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国鉄末期、1970年代末~80年代半ば(87年3月)の新車について。この頃、分割民営化などが視野に入り、各地域ごとの輸送実態に合わせ、個性的な新形式が相次いで登場。京阪神新快速用117系、201・203・205系通勤型電車、電化ローカル線用105系、185系特急型電車、キハ183系特急型気動車、・・・。

ここでは、上記の新形式たちよりも、むしろ同時並行で最終増備された標準的な従来型形式(103系、113系など)を中心に書いてみたいと思います。 


関西圏では、1979~80年にかけて新快速用117系を製造、旧来の153系急行型電車を置き換えました。

一方、1978年より113系2000番台が東海道・山陽本線快速用に順次投入され、阪和線・紀勢本線(青帯)にも6連×1本だけ製造されました。

また、1980年3月草津線・桜井線・和歌山線(王寺-五条)電化の名目で新造された車両もあります。それは、

113系2700番台(湘南色)
113系2000番台(春日色)

で、2700番台は700番台とともに湖西線・草津線(そして東海道・山陽本線)で共通運用。2000番台春日色(6両×3本)は主に関西本線(大和路線)快速で使用され、朝夕を中心に和歌山・桜井線に直通運転を実施。2000番台春日色のうち、中間モハ2両×2本は、後年紀勢本線御坊-紀伊田辺ローカル用としてワンマン仕様にクモハ化改造され、最後の活躍を続けましたが、本年3月、およそ40年の寿命で引退したばかりですね。


関西ではお目にかかれなかった103系高運転台車も、1979年にようやく登場しました。まず、大阪環状線・片町線・桜島線にオレンジ色が数本登場。片町線は四条畷-長尾間の複線化完成と東寝屋川(→寝屋川公園)・藤阪駅の開業に合わせ、非冷房101系ばかりだったところに高運転台車103系が加わり、当然冷房車で利用客には喜ばれたことでしょう。

翌年1980年夏には、阪和線にも高運転台103系(青色)が6連×3本登場。阪和線は関西で最初に103系の運用が始まった路線で、首都圏からの中古車が多く、非冷房車もざらでした。阪和線の103系は主に普通電車で使用されるが、快速・区間快速での運用も少なからず存在しました。

1981年4月、福知山線大阪-尼崎-宝塚間電化開業に合わせ、関西初の黄色103系が新車でデビュー。編成単位での103系基本形式としては福知山線用が最後だったようです(その後、首都圏に中間車の最終増備や、筑肥線~福岡市営地下鉄直通用1500番台が追加されるが)。もちろん高運転台・冷房付きで大阪-宝塚間の普通電車専用に投入されるが、篠山口・福知山以遠への旧型客車や気動車普通列車と共存というミスマッチな顔ぶれとなり、ある意味面白かったです。3年後の1984年、6連から4連に短縮、一部のモハユニットは片町線などに転用されました。


115系も1983年まで各地で増備が続きました。1978年以降、115系は寒冷地用1000番台(113系2000番台に相当)を基本仕様とし、北関東の東北・高崎線系統、新潟・長野地区、山陽本線岡山地区までの広範囲に投下。岡山地区への1000番投入は、1982年伯備線電化まで続きました。1000番台はJR東日本・西日本のほか、JR東海(中央西線山間部ローカル用)にも継承されました。

温暖地向けには2000番台として、山陽本線広島地区と身延線用に投入。身延線用はトンネル内架線高さの関係などにより、広島地区と一部仕様が異なります。

さらに広島地区には、1982年11月ダイヤ改正より、「広島シティ電車」として国電型ダイヤを導入、これに合わせ3000番台が登場。3000番台は115系と117系の「合いの子」でした。すなわち、顔立ちは115系ながら、117系と同じ2ドア・転換クロスシートという「珍車」で、好評を博しました。その後、関西地区221系投入で余剰となった117系中間車を岡山地区115系に組み込む、という「迷車」まで出現します。


気動車・客車について。1977~82年にかけて、全国各地にキハ40系(キハ40・47・48形)を800両以上新造投下され、旧来のキハ10系などを置き換えました。その後、JR発足直前にキハ32とかキハ54などの軽快気動車が四国・九州・北海道向けに製造されるが・・・。

客車はローカル輸送向けに50系(レッドトレイン)を新造、旧型客車を置き換えます。車内の雰囲気は同期のキハ40・48と同じでしたね。関西圏では草津線・山陰本線・播但線・姫新線・和歌山線などに投入されました。しかし、郵便・荷物輸送廃止などに伴い、普通列車は電車・気動車化で余剰気味に、10年にも満たず廃車されたものもあったようです(せっかくの新形式なのに冷房無しということも災い)。一方、青函連絡線開通に伴い、快速【海峡】号に50系客車が充当されることになり、リニュアル工事で活性化した例もあります。



播但線経由で大阪・神戸と兵庫県北部(但馬)を結んでいた急行【但馬】。

非電化区間を通るため、定期列車はもちろんのこと気動車(キハ58系)使用でした。

運転区間は、大阪・姫路~豊岡・城崎・浜坂・鳥取間で、多いときで4往復(季節臨含む)設定されていました。特急【はまかぜ】とともに、播但線を代表する優等列車。【はまかぜ】は播但線内ノンストップなのに対して、【但馬】は寺前や生野などの主要駅に停車。

【但馬】のうち、大阪発着列車にはグリーン車(キロ28)連結ですが、姫路発着は普通車のみの身軽な編成でローカル急行の印象が強かったようでした。大阪発着列車には、東海道・山陽本線内で姫新線直通の【みささ】【みまさか】に連結されるものもありました(1985年3月まで)。

車両の所属区について、国鉄時代末期までは福知山・豊岡(福知山局)と西鳥取(米子局)の3区が受け持ち。福知山区所属は福知山線の【丹波】と共通運用で、福知山~大阪~(宮原)~浜坂~大阪~(宮原)~福知山という運用ルートでした。西鳥取区編成にはキハ65形も連結され、北近畿では珍しい存在でした。

国鉄からJRに変わり、1989年3月ダイヤ改正で、【みささ】【みまさか】廃止と合わせ、【但馬】の大阪直通は臨時列車のみに。定期列車は播但線・山陰本線内折り返しとなります。同時にグリーン車連結も廃止され、2往復に縮小。末期は福知山運転所と鳥取鉄道部の2区が担当するが、1996年3月で廃止。一部は【はまかぜ】に格上げとなります。

播但線は、1992年まで客車普通列車が多数設定されていたが、七尾線や小浜線ほかJR西日本各地から余剰となったキハ58系を転用とともにロングシート化改造を受け(キハ28・58 5500番台)、客車列車を置き換え、姫路口のラッシュ運用に対応。5500番台は姫路鉄道部所属で、オリジナルカラーに塗装変更。ほかに【但馬】間合いの運用もあって、国鉄急行色かつクロスシートの原形スタイルでした。福知山の国鉄急行色と姫路色のキハ(40系、58系5500番台)との連結運用もありました。

1995年阪神・淡路大震災で東海道・山陽本線が寸断され、大阪~姫路間の迂回ルートとなる播但線に臨時列車を増発する際、車両不足を補うためにJR東日本の秋田や盛岡からもキハ58系を福知山区に借り入れ、【但馬】編成などにも増結されました。

国鉄~JR初期の頃まで、【但馬】の臨時便といえる、海水浴臨の急行【○○ビーチ】【マリン○○】も設定され、客車が使用されました。大阪~姫路間はEF58形に牽引され、往年の山陽筋の客車急行を彷彿とさせる姿だったようですね。


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国鉄時代の信楽線です。
信楽駅に停車中のキハ58 598号。
キハ58の2連でした。夏場ですが、キハ28が連結されていないため、非冷房での運用でした。
 


コメント欄で国鉄急行型気動車キハ65形のトイレに関する書き込みがあったので、笑うに笑えぬエピソードを紹介したいと思います。

キハ65形は、急行型気動車の最終増備車。もともと既存のキハ58系と連結することが前提であり、構造簡略化・軽量化を目的にトイレ・洗面台の設置は省略されました。

キハ65形はトイレ無しゆえに、利用客にとって厄介な編成も実際に存在したようです。それは、

キハ65(先頭車)-キロ28(グリーン車)-・・・

のような編成。先頭車がキハ65形で、隣がグリーン車という場合、そのグリーン車のトイレが先頭車との連結側デッキに設置されていれば良いのですが、トイレが反対側の場合、先頭車の乗客は困ったことでしょう。グリーン車の室内を通行しないと用を足せず、トイレに行くために通行料が発生するので困る、というエピソードを、どこかで見たことがあります。

その事情を配慮したのか、キハ65形は編成の中間に組み込まれることが多かったと思いますが、名古屋発着の【のりくら】【紀州】や四国・九州のように、キハ65形が先頭という急行列車も少なくなかったようです。幸いか不幸か、四国・九州ではグリーン車連結が早期に廃止あるいは普通車指定席に改造されたため、トイレの問題は解消されましたが、1990年までグリーン車連結のまま存続する【のりくら】では最後までこの問題が残ったようです。

関西地区発着の気動車急行でも、キハ65形・キロ28を連結する列車は少なくなかったが(【きのくに】【紀ノ川】【志摩】【たかやま】【みささ】【みまさか】ほか)、キハ65形は概ね中間車に組み込まれていましたね。


国鉄通勤型気動車キハ35系。

キハ35系が1961年関西本線大阪口ラッシュ対応用に投入されたことは、周知の通りでしょう。同系列は101系通勤型電車の開発成果を生かして、ロングシート・3枚扉(外吊り式)を基本仕様とし、キハ35形・キハ36形・キハ30形の3系式から成り立ちます。キハ35形は片運転台・トイレ付き、キハ36形は片運転台・トイレ無し、キハ30形は両運転台(トイレ無し)の仕様とされました。 

さて、キハ35 217号ですが、この車両はある意味、オンリーワンの異端車でした。キハ35形は0番台が217両製造され、そのラストの1両(0番台のほかに、寒冷地用の500番台、ステンレスの試作900番台も存在)。217号は他のキハ35形とは異なる点がありました。それは、トイレの照明に蛍光灯が採用され、換気兼用の明り採り窓が細長くなっている(キハ45系やキハ58 1000番台以降と同じもの)ことです。

キハ35 217号は奈良気動車区(→運転所)生え抜きで、主に奈良周辺の関西本線などで活躍を続けました。1984年10月奈良線電化開業後、亀山機関区に転属。紀勢本線・参宮線にも足を伸ばすようになるが、国鉄末期の1987年廃車。キハ35系としては新しいにもかかわらず、JRに引き継がれませんでした。


中国山地の長大ローカル線の一つ、姫新線。

姫新線は姫路を起点に、兵庫県西播地区の本竜野・播磨新宮・佐用などを経て、岡山県の山間部に入り、津山から中国勝山を通って、終点・新見に至る全長150km余りの路線。佐用駅では智頭急行(上郡~智頭)と接続。智頭急行は京阪神・岡山と鳥取方面を高速で結ぶことを目的に、1994年開業の高規格なローカル線で、特急【スーパーはくと】などが高速で往来します。津山は岡山県北部の主要都市・城下町であり、岡山からの津山線、そして鳥取からの因美線と合流する要衝です(因美線は正式には東津山から姫新線と分岐)。そして、終点・新見では伯備線と芸備線に接続します。

姫新線はかつて、京阪神と中国山地や山陰を結ぶ優等列車が多く運行され賑わっていたそうですが、中国自動車道開通後、高速バスに旅客移転し、鉄道のシェアは急激に低下。現在、姫新線を全線直通する列車はなく、兵庫・岡山県境付近の佐用または上月で系統分断されています。

姫新線の優等列車ですが、国鉄末期~JR初期には気動車急行【みまさか】【みささ】を運行。ともに大阪駅発着で、大阪~姫路~津山間は【みまさか】【みささ】の併結運転。津山で両者は分かれ、【みまさか】はそのまま姫新線を西へ進んで中国勝山や新見まで直通、【みささ】は岡山からの【砂丘】と連結、スイッチバックして北東に進路を取り、因美線経由で鳥取をめざしていました。1985年ダイヤ改正以前は数往復設定され、一部の便には大阪~姫路間は播但線直通の【但馬】とも併結運転が行われていました。

1985年3月改正で【みまさか】【みささ】は1往復のみに激減ののち、国鉄の終焉を迎えます。【みまさか】【みささ】は国鉄末期~JR初期当時、数少ないグリーン車(キロ28)連結の急行列車でした。

1989年3月ダイヤ改正で、東海道・山陽本線の新快速電車増発および221系近郊型電車登場と引き換えに、【みまさか】【みささ】は廃止されました。同時に【但馬】の大阪直通も廃止(【但馬】は播但線・山陰本線内のみの運転に→1996年特急【はまかぜ】に格上げ)。【みまさか】【みささ】廃止の代替として、姫路~津山間の快速列車を1往復新設。急行時代のスジをそのまま転用する形だったが、列車番号は臨時扱いの8000番台であり、いつ廃止されても不思議ではない状況でした。運用車両もキハ47形の2両。私自身、「青春18きっぷ」でこの快速に何度か乗車したことがあります。下り・津山行きは午前中の運行で、青春18シーズンのためか行楽客で混雑、終点まで座れなかったかと思います。津山快速は1998年ごろまでは運行されていたと記憶しているが、1999年のダイヤ改正で姫新線に大鉈が振るわれた時(佐用または上月で系統分割)に消えたものと思います。


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藤子不二雄原作の懐かしいアニメ、『忍者ハットリくん』。

『ハットリくん』は伊賀流忍者と甲賀流忍者の対決がメインストーリー。東京のとある住宅地を舞台に、三葉家に居候する伊賀の服部兄弟(ハットリカンゾウ、シンゾウ、獅子丸)と、甲賀のケムマキ一家(ケムマキケムゾウ、影千代)が敵対関係にあります。

私個人的に、ケムマキと飼い猫の黒猫・影千代は面白いキャラクターだと思っています。彼らがグルになって、クラスメートの三葉ケンイチ、あるいは服部兄弟に狡賢くいたずらを仕掛けるも、ハットリカンゾウが機転を利かし、取っちめられる展開パターンが多いですが、ケムマキらも憎めない奴です(学校の教室で、あるいは女性や大人には気の利く「いい子」を演じるが、内面は伊賀への敵対心に燃えるひねくれ者)。ケムマキのことを「ごしゅりんたま」と呼んで忠誠を尽くす影千代もご愛嬌。

上の画像は、ケムマキと並走するキハ58系の1カットです。甲賀の里に帰ったケムマキが東京へダッシュするシーンですが、おそらく関西本線か草津線あたり(キハ58系は急行【かすが】か【平安】だろう)をモデルとしているのでしょう。もしかしたら、信楽線かもしれませんね。しかし、このキハ58系の絵はなかなか実物感が出ていますね(客用扉2枚、屋根上水タンク、サボ受けなど、かなりディーテルに描かれている)。放映時期が国鉄時代末期にあたる1980年代前半~中期であり、時代を感じさせるものです。


