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京阪バス・京阪宇治交通の三菱ふそう一般路線車初の本格的冷房車MP117。

三菱ふそうMP117は1978年に登場し、1980年初頭まで納車されました。 6D20型エンジンのサウンドが新鮮で、以降今日まで40年以上にわたって続く大型車エアロスターの原型でした。車体は3メーカー、三菱自工(名古屋)・呉羽・富士重がありました。京阪宇治交通は呉羽のみだったが、京阪バスは3メーカー車体の車両を納入し、同じMP117ながら顔ぶれがバラエティに富んでいたのが面白かったです(ちなみに、阪急バスのMP117には西工42MC・同53MC・呉羽がいて、非冷房車もあったりと、やはりバラエティに富む形式だった)。

特に三菱自工の車体は従来のMR系(G4ボディというそうです)とは異なる斬新なデザイン(B35)で、「ブルドック」という名前で親しまれました。一方、呉羽のMP117はMR系と同じ車体をそのまま載せたもので、同年代の三菱自工「ブルドック」に比べ古い印象でした。ただ、1979年式のAタイプでは、後ろに直結式クーラーを搭載する関係で、後面のスタイルだけが近代的なものに進化。しかし、それも過渡的なものにとどまり、翌1980年以降、形式はK-MP118に更新と同時に、呉羽の車体も三菱自工「ブルドック」と全く同じデザインになりました(これは京阪バス・京阪宇治交通とも共通)。また、富士重は従来の3Eを架装したものでした。

京阪宇治交通では冷房化と同時に方向幕(前)大型化が採られたが、京阪バスは1年遅れて1979年より大型化。さらに京阪バスでは一般路線車Aタイプと観光兼用Bタイプ(比叡山線用もあり)があって、MP117たちは短いスパンにもかかわらず、車体スタイルの多彩さを放っていました。

MP117シリーズの各営業所ごとの分布状況は以下の通りだったと記憶しています。

【京阪バス】
枚方        三菱自工、呉羽(Aタイプのみ、1979年式は三菱自工のみ)
高槻        三菱自工、呉羽、富士重(Aタイプのみ、富士重は1979年式のみ)
山科・大津     三菱自工、呉羽、富士重(比叡山線用のBタイプもあり)
交野・寝屋川・門真 三菱自工が少数(Aタイプのみ)
香里団地      無し
洛南        無し?

【京阪宇治交通】
男山        呉羽
宇治        呉羽(どちらかといえば少数)

※高槻・山科・大津・男山は三菱ふそう車で統一されていた



1980年代前半の高槻市内のバスについて、思いつくままに書いてみました。

高槻市を走る路線バスは、阪急沿線・北摂エリアでありながら、古くから高槻市営バスと京阪バスの2社局が主なシェアを占めてきました。 市営バスは高槻市域を隈なくカバーし、京阪バスは鉄道の通っていない枚方~高槻・茨木の淀川両岸連絡路線を運行。高槻市営バスは現在、大阪府唯一の公営バス事業者です。このほか、阪急バスと近鉄バスも市内に乗り入れていました。阪急バスは現在、市南西部の柱本地区を拠点に千里丘・阪急茨木市駅・JR吹田の各方面を結ぶ路線が残っています。

1980年代前半の高槻市といえば、阪急高槻市駅立体化工事のことを思い出します。そして少し前の1979年、国鉄(→JR)高槻駅南口整備とともに松坂屋がオープンしました。国鉄高槻駅前のバスのりばは、当時南口・北口・西口の3箇所がありました。各のりばに高槻市営バスが発着し、また南口からは枚方行きの京阪バスも乗り入れています。北口と西口は2004年の再開発事業に伴い、新・北口ロータリーに整備統合され、アクトモールが開業(アルプラザ高槻が核店舗)。北口では1973年から西武百貨店が営業を続けてきたが、2019年高槻阪急に生まれ変わりました。

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高槻市営バスの車両カラーは1983年まで阪急バスと似た青とベージュの塗装デザインでした。1984年以降納車のスケルトン車両(西工58MC)からは、黄緑と白をベースとする現在の塗装デザインに変わり、既存のモノコック車(西工53MC)の一部も新カラーに塗り替えられました。また、北部山間部(樫田地区)を経て京都府亀岡市まで市営バスが乗り入れていたが、1983年廃止。現在も、JR高槻駅北から府県境手前の杉生まで1日3本のバスがあります(ちなみに、樫田地区行きの高槻市営バスは途中、京都市西京区の端っこを通ります)。

