとか・・・。

新幹線と並行する上越線の<佐渡>系統、そして東北本線上野口・高崎線の<なすの><あかぎ><草津>などは、かなり本数は残る。

また、架線下気動車急行で知られる名古屋-新潟間(中央・篠ノ井・信越本線経由)のロングラン<赤倉>も165系に置き換え、<佐渡>と共通運用が組まれる。もちろんサロは連結され、長距離の優等列車に相応しい姿はとどめていた。

中央西線の<きそ>(夜行など一部を除く)と<つがいけ>は特急<しなの>に格上げ、<赤倉>が唯一のグリーン車連結電車急行となる。中央西線は電化が比較的遅く、電化後は381系<しなの>に優先的に投資されたため、電車急行はあまり多く設定されなかった。


1984年2月ダイヤ改正では、名門の東海道<比叡>(名古屋-大阪)が廃止される。<比叡>は1980年10月改正で1往復に削減と同時にサロ連結が廃止され(共通運用を組んでいた宇野<鷲羽>も廃止)、普通車のみのモノクラス編成が使用され、東の<東海>などと同じ大垣電車区の所属だった。<比叡>は朝の大阪行きは岐阜・大垣から京都観光にも使いやすく利用状況は好調だったが、折り返し名古屋行きは時間帯が悪さして閑古鳥が鳴く状態だったという。


1985年3月ダイヤ改正は、急行列車全体にとって大きなターニングポイントだった。

交直両用急行型電車は全て本来の急行運用を失い、短編成でローカル運用に転職することになる。
地方都市に多く残る長距離客車列車を置き換え、広島シティ電車に始まる国電型ダイヤ(短編成、高頻度)の拡大導入に貢献する(→それだけでは足りないので、余剰となった583系を近郊型化改造、いわば「食パン」電車419・715系も追加)。
もちろんグリーン車は全廃だが、短編成化で不足する先頭車を補うため、165系クハからの改造のほか、サロの一部を先頭車化、クハに形式変更される。元サロのクハは座席はグリーン車時代のままだが、固定4人掛け化の簡易改造を受ける。それでも、座ってしまえば「乗り得」列車であることにはちがいなかっただろう。その点、「食パン電車」は元・寝台電車ゆえ、座席ピッチはゆったりしていて、なお「乗り得」だったことだろう(ただし、車内は窮屈感があり、ラッシュ時の乗り降りは不便だった)。

直流急行型電車についても、東北本線上野口・高崎・上越・信越本線系統は特急<あさま><白山>や185系「新特急」などに生まれ変わり、夜行<信州>1往復(モノクラス編成)を残して全廃。

せっかく晴れて電車化された<赤倉>も、<南越後>に改め長野-新潟間に短縮、サロ連結も廃止、モノクラス6連の身軽な姿に変わり、ローカル色が濃くなる(→その後列車名だけ<赤倉>に戻り、1997年まで存続)。中央西線からは電車急行が消滅する。

余剰となった165系は3連ユニットで関西本線名古屋口ローカルなどに使用される。

1985年3月の時点でサロ連結が残った電車急行は、中央東線<アルプス>系統と東海道本線<東海>のみになる。


国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正では<アルプス>は夜行1往復(→183系化)を残して全廃される。<アルプス>と併結運転して飯田線北部に乗り入れていた<こまがね>も廃止。
余剰となった松本の165系が遠く離れた紀勢本線ローカルなどに転用(日根野電車区)して客車列車を置き換え、新宮夜行(旧・<はやたま>)も165系で運用されるようになる。


JR発足後も残る電車急行(急行型使用)は、<東海><富士川><赤倉>などごくわずか、いずれも直流型165・169系。JR東海静岡エリアを拠点とする<東海><富士川>は、往年の電車急行の姿を保ち、中でも<東海>はサロ2両連結の堂々たる長編成で注目を浴びた。<東海>編成は大垣夜行(普通)にも使用され、むしろ「青春18きっぷ」で乗れて人気の高い大垣夜行(シーズン中には臨時続行便も運転)のために<東海>が存続していたようなものだ。

1990年代に入って老朽化の進む165系の置き換えがJR各社で検討されるようになり、<東海><富士川>は373系特急型電車に置き換えられることに決まる。373系化後の<東海>は特急列車に生まれ変わったものの、モノクラス6または9連のみでグリーン車無し、15両前後でグリーン車連結の普通列車に比べて身軽な姿で、さらに373系は普通列車との共通運用を前提とした設計ゆえ出入り口の仕切り(デッキ)もなく、サービスダウンの感は否めなかった。大垣夜行は全座席指定の快速<ムーンライトながら>となる。

しかし、「青春18」シーズン以外の<ながら>は閑散としているらしく、特急<東海>は2007年で廃止、<ムーンライトながら>も2009年以降臨時列車化、車両も373系からJR東日本所属の国鉄型特急車両(183系→185系)に変わる。かなり古い車両とはいえ、デッキ付きである分には373系より快適と言える。毎年「青春18」シーズンのみに運転されるゆえ、<ながら>の運転予定発表は廃止の噂が絶えない「青春18」が販売されるかどうかの踏み絵となっている。

急行<東海>廃止後、165・167・169系の引退が各地で相次ぐ。
紀勢本線では165系からロングシート105系に代わり、新宮夜行も廃止、紀伊半島一周の旅の楽しさが台無しとなってしまう(JR東海区間の新型気動車キハ25系もロングシート)。
中央西線木曽ローカルはJR東海担当分は313系、JR東日本担当分は115系(→211系)にそれぞれ代わる。


交直流急行型電車のほうはどうか?
1985年3月の時点で来の急行運用を失って30年近く経過するが、なんと165・169系の引退が進む中でも、東北・北陸・九州各地の普通列車でまだ現役活躍中だった。九州では元サロのクハ先頭車も残っていたようだ。
しかし、2010年ごろになって、さすがに老朽化は隠せなくなり、急ピッチで車両代替が進む。一番最後まで残ったのは北陸筋で、2015年北陸新幹線開業&金沢以東第三セクター化を機に完全引退する(413系に組み込まれている一部のクハ457のみ残っているが)。


↑このページのトップヘ