以前、房総半島に存在した特急【すいごう】。

【すいごう】は1982年11月ダイヤ改正で登場。183系電車を使用、東京~ 佐原・銚子間(成田線経由)を結んでいましたが、他の房総特急に比べて影が薄く、あまり注目を浴びることはなかったように思います。しかし、それゆえに【すいごう】についてレポートしてみたくなるもの。

特急【すいごう】の前身は、急行【水郷】でした。房総地区主要幹線の電化完成後も、成田線経由の優等列車は急行(【水郷】【鹿島】)のみだったが、1982年11月ダイヤ改正で房総地区は特急に統一されました。成田線も例外ではありません。ただ、内房・外房線と異なり、観光・レジャースポットの少ない成田線沿線ゆえ、【すいごう】は運転本数が1日2往復と少なく、グリーン車なし、電車特急では珍しく非「L特急」でした。成田線の特急列車については、鹿島線鹿島神宮直通の【あやめ】もあるが、【あやめ】のほうが本数も多く存在感があります。なお、東京-銚子間は総武本線経由の【しおさい】が幅を利かしています。

【すいごう】は1985年ダイヤ改正より、末端区間の佐原-銚子間が普通列車に格下げ。その後も大きな変化はなかったと思われるが、高速道延伸整備に伴い利用客は減少する一方で、最終的に1往復に減便。そして、2004年には鹿島線直通の【あやめ】に統合され、列車名は消滅。

房総半島では、東京湾アクアライン開通後、全体的にJRの利用客減少傾向が強く、特に内房線【さざなみ】には信じ難いほどの大鉈を振るう始末です。さらに、成田空港特急増発と引き換えに、内房・外房方面の特急列車が京葉線経由に振り替えられ、千葉駅を通らなくなったことも、慢性的な利用客減の要因であると指摘されています。かつて、海水浴シーズンには全国各地から気動車を借り入れて大増発を奮い、電化後も平成初期までは夏ダイヤも特設されていたのに、ここまでの凋落ぶりとは・・・。


国鉄時代の面白い気動車急行をまた一つ紹介したいと思います。

山陰と九州を結ぶ【あきよし】。

運行経路・区間がとてもユニークなもので、

江津 ~浜田~(山口線経由)~博多
   浜田~(美祢線経由)~小倉~(日田彦山線経由)~日田~天ヶ瀬

(江津-浜田間普通列車)

なぜか、島根県の山陰本線から美祢線を経て日田彦山線・久大本線に入り、「西の軽井沢」・温泉街で知られる由布院(大分県)の手前、日田や天ヶ瀬を結んでいました。グリーン車無し・普通車オンリーのローカル急行ながら、片道の運行距離は310kmと地味に長く、気になる存在です。

当初、山口線経由博多行きも設定され、美祢線経由編成と浜田~益田間併結運転が行われました。山口線経由はのちに【つわの】として独立(→1980年10月1日廃止)。美祢線・日田彦山線経由編成は、1985年3月まで残るが、1980年10月改正で日田~天ヶ瀬間廃止および上りは益田止まりに。小郡機関区(広コリ)のキハ58系が使用されました。

1985年3月改正で、【ながと】に改称の上、浜田~下関・小倉間に短縮され、さらに美祢線経由は廃止(山陰本線経由に変更)。同改正で山陰本線下関口の優等列車は大幅に整理されました。新大阪~博多間ロングランの特急【まつかぜ】は米子以西の【いそかぜ】に短縮され、キハ80系食堂車連結の貫禄ある姿からキハ181系普通車4両の身軽な姿に変わり、格落ちした印象でした。鳥取・米子と北九州を結ぶ急行【さんべ】も1往復に減便されるとともに、グリーン車連結廃止、小倉折り返しのローカル急行に転落。その後、1997年までに【さんべ】【ながと】は全廃、【いそかぜ】も度重なる運行区間短縮を経て2005年に廃止されました。現在、山陰本線下関口(益田-幡生・下関)を走行する優等列車はありません。


東京都区内で最後まで残った気動車急行(キハ58系)は、常磐線系統の【ときわ】【奥久慈】。

1982年11月15日ダイヤ改正で、上野発着東北本線系統のロングラン気動車急行【いいで】【おが】【出羽】ほかが消滅し、残るは常磐線系統のみになりました。 

常磐線上野口の末期の気動車急行は、水郡線直通の【奥久慈】2往復と、それに併結される【ときわ】でした(水戸機関区所属)。【ときわ】は基本的に455系ほか交直流電車使用の大所帯急行で、485系特急【ひたち】とともに上野口優等列車の主力ラインナップを飾るが、気動車運用も2往復存在していたことは興味深いです。どちらかといえば中距離のローカル色が強く、花形的なロングランの東北本線系統ほどではないにせよ、最後までグリーン車(キロ28)を連結し、首都圏において主要幹線の気動車急行らしい姿を保っていたことは、特筆に価するでしょう。私個人的に、阪和線・紀勢本線の【きのくに】に近いような雰囲気だったように思います。

1985年3月ダイヤ改正で【ときわ】は【ひたち】に格上げされ、全廃。もちろん常磐線内の気動車運用も廃止されました。ただ、同年春~秋開催の筑波科学博に向けた各種臨時列車で、余剰となった気動車なども総動員でした。その後もしばらく、上野発着水郡線方面への臨時列車が設定される機会も少なくありませんでした。

常磐線では1982年11月改正まで、上野発着の客車普通列車も残り(しかも旧型客車!)、仙台までの長距離を通すものもありました。水戸以北の区間では、普通列車は客車や気動車が大半だったが、急行列車廃止で余剰となった455系などが転用され、1985年3月ダイヤ改正で電車化を達成しました。



かつて福知山線経由で大阪と山陰を結んだ急行【だいせん】。

【だいせん】の名称は、鳥取県西部の最高峰・「大山」に由来します。最寄駅は大山口または伯耆大山(伯備線と合流)。

【だいせん】は国鉄時代、1986年福知山線電化開業まで昼間2往復(気動車)、夜行1往復(客車)という運行体制でした。昼間の気動車は電化後廃止され、夜行1往復のみが残りました(その後、1999年ににキハ65・エーデルに置き換えられ、2004年廃止)。

さて、昼間の気動車【だいせん】ですが、

1・4号 大阪(新大阪)~米子・出雲市・大社・益田
2・3号 大阪~鳥取

という運行体制(号数は下り・奇数、上り・偶数とする1978年10月改正以降の方式に合わせる)で、特に1・4号は500km以上に及ぶ長距離ということで魅力的でした。 1・4号の大阪駅発着時点では8~11両という長編成ですが、途中の豊岡で2両、出雲市で大社行き(大社線直通)の3両で、西へ行くにつれて編成が短くなります。グリーン車(キロ28)は益田行きに連結されるが、1982年7月伯備線電化に合わせたダイヤ改正以降、益田まで直通するのは普通車2~3両のみに。所属区は豊岡回転のみ福知山局管内豊岡区(福トカ)、他は米子局持ちでした。

2・3号は、「だいせん」を名乗ることから、一応鳥取県には直通するものの、どちらかといえば兵庫県但馬地方と大阪を結ぶ列車という性格が強かったようです。1982年7月以降、末端区間の香住-鳥取間普通列車に格下げされ、鳥取県内区間は普通列車となり、「だいせん」というよりは「丹波」を名乗るほうが相応しく思えました。

1986年11月ダイヤ改正で、1・4号の豊岡~益田間は快速列車に格下げ、豊岡で大阪からの特急【北近畿】に接続するダイヤ体系となります。しばらくこの体制が続くが、山陰本線普通列車の気動車・ワンマン化が進むにつれ、このロングラン快速も自然消滅に。


紀伊半島を一周する紀勢本線は、和歌山県側の和歌山市-新宮間はJR西日本の電化区間、三重県側の新宮-亀山間はJR東海の非電化区間であり、両者を跨いで直通する列車は特急【南紀】<名古屋-紀伊勝浦>を除いて存在しません。

しかし、国鉄時代には、1959年の紀勢本線全通を機に、紀伊半島を一周して天王寺と名古屋を結ぶ直通列車が多く設定されました。高度経済成長期にあって、南紀が新婚旅行のメッカであり、伊勢志摩~紀伊半島~奈良~京都という観光ルートも定番化。特にキハ80系で新設される特急【くろしお】は、食堂車にグリーン車(キロ)2両連結という、観光地向けのデラックスな列車で高嶺の花でした。急行【紀州】(キハ58系)ともども天王寺(・紀伊田辺)-名古屋間の直通運転を実施。【紀州】には和歌山・名古屋のほか美濃太田区の気動車も使用され、美濃太田所属編成は天王寺到着後、折り返し【きのくに】に入る面白い運用もあったそうです。

ほかに、夜行普通列車も天王寺・和歌山市ー名古屋間に設定、夜行区間の天王寺-新宮間では寝台車も連結され、大阪方面からの釣り人に重宝されるほか、新宮以東の三重県側では高校生の通学、東紀州方面から松阪への買い物など地元客に利用されていました。

紀勢本線が最も耀いていたのは、1978年和歌山-新宮間電化の数年前と言えるでしょう。
新宮付近を跨いで紀伊半島を一周する普通列車も、1973年以降は順次気動車化が進んだため、徐々に減少。 関西本線大阪口電化で捻出されるキハ35系が紀勢本線西側に進出、和歌山付近を中心に新宮までのロングラン運用も生じました。紀伊田辺-松阪間を直通する気動車普通列車もあったが、そちらのほうは亀山機関区持ちでキハ55形などが組まれることも多かったようです。

1978年の電化では、特急【くろしお】は381系電車化に伴い、名古屋直通は廃止。急行【紀州】は名古屋-紀伊勝浦間に短縮され、天王寺直通の頃に比べローカル色が濃くなりました。名古屋側にはキハ80系の特急【南紀】が新設されるものの、食堂車無しで編成も6両に短縮、格落ちの印象でした。普通列車は新宮で系統分割されるが、夜行【はやたま】1往復だけ紀伊半島1周列車が辛うじて残存。ほかに、参宮線鳥羽発天王寺行きの急行【きのくに】も片道1本だけ残りました。電化後も主に新宮以西をカバーする【きのくに】は、南海直通などもあるため、気動車で残りました。このほか、紀伊半島一周ではないが、新宮発和歌山経由和歌山・桜井・関西本線経由の大回り名古屋行き【しらはま1号】(片道のみ、和歌山までは【きのくに】、柘植-名古屋間【平安】とそれぞれ併結)も、1980年まで残ります。名古屋【しらはま】の前運用は、【紀州】夜行便で名古屋から紀伊勝浦まで下ります。

電化後もしばらくこの体制が続くが、1982年5月関西本線名古屋口電化に伴うダイヤ改正で、紀勢本線特に三重県側の優等列車も整理されます。鳥羽発の【きのくに】は廃止され、夜行【はやたま】は天王寺・和歌山市-亀山間に短縮(したがって関西本線名古屋直通は廃止)。紀伊半島一周の体裁だけは辛うじて保たれました。その【はやたま】も、1984年2月、12系化と引き換えに、寝台車連結廃止とともに運転区間も天王寺-新宮間に短縮され、紀伊半島一周列車は消滅しました。合わせて寝台特急【紀伊】<東京-紀伊勝浦>も廃止。分割民営化を意識した列車ダイヤ再編が、1978年の電化時点前後から進んでいたように見えます。


福山と塩町(三次市)を結ぶ中国山地(広島県東部)のローカル線、福塩線。

福塩線は、福山市の山陽本線と三次市の芸備線を最短距離で結ぶ路線形態をしています。営業キロは78.0kmで、ローカル線としてはかなりな距離と言えるでしょう。このうち、南側の福山-府中間23.6kmは昭和初期に電化され、かつて旧型国電の巣窟で、阪和線を追われた70系などが最後の活躍をしていましたが、1981年以降105系が運用され現在に至ります(ちなみに、阪和線には「和泉府中」駅がありますね)。府中以北は非電化区間で列車本数は激減、キハ120が往来します。

さて、福塩線の優等列車ですが、国鉄時代を含め、一度も設定されたことはないようです。福塩線は三江線(廃止)あるいは木次線と組んで陰陽連絡ルートを形成、福山-浜田間または福山-松江・米子間の特急・急行列車があっても不思議ではないが、国鉄当局は路線規格の低い福塩線を半ば放置していたように見えます。広島・三原~米子・松江方面を福山経由で結ぶ優等列車(準急【皆生】ほか)も設定されたことはあるが、福塩線には入らず、倉敷から伯備線回りでしたしね。

ただ、福塩線電化・非電化区間を跨いで全線直通する列車は、国鉄時代に設定されていました。福山-三次間を通す普通列車(気動車)がありました。その一部は芸備線経由広島まで乗り入れていたと思います。このほか、木次線三井野原へのスキー臨時列車が、福山発着で1991年ごろまで毎年運転されていました。

福塩線に投入された105系(3ドア)は、新製当時は中間車モハ・サハもあったが、短編成化の流れで3年あまりで先頭車に改造され、形式消滅しています。

国鉄時代の福塩線は、芸備線三次-備中神代間とともに、全線岡山鉄道管理局管内だったが、現在福山-府中間は(JR西日本)岡山支社、非電化区間は芸備線備後落合以西ともども広島支社の管轄です。


「モトトレイン」とは、 オートバイを積み込める列車のこと。

かつて、国鉄時代末期~平成初期の間、本州・北海道間でモトトレインが運行されていました。運行ルートに、

上野~青森(急行【八甲田】に連結)
大阪~青森~函館(特急【日本海】に連結)

などがあったようです。運用初年は1986年で、毎年夏季のみの運行。荷物列車廃止で余剰となったマニ50をバイク運搬専用客車に改造し、寝台列車の最後尾に連結するというものでした。1988年青函トンネル開通前は、青森~函館間は青函連絡船で航送という形だったが、以降は函館まで直接乗り入れることに。1998年ごろに運用終了となった模様です。

バイクを列車で運んでもらう間、酒飲んで寝台車で一夜明かすことができるのも、モトトレインの魅力だったでしょう。

青函トンネルに新幹線が通るようになって、在来線の旅客列車が事実上通行不可となりました。さらに新幹線の札幌延伸後、新幹線増発&スピードアップのために青函トンネル経由の貨物列車を大幅削減しようという動きもあり、高速輸送の可能な鉄道貨物がなくなることで北海道の農業・産業に大打撃を与えかねないとして、怒りと不安の声が渦巻いているようです。


国鉄時代、1970年代以前の話ですが、金沢運転所所属キハ58系の運用の興味を、簡単に挙げてみたいと思います。

鉄道ピクトリアル 2019年1月号』(No.955)で、「ディーゼル急行」が特集されています。この誌面から得られたサプライズとして、

中央西線【きそ】と大糸線~北陸本線【白馬】が共通運用だった

こと。すなわち、【白馬】(松本~金沢)の編成(普通車3両)が、【きそ】(名古屋-松本)の付属編成として増結され、中央西線経由ではるばる名古屋まで足を伸ばしていたということです。当時、中央西線・東線とも、電化は完成していなかったため、【きそ】や【アルプス】などには気動車(松本・長野・美濃太田・名古屋ほか)が使用されていました。その後、中央本線全線電化と同時に、【白馬】は金沢から松本に移管されます。【白馬】が、北陸本線内において、ロングランの【しらゆき】(金沢-青森)と併結していたことは、あえて言及するまでもないでしょう。