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京阪バス、特に枚方高槻線は旅客需要が旺盛で運行本数が多いが、1980年代当時、「国鉄高槻行き」は本数が少なかったです(昼間は30分に1本)。阪急に比べて国鉄(JR)の利用客が少なかったためだと思いますが、JRが高槻に新快速停車するようになって利用客は増加し、今では15分ヘッドで運行中です。枚方高槻線は阪急とJRで基本的に系統分離が採られているが、一部時間帯で阪急高槻経由のJR高槻発着便が設定されています。変り種路線として、朝夕時間帯に阪急高槻~枚方市駅~香里団地直通系統もありました。

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かつて茨木~富田~水無瀬間を国道171号線経由で阪急バスが走っていました。もともと京阪急行線だった名残で、水無瀬(島本町)から先、京都市の河原町御池までロングランのバスもありました(河原町御池乗り入れは1982年廃止)。茨木~水無瀬系統は1997年茨木~JR摂津富田に短縮され、辛うじて高槻市内乗り入れは維持したものの、その後も減便は続き、2021年には跡形もなく廃止されました。2002~2008年ごろの一時期、茨木~水無瀬系統の路線免許を活用して、大阪梅田~高槻間の深夜急行バスが運行されたこともありました。

近鉄バス(鳥飼営業所)は茨木市・摂津市をカバーしているが、かつて高槻市南西部の三島江・柱本・富田地区にも乗り入れていました。

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大阪~京都間の少し昔のバス乗り継ぎルート(淀川左岸)を、思いつくままにリストアップしてみました。大阪市内の起点は京阪京橋、京都市内の目的地(起点)は京都駅前または三条京阪とします。条件は、「淀川右岸に跨がないこと」とします。

【ルート1】(1986~1995年)
京阪京橋      ~ 寝屋川市駅    (京阪バス【1】)
寝屋川市駅     ~ 枚方市駅     (京阪バス【16】)
枚方市駅      ~ 樟葉駅      (京阪バス【28】→現【39】)
樟葉駅       ~ 中書島      (京阪バス【52】)
中書島       ~ 京都駅前     (京都市バス【81】ほか)

【ルート2】(1983~2005年)
京阪京橋      ~ 寝屋川市駅    (京阪バス【1】)
寝屋川市駅     ~ 京阪香里園    (京阪バス【22】)
京阪香里園     ~ 枚方市駅     (京阪バス【1】【9A】)
(以下【ルート1】に同じ)

【ルート3】(~1983年:樟葉中書島線開通前)
京阪京橋      ~ 枚方市駅     (【ルート1・2】に同じ)

枚方市駅      ~ 京阪牧野駅    (京阪バス【36】ほか)
京阪牧野駅     ~ 樟葉駅      (京阪バス【30】ほか)

(または)

枚方市駅      ~ 藤阪ハイツ    (京阪バス【22】→現【18】)
藤阪ハイツ     ~ 樟葉駅      (京阪バス【35】→現【95】)

樟葉駅       ~ 近鉄大久保    (京阪宇治交通【17】)
大久保       ~ 京都駅前     (近鉄バス、奈良交通、京阪バス)

【ルート3’】(~1983年:樟葉中書島線開通前)
京阪京橋      ~ 枚方市駅     (【ルート1・2】に同じ)

枚方市駅      ~ 京阪牧野駅    (京阪バス【36】ほか)
京阪牧野駅     ~ 樟葉駅      (京阪バス【30】ほか)

(または)

枚方市駅      ~ 藤阪ハイツ    (京阪バス【22】→現【18】)
藤阪ハイツ     ~ 樟葉駅      (京阪バス【35】→現【95】)

樟葉駅       ~ 京阪宇治     (京阪宇治交通【17】)
京阪宇治      ~ 京阪六地蔵    (京阪宇治交通)
京阪六地蔵     ~ 三条京阪     (京阪バス【12】ほか)

【ルート4】(~2006年)
京橋        ~ 産業大学前    (近鉄バス)
産業大学前     ~ 四条畷      (近鉄バス【40】)
四条畷駅      ~ 枚方市駅     (京阪バス【43】【43A】)
(以下【ルート1・2・3】に同じ)

【ルート5】(~1995年)
京橋        ~ 近鉄奈良駅    (近鉄バス阪奈線)
近鉄奈良駅     ~ 京都駅前     (近鉄バス、奈良交通、京阪バス)

【ルート6】(~1997年)
京橋~枚方市駅(【ルート1~4】に同じ)
枚方市駅      ~ 穂谷       (京阪バス【12】→現【72】ほか)
穂谷        ~ 近鉄新田辺    (京阪バス【16】→現【89】ほか)
近鉄新田辺     ~ 維中前      (京阪宇治交通【62】ほか)
維中前       ~ 石山駅      (京阪宇治交通【96】ほか)
石山駅       ~ 浜大津      (京阪バス、近江鉄道)
浜大津       ~ 三条京阪     (京阪バス【46】)




1977年ごろの京阪バス枚方営業所管内路線図(推定)を作ってみました。1978年4月現在の「大阪地区」路線図を使わせていただきました。

当時、交野営業所の開設(1978年4月1日)前で、枚方市北部・東部地区、八幡市内、新田辺に加え、現在の交野営業所エリアにあたる路線もかなり広く管轄していました。

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【図1】1977年ごろの枚方営業所管内路線図(赤線、推定)

星田線(【41】【43】号経路、枚方市駅・寝屋川市駅~四条畷駅)、田原線(【18】号経路、京阪私市~田原地区~京阪大和田駅)、寝屋川団地線(【21】号経路)、さらに1970年代後半のごく一時期だけ枚方市駅~寝屋川市駅系統(伊加賀経由、【16】号経路)も枚方営業所が担当していました。

田原線では1975年ごろまでボンネットバスが使用されていました(田原線は1976年ごろまで私市~田原地区 / 田原地区~大和田に系統が分かれていた。ただし両者連続で車両運用されていた)。

星田線には、東高野街道・正縁寺の狭隘区間対応に大型ショート車(A-1005、A-3001~3004)が専用的に充当されていました。交野移管後はそのまま同営業所に転属。

問題は、津田香里線(京阪香里園~東香里~交野・津田方面)と交野南部線(交野市駅~藤が尾団地)。香里団地営業所(2022年廃止)担当だった可能性も考えられるが、同営業所の車両収容規模や走行距離などを考慮して、これらの路線系統も枚方営業所の担当だった可能性が濃厚だと思われます。

もう少し以前だと京阪村野駅前から交野市倉治方面へ伸びる路線もあったようで、これも気になります。

八幡市内では、【図1】(【32】<樟葉駅~八幡>)に加え、志水・西戸津系統(【33】【34】号経路)も枚方営業所の管轄でした。現在、当該八幡地区路線は男山営業所(旧・京阪宇治交通)担当に統一されています。

穂谷~京田辺市(新田辺)方面の路線系統は、現在京田辺営業所の管轄です。このほか、樟葉長尾線(樟葉駅~藤阪ハイツ・長尾駅方面)の大半の便も京田辺営業所が担当しています。

* * * *

香里団地営業所廃止に伴い、釈尊寺団地線【10】号経路が枚方営業所に移管されました(当路線は1977年運行開始。当初香里団地営業所の管轄だったが、翌年交野営業所に移管される)。枚方営業所の香里団地方面への運用は1978年以来44年ぶりの復活ということになります。なお、香里団地エリアの他路線系統は全て交野営業所の担当です。


京阪バス【9A】号経路・<摂南大学~京阪守口市駅~JR吹田>に関するレポートは、これまで何度か投稿しましたが、ここでその歴史を纏め直したいと思いました。

当路線系統は「守口上新庄線」。もともと、【9】号経路・<京阪守口市駅~上新庄駅前>として運行されていました。JR(国鉄)吹田駅前乗り入れは1978年と比較的新しく、系統番号も【9A】に変更されました。

吹田駅前にはそれ以前から、吹田八尾線として京阪バスも乗り入れていました。吹田八尾線は国鉄・阪急・近鉄・京阪4社の共同運行でした。

守口上新庄線は寝屋川営業所、吹田八尾線は門真営業所の担当でした。 

守口~吹田間のバスには、中央環状線経由(吹田八尾線)と内環状線経由(守口上新庄線)の2ルートが存在する時期がありました。

吹田八尾線のほうは、路線縮小・減便が相次ぎ、大阪モノレール門真市開業(1997年)までに全面休止に。国鉄バスは国鉄終了とともに撤退(阪急バスに代替)、京阪・阪急は八戸ノ里(東大阪市)以南廃止、そして守口・門真以南廃止を経て最終的に全線運行休止に。阪急バスは一時期、JR吹田から吹田八尾線として京阪守口市駅に乗り入れていました。近鉄バスの吹田乗り入れは早くも廃止、末期は千里丘以南のみの運行でした(ただし、中央環状線沿線の摂津市内に鳥飼営業所があり、茨木・摂津地区の路線をカバー)。