金沢区キハ58系で、もう一つ面白い運用は、北陸と山陰を結ぶ【大社】
【大社】は名古屋発着と金沢発着があり、敦賀で併結ののち、小浜線・宮津線※1)経由山陰本線米子・出雲市・大社※2)までのロングランでした。金沢編成は米子折り返しでした。金沢編成は1978年10月改正で、福井-天橋立間に短縮と同時に、普通車3両だけの短編成に(敦賀区に移管)。1982年11月、【大社】の名古屋編成は廃止、福井編成は【はしだて】に改め、ローカル急行の印象を強めます。その後、北陸本線直通も廃止、されに1992年には快速に格下げと同時に、キハ53形のワンマン・単行運転となり、1996年に消滅。

ちなみに、金沢【大社】の前身、【あさしお】は出雲市まで直通していたことに加え、【皆生】(三原-出雲市間、伯備線経由)に併結されていたことも、興味深いです。

金沢のキハ58系は、もちろん地元・七尾線の【能登路】なども受け持っていたはず。

しかし、いずれにせよ、金沢区のキハ58系が、金沢を拠点に山陰本線から大糸線、中央西線までの広域をカバーしていたとは、実に興味深いですね。

※1)宮津線は北近畿タンゴ鉄道→京都丹後鉄道に
※2)「大社」駅は大社線(廃止)の終点


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(その2)でも記した通り、国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正で、急行【志摩】は廃止され、草津線の優等列車は消滅しました。

同改正で、草津-貴生川間の列車(電車)本数増発が行われ、貴生川以北では毎時2本の列車が確保されます。これにより、草津線は京都近郊路線としての性格が濃くなります。【志摩】の廃止は、この増発に振り当てるためだったようにも思われます。また、この改正の時点で、客車列車(50系)2往復は残ります(1989年3月改正で電車化)。

以降、草津線から関西本線や紀勢本線へ直通する定期列車はなくなったが、姫路方面から伊勢への修学旅行団体列車は2010年度まで継続します。末期にはキハ181系が運用に就き、同系列最後の定期運用である【はまかぜ】とともに注目を集めました。

1987年4月JR発足以降、さっそく7月に信楽線が信楽高原鉄道に転換されました。「JR西日本」としての信楽線はわずか3ヶ月で、転換直前にはキハ58・28(亀山機関区所属)が運用に入っていました。

草津線では現在も113系が主に活躍中で(昼間の貴生川折り返しは221系)、朝夕ラッシュ時間帯には117系や223・225系などが加わります。113・117系も先は長くないでしょうから、早めに撮影されることをおススメします。

参考までに、JR東海・キハ75系の方向幕に「京都」が入っていますが、草津線経由の【平安】復活を視野に入れたものでしょうか?


草津線を走った優等列車。

1978年10月ダイヤ改正の時点では、急行【志摩】(京都-鳥羽)、【くまの】(京都-紀伊勝浦)、【平安】(京都-名古屋) が各1往復ずつありました。運用車両はいずれもキハ58系気動車です。

中でも、【志摩】については、京阪神と伊勢を結ぶ優等列車としてなかなかの老舗であり、そのルーツは戦前の宇野・姫路-鳥羽間快速にあります。戦後もしばらく姫路-鳥羽間快速が奮闘、その後1960年代に準急【鳥羽】に格上げと同時に気動車化され、急行【志摩】に。【志摩】は2往復運転される時期もありました。

【くまの】は京都と東紀州(尾鷲・熊野・新宮)を結ぶ優等列車で、亀山-紀伊勝浦間は名古屋からの【紀州】と連結。

【平安】は観光地を結ぶ【志摩】【くまの】ほどの華やかさはなく、グリーン車連結無しだったが、旧・東海道に沿って名古屋と京都を結ぶ都市間列車で、三重県北部の桑名・四日市方面から京都への需要を意識したものと思われます。朝の京都行きと夕方の名古屋行きで1往復でした。名古屋-京都間は、東海道本線米原経由よりも、関西本線・草津線経由のほうが距離が短く、その分運賃は安くなります。柘植-名古屋間では、関西本線奈良方面からの【かすが】または【しらはま】に連結されました。1978年10月改正の時点では、上り名古屋行きは、大回り迷走ルートの【しらはま1号】(新宮→和歌山→高田→奈良→名古屋)と併結でした。

1980年3月電化開業の時点では、上記3つの急行列車は存続するが、同年10月改正で【くまの】が廃止。以降、【志摩】【平安】の2本建てとなります。

1985年3月ダイヤ改正で、【平安】は廃止されるが、代わりに【志摩】を1往復増発。同時に【志摩】のグリーン車連結は廃止されます。朝の京都行きと夕方の伊勢市行きは【平安】のスジを転用したものであり、桑名・四日市方面から京都への旅客に配慮したためか、柘植-亀山間では【かすが】と併結運転が行われました。

しかし、京都-伊勢志摩間には近鉄特急が毎時1本運転されて、スピード・本数・料金どれも勝負にならず、国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正で全廃。以降、草津線に優等列車が運転されることはありませんでした。【志摩】が全廃となったのには、亀山駅にJR東海とJR西日本の境界が設置されることも理由として考えられます。仮に紀勢本線亀山-新宮間や参宮線などもJR西日本のエリアとなれば、【志摩】はもうしばらく存続するばかりか、大阪・神戸への延長運転もあったかもしれません。


国鉄時代末期の草津線について、思いつくままに書いてみたいと思います。

草津線(草津-柘植)は滋賀県南部(湖南・甲賀地区)と三重県伊賀市を結ぶ電化ローカル線で、東海道本線と関西本線の間を連絡。中間の貴生川では信楽高原鉄道(旧・信楽線)と近江鉄道に接続。路線の大部分は滋賀県、柘植付近の1~2kmのみ三重県区間となっています。関西本線名古屋-柘植間と草津線は旧・東海道に沿う形で、明治期に「関西鉄道」として開通、名古屋と京都を短距離で結ぶ幹線ルートを形成していました。関西鉄道国有化後、草津線は京阪神と神都・伊勢を最短で結ぶルートとして積極的に活用され、姫路や宇野と鳥羽を結ぶ快速列車が運転された時期もあります。現在は京都・大阪近郊の地味なローカル線という印象が強く、基本的に線内折り返しの普通電車オンリーですが、最近、忍者の里・甲賀の活性化に向け、113系忍者ラッピング電車が運行され、話題を呼んでいます。

さて、「国鉄時代末期」の具体的な時期ですが、大体1980年3月草津線電化以降のこととさせていただきます。

草津線電化前は、普通列車は気動車(キハ35系ほか)と客車で運用。気動車は、主に草津線内のみの運用ですが、一部は亀山機関区(天カメ)への入出庫を兼ねて、関西本線柘植-亀山間に直通していました。また、貴生川から分かれて陶芸の里・信楽を結ぶ信楽線への直通列車も草津発着で設定され、信楽線は急勾配路線のため、2エンジンかつ両運転台車のキハ53を主に使用。 一方、朝夕を中心に客車列車も運行、京都市への通勤通学輸送のため、東海道本線京都-草津間に直通していました。また、朝一番の京都行き列車は亀山始発でした。1970年代前半には、草津発亀山から紀勢本線を大回りして和歌山市行きの長距離客車鈍行などもありました。

草津線電化で、気動車は113系電車に置き換えられました。113系は湖西線と共通の耐寒対応700番台(湘南色)に加え、電化に合わせて新造された2700番台を投入。同じ天王寺鉄道管理局管内において、奈良県内の桜井線と和歌山線(王寺-五条)が同時に電化され、そちらにも113系(春日色)が投入されるが、桜井・和歌山線用には古い非冷房車を転属で賄った(同じ春日色6連の2000番台3本も新造されたが)のに対して、草津線用には湖西線と共通運用を組むこともあって新しくてオール冷房車の113系が充当されるという、「格差」が見られました。桜井・和歌山線向けは阪和線の日根野電車区所属(天ヒネ)、草津線用は大阪鉄道管理局管内の高槻電車区(大タツ)所属で、鉄道管理局間の格差がこんなところにも顕現化したようです。

客車列車のほうは、旧型客車から50系(レッドトレイン)に置き換えられました。草津線の50系は亀山客貨車区と向日町運転所(大ムコ)が管轄。向日町所属分は山陰本線京都口(京都-福知山)ローカルと共通使用でした。牽引機関車は亀山区のDD51を使用。朝一番の亀山発京都行き721レは、電化後もしばらく(1984年2月改正まで)残りました。721レは関西本線亀山以西では唯一の客車旅客列車でした。


函館本線山線(小樽経由)を代表する優等列車の一つだった急行【ニセコ】。

函館本線(函館-旭川)は北海道最古の鉄道路線であり、かつては本州や函館と札幌および道内各地を連絡する主幹路線としての役割を果たしていたが、太平洋沿岸の室蘭本線開通後、複線区間が長くて線形の良い室蘭本線(室蘭、苫小牧、千歳経由)に幹線機能をシフト。「山線」と呼ばれる函館本線の長万部-小樽間を走る優等列車は徐々に減り、国鉄末期1986年11月ダイヤ改正では全廃され、完全なローカル線となりました(小樽-札幌間は札幌近郊区間の複線電化だが、優等列車は設定されていない)。以降、この区間を通る優等列車はニセコ方面への観光向け臨時列車、あるいは有珠山噴火で室蘭本線が不通となった際の迂回として設定されるぐらいです。

さて、急行【ニセコ】ですが、この列車の歴史は珍しい経緯をたどっています。

というのも、末期には気動車(キハ56系)を全廃して客車だけになるという、他の急行・特急列車群とは逆のパターンだからです。気動車の【ニセコ】があった時代は、はるばる根室から根室本線(滝川経由)と函館本線経由で函館まで走破するロングラン列車も存在しました。また、函館-稚内間を走破するロングラン急行【宗谷】(気動車)も山線経由で運行されていました。1980年10月1日ダイヤ改正で、千歳空港(現・南千歳)駅開業に伴い、北海道の列車体系は、本州連絡を意識した函館基準から、航空機と連携して千歳空港・札幌中心に刷新、函館本線山線を経由する優等列車にもメスが入ります。【ニセコ】の気動車列車は廃止、客車のみとなります。客車急行といえば夜行が中心というイメージがあるが、北海道においては、【ニセコ】【天北】のように老朽化するキハ56系を客車に置き換えた例が存在します。

【ニセコ】は1981年2月より、特急用14系客車が充当され、急行列車としては破格の、「乗り得」列車になりました。キハ56系はおろか、キハ80系特急型気動車よりも快適だったようですね。その14系客車は、1980年10月改正で廃止された関西~九州連絡の山陽筋急行列車からの捻出だったみたいです。北海道向けに改造が行われ、特に客用扉は折り戸から引き戸に変更されるなど、本州用とは印象がかなり変わりました。

ちなみに、山線経由の特急には【北海】があり、1981年には急行列車の格上げで、2往復に増強され、新型キハ183系も充当されました。しかし、1986年11月ダイヤ改正までに山線経由の優等列車は全廃。このほか、函館本線には北海道で最後まで旧型客車が残り、函館-札幌間の夜行普通列車などで活躍してきたが、やはり1986年11月ダイヤ改正で廃止。


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国鉄末期の京都駅に停車中の奈良行き105系です。
昨日、桜井・和歌山線の営業運用から引退したばかりです。

本日、1984年10月1日奈良線電化から、ちょうど35周年を迎えました。

電化当初、奈良線は普通列車オンリーで、105系の2両編成を主体に、時折113系春日色(元祖・大和路快速色)4連が加わるという格好で、桜井線・和歌山線ともども典型的な電化ローカル線でした。一方、桜井線などと共通運用を組むことから、桜井線桜井・高田方面への直通列車も設定。しかし、奈良線は京都近郊区間ゆえ、利用客は漸増、105系の2両では輸送力不足となることから(ラッシュ時間帯には最大6両編成の運用もあったが)、10年後の1994年には103系に置き換えられ、奈良線の運用から撤退。113系春日色も奈良地区からの撤退は早く、1995年までに消滅しました。この間、奈良線に快速が新設され、当初は117系が充当されるが、2001年の部分複線化に合わせた増発を機に、221系に置き換えられ、現在に至ります。数年後の複線区間拡張完成時には、奈良線もまた大きく変わりそうですね。



1980年(昭和55年)の近畿圏の国鉄に関するニュースを挙げてみました。

○東海道・山陽本線新快速に117系<シティライナー>投入、7月までに153系を置き換え完了

○東海道・山陽本線快速電車113系のグリーン車(サロ) 連結を10月ダイヤ改正までに廃止

○草津線・桜井線・和歌山線(王寺-五条)電化、113系の新造または転属(関西線快速用に春日色2000番台6連×3本新造、湖西線・草津線用2700番台新造、非冷房車4連口春日色を桜井・和歌山線に)(3月3日)

○関西~九州間(夜行)急行列車全廃(10月ダイヤ改正)

○東海道本線の名阪急行【比叡】を1往復に削減、所属も宮原→大垣に変更(10月ダイヤ改正)

○夜行1往復だけ残存の電車急行【鷲羽】(新大阪-宇野)廃止(10月ダイヤ改正)

○紀勢本線(亀山機関区)からDF50が引退(3月1日)

○急行【くまの】<京都-紀伊勝浦>(草津線経由)廃止、【しらはま2・3号】<京都-白浜>(奈良・桜井・和歌山線経由)を【紀ノ川】<京都-和歌山>に短縮、【しらはま1号】<新宮→名古屋>(和歌山・高田・奈良経由)を【かすが8号】<奈良→名古屋>に短縮(10月ダイヤ改正)

○特急【くろしお】(381系)を9往復から12往復に増強(10月ダイヤ改正)

○阪和線に103系高運転台車を6連×3本投入

○急行【美保】<福知山-出雲市>を<鳥取-出雲市>に短縮(10月ダイヤ改正)


かつての鹿児島本線の名門列車、特急【有明】。

特急【有明】は1967年に登場。1970年鹿児島本線全線電化後は485系で運転されるようになり、山陽新幹線博多開通(1975年)以降、新幹線との連絡を考慮したダイヤで大増発が行われ、鹿児島本線を代表する優等列車として定着しました。1982年11月までに鹿児島本線の電車急行を【有明】に格上げし、最盛期には1日30往復を超える大世帯となりました。JR九州発足から1年後、783系(ハイパーサルーン)が投入され、早速JR九州の看板列車としててこ入れが行われます。

1992年7月ダイヤ改正で大きな転機が訪れます。【有明】のうち西鹿児島(現・鹿児島中央)発着列車を【つばめ】、熊本以北のみの列車を【有明】として系統分離が行われました。【つばめ】と一部の【有明】には787系が投入され、ビュッフェも連結するなど、九州新幹線全線開通までの花形列車として君臨。1994年ごろまでには、485系が【有明】から撤退し、【にちりん】【みどり】などに転用。