守口上新庄線は吹田駅前延伸以降、大きな変化はなく30年以上経過。しかし、2016年大日駅~京阪守口市駅~JR吹田に延長され、さらに2018年には寝屋川市の摂南大学からJR吹田までのロングラン路線が成立しました。今では京阪バス有数の長距離路線です(全区間の運賃は3区間280円)。

現在、JR吹田発着のバスは、寝屋川市から豊中市や兵庫県尼崎市までをカバーしています。

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1978年当時の京阪バス守口上新庄線・吹田八尾線路線マップ



京阪バス枚方営業所管内の出屋敷線【26】号経路は現在設定されていません。過去に存在した3つの【26】号経路を紹介したいと思います。

1)枚方市駅北口~家具団地(須山町・枚方バイパス・峠経由)

2)枚方市駅北口~摂南大学薬学部(須山町・枚方バイパス・国道招提・家具団地経由)

3)枚方市駅北口~松井山手駅(須山町・長尾駅経由)


1)2)は枚方市駅から須山町・国道田ノ口を経て、枚方バイパス(国道1号線)を一気に北上し家具団地・北山地区を結ぶユニークな路線系統でした(国道田ノ口~家具町1丁目間ノンストップ)。もともと長尾高校(枚方市長尾家具町5丁目)通学生向けに設定された路線のようです。長尾高校は枚方市2番目の府立高校(1973年開校)であり、開校当初京阪沿線や枚方市内各地からの通学生が長尾高校などに集中したものと推測されます。

1994年7月枚方市北部地区路線再編に伴い、【26】号経路のルートは1)から2)に変更され、ぽえむ南橋・ポエムノール北山・家具団地を回って摂南大学薬学部(→枚方キャンパス)まで延長。長尾家具町に隣接する北山地区の住宅地(ポエムノール北山)開発とともに、同地区に大阪工大・摂南大の新キャンパスが開校します。

ルート2)の【26】号経路は、2002年3月枚方営業所管内路線大再編時に廃止。

ルート3)の【26】号経路は旧【21】号経路でした。【21】号経路はもともと枚方市駅北口~長尾駅間を結ぶ路線だったが、1992年9月より府県境を越えて松井山手駅(京都府京田辺市)まで延伸。長尾駅~松井山手駅間は開設当初、無停車だったが、京阪東ローズタウン・きんめい台の街開きに合わせ、山手幹線路上に停留所が3ヶ所新設されました。2002年3月路線大再編に合わせ枚方営業所管内系統番号も全面改変が施され、当【21】号経路のうち松井山手発着便は【26】号経路に変更されました。

【26】号経路は松井山手駅に乗り入れる唯一の枚方営業所管轄路線だったが、2018年3月改正で廃止。長尾駅~松井山手駅間は枚方尊延寺線【89】号経路(松井山手駅~長尾駅~大阪国際大学~穂谷口~新田辺)に代替されました。


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京阪百貨店本店のある京阪守口市駅前。京阪百貨店は京阪電車守口車庫跡地で、1985年に開業しました。守口市駅には急行・快速急行が停車します。

さて、少し昔の守口市駅発着のバスなどについて、思いつくままに挙げてみました。

平成の中ごろ(2001年前後)まで、守口市駅には面白いバス路線がいろいろ乗り入れていました。

◎エキスポランド行き直行バス(京阪バス)

◎花博会場シャトルバス(京阪バス)

◎吹田八尾線(京阪バス【52】号経路、阪急バス)

◎関西空港リムジンバス(京阪バス、関西空港交通)

◎新幹線シャトル・新大阪行き(京阪バス、西日本JRバス)