2011年九州新幹線全線開通後、【つばめ】は廃止、【有明】も大幅に減便。以降、ダイヤ改正ごとに【有明】は減便が続きます。2018年3月以降、平日片道1本のみ、運転区間も大牟田→博多のみの短距離となり、通勤特急の様相が濃厚に。かつての名門ロングラン特急が、ここまで凋落するとは信じられません。

なお、【有明】は国鉄末期~JR初期の頃、485系の3両編成という「ミニ特急」もありました。


東北新幹線開通前の東北本線優等列車について一つレポートしたいと思います。

急行【くりこま】。

【くりこま】は東北本線北半分の仙台-青森間を走破する電車急行。運用車両は交直流急行型電車455・457系。「くりこま」の由来は、宮城・秋田・岩手3県境にまたがる栗駒山(標高1626m)。東北新幹線盛岡開通前(1982年)のダイヤでは、【くりこま】は3往復の運転でした。 交直流急行型電車も東北地方北部ではどちらかといえば数は限られ、電化区間も含めて急行列車は気動車(キハ58系)のほうが圧倒的だったようです。盛岡まで到達していた電車急行(455・457系使用)は、【くりこま】3往復のほか、【いわて】(上野-盛岡、2往復)、【もりおか】(上野-盛岡、常磐線経由、2往復)のみで、盛岡以北は【くりこま】だけでした。

実を言うと、私個人的に青森での455・457系電車は想像しづらいです。同じ交流電化の羽越本線や奥羽本線米沢以北では、急行列車は気動車または客車の独壇場で、かのロングランの日本海縦貫【しらゆき】(金沢-青森間)も気動車でした。【しらゆき】は455系電車での運用が可能だったのではとの見方もあるが、北陸本線は交流60Hz、羽越・奥羽本線は50Hz、その中間の信越本線などは直流電化と、3つの異なる電気方式を跨ぐことになるため、充当できる急行型電車がなかったことも一つの理由だとされています(もっとも、非電化支線区直通の【白馬】【千秋】などと併結できるメリットもあるが)。


伯備線の優等列車といえば、381系の特急【やくも】でしょう。

伯備線は岡山・倉敷-米子を結ぶ陰陽連絡線の中核を担っており、 特急【やくも】のほか、東京直通の寝台特急電車【サンライズ出雲】や貨物列車も行き来する主要幹線となっています。

伯備線の【やくも】が設定されたのは、1972年・山陽新幹線岡山開業の時でした。当時、伯備線は非電化だったため、キハ181系で運用されていました。【やくも】は、気動車時代から他の山陰特急とは「別格」の扱いだったようで、新幹線連絡という重要な役割を持っていたこともあって、L特急並みの本数が設定され、気動車では珍しいL特急でした。運行区間は大半の便は岡山~出雲市間でさほどの長距離ではないものの、食堂車は連結。また、1往復だけ岡山-益田間直通もありました。以降、伯備線は、山陽地区ばかりか、首都圏や関西圏と山陰を結ぶ幹線ルートとして重要視されるようになり、従来の山陰本線や福知山線経由の列車に取って代わることになります。10年後の1982年、伯備線は電化され、【やくも】は381系に置き換えられ、運転区間も岡山-出雲市間に統一。

伯備線の優等列車は、非電化時代から既に特急【やくも】が主体的だったが、【やくも】を補完する急行列車【伯耆】も2往復だけ設定されていました。山陽新幹線開業以前は、宇野から伯備線・山陰本線・山口線を大回りする急行とか、芸備線の急行【たいしゃく】が新見から岡山へ直通するというのもあったようですが。【伯耆】はもちろん気動車(キハ58系)で、確か岡山機関区所属でした。地味な存在ながら、グリーン車(キロ28)も連結されるが、全車自由席であまり華やかさはなかったようです。【伯耆】は1982年の電化で廃止、【やくも】に一本化されます。

【伯耆】は、他の岡山発着気動車急行【砂丘】と運用は独立だったように思います(【砂丘】にはキハ65形が必ず組み込まれたはずなので)。同じく岡山機関区が受け持っていた姫新線の【みまさか】とは共通運用があったのでしょうか?


阪和線に「新快速」電車が運転されていた時代がありました。

国鉄時代の1972~1978年のわずか6年間のみでしたが、阪和線天王寺-和歌山間に料金不要の最速達列車・「新快速」が設定されました。運転開始は京阪神(東海道・山陽本線ほか)の新快速運転開始と同じ1972年3月15日ダイヤ改正。京阪神の新快速には153系の青帯(ブルーライナー)が用意され、阪和線の新快速には京阪神の新快速と同じ塗装を配した113系が充てられました。その113系は東海道山陽本線(大鉄局)からの転属で、冷房付きでした。旧型国電の巣窟だった阪和線においては貴重な冷房車でした(転属前当時、大鉄局管内においても貴重な冷房車だったので、阪和線への転出には抵抗があったとか)。阪和線の新快速運転開始は、ブルーライナー113系40年間の歴史の始まりでもありました。

阪和線の新快速は、途中の停車駅は鳳のみ。所要時間は45~51分でした。これは前身の阪和電気鉄道の超特急以来のものだったと言われます。ダイヤは日中の9時台~15時台に60分間隔の運行でした。

京阪神の新快速は順調に利用客を増やして今日まで成長を遂げたのに対し、阪和線の新快速は京阪神間に比べて直通需要が少なく、停車駅が少ないこともあって利用状況は伸び悩んだようです。1977年に和泉砂川と熊取を停車駅に加えましたが、利用状況は改善されることなく、1978年10月紀勢本線電化開業のダイヤ改正で快速に統合される形で廃止となりました。

以降、阪和線に新快速が運転されることはありませんでした。ただ、その後も113系そして103系の方向幕には、なぜか「新快速」が入っていたりし(JR西日本書式の幕に取り替えられた後も)、将来の新快速復活を視野に入れたものなのかと思わせます。

新快速ではないが、JR時代に「関空特快ウィング」という最速達列車が設定されたことはあります。運用車両は223系0番台、指定席も設定されるが、やはり利用状況は芳しくなく、関空快速・紀州路快速に統合される形で短命に終わりました。

現在、阪和線の料金不要の最速達列車と言えるものに、関空快速・紀州路快速、そして「快速」の3種類があります(運用車両は223・225系)。紀州路快速は、日根野-和歌山間各駅停車化されたことに加え、日根野以北では関空快速と連結が行われるため、阪和間の所要時間は延び、国鉄時代の快速電車よりも遅くなっており、サービスダウンと言えます。


国鉄時代の天王寺鉄道管理局などにおける気動車については、本ブログで度々レポートを投稿してきました。この度、大阪鉄道管理局管内向日町・宮原所属のキハ58系急行型気動車について書いてみることにしました。

大阪鉄道管理局管内で気動車が配置されていた車両基地に、

向日町(大ムコ)、宮原(大ミハ)、加古川(大カコ)、姫路(大ヒメ)

が挙げられます。加古川・姫路は、支線の加古川線や播但線・姫新線ローカル用の一般型気動車専門なのに対し、全国的広域運用の拠点である向日町・宮原には特急・急行型気動車が大量に配置されていました。また、向日町には山陰本線京都口ローカル用の気動車(キハ10・20系→キハ47形)も所属。

当記事では、向日町と宮原に所属していた国鉄末期のキハ58系についてレポートしたいと思います。

1984年現在、向日町・宮原に所属していた気動車の陣容は、

(向日町)
キハ181系:キロ180(7)、キハ181(13)、キハ180(28)
キハ80系 :キロ80(4)、キハ82(8)、キハ80(9)、キシ80(4)
キハ58系:キロ28(3)、キハ65(5)、キハ58(10)、キハ28(7)
キハ40系:キハ47(19)

(宮原)
キハ58系:キロ28(4)、キハ58(12)、キハ28(6)

(出典:鉄道ジャーナルNo.210 1984年8月号)

向日町運転所には、主に優等列車用の電車(485系・583系)から気動車・客車まで、多士済々な車両が揃っていました。一方、宮原機関区は電車区・客貨車区と併設であり、電車の顔ぶれは急行型165・167系(団体・波動用)、117系(新快速)、113系(東海道山陽ほか快速)、103系黄色(福知山線普通)なのに対して、気動車はキハ58系急行型気動車のみでした。

向日町の特急型気動車は日本海側の山陰本線・福知山線・播但線方面向けなのに対し、急行型気動車は京都発着・南近畿(主に天王寺鉄道管理局管内)の【紀ノ川】【志摩】のみを担当していたのが興味深いです。【紀ノ川】は奈良・桜井・和歌山線経由で京都・和歌山間を結び、【志摩】は草津線経由で参宮線の鳥羽まで足を伸ばしていました。【紀ノ川】【志摩】は共通編成で、キロ28に加えキハ65×2を組み込む贅沢な5両編成でした。高出力のキハ65が2両も組まれた理由として、関西本線の加太越えや和歌山線北宇智のスイッチバックに対応するためだったと言われています。【紀ノ川】【志摩】編成は、朝の奈良線や山陰本線京都口の普通列車にも運用されていました。【紀ノ川】は1984年10月奈良・和歌山線電化で廃止。【志摩】は1985年3月改正で2往復体制になるが(内1往復は【平安】の建て替え分、亀山機関区担当)グリーン車無しとなり、1986年10月、国鉄最後のダイヤ改正で廃止されました。

宮原のキハ58系は、【丹波1・8号】<大阪-天橋立>、【みささ1・4号】<大阪-鳥取>(姫新線・因美線経由)、【みまさか1・6号】<大阪-中国勝山>(姫新線経由)、【たかやま】<大阪-飛騨古川>を担当。【丹波1・8号】は舞鶴線・宮津線経由であり、福知山・西舞鶴で2度スイッチバックでした。【丹波】編成は【たかやま】と共通でした。宮原の気動車は1986年国鉄最後のダイヤ改正で向日町に統合。JR発足後も残った【みささ】【みまさか】【たかやま】は向日町の担当になりました。【みささ】【みまさか】はJR発足当初、ローカル急行では数少なくなったグリーン車連結だったが、2年後に廃止。【たかやま】は1999年、JR東海キハ85系の特急【ワイドビューひだ】に代わり、俗にいう「大阪ひだ」として、現在も運行中です。

【丹波】は、1986年福知山線全線電化で廃止されるが、2年後の宮福線(京都丹後鉄道)開通に合わせ、福知山線・宮福線経由で大阪-天橋立間を結ぶ【みやづ】がキハ58系で登場(向日町区担当、福知山-天橋立間快速)、かつての【丹波1・8号】を彷彿とさせるものでした。臨時列車でありながら毎日運転、普通車2両のみの身軽な姿でした。電車特急<北近畿>(485系→183系)に比べて足が遅く接客設備の古くて遜色がありすぎる【みやづ】に乗る人はほとんどなく、空気輸送だったようです(【みやづ】は1996年廃止)。


上越新幹線開業が目玉の国鉄1982年11月15日ダイヤ改正。

このダイヤ改正では、東北・上越線系統の話題が目立ちそうですが、北陸本線においても電車特急は大増発、代わりに急行列車は激減するなど、かなり大きな変更がありました。

ダイヤ改正前の北陸本線の急行列車(金沢発着の七尾線直通【能登路】を除く)は下記の通り:

【きたぐに】(12系客車+寝台)  大阪-青森(米原経由)   1往復
【越前】(旧型客車)       福井-上野(長野経由)   1往復
【能登】(10系客車ほか)     金沢ー上野(上越線経由)  1往復
【立山】(475系)        大阪-富山・糸魚川・宇奈月温泉
                      (湖西線経由)  3往復
【ゆのくに】(475系)       大阪-金沢(米原経由)   1往復
【くずりゅう】(475系)     米原-福井・金沢        5.5往復
【しらゆき】【白馬】(キハ58系) 金沢-青森・松本      1往復
【大社】(キハ58系)       名古屋-出雲市、福井-天橋立 1往復
【わかさ】(キハ58系)      東舞鶴-福井        1往復
【のりくら】(キハ58系ほか)   金沢-名古屋(高山本線経由) 2往復

関西-北陸間を結ぶ優等列車は既に湖西線経由がメインルートに移行したが、急行列車については米原経由がかなり残っていました。米原発着の【くずりゅう】はL特急並のまとまった本数だけありました(ただし普通車のみのモノクラス編成)。【大社】は中京圏・北陸と山陰を小浜線経由で結ぶ使命を担っていたが、さすがに全区間直通需要は少なかったようですね。【わかさ】は福井県若狭地方の小浜線内ローカル急行ですが、若狭地方から県都・福井市への通勤・用務需要、及び福井発着【大社】(→【はしだて】)送り込みも兼ね、本線(敦賀-福井間)に直通する便もありました(※1)。【しらゆき】【白馬】は金沢-糸魚川間連結、【しらゆき】ははるばる青森までロングラン、【白馬】は大糸線経由で松本まで直通していました。

82年11月15日ダイヤ改正では、475系ほか交直両用電車使用の急行は【くずりゅう】1往復を残して全廃、ロングラン気動車急行【しらゆき】【大社】廃止、【きたぐに】は大阪-新潟間に短縮されるなど、急行列車は壊滅状態にまでリストラ。改正後の北陸本線急行列車は、

【きたぐに】(12系客車+寝台)   大阪-新潟(米原経由)   1往復
【能登】
【くずりゅう】(475系)      米原-福井        1往復
【はしだて】(キハ58系)      天橋立-福井       1往復
【わかさ】(キハ58系)       東舞鶴-福井       1往復
【のりくら】(キハ58系ほか)   金沢-名古屋(高山本線経由) 2往復

北陸本線をメインに走行する昼間の急行列車はほぼ全滅(夜行の【きたぐに】【能登】が残る)、支線区へ直通する気動車急行のみが細々と残りました。交直流急行型電車の京都・大阪乗り入れもなくなり、【くずりゅう】1往復を除いて北陸本線内ローカルに転用。【しらゆき】は金沢-青森間の電車特急【白鳥】に格上げ。【大社】の名古屋-出雲市編成は廃止(※2)、福井-天橋立編成を【はしだて】に改称した形で残存。

(※1)北陸本線とは直接関係ないことだが、【わかさ】のうち、下り敦賀発の1本は、西舞鶴で宮津線からの【丹後】と併結し山陰本線京都まで直通

(※2)名古屋【大社】は1982年7月伯備線電化開業以降、天橋立発着に短縮



和歌山線全線電化開業(1984年10月)前の頃の気動車運用についての興味。

1980年3月の王寺-五条間電化完成の時、非電化で残った五条-和歌山間の普通列車は、基本的に和歌山機関区(天ワカ)のキハ35系(キハ35・36)を使用。紀勢本線末端区間の和歌山-和歌山市間(紀和線)と共通使用でした。電化前は奈良気動車区のキハ35系を中心に、キハ45なども使われていたが、奈良からキハ35系の一部が和歌山に転属する形となりました。和歌山機関区はもともと紀勢本線優等列車用の気動車を管轄。同区には、急行<きのくに>などに使用されるキハ58系(キハ58・28・65、キロ28)などが配置されていたが、 1980年3月以降、キハ35系が加わりました(その代わり、キハ58系の一部は奈良へ転属、急行<かすが><紀州>を担当)。ちなみに1973年9月関西本線湊町電化前は、和歌山にキハ45その他の一般型気動車も配置、紀勢本線和歌山口普通列車と和歌山線、そして王寺から関西本線に乗り入れ天王寺まで足を伸ばしていたが、電化後、一般型気動車は奈良区の一括管轄に(→関西本線電化で余剰となったキハ35系が紀勢本線和歌山市-新宮間に進出! 1978年10月和歌山ー新宮間は電化)。

五条電化後の和歌山線五条-和歌山間普通列車は、全線直通の客車列車1往復(旧型客車→50系)を除いて和歌山機関区の気動車でした。ロングシートのキハ35系が主体だったが、時折キハ58系との混結もあったようです。早朝・深夜には<きのくに>編成の間合い運用もあったようで、今年3月まで活躍していた117系電車に通じるものがあります。なお、和歌山線にキハ40系が運用されたことはありません。

急行列車は1980年10月改正以降、京都-和歌山間(奈良・桜井線経由)の<紀ノ川>が1往復。もとは紀勢本線白浜に直通する<しらはま>だったが、運転区間を短縮し<紀ノ川>に改称。<紀ノ川>は向日町運転所(大ムコ)のキハ58系使用で、キハ65形およびキロ28を組み込んだ贅沢な5両編成でした。

1984年10月の全線電化開業後(奈良線も同時に電化)、和歌山のキハ35系は亀山などへ転属。紀和線も同時に電化されました。和歌山線の客車列車および<紀ノ川>も廃止。電化後、和歌山線は普通列車オンリーとなり、113系赤帯と105系(103系1000番台からの改造)に代わりました。113系は和歌山線から姿を消して久しく、105系も今年秋までに227系1000番台に置き換えられる予定です。和歌山線電化後も残った急行<きのくに>用のキハ58系は、翌年3月に485系の<くろしお>に置き換えられ(合わせて南海から紀和線経由の南紀直通列車も廃止)、全廃。これにより、和歌山周辺から気動車が消滅しました。


かつて国鉄時代、北陸本線敦賀近辺もなかなかの気動車王国でした。

北陸本線は既に電化され、485系の特急列車などが賑やかに行き交う中、普通列車は客車または気動車が多かったです。というのも、大半が交流電化であり、高価な交直流両用の近郊型電車を北陸本線に導入する余裕がなかったことが理由のようです(国鉄時代末期になって急行列車の廃止で余剰となった457・475系電車がローカルに転用、客車列車は全廃)。また、京阪神に最も近い米原-敦賀間においては、交直流セクションにあたるため、 東海道・山陽本線からの直流電車(113・117系ほか)を直通させることが不可能で、米原口の短距離区間普通列車を中心に気動車が運用されていました。同様に、京阪神と北陸を短絡する湖西線(1974年開通)も、永原-近江塩津間に交直流セクションが設置されていたため、113系は終点・近江塩津の一つ手前の永原までしか運用できず、近江今津以北には敦賀直通の気動車列車が設定されていました。

敦賀近辺の気動車は、敦賀機関区(金ツル)が運用管轄していました。敦賀の気動車は、国鉄末期は

キハ58・28、キハ40・48、キハ20

が配置されていました。キハ40・48が投入される前は、キハ26が配置されていたようです。敦賀には西日本では数少ない寒冷地用のキハ48形が5両(0番台3両、1000番台2両)だけ配置されたことが特徴的で、0番台・1000番台自体少数派で、JR西日本に継承されました。キハ40形は暖地用の2000番台です。


敦賀区の気動車は、主に小浜線(敦賀-東舞鶴)向けであり、小浜線の急行列車<わかさ><はしだて>、そして山陰本線京都口<丹後>の小浜線直通付属編成(小浜線内普通列車)などにも充当され、山陰本線京都~福知山、宮津線天橋立まで足を伸ばしていました。<はしだて>は、1982年11月改正前は<大社>であり、福井-天橋立間(1978年以前は金沢-米子間だった)の運転で、同じ<大社>のロングラン名古屋~出雲市間編成(名古屋編成は美濃太田所属)に併結運転が行われていました。名古屋編成はキロ28連結なのに対して、福井編成は普通車のみの身軽な3両でした。敦賀所属のキハ58・28は、福知山局(福知山・豊岡区)のほか、名古屋局(美濃太田区)の気動車とも併結運転が行われていたわけです。<はしだて>の送り込みも兼ねて、朝の上り・夕方の下り<わかさ>は、県都・福井まで直通運転が行われていました。

小浜線も1984年2月改正まで客車列車が設定されていたが、全列車気動車化されました。また、小浜線・舞鶴線の普通列車として、福知山までキハ40・48やキハ20が乗り入れ、キハ47王国・福知山鉄道管理局管内では異彩を放っていました(キハ20は1982年頃まで福知山管内に在籍していたが)。逆に小浜線には福知山区のキハ47も乗り入れていたが、本数は少なく、小浜線でのキハ47はあまり馴染みがありません。

北陸本線米原口・湖西線北部末端区間のローカルには、主にキハ40・48が使用されていたが、時折キハ58・28も連結され、また米原から1区間だけ東海道本線に乗り入れ彦根まで足を伸ばしていました。

このほか、国鉄時代は越美北線の気動車も敦賀機関区が管轄していたようで、キハ23・52が使用されていました。

JR発足以降、普通列車用の気動車は新・敦賀色に塗り替えられました(急行列車の運用に入る一部のキハ58系は急行色のまま)。1991年9月、北陸本線米原-長浜間の直流化工事完成、京阪神から長浜まで新快速電車が直通運転を開始しました。これに伴い、北陸本線・湖西線での気動車普通列車は廃止、湖西線北部の普通電車にも413・419・457・475系電車が使用されるようになりました。加えて、小浜線ワンマン運転も始まり、キハ58・28がワンマン仕様に改造を受けました。キハ48ははるばる山陰本線下関口へ飛ばされます。キハ48形はその後、岡山のぼったくり急行<つやま>で有名になったり、その着せられた汚名を返上すべく、最近では七尾線の観光特急<花嫁のれん>用に大改造を受けたものもあります。キハ40系が敦賀からいなくなった代わりに、キハ53が転入。キハ53もワンマン改造を受け、2003年の電化までキハ58・28ともども小浜線のローカル運用をこなしました。また、キハ53は、なぜか急行<はしだて>格下げの天橋立快速にも使用され、宮津線(北近畿タンゴ鉄道→京都丹後鉄道)では違和感のある存在でした。



久しぶりに国鉄時代ネタを書いてみようと思いました。

山陰と九州を結んだ急行列車<さんべ>。

<さんべ>は、山陰本線西部を代表する優等列車の一つであり、JR発足後10周年まで、数少ないロングラン気動車急行として細々と残っていました。最盛期には気動車2往復に加え、夜行便(客車)という体制でした。気動車については、分割併合がフレキシブルという性能を生かし、途中の長門市-下関間において美祢線経由と山陰本線経由に分かれるものもあって、いわば「再婚列車」として有名でした。さらに、鳥取-熊本間という超ロングラン列車もあり、山陰本線西部区間において長距離特急<まつかぜ>(新大阪-博多)とともに花形的存在でした。鹿児島本線博多以南においては、主役のL特急<有明>(485系)とともに、脇役の急行<ぎんなん>(主に457・475系)、豊肥本線直通の<火の山>、肥薩線直通の<えびの>、そして山陰から直通の<さんべ>(いずれも気動車)ほか、百花繚乱の急行列車が行き交っていました。

熊本<さんべ>の気動車は米子機関区(米ヨナ)所属、間合いで三角線のローカル運用にも入っていたそうです。もちろんキロ28を連結。鳥取・米子界隈では、大阪<だいせん>、名古屋<大社>ともども、長距離気動車急行として肩を並べていたことになります。

<さんべ>の熊本直通は1980年10月ダイヤ改正で博多発着に短縮。以降、九州内(小倉-博多間)では快速列車に格下げとなります。1985年3月改正では、<さんべ>は夜行廃止で1往復のみとなることに加え、小倉発着に短縮、グリーン車連結は廃止となり、ローカル急行に転落。同時に、特急<まつかぜ>も米子以西打ち切りとなって、<いそかぜ>に系統分割。山陰本線長門市以西の優等列車は、<いそかぜ><さんべ>各1往復のみとなりました。現在、益田以西の優等列車はありません。


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信州のローカル線・JR東日本小海線で活躍した国鉄型気動車についてレポートを書いてみようと思いました。

小海線は山梨県の中央本線小淵沢駅と長野県の信越本線(しなの鉄道)小諸を結ぶローカル線。八ヶ岳東麓の野辺山高原から千曲川上流に沿って佐久盆地に下ります。野辺山駅はJR線最高の駅(標高1345m)として知られます。

日本最高峰の高原地帯を通る路線ゆえ、国鉄時代は2エンジン車のキハ52・55・57・58形(中込機関区→小海線営業所、長コメ)が使用されていました。キハ57形は信越本線横軽(碓氷峠)のアプト区間対応に作られた急行型気動車(台車以外はキハ58形と共通仕様)ですが、信越本線電化で余剰となり、名古屋・小海線および四国に散らばり、国鉄末期までに大半が廃車、2両のみがJR四国に継承されるも、1991年までに全廃。小海線の国鉄型気動車は1992年に新型キハ110系に置き換えられました。

国鉄末期の小海線の気動車について、私個人的に興味があるのは、国鉄末期に近畿地方の亀山機関区(天カメ)から非冷房車のキハ58形(キハ58 643、651、1040)が転入したこと。ほかに、米子から非冷房の同じくキハ58形(641号)、岡山・西鳥取から冷房車(キハ58 204、308、427、503、675、677号)も転入、キハ55・57形などを置き換えましたが、小海線には冷房電源装置付きのキハ28形やキハ65形が配置されていないゆえ、非冷房で列車運用せざるを得ませんでした。

1991年夏、「青春18きっぷ」で小海線の旅をしました。前夜、急行<ちくま>で車中泊、小諸から香味線に乗りました。例によってキハ58形でしたが、非冷房でしかも観光シーズンとあって混雑、暑苦しかった思い出があります。キハ52の姿を拝むこともできました。小淵沢から中央本線で甲府、乗り換えて身延線で富士、そしてひたすら東海道本線を乗り継いで大阪へ帰る行程でした。


国鉄時代末期頃の片町線非電化区間(長尾-木津)で活躍していた気動車たちについて。

JR発足(1987)から全線電化開業(1989)までについては、JR西日本亀山運転区のキハ58系やキハ35、キハ47、キハ53が運用されていたことはよく知られるところですが、その少し前の国鉄時代1984~86年頃に片町線の運用に入っていた気動車たちの足跡に興味があります。

もともと、片町線長尾-木津間の気動車は奈良気動車区(→運転所)が担当、1970年代までは主にキハ10系およびキハ20、1980年代に入ってキハ35系やキハ45、そしてキハ40などが活躍するようになりました。関西本線や奈良線・桜井線・和歌山線などと共通で使用されていました(桜井・和歌山線は1980年3月電化)。1980年代前半当時、片町線では、昼間時間帯は

キハ35+キハ36、キハ35+キハ40、キハ35+キハ45

というペア編成が多く、時に

キハ40+キハ20、キハ35+キハ20

といった組み合わせも見られたようです。キハ20は1982年に奈良から姿を消しました。

1984年10月奈良線電化により、奈良運転所の気動車配置は廃止(→奈良電車区を新設)、非電化で残った関西本線(亀山-木津-奈良間)および片町線の気動車は亀山機関区に移管されました。当時、亀山機関区にはキハ58系が各地から相次いで転入、1983年までにキハ55形などを置き換えました。もともと亀山区には急行運用は存在せず、キハ58形は初期車や非冷房車も多く、2エンジン車の性能を生かし急勾配路線の信楽線・名松線などで使用。加えて1984年10月より、奈良区が受け持っていた急行<かすが><平安>が亀山に移管され、同区からもキハ58・28が転入。亀山区には、キハ47形や両運転台のキハ30形、キハ53形なども配置されており、同じ天鉄局管内、キハ35系の大所帯だった奈良区とはかなり異なる陣容でした。

片町線にキハ58系が姿を現すようになったのは、1985年3月ダイヤ改正の頃でした。紀勢本線の<きのくに>廃止で余剰となったキハ58・28が亀山・伊勢などに転属し、従来キハ35系の多かった普通列車にもキハ58系が使用される機会が増えました。片町線では、

キハ58+キハ35、キハ58+キハ47

という2両編成が一般的でした。時に、

キハ58+キハ30、キハ58+キハ40

という組み合わせも見られたかもしれません。朝夕の単行運転ではキハ30形またはキハ40形を使用。私個人的に、キハ58形の非冷房車(キハ58 643・651号ほか)が片町線の運用に入ったことがあるのかが気になります(亀山の非冷房車は1986年、小海線へ転出→JR東日本所属に)。亀山区所属ののちJR東海(伊勢区)に継承されたキハ58形やキハ47形(3・4・1109・1110)も、片町線に入線した経験はあるはずだと思いますが・・・。

1986年3月ダイヤ改正では、同志社大学京田辺キャンパス開校を控え、片町線長尾-木津間の列車本数増発を実施。合わせて単行運転は解消され、全列車2両編成での運用に。この時よりキハ53形が片町線に姿を見せるようになり、電化開業まで続きます。キハ53形はキハ45系の両運転台・2エンジン(すなわちキハ23形の2エンジンタイプ)として登場したが、全国的に少数派。もともと信楽線用に亀山区に配置されていたが、1984年に伊勢へ転属ののち(伊勢線単行運転のためにキハ30が亀山に追加転入、キハ40ともども片町線単行運用の分と共通化、キハ53形を勾配区間の紀勢本線に回すためのやりくりと考えられる。信楽線については主にキハ58を使用)、1986年3月亀山にカムバック。キハ53形は両運転台車にもかかわらず、キハ35またはキハ47と2両編成を組むことが一般的でした。


1973年10月関西本線奈良-湊町(現・JR難波)間電化以降、1978年の紀勢本線新宮電化開業にかけての奈良気動車区(→運転所)の気動車について、とても興味深いものがあります。

奈良気動車区はロングシート通勤型キハ35系の大所帯として有名であり、電化前の関西本線奈良-湊町間(大和路線)のラッシュ輸送に大活躍、非電化区間では異例の国電型高頻度ダイヤを組んでいました。関西本線電化後、キハ35系は奈良周辺の非電化路線で引き続き活躍、和歌山県の紀勢本線(新宮-和歌山市間)にも進出。和歌山機関区所属だったキハ45は奈良に転属、和歌山区の気動車は特急・急行型のみに整理されました。キハ45は和歌山所属時代、天王寺-和歌山間(和歌山線経由)の直通列車に入ることが多かったようです。

1973年10月以降の奈良気動車区の運用範囲は、

関西本線(名古屋-奈良)、奈良線、片町線(長尾-木津)、桜井線、和歌山線、紀勢本線(新宮-和歌山市)

と、紀伊半島西側を全面的にカバーする形に。紀勢本線の普通列車も多くが気動車化され、特に和歌山口では奈良・桜井・和歌山線と同様、キハ35系に当たる確率が高くなり、オールキハ35系ということも珍しくなくなったようです。時折キハ45やキハ10系、キハ20などが組まれたり、先頭にキハユニ16が連結されるものもありましたが。和歌山-新宮間200kmのロングランでさえ、キハ35系オンリーが当然の如く充てられることも多く(→現在の紀伊田辺-新宮間の105系のような感じ)、関西本線名古屋-奈良(-湊町)間以上の苦行を強いられることに。

一方、紀勢本線東側の気動車は亀山・伊勢所属、特に亀山区運用列車については(主に新宮以東、電化前は紀伊田辺までの運用もあった)、急勾配区間の名松線や信楽線と共通ということもあって、キハ55やキハ10系など、クロスシート車に当たる確率が高く、長距離利用客への配慮があったようです(→今では、この区間でもロングシートのキハ25系で難行苦行を強いられるようになった)。ただ、新宮電化以降、車両やりくりの関係上、紀勢東線でもキハ35系が増えたように見えます。

片町線長尾-木津間は、閑散区間ということもあって、キハ10系またはキハ20の1~2両で運用されることが多かったが、やはりここにもキハ35系が進出。

1978年10月紀勢本線電化後、奈良の気動車のうち、キハ45は半数ほど伊勢に転属。伊勢線(→伊勢鉄道)・参宮線・紀勢本線(亀山-新宮)で使用されるようになりました。キハ35系も一部転属はあった模様だが、大半はそのまま残り、関西本線奈良以東、奈良線、桜井線、和歌山線、片町線で活躍を続けました。

1980年3月桜井線・和歌山線(王寺-五条間)電化開業後、非電化で残った和歌山線五条-和歌山間運用のために一部のキハ35系は和歌山に転属。キハ35は伊勢に転属したものもありました。代わりに、和歌山からキハ58系の一部が転入、名古屋を拠点とする紀勢東線の急行<紀州>、および関西本線<かすが>の一部を担当することになりました。奈良区の気動車が紀勢本線新宮以東の営業運転に入るのは、これが初めてかもしれません。なお、湊町電化前にも、臨時<きのくに>用として奈良にキハ58系が配置されたことはあり、間合いで奈良-湊町間の快速に使用されました。

奈良の気動車はその後、1981年に初めてキハ40が3両配置。キハ20ともども、主に奈良線ラッシュ時増結および片町線で運用されていました。そして、1982年5月関西本線名古屋-亀山間電化後、亀山以東への普通列車運用はなくなり、急行運用についても<かすが><平安>(そして<かすが>崩れの快速)担当に変更となったことに加え、グリーン車連結も廃止されたため、キロ28は転出。<平安>を受け持つようになったことにより、草津線経由で京都駅への乗り入れが実現、奈良線のキハ35系ともども、京都駅に奈良区の気動車が出入りしていたのは興味深いです。ただし、<平安>編成は<かすが>と共通の普通車3両編成、午前中に京都到着後、向日町で昼寝ののち、夕刻に京都駅1番ホームから発車して名古屋へ戻る行路で、奈良線運用とは独立だった模様です。また、1982年夏にはキハ20が姿を消し、代わりに米子からキハ30形が転入。キハ35系の大所帯とはいえ、両運転台車キハ30形が奈良に配置されたのは、これが初めてのこと。

1984年10月奈良線電化直前には、キハ45の代わりになぜか奈良線でキハ40(そして、キハ58系とキハ35系の混結も)が運用されることが多かったようです。奈良線電化後、奈良の気動車配置は廃止、亀山ほかへ転属となります。急行<かすが><平安>および片町線の気動車も亀山区持ちに代わると同時に、普通列車でキハ58系が連結されることも多くなります。


国鉄福知山鉄道管理局管内にキハ47形が登場したのは1977年。
福知山(福フチ)と豊岡(福トカ)に大量配置されました。

キハ47は113・115系など近郊型電車と同じスタイル、2ドア両開き・セミクロスシート。キハ45系の基本レイアウトを受け継いだもので都会的な仕様となり、山陰本線京都口(嵯峨野線)を中心に、福知山線・舞鶴線・宮津線・小浜線など北近畿各線で活躍。

私個人的に、キハ47登場以前の福知山地区の一般型気動車について興味があります。

キハ47がデビューする前は、ローカル用に旧・準急用の1エンジン・キハ26が大量に在籍していました。なぜ福知山地区にキハ26が多かったのかは気になるところ。ほかに両運転台キハ20もあり、キハ10系、そしてキハ35系(キハ35、36形)も! キハ35系(ロングシート車)といえば、関西・紀勢本線のイメージが強く、福知山に在籍していたとは信じられないが、山陰本線京都口の近郊輸送に使用されていたそうです。京都駅には奈良線(天ナラ)に加え、山陰本線のキハ35系が発着していたことになります。福知山管理局管内では播但線で姫路(大ヒメ)のキハ35系も使用されていました。 

キハ47は1982年まで投入が続き、その過程でキハ26との混結もありました。その後、一般型気動車はキハ47形に統一。以降、普通列車はキハ47形またはキハ58系のみとなりました(小浜線・播但線など他管理局からの乗り入れを除く)。両運転台キハ20の代替が片運転台キハ47というのも気になるところです。

なお、山陰本線福知山-豊岡間普通列車について、電化前は大半が客車列車、気動車は急行列車間合い(キハ58系)が中心でした。豊岡以西も客車列車のほうが多かったが、キハ47使用の普通列車も設定されていました。


関西本線(大和路線)・奈良線・桜井線・和歌山線で運用されていた113系(赤帯)について、 一つ気になること。

それは、編成の向き。

もともと赤帯113系は阪和線・紀勢本線用青帯と共通の鳳電車区→日根野電車区所属。赤帯車は阪和線系統で運用されることもありました。関西本線系統で運用される分は阪和貨物線(廃止)経由で回送していたため、天王寺駅での阪和線と関西本線(・大阪環状線)では編成の向きが逆になっていたはずです。環状線に直通する関西本線快速(元祖・大和路快速)の、大阪駅での東海道・山陽快速用(湘南色)との向きの関係はどうだったのかも気になります。

のちに奈良線・和歌山線も全線電化され、赤帯113系は奈良線京都駅や和歌山線経由で和歌山駅にも顔を見せるようになるが、和歌山駅での阪和・紀勢系統と和歌山線用の編成も確か逆向きだったはず(京都駅での本線系統・湖西線用とも向きは逆だったのでは)。

奈良電車区開設後、関西本線系統の113系は同区所属となるが、おそらく日根野から阪和貨物線経由で転属回送したものと思われ、その後も阪和線用と逆向きである状態は変わっていないはずです。国鉄末期に静岡地区から奈良へ111系が貸し出されたとき、転属回送は日根野電車区に寄り、スイッチバックして奈良へ向かったそうです。

JR発足後、大和路快速が221系に置き換えられ、113系は阪和線(日根野)および東海道山陽筋(網干)へ転用されるが、網干転属編成も向きを揃えるために日根野へ寄った可能性はありそうですね。

同時期に、阪和線~和歌山線五条直通の快速電車(青帯113系)も設定されるが、和歌山線内での赤帯113系(奈良区)とはやはり編成の向きも逆だったでしょう。

奈良の221系はのちに阪和線快速の運用に入っていた時期もあるが、阪和線への回送は阪和貨物線ではなく、直接天王寺駅大和路線・阪和線渡り線、または和歌山線経由で入線していたため、大和路線と編成の向きが異なるということはありませんでした。


かつて、夜行列車が多かった時代、「夜行折り返し」は鉄道旅行の格安宿泊術として有力な手段でした。

「夜行折り返し」とは、夜行列車で往復しながら一夜を明かす方法。周遊券のあった時代、周遊券の有効な自由乗降範囲内で「夜行折り返し」を使って宿泊代を浮かす、ということもごく普通にありました。私・管理人も、「東北ワイド周遊券」で東北本線の急行<八甲田>折り返しを使い、青森?→郡山?→八戸という行程を取ったように記憶しています(八戸からは八戸線→三陸鉄道だったと思う)。当時の東北地方は、夜行急行や客車普通列車がまだ残っていて、鉄道旅行をゆったり楽しめた時代だったと思います。 

夜行列車が絶滅寸前の今、この「夜行折り返し」はほぼ不可能となりました。

しかし、実は今も「夜行折り返し」は可能です。

それは、<ムーンライトながら>の静岡折り返し(上り・下りがちょうど静岡で出会う)。もちろん「青春18きっぷ」シーズンのみの限定ですが、この紹介動画がYoutubeに上がっていたので少しびっくりしました。日付の変わった深夜0時以降、「青春18きっぷ」1日分と指定券往復分のみで、列車内で一夜を明かすことが可能です。

「夜行折り返し」とは少し違うが、国鉄時代、関西旅行のときに宿泊代を浮かすため、紀伊半島一周する普通<はやたま>(名古屋-天王寺)に車中泊という方もいらっしゃったようです。紀勢本線新宮電化後も奇跡的にしばらく残っていました。もちろん<はやたま>折り返し(確か南部駅で上り・下りが交換)も可能でした。


国鉄時代末期(1985~86年ごろ)の岡山気動車区(岡オカ)について少し書いてみたいと思います。

国鉄時代の岡山気動車区に在籍していた気動車は、顔ぶれがとても多彩でした。

国鉄末期の近畿圏だと、福知山鉄道管理局管内(福知山、豊岡)では急行用キハ58系(キハ28・58)と普通用キハ47形で揃えられていたり、また天王寺鉄道管理局(亀山、伊勢)では一般型でキハ35系やキハ40系(キハ40・47)が多くを占め、なおかつ急勾配区間も多く抱えていることもあってキハ58系なども普通列車で使用されることが多くなる一方、キハ20系やキハ55系は既に姿を消していて、今一つ物足りなかったようにも思います。

しかし、岡山の気動車は急行用にはキハ58系のほかキハ65形も配置され、普通列車(一般)用はキハ40系(キハ40・47形)が主力だったものの 、キハ45系もかなり残り、そしてキハ20そしてキハ26形(キハ55系)、キハ35も少数ながら在籍していて、編成もバラエティに富んでいました。ただ、一般旅客の立場からすれば、新しくて乗り心地の改善されたキハ40系、または冷房の入っているキハ58系のほうを好んでいたことでしょう。

運用範囲は津山線・因美線・姫新線・吉備線・芸備線など、岡山県内を中心に姫路・三次・鳥取・倉吉までに及んでかなり広範囲でした。これは現在のJR西日本岡山気動車区も基本的に同様。


国鉄信楽線(貴生川-信楽間)が信楽高原鉄道に転換されたのは1987年7月。3月31日の国鉄終焉、4月のJR発足から信楽高原鉄道開業前の3ヶ月余りのみ、信楽線はJR西日本の管轄でした。 

国鉄末期~JR信楽線の気動車運用などについて気になること。

信楽線には亀山機関区(→運転区)の気動車が使用されていました。33%の急勾配区間を有するため、DMH17型2エンジンの気動車が優先的に使用され、1970年代までは全国的に少数派だったキハ53形(キハ45系の2エンジン両運転台車)が信楽線の運用に入ることが多かったです。草津線非電化時代は貴生川駅で草津線の列車に連結され、草津または柘植まで直通運転を行っていました。

1980年草津線電化以降、信楽線の列車は線内折り返しのみとなり、元準急用2エンジンのキハ55形または急行型キハ58形がキハ35との混結で使用されるようになります。当時、キハ55形は信楽線のほか、同じく急勾配路線の名松線でキハ30またはキハ40とペアを組んで運用されることも多かったようです。亀山のキハ55形は1982年ごろまでに姿を消し、代わってキハ58系(キハ58・28形)が各地から転入するようになります。1985年ごろより信楽線の列車は基本的にキハ58形のみの2両編成で仕立てられるようになります。国鉄末期の1986年11月ダイヤ改正以降、亀山には1エンジン・冷房電源車のキハ28も相当数加わり普通列車への冷房サービス提供も可能となるが、信楽線運用でキハ28形の連結はあったのでしょうか? 

JR西日本・JR東海の境界にあたる亀山運転区はJR西日本所属となり、前述のキハ53形もそのまま同区所属となるが、元々信楽線向けに配置されていたにもかかわらず、JR時代に同線で運用された例も知りません(関西本線・片町線では良く見かけたが)。

もう一つ気になるのは、信楽線そして草津線の列車の担当車掌区。旧・天王寺鉄道管理局管内にあって、国鉄時代は恐らく亀山車掌区が担当していたと思うが、同車掌区はJR東海に移管され、JR西日本管轄の草津・信楽線はどこの車掌区が乗務していたのでしょうか?