エキスポランド直行バスは1995年に廃止されました。 あの悲惨な事件でエキスポランドもなくなり、エキスポシティに生まれ変わりました。

京阪守口市駅にJR吹田から阪急バスが乗り入れていたのは驚きです。吹田八尾線の一つの系統で、京阪バス【52】号経路と共同運行でした。阪急バス担当便は急行運転だったようです。現在も運行中の【9A】号経路(太子橋・上新庄経由)とはルートが異なり、中央環状線~千里丘~大阪府道14号経由でした。吹田八尾線は大阪モノレール門真市開通(1997年)までに全廃。阪急バスの守口市駅乗り入れは1993年ごろ廃止のようです。

1990年「国際花と緑の博覧会」(花博)開催時には、会場の鶴見緑地までシャトルバスを運行。守口市駅は会場への最寄ターミナルの一つとして重宝されていました。現在も、守口市駅から鶴見緑地行き【19】号経路が運行中です。

守口市駅には関西空港リムジンバスも発着していました。関西空港開業以来、運行本数も多く設定されていたが、のちに寝屋川・枚方・樟葉発着に切り替わり、守口からはほぼ撤退。担当営業所も門真から枚方に変わりました。

守口市駅~新大阪駅を結ぶ「新幹線シャトルバス」は2001年4~9月の半年間試験的に運行され、このまま定着するものと思いきや、あっさり撤退しました。せっかく京阪沿線から新大阪駅への最短快適ルート(御堂筋線の混雑ラッシュを回避できる)として期待が高まっていたのに、勿体無いと感じました。しかしJRおおさか東線が新大阪まで開通した今では、このような路線復活は望み薄かもしれません。

このほか、四條畷・清滝団地方面や門真団地方面へのバスもあったが、全廃されてしまいました。

今では昼間時間帯は寝屋川市駅行きすらなく(大日駅止まり)、発着総本数も減ってしまいました。守口市の中心ターミナルが、地下鉄谷町線・大阪モノレールの接続する大日駅に変わっているようですね。



かつて樟葉と中書島を結んでいた京阪バス【52】号経路。

樟葉駅から男山団地(公園前・中央センター前)を経て国道1号線(枚方バイパス)を北上、木津川・宇治川を渡って京都市内に入り、西大手筋を回って京阪中書島駅に達する路線系統でした。 1983年に新設されました。

樟葉・中書島間といえば、京阪電車の特急で1駅、急行で2駅(これに加えて淀に臨時停車することもある)の位置関係にあり、所要時間も10~15分程度なので、電車で行くのが常識的でしょう。バスの所要時間はおよそ45分でした。

樟葉中書島線は樟葉・男山地区から久御山町内工場への通勤、また久御山町内から伏見区・大手筋商店街への買い物などの旅客流動を意識したものと思われます。樟葉駅~新あらみ間は京阪宇治交通【17】号経路(京阪宇治・宇治車庫行き)と同一経路でした。

樟葉中書島線には「東一口」(ひがしいもあらい)という変わった難読停留所名がありました。「一口」は久御山町の地名。その由来は、かつて久御山町・宇治市一帯に巨椋池(おぐらいけ)とよばれる広大な沼地だったことと大いに関係があるとされます。「一口」という漢字は、巨椋池と宇治川の間に唯一の流出口を意味。沼地ゆえに天然痘=「いも」などの疫病に度々苦しめられ、「いみ(忌み)はらい」「いもを洗う」を掛けて「いもあらい」と読み、漢字の「一口」を当てた、という説が自然に理解しやすいでしょう。

運行開始当初、6~7往復が設定され、特に朝の中書島行きは通勤時間帯ということもあり乗車率が高かったようです。2005年の廃止まで枚方営業所管轄で(開通当初のみ、なぜか山科営業所の車両が使用されていたようですが)、招提線・樟葉長尾線などと共通運用が組まれていました。運用車両も開通当初は大型車(Aタイプ)が使用されるが、1984年以降中型車(エアロミディ)が主体的となります(Bタイプ車なども時々入っていた)。

京阪中書島駅では1997年まで、市電伏見線ホーム跡での発着、京都市バスと共同使用でした。折り返しはホーム奥のターンテーブルで方向転換でした。1997年10月以降、樟葉駅→西大手筋→中書島→(外環状線)→(国道1号)→樟葉駅の循環運転方式に変更。

運行本数も年々減便され、末期は1日3往復でした。

2000年ごろになると、国道1号・京滋バイパスとのジャンクションにジャスコ久御山(→イオンモール)が開業、樟葉中書島線【52】号経路のジャスコ久御山経由も考えられました。その後、第二京阪(国道1号バイパス)の部分開通に伴い、中書島~ジャスコ久御山~近鉄大久保系統のバスを新設(京阪宇治バス・京阪宇治交通・京阪シティバスとの共同運行、現在京都京阪バスが運営)。結局、樟葉中書島線は出る幕がないまま廃止されました。