1980年(昭和55年)の鉄道ピクトリアルを一つ紹介。

5月号(No.375)は私個人的に興味のある話題が多く掲載されています。

それは、

草津線・桜井線・和歌山線電化
117系新快速運転開始
京都市電(廃止)のコンクール写真
阪神武庫川線寸描
京阪電車置石事故

など、関西の鉄道ファンにとっては目の離せないネタが多いです。草津線の客車列車は、それまで旧型客車使用だったところを50系に置き換えられました。京阪神の新快速は同年夏までに117系への置き換えが完了、その直後に113系快速のグリーン車連結が廃止されました。また、京阪本線守口市-寝屋川信号所間の複々線完成に合わせ、3月23日にダイヤ改正を実施、昼間の枚方市区急(区間急行)を準急に格上げ、朝夕ラッシュ時に樟葉急行運転開始が実施されました。

ほかに

北海道用特急型キハ183系運転開始
中央西線・篠ノ井線80系を115系に置き換える訓練運用
近鉄最後の丸屋根車8800系新造

などのニュースも掲載されています。

この後、1980年10月に国鉄ダイヤ改正(ゴーゴートー)が行われます。2年後の東北・上越新幹線開通前の最後のダイヤ改正、ゴーゴートーではいわゆる減量ダイヤで、列車本数そのものが減少、特に急行列車・夜行列車は大幅整理されるなど、ネガティブ色の濃いダイヤ改正と言われるが、数少ない前向きの内容として千歳空港駅開業と北海道の列車体系を従来の青函連絡重視から札幌・千歳空港中心に刷新、東海道本線・横須賀線の線路分離と合わせて横須賀線・総武快速線直通運転開始が挙げられます。


国鉄時代の旧型客車列車について、国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正までに、和田岬線(山陽本線兵庫-和田岬)を除いて定期列車から引退したことは、ご存知の通りです。

さて、国鉄末期の旧型客車列車について思いつくままに書いてみたいと思いました。


旧型客車の整理は1984年2月ダイヤ改正から本格的に始まったものと思われます。

このダイヤ改正で、まず福知山線の旧型客車使用の普通列車は一部50系化されました。小浜線・舞鶴線にも1980年代前半まで客車列車が残っていましたが、廃止(→気動車化)時期は1984年2月ダイヤ改正だったと思います。

紀勢本線でも1984年2月ダイヤ改正で紀伊半島一周の夜行<はやたま>(天王寺・和歌山市ー亀山間、天王寺-新宮間は寝台車を連結)は12系化されると引き換えに、新宮以東の直通は廃止されました。合わせて新宮以西(紀勢西線)は12系化(→2年後1986年11月改正で紀勢本線の客車列車は全廃)。

なお、この改正の2年前、1982年5月ダイヤ改正で和歌山線に1往復だけ残っていた客車列車は50系化されました(1984年10月全線電化と同時に廃止)。


1985年3月ダイヤ改正では東北地方に多く残っていた旧型客車列車は、東北本線一ノ関以南および常磐線では電車化(455系ほか)、他は12系・50系に置き換えられ、旧客は全廃。

北陸本線でも客車普通列車は支線区直通を除いて全廃されます(→電車化)。

山陰本線については、京都口で50系化と同時に福知山で系統分割され、京都発着福知山以西への直通普通列車は廃止。福知山線は一部を除いて12系に置き換えられ、冷房化サービスの実現となります(50系の運用はわずか1年で廃止)。

紀勢本線新宮-亀山間も50系化され、亀山機関区所属で草津線と共通使用となります。


1985年3月ダイヤ改正以降、旧型客車列車が残るのは山陰本線福知山-米子・出雲市間、福知山線篠山口-福知山間、函館本線、および和田岬線のみとなります。私個人的に1986年夏、福知山-和田山間のみで旧型客車に乗りました。旧型客車のデッキ外客用扉は常に開きっぱなし(または手動式)で、安全性の問題が指摘されていました。


1986年11月ダイヤ改正では福知山線・山陰本線(宝塚ー城崎間)電化開業により、夜行<だいせん>1往復を除き電車化され、山陰から旧型客車は全廃。京都-福知山間と豊岡以西に残る客車列車は12系または50系化されます。

函館本線については函館-札幌間直通の夜行普通列車などもあったが、旧型客車全廃と同時に、優等列車(特急)は全て室蘭本線・千歳線経由となり、長万部-小樽間(通称・山線)は本線とは名ばかりのローカル線となってしまいました。


JR発足後も唯一旧型客車の残った和田岬線。和田岬線は港町の工場通勤者のための路線と化していて、列車は通勤時間帯に合わせ朝夕のみの運転となっています。さすがの和田岬線も1990年10月にはキハ35×6連に置き換えられ、さらに2001年には電化、103系で運用され今日に至ります。


山陰本線京都口非電化時代の気動車急行といえば、まず<丹後>を連想されることでしょう。

急行<丹後>は、京都駅を起点に山陰本線をストレートに福知山・豊岡・城崎(現・城崎温泉)まで行く列車もあれば、綾部から 舞鶴線に入り西舞鶴からさらに宮津線(現・京都丹後鉄道)経由で網野・豊岡そして城崎まで行く列車(宮津線内普通列車もあり)、また西舞鶴で分かれて東舞鶴から小浜線に入り普通列車に化けて敦賀へ向かう列車とか、列車ごとに行先・経路がそれぞれ異なるばかりか、途中駅で分割併合を繰り返す多層建て列車だったり、何度もスイッチバックしたりという複雑怪奇な列車として有名でした。加えて、片道(上り)1本だけ敦賀から小浜線・舞鶴線経由京都まで直通する<わかさ>もあり、やはり西舞鶴で宮津線からの<丹後>と併結運転でした。兄弟列車の特急<あさしお>も<丹後>と同様、城崎・倉吉・米子・東舞鶴そして宮津線経由城崎行きもあり、行先・経路はバラエティに富んでいました。

「丹後」は京都府北部の旧国名であり、支線区の舞鶴・宮津線へ行く列車のほうが本来ふさわしい名称にですが、山陰本線内の福知山・豊岡・城崎行きもいっしょに<丹後>を名乗っていました。

国鉄時代は、<丹後>に加え、山陰本線をそのまま鳥取・米子(さらに以前は出雲市まで)まで直通する<白兎>が1往復だけ運転されていました。見た目は<丹後>と同じキハ58系使用で大きな違いはないが、<白兎>には特別なものがあったように感じています。まず、鳥取以遠の長距離を走行する列車で、<丹後>と一線を画する貫禄があったように思います。使用車両の所属区も<丹後>は福知山鉄道管理局管内(福知山、豊岡)(小浜線直通は主に金沢鉄道管理局敦賀機関区)なのに対して、<白兎>は米子鉄道管理局管内の西鳥取気動車区でした。<白兎>の車両は、因美線・姫新線経由の<みささ>などと共通運用を組み、やはり広域運用をこなしていました。

<白兎>は1986年11月ダイヤ改正で特急<あさしお>に格上げとなり、以降1996年福知山電化までほぼ同じ形で存続しました。


JR東海発足当初、紀勢本線・参宮線・名松線でキハ30形(キハ35系の両運転台)が主にキハ58系との混結で活躍していましたが、ワンマン化を目的にキハ11の投入後、キハ30は営業運用から撤退。その後もキハ30 51号のみ車籍を残したまま美濃太田区に動態保存されるが、2008年に廃車手続きが取られました。

ここでは、JR東海に継承されたキハ30形たちについて、国鉄時代末期の動きをレポートしてみたいと思います。

JR東海に継承されたキハ30形は、

44、51、52、74、75、81

の6両だったと思います。

もともとキハ35系(キハ30・35・36形)グループの多かった関西・紀勢本線系統(天王寺鉄道管理局管内)ですが、両運転台のキハ30形は、もともと旅客需要の低い三重県の亀山と伊勢の2車両区に配置、草津線・紀勢本線・伊勢線・参宮線・名松線を中心に活躍していました。国鉄時代末期までに天王寺局管内キハ35系の大半は廃車もしくは関東鉄道などへ譲渡、キハ36形(片運転台・便所無し)は1両もJRに継承されず、キハ35形は5両だけがJR西日本亀山運転区、キハ30形は6両が上記の通りJR東海伊勢運転区の所属となりました。

JR東海に生き残ったキハ30形のうち、キハ30 44号は亀山区生え抜きののち、1979年に伊勢へ転属、そのままJR東海へ。

キハ30 51・52号の2両は加古川気動車区の所属で、1984年2月ダイヤ改正で伊勢線(→伊勢鉄道)普通列車1両運転に合わせ亀山へ転属、キハ40形ともども片町線(長尾-木津)などと共通運用をこなしていました。1986年3月片町線の単行運転解消後、伊勢へ転属。伊勢区の伊勢線運用が復活するが、JR発足直前の1987年3月に伊勢線は伊勢鉄道に転換。キハ30 51号が動態保存とはいえ2008年まで車籍があったことは特筆に値します。

キハ30 74・75・81形の3両は山陰の米子に配属、主に境線で活躍していたが、伯備線電化に合わせた1982年7月ダイヤ改正で米子を離れ、74・75号は奈良、81号は伊勢へそれぞれ転属。74・75が転入した奈良区はキハ35系の大所帯で、キハ35系たちは関西本線および周辺の各線(一時期紀勢本線和歌山市-新宮間も)で広範囲の運用をこなしていたが、両運転台のキハ30形が奈良に配属されるのは初めてのことでした。奈良周辺各線の電化も進み、非電化で残っていた奈良線・片町線(長尾-木津)を中心とする運用に入っていました。キハ30形2両の玉突きで奈良に残っていたキハ20形(470・471号)は二俣・志布志へ転属。奈良線では朝ラッシュ時、急行<紀ノ川>編成に増結する運用もありました。1984年10月奈良線電化後、奈良の気動車配置は廃止、亀山区へ転属。亀山時代は、51・52号ともども片町線・伊勢線の単行運転、あるいはキハ58系などと混結で関西本線(亀山-奈良)・紀勢本線(亀山-新宮)・参宮線の運用をこなしていたが、1986年3月に伊勢へ再転属ののちJR東海の所属に。


久しぶりに国鉄時代のダイヤ改正について、思いつくままに書いてみることにしました。

今回は1982年(昭和57年)7月1日伯備線電化開業に合わせた山陰・北近畿地区ダイヤ改正。

伯備線と同時に山陰本線伯耆大山-西出雲(当時・知井宮)間が電化され、近代化の遅れていた山陰本線にもようやく電車がお目見えしました。

このダイヤ改正の目玉といえば、381系特急<やくも>。
<やくも>は伯備線経由の陰陽連絡特急として、1972年山陽新幹線岡山開通と同時に登場。運転区間は岡山-出雲市・益田。気動車(キハ181系)では珍しく「L特急」に指定されていました。大半は出雲市折り返しだったが、1往復だけ浜田方面益田までのロングラン運用がありました。電化後は全て出雲市折り返しとなります(一部は出雲電車区入出庫の都合上、次の知井宮まで運転)。<やくも>の補完的列車として細々と残っていた気動車急行<伯耆>は廃止。また、気動車時代の<やくも>には食堂車も連結されていたが、381系化後は食堂車はなくなりました(気動車特急の食堂車営業はその後、博多<まつかぜ>や北海道のキハ80系で残るが、これも1986年までに全廃)。

当初、<やくも>には上越新幹線開通で余剰となる183系などが転用される計画だったが、当地の現場の強い意思で381系の新製が決まるという経緯だったようです。

伯備線の普通列車には115系を投入、一部は山陰本線出雲市・知井宮までの運用もありました(山陰本線内の普通列車は大半が客車または気動車)。首都圏の東北本線や高崎線ではお馴染みだった115系湘南色も、山陰地方の米子・松江・出雲市では新鮮に映ったことでしょう。

このダイヤ改正では、山陰本線の長距離客車普通列車や優等列車にも変更点が多くありました。
<やくも>から捻出したキハ181系は、<まつかぜ><あさしお><はまかぜ>に転用。
名古屋から小浜線・宮津線回りで出雲市までのロングラン急行<大社>は天橋立打ち止め(→4ヵ月後の11.15ダイヤ改正で廃止)となり、代わりに福知山線経由大阪-鳥取間<まつかぜ>(2・3号)を米子まで延長運転。同じく福知山線経由の鳥取<だいせん>や山陰本線京都発着<白兎>の末端区間を快速・普通列車化する一方、津山・因美線経由急行<砂丘>の米子始発が登場する、といった変更がありました。

このほか、呉(仁方)と松山(堀江)を結ぶ瀬戸内海の仁堀航路も廃止されました。

このダイヤ改正で米子に配置されていたキハ30形が奈良へ転出、キハ20を置き換えたことも付け加えたいと思います。


国鉄キハ66系気動車は、思えば現在の近郊型車両の礎だったと言えます。

キハ66系は1975年に登場。「一般型気動車」に分類されるが、両開き2ドア、転換クロスシート(ドア付近はロングシート)、電動式行先表示器、そして当時の気動車では珍しく通勤・近郊型電車で採用されているAU75形集中型クーラーを搭載するなど、気動車としてはピカイチした。当時、国鉄で転換クロスシートを使用している例は新幹線0系ぐらいで、急行型車両を凌駕するものでした。

山陽新幹線博多開通に合わせ、筑豊地区の快速列車に投入。
2両編成(キハ66+キハ67)×15本の30両で、その後の地方都市への投入も期待されるが、製造コストが高価ということもあって量産に至りませんでした(→その後の一般型気動車は非冷房のキハ40系となる)。キハ66系は全車JR九州に継承、九州を離れることなく終生を迎えることになりそうです。

キハ66系の登場時のカラーは急行型気動車キハ58系と同じものとし、当初は急行列車にも使用されるが、1980年10月ダイヤ改正で急行運用は消失。転換クロスシートかつ高出力エンジンということもあって、乗り心地や居住性そして機能性はキハ58系に比べて大幅に改善されるが、一部ロングシートでデッキ無しという点で優等列車にふさわしいかという疑問が残り(車内の壁の色も一般型車両と同じ緑系)、いわば「遜色急行」として語られることも多いです。

結局、わずか30両のみの少数派にとどまったキハ66系ですが、これが後世の鉄道車両に伝えた功績は大きいでしょう。

キハ66系のレイアウトは、4~5年後に登場する関西の新快速用117系電車に継承されます。大手私鉄との競争の激しい関西にあって、料金不要・高速の新快速といえども老朽化の目立つ153系急行型電車では苦戦するばかり。阪急・京阪特急を凌駕する車両デザインが求められます。大阪鉄道管理局は新快速用後継車両の設計に取りかかり、それが117系となって両開き2ドア・転換クロスシートを取り入れたものとなりました。内装は阪急を意識してか落ち着いた木目調板張りとし、足回りは特急型車両並み、ハード・ソフト両面で旧来の急行型車両を上回るものとなり、優等列車並みの接客設備で料金不要の近郊型電車としては破格の出来で好評を博します。

117系はその後名古屋都市圏にも投入され、JR発足後の大都市圏(首都圏を除く)近郊型電車に大きな影響をもたらしました。

JR発足間もない頃、JR各社から3ドア転換クロスシートの新型近郊型電車が花盛り(JR西221系、東海311系、九州811系、北海道721系)。3ドア転換クロスシートといえば、実は近鉄5200系が初めてで、子会社の近畿車輛がJR西日本に5200系のデザインを売り込んで221系を製作したという噂もあります。221系の登場は私鉄王国関西の勢力図を大きく変える突破口となりました(阪急はJRに苦戦するばかりの一方、京阪特急は8000系登場→2階建て車連結→プレミアムカー連結という豪華路線が進化している)。

3ドア転換クロスシート車も一般的となり、それは気動車にも大きな影響を与えます。JR東海・快速<みえ>用のキハ75系は気動車で初めて3ドア転換クロスシートとなり、311系と似たデザインです。キハ75系はキハ66系以来のハイクオリティな快速用気動車と言えるでしょう。JR西日本でも223系のデザインに基づいて作られたキハ122・127系が姫新線姫路口に登場しました(ただし2ドア)。キハ120よりもキハ127系のほうが断然ハイクオリティです。

キハ66系の現況ですが、筑豊本線・篠栗線電化以降、生まれ故郷の筑豊地区を離れ、長崎地区で余生を過ごしています。登場から40年以上経過しており、いよいよ引退へカウントダウンといったところでしょう。



C56-160

昨日の<北びわこ号>をもってC56 160号機は本線運行から引退しました。

C56といえば「高原のポニー」で人気者。
1973年夏に小海線でC56が2ヶ月間復活、小型軽快で高原地帯を走る姿が小馬(ポニー)をイメージさせることから、「ポニー」と呼ばれるようになったそうです。

C56 160号機は、国鉄時代末期に小浜線のSLわかさ号、桜井線のSL大和路号などで活躍、JR発足後も西日本を中心に四国から北海道まで全国各地のイベントに引っ張りだこ。近年は北陸本線の北びわこ号を中心に活躍を続けていましたが、C56は小型ゆえ勾配の多い路線での走行は苦手で、足回りなどの老朽化が著しく、パワーのあるD51に交代させ、本線運行から引退することになったようです。