樟葉中書島線廃止後も、京阪宇治交通【17】号経路はしばらく残り、2006年京阪バスへの合併後はそのまま京阪バス直営(男山営業所管轄)となるが、2007年11月に運行終了しました。【17】号経路は、京阪宇治交通本社のある樟葉と宇治車庫(京阪宇治バス)を結ぶ営業所(グループ会社)間連絡の役割もあったようです。



1992年ごろの京都市内のバスについて、思いつくままに書いてみました。

当時、私は京都市バス【81】系統(伏見線)に乗車することが多かったです。【81】系統は京都市電伏見線を受け継いだもので、伏見区有数のドル箱路線です。丹波橋での京阪・近鉄乗り換えの煩わしさを避けるべく、中書島から京都駅前まで乗ってみたり、あるいは八条口のアバンティ6階大型書店に寄った帰り、【81】系統で中書島までワープということも(アバンティは近鉄・JR京都駅からかなり距離がある)。【81】系統の車両は西工+三菱ふそう(MP)が多く、53MC(通称・ハンペン)もまだまだ沢山残っていました。京阪中書島駅の市電ホーム跡はバスのりばとして活用され、奥のターンテーブルで方向転換していました(京阪バス樟葉中書島線【52】号経路もここから発着。現在ここは自転車駐輪場になっている)。

【206】系統(東山~北大路~千本通循環)にもよく乗りました。ある目的で基本的に京都駅前から東山通を経て百万遍までの利用だったが、暇つぶしに一周してしまうこともあったと思います。【206】系統は西工+日産ディーゼルという癖のある車両が多かったです。京都駅前~百万遍間では河原町通経由の【17】系統を利用することもありました(【17】系統のほうが早いです)。一度だけ、京阪バス比叡山線【7】号経路に乗ったこともあります(ブルドックBタイプ車で、混雑しやすい市バスと違う特別感があった)。

このほか、京都駅八条口(アバンティ前)から【71】系統(九条通経由)で四条大宮へ抜けてみたり、北大路BTから京都国際会館まで【北ブロック】系統(番号は忘れた。当時地下鉄国際会館駅は未開業)、京都駅前から大宮五条までのわずかな区間だけ洛西【73】系統、・・・。

民営バスについて、京阪バス京都奈良線【2】号経路に乗りそびれる痛い思い出があります。ある日の夕方、向島NTから京都駅まで乗ろうと待ったものの、渋滞ゆえなのかなかなか来る気配がなくて苛立ち、諦めました。長距離路線ゆえ渋滞による遅延は日常茶飯事なので、それで怒っていては大人じゃないですね(苦笑)。ただバスに乗ってしまえば、渋滞遅延はむしろ睡眠時間に利用できるので有難いのですが(どうしても急いでいるときは困りますが)・・・。

1992年当時の京都周辺のバスの見どころとしては、

JR長岡京駅のターンテーブル(阪急バス)
JRバス高雄京北線の【富士重3E+三菱】【日野車体+いすゞ】
京都駅発能勢妙見山行き、祇園ターミナル(京都交通)
大和八木行き(奈良交通)
三条京阪発信楽行き(帝産湖南交通)

などが挙げられます。

当時、京都駅前の近鉄百貨店(旧・丸物)にもよくふらふら立ち寄ることもありました。確かレストランフロアのカレー店で遅い昼食をとった記憶があります。そこの女性店員の接客はどうも冷たかったようで、残念ながらあまり良い印象は持てませんでした。しかし、これも私自身の不徳ゆえでしょう。今更ながら反省しています。


京阪バス高槻営業所管内の過去路線を一つ。

枚方高槻線の(快速)【1】号経路です。

枚方市駅~阪急高槻間にて朝ラッシュ時の運行だったと記憶しています。もともとノンストップ運転だったが、1998年3月ダイヤ改定より、「枚方公園口」「松原」に停車するようになったようです。 2011年5月のダイヤ改定で廃止されました。

京阪バス有数のドル箱路線である枚方高槻線では、快速便の需要はありそうだと思われるが、やはり時代の流れなのでしょうか。今後も混雑分散化を図る目的で一部区間を通過運転するのはありかもしれません。