引退後は京都鉄道博物館にて動態保存するとのこと。


四国の急行列車について一つレポートしてみたいと思います。

徳島線を走行した気動車急行<よしの川>。

名称の由来は、徳島線(徳島-阿波池田)沿線を流れる吉野川であり、まさに徳島線を代表する花形列車だったと言えます。 

この列車は、廃止直前の頃は徳島線内のローカル急行だったが、本来小松島港で大阪・神戸・和歌山方面からのフェリー連絡の受け皿として、関西と琴平および高知県方面を結ぶことが使命でした。そのため、もともと6~7往復の本数が設定され、小松島港線(廃止)から一部は阿波池田から土讃線の高知まで直通していました。しかし、1980年10月改正で高知直通廃止、1985年3月ダイヤ改正で小松島線は廃止され、運行本数も6往復から2往復に急減、徳島線内のローカル急行に転落。

しかし、明石海峡大橋完成による神戸-徳島間の高速道開通(1998)を前に、徳島線が再び関西と四国各地を結ぶ一つのルートとして見直されるようになります。徳島線高速化工事完成を受け、1996年3月ダイヤ改正で徳島線の優等列車が再び増発されます。特急<剣山>が3往復登場、内1往復は高知直通となります。これと引き換えに、急行<よしの川>は1往復のみに、四国最後の急行列車となりました。

2年後の1998年、特急<剣山>は4往復に増強するとともに、徳島駅から牟岐線海部駅・阿佐海岸鉄道甲浦まで直通運転を実施。急行<よしの川>もキハ58・65から<剣山>と共通のキハ185系となります。そして翌年1999年3月改正で、<よしの川>は特急<剣山>に吸収、四国から急行列車が消滅しました。<剣山>は6往復、そのうち高知乗り入れは2往復となるが、2000年3月以降、高知直通は廃止、<剣山>は徳島線(および牟岐線)内の優等列車となりました。


JR片町線(学研都市線)は京都府最南端の木津駅が起点です。

片町線は大阪北東部と奈良を最短で結ぶ鉄道路線だが、ほとんど木津で乗り換えることになります。

起点の木津では関西本線(大和路線)と奈良線に接続しています。
奈良線は京都・奈良の2大古都を結ぶ都市間路線ですが、正式区間は京都-木津間であり、奈良県を通らないのに「奈良線」と付いているのはいささか妙な感じもします。木津-奈良間は関西本線に乗り入れる形となっています。

片町線は木津から生駒山系の東麓に沿う形で北上、松井山手付近がちょうど生駒山系の末端部で丘陵地をぶった切り、南西に進路を転じて大阪府北河内の長尾・四条畷などを経て京橋に至ります。京橋で大阪環状線と立体交差で接続。ここから先はJR東西線と名称を改め、地下線で北新地などを通って尼崎で東海道本線(JR神戸線)および福知山線(JR宝塚線)と接続、神戸・宝塚方面へ直通運転を行っています。片町線はかつて京橋から大阪都心へ一歩踏み入れたところ、片町駅が終点だったが、JR東西線開通と同時に片町駅は廃止されました。


さて、ここでは奈良直通の片町線列車についてレポートしてみたいと思います。

昔から片町線も奈良直通列車が運転されているが、奈良線とは違って基本的に木津折り返しとなっています。

国鉄時代、京都府側の木津-長尾間は非電化のままで残され、長尾駅で乗り換えが必要でした。反面、奈良から長尾までの直通列車(気動車)が1日数本設定されていました。ただ、奈良線とは事情が異なり、直通による利便性確保というよりは、奈良運転所への入出庫の意味合いが強いようです。現在も、早朝・深夜に宝塚や西明石方面から奈良への直通電車が2往復だけ設定されているが、これもやはり奈良電車区での停泊が目的です。

国鉄時代末期に片町線の奈良直通列車は削減されることになります。それは、奈良線および関西本線木津-奈良間電化が開業(1984年10月)、奈良線の列車本数が増発されるためのしわ寄せだと考えられます。1985年3月ダイヤ改正では関西本線奈良-湊町(現・JR難波)間の快速電車を一部木津発着に延長、片町線奈良直通分を置き換えたものと見られます。国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正以降、片町線の奈良直通列車は1往復のみに。奈良線電化以降、片町線の気動車は亀山機関区(現・亀山鉄道部)が担当することになり、関西本線亀山-奈良間普通列車の一部は木津で分割併合作業を行い(亀山ー木津間増結という形で)、転線ののち片町線運用に仕立てるものもありました。

1989年3月、片町線全線電化が完成、木津―京橋・片町間を通す電車が終日運転されることになりました。当初は淀川電車区103系の3両(→4両)で、早朝・深夜のみ奈良直通列車が合わせて2往復設定されました。関西本線加茂以西電化(1988)以降、終日加茂から湊町および大阪環状線への快速電車が運転されることになり、奈良線のさらなる増発(→快速の新設)と合わせ木津ー奈良間の列車密度はかなり詰まっているゆえ、片町線の電車まで乗り入れさせる余裕はないという判断でしょう。木津から大阪方面へは関西本線~大阪環状線の快速(<大和路快速>ほか)のほうが距離的には遠回りだが早く、そちらを推奨しているようです(運賃は近郊区間のため経路に関係なく同額。片町線の快速は単線区間の木津ー松井山手間各駅停車)。

1997年JR東西線開通後、片町線の電車はJR東西線経由JR宝塚線およびJR神戸線へ終日直通運転を行うようになります。奈良直通電車も早朝・深夜に合わせて宝塚・新三田方面から2往復設定されます(その後、ダイヤ改正ごとに行先は西明石行きなどに変わったりする)。運用車両は207系に統一、奈良・木津-松井山手間は4両、松井山手で増解結作業が終日行われます。東西線開通当初、記念キャンペーンの一環からか、行楽シーズンに新三田方面から木津折り返しの電車を<万葉レジャー号>として奈良まで臨時延長するものもありました(奈良行きは朝の1本、尼崎・新三田行きは夕方の1本)。奈良線の快速と同様、平城山駅は通過扱いだったと思います。これについて、本来木津でそのまま折り返す列車の車両はどのようにやりくりしたかが気になります。奈良電車区に207系を1本待機させて木津へ回送していたのでしょうか? 2010年ダイヤ改正では、片町線全区間にわたって7両編成(207・321系)運用となり、途中駅での増解結は廃止されました。もちろん奈良直通電車も7両での運用となりました。

一方、2008年のおおさか東線部分開通(久宝寺-放出)で、JR東西線~片町線~おおさか東線~王寺経由尼崎-奈良間の直通快速を運転開始(朝夕のみ、朝は尼崎行き、夕方は奈良行き)。当初は福知山線の<丹波路快速>と共通で223系6000番台を使用していたが、北新地駅ホームドア運用開始により2011年以降は4ドア車207・321系の運用に変わりました。

すなわち、深夜の奈良電車区には片町線からの207・321系が2つのルートで数本集結していることになるが、おおさか東線経由直通快速の分と松井山手・木津経由の分では編成の向きが逆となるため、運用は独立しています。


久しぶりに国鉄時代の急行列車について一つレポート。

今回は京都と南紀を草津線経由で結んだ急行<くまの>。

急行<くまの> の前身、準急<くまの>は1963年に気動車で運転開始。運転区間は京都-紀伊勝浦間に1往復。
草津線には古くから京阪神および西日本各地と伊勢を結ぶ優等列車(急行<志摩>ほか)が運転されてきたが、紀勢本線全通(1959年)後、草津線は京都と東紀州(尾鷲・熊野市方面)を短絡するルートとしても脚光を浴び、南紀観光が賑やかで新婚旅行地として人気のある昭和30~40年代の時代背景に、準急<くまの>が誕生しました。

準急<くまの>は1966年に急行列車となり、以降大きな変化は見られないまま推移したが、1980年10月ダイヤ改正で廃止されました。途中の亀山駅では名古屋からの急行<紀州>と併合、紀勢本線内は<くまの>と<紀州>の2層建て列車となります。廃止までの間、1978年には紀勢本線新宮-和歌山間電化、1980年3月には草津線が電化。

廃止直前の頃の列車編成はキロ28連結だったが、紀伊勝浦行きと京都行きでは両数が異なっていたようです。向日町運転所(大ムコ)のキハ58系(キハ65含む)が使用されるが、同じ草津線経由の<志摩>と共通運用を組み、鳥羽と紀伊勝浦を結ぶ<はまゆう>で行き来し、<くまの>と<志摩>をトレードする運行体系だったそうです。なぜわざわざこのような煩雑な運用をしていたのかは謎です。さらに、午後の京都発<くまの>の間合いで、山陰本線の臨時快速<丹波路>(京都-園部間)の運用をこなしたり、紀伊勝浦到着後、間合いで新宮-串本間の普通列車にも入るなど、かなり興味深い広域運用をなしていたとのことを鉄道雑誌等で見た記憶があります。

京都と南紀を結ぶ急行列車としては、奈良・桜井・和歌山線経由の白浜行き<しらはま>もあったが(和歌山以南<きのくに>と併結)、1980年10月ダイヤ改正で<紀ノ川>に改め、京都-和歌山間に短縮(併結相手の<きのくに>は特急<くろしお>に格上げ)。<紀ノ川>は1984年10月奈良・和歌山線電化の時に廃止されました。ちなみに<しらはま>(→<紀ノ川>)の車両も向日町区が担当、<くまの><志摩>と共通の編成でした。



国鉄時代、通勤型電車以外は長距離客を考慮して基本的に禁煙車は設定されておらず、車内に灰皿が備え付けられていました。「近郊型電車」に区分される113系や115系および415系なども例外ではなく、大都市部付近を除き基本的に禁煙ではありませんでした。JR・私鉄を問わず有料特急以外の列車がほぼ禁煙である現在では信じられないかもしれません。

国鉄末期~JR発足前後になって、一般列車での禁煙化の波が広がるようになります。関西圏の113系にももちろん禁煙車が設定されるようになり、東海道・山陽本線快速電車や湖西線・草津線系統(湘南色)、阪和線・紀勢本線(青帯)では、先頭車クハを禁煙車に設定、客用扉の上に「禁煙車」シールが貼付されるようになります(灰皿も撤去)。なお、大阪都心部に近い京都-西明石間や阪和線など、いわば「電車特定区間」に当たる区間ではもとから全車禁煙とされていたかと記憶しています。

ここで面白いのは、関西本線(大和路線)系統で使用する赤帯113系。もともと阪和線の青帯と同じ日根野電車区に配置、一部の編成は阪和線・紀勢本線系統と共通運用とされていました。日根野の113系は紀勢本線和歌山以南を除いて全て禁煙でした(桜井線、和歌山線なども)。赤帯113系については、阪和・紀勢本線共通運用を持つ編成を除き、全運用区間が禁煙ということになり、灰皿は備え付けられていませんでした。1980年に新製投入された赤帯2000番台3本は確か阪和運用には入らなかったはずで、最初から灰皿は設置されず、車内にプラスチックの「禁煙」パネル(京阪などの私鉄と同じものだった)が固定掲示されました。1985年3月、奈良電車区を開設、関西本線・奈良線・桜井線・和歌山線で運用する車両が所属することとなり、赤帯113系も阪和・紀勢本線共通運用編成を除いて奈良電車区に転属。したがって、奈良区113系は全車両禁煙ということで、(禁煙車が設定されるようになる時代とはいえ)113系がこれだけ徹底的に禁煙であるのは当時としては珍しかったわけです。


1985年3月14日ダイヤ改正といえば、東北・上越新幹線上野開業。

新幹線上野乗り入れにより、東北本線や上越線の昼間優等列車は大幅削減、特に急行列車は軒並み廃止されました(185系使用の短距離「新特急」が登場しましたが)。このダイヤ改正では全国的に急行廃止ラッシュとなり、特急格上げもしくは列車そのものの消滅の動きが目立ちました。

優等列車・普通列車とも長距離列車削減の一方で、「広島シティ電車」に始まる地方都市圏での国電型ダイヤ(大幅な本数増発と等時間隔の運行)導入の動きがさらに深化し、2年後の分割民営化を意識したものとなったように思われます。

近畿圏~西日本を中心とする改正変更内容として次が挙げられます。


●新快速の新大阪停車

●東海道山陽本線快速電車の昼間時間帯高槻以東各駅停車化

●東海道山陽本線普通電車の昼間時間帯は201系に統一、一部は草津および加古川まで延長運転

●福知山線~山陰本線経由の特急<まつかぜ>は米子で系統分割(博多直通廃止)、米子-博多間には<いそかぜ>を新設

●福知山線客車列車を12系に置き換え

●山陰本線京都口普通列車の福知山以西直通廃止(系統分割)、京都-福知山間の旧型客車は50系などに置き換え

●大阪~姫新線の優等列車・急行<みささ><みまさか>は1往復に削減

●山陰本線西部の急行<さんべ>は気動車1往復のみに(臨時格下げとなった夜行便は廃止)

●北陸特急<雷鳥><しらさぎ>などの食堂車全廃

●急行<きたぐに>を583系電車に置き換え

●特急<白鳥>のうち福井~青森間の1往復(急行<しらゆき>の格上げ分)を系統分割

●北陸本線客車普通列車全廃(七尾線直通を除く)、413・419・457・475系などに置き換え

●急行<きのくに>(キハ58系)全廃 → 485系<くろしお>登場

●急行<紀州>(キハ58系)を特急<南紀>(キハ82系)に格上げ

●急行<はまゆう><平安>廃止

●関西本線(名古屋-奈良)の急行<かすが>は1往復に削減

●関西本線名古屋-亀山間普通電車は165系に

●関西本線(奈良-湊町)快速電車の一部を木津へ延長

●紀勢本線亀山-新宮間の旧型客車を50系に置き換え

●芸備線経由の陰陽連絡急行<ちどり>は1往復、広島-三次間の<みよし>を新設

●高山本線特急<ひだ>の富山直通は休止、代わりに名鉄からの<北アルプス>を富山直通とする

●名古屋-新潟間ロングラン急行<赤倉>(中央西線・篠ノ井線・信越本線経由)の松本以南廃止

●九州内気動車急行のグリーン車(キロ28)連結廃止

●長崎本線・佐世保線普通列車の電車化を進めるため715系電車(余剰となった583系を近郊型化改造)を投入

●寝台特急<あかつき>の筑豊本線経由廃止(筑豊本線唯一の優等列車だった)


このダイヤ改正に先行する形で、前年10月には奈良線・和歌山線全線の電化が開業しており、105系電車を投入して列車本数増発する一方、奈良・桜井・和歌山線経由の気動車急行<紀ノ川>は廃止されました。また、当時非電化だった片町線長尾-木津間にキハ58系が入るようになったのも1985年ダイヤ改正の頃からでした(関西・紀勢本線系統の気動車普通列車はキハ35系が多かったが、老朽化および急行列車廃止の余剰によりキハ58系を使用することが多くなった)。

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