運用車両も通常のAタイプ車が多かったようです。



1990年前後、こと平成初期の頃の京都駅前から発車するバスについて、京阪バス・近鉄バス(近畿日本鉄道自動車部)を中心に思いつくままに書いてみました。

当時、京都駅烏丸口に乗り入れるバスのうち、JRを除く民営路線バスは西側の京都中央郵便局前からの発車でした。のりばは大きく

1)京都交通(桂・洛西・亀岡方面)、丹海バス(丹後・間人行き)
2)京都バス(嵯峨野・嵐山方面 / 岩倉・大原・比叡山方面)
3)京阪バス・京阪宇治交通・近鉄バス・奈良交通(向島・宇治・奈良方面 / 浜大津・比叡山方面)


に分けられていたと思います。

京都交通は、京阪バスグループの京阪京都交通に生まれ変わり現在に至ります。近鉄バスや奈良交通が京都駅前から軒並み撤退して20年以上経過し、京都駅に乗り入れる民営バス一般路線は西日本JRバスと丹海を除き、全て京阪グループになるとは思いもよりませんでした。

京都駅での京阪バスといえば、定期観光バスや高速バス(北陸方面)のほうが存在感があり、一般路線は本数は少なかったです。

京都駅発着の面白い長距離路線といえば、京都奈良線でしょう。当時、京都駅と奈良を結ぶ路線が京阪・近鉄・奈良交の3社共同で運行されていました。近鉄が一番本数が多く、奈良交も大和八木行きのロングランが1往復だけありました。奈良側の折り返し場所は京阪と近鉄で異なっており、後者は近鉄バス奈良営業所前(大安寺)でした(「大安」といえば京つけもの店を連想してしまうが)。近鉄バスについては、向島や大久保までの区間便も設定されていました。運用車両は京阪(【2】号経路、山科営業所管轄)は三菱エアロミディ、近鉄・奈良交は日野(RE・RC・RJほか)。京阪便の1985年以前は洛南営業所の管轄で、朝夕は大久保経由で久御山団地や京阪淀駅発着系統もありました。

奈良交・大和八木行きは1993年ごろ、奈良(大安寺)行きに短縮。京都奈良線は縮小の一途であり、1996年京阪・奈良交は廃止、近鉄も確か月1日のみに減便され、1998年運行休止に(近鉄バス奈良営業所も廃止)。京都駅~奈良間を通しての所要時間2時間近く、運賃は1,400円だったようで、これなら近鉄特急に乗るほうが早くてお得でしょう。

京都駅前には京阪宇治交通も宇治方面から乗り入れていました(確か冬季を除く休日のみ運行だった)。方向は京都奈良線と基本的に同じですが、運行経路は異なり、国道24号線(竹田街道)~六地蔵経由、途中まで市バス【81】系統とほぼ同じルートを走りました(京都奈良線は稲荷・藤ノ森を経て、墨染付近から国道24号線に入る)。宇治交の京都乗り入れは1997年ごろまでに廃止されたようです。

京阪バスは、ほかに【46】浜大津行き、【57】比叡山行きもありました。比叡山線は現在も運行中です。浜大津行きは大津営業所、比叡山線は山科営業所の管轄でした。比叡山線には当時、三菱大型Bタイプ車(路線・観光兼用車)が専属で使用されていました(現在はJ-Bus・日野KV290のBタイプを使用中)。浜大津行きは京都駅と山科区を結ぶ唯一の路線系統であるほか、四条河原町や三条京阪への穴場的路線でもありました(市バスとは対照的に空気輸送だった)。


京阪バス寝屋川営業所・過去の路線です。

【17】号経路<仁和寺~門真市駅>

運行経路は、

仁和寺~大久保~大庭住宅前~地下鉄大日~門真市駅

という、これまた【15】号経路(京阪守口市駅~仁和寺)とは違うルートで、興味深いですね。

「地下鉄大日」は現在の大日駅ロータリーとは異なり、府道上に設置されていたようで、ここから中央環状線を走って門真市駅に至ります。

運行本数は少なかったようで、1995年廃止されたそうです。大阪モノレール開通前ですが、今とは違って面白い路線系統が多かったものですね。門真市駅には吹田八尾線も乗り入れていました。


(参考記事)
京阪バス【15】号経路・<仁和寺~京阪守口市駅>
http://katanogawara.blog.jp/archives/31746643.html
 


八幡市の円福寺では、毎年4月20日と10月20日万人講が開催されます。これに合わせ、樟葉駅から臨時シャトルバスが運行されます。 

円福寺は日本最古の達磨大師坐像で知られ、中風封じにご利益があることで有名です。普段は修行のお寺ですが、年2回の万人講のときだけ一般参内が許され、達磨大師坐像が公開されます。

円福寺は大阪・京都府県境の洞ヶ峠付近にあり、高野道・枚方ハイツから北へもう一歩先のところ。したがって、臨時バスは【2】【3】号経路と同じルートを走ります。男山営業所の運行です。

円福寺臨時バスといえば、かつて京阪八幡(石清水八幡宮駅)から運行されていました。30年ほど前、枚方営業所のBタイプ車が使用されていたように思います。ちなみに正月3が日の八幡山崎線も、枚方営業所の担当で、現在もそのまま同営業所の管轄です(Bタイプ車を使用するため)。

円福寺臨時バスは、京阪宇治交通の合併後、樟葉駅発着・男山営業所担当に変更されました。


京阪バス大津営業所は、基本的に大津市内の京阪石山坂本線(石山寺~浜大津~大津京駅)を中心とする一般路線を管轄。南は南郷・大石地区、北は大津京駅(旧・西大津駅)~近江神宮前~比叡平までをカバーしています。しかし昭和・平成初期の頃に比べて路線の数や運用範囲はかなり縮小されており、特に大津営業所が国道1号線沿線の大津市民病院前から石山地区への移転後、その傾向が目立ちます。

大津営業所移転前は、京津国道線として三条京阪・京都駅・四条大宮~浜大津・西大津駅~琵琶湖大橋、比叡山線として堅田、また宇治川ラインで京阪宇治駅までの広範囲をカバーしており、魅惑的な長距離路線も数多く存在していました。 ほかに大津駅・三条京阪・四条大宮からびわこ競艇場(柳ヶ崎)までの臨時系統もありましたね(競艇輸送は大阪地区ほかからも応援あり)。

大津営業所が現在地に移転したのは1993年(平成5年)。移転に伴うダイヤ改正で、京津国道線は山科営業所に移管、宇治川ラインは廃止(その後も京阪宇治交通担当便はしばらく残る)、石山駅~大石~中畑・外畑系統は大石小学校で系統分割して「大石ゾーン線」(【4B】【4C】ほか)を設定するなど、長距離路線は整理されました。なお、堅田・琵琶湖大橋からは1990年以前に撤退したようです。

その後も縮小は続き、京津国道線(山科営業所管轄)は1997年京都市営地下鉄東西線開通に伴い、山科駅以西、京都市街地への乗り入れを廃止(→その後、京津国道線はほぼ跡形もなく消滅)。2006年には大津市北部の唐崎~坂本地区から路線撤退し、大津京駅付近が運行エリアのほぼ北限となります。浜大津~石山駅を結ぶ大津市街地路線なども往時に比べてかなり本数が減っており、ターミナルである大津駅や浜大津が寂れている様子からも、凋落傾向が伺えます。

大津市北部~湖西線沿線をカバーする江若交通も、やはり同様に縮小傾向が目立ちます。

滋賀県は現在でも全国屈指の人口増加県ですが、湖西線よりも東海道本線(琵琶湖線)沿線の草津・守山・栗東市などが特に伸びているようで、比較的新しい南草津駅が県内トップの乗降客数を誇るまでに急成長。京阪バス大津営業所管内も石山駅を拠点とする路線系統が比較的堅調と言えます。


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いつだったのか、たぶんヤフオクから拾った画像と思いますが、1982年当時の京阪バス路線図(大阪地区)が出品されていました。

表紙に寝屋川団地バス停の写真が写っていますね。気になるのは横の車両。交野営業所所属の日野REもしくはRCには間違いないですが、車体がピカピカでフロント窓は視野拡大化前なので・・・
 


少し昔の京阪バス高槻営業所管内について、思いつくままに書いてみました。

高槻営業所管内はエリアが狭いため路線系統自体が少なく(採算の良い路線ばかりのため、ネタな廃止路線そのものが少ない)、車両も三菱ふそう大型車で統一されていたゆえ、面白いネタは掘り出しづらいと思っていました。

しかし、書き出すうちに、これまた面白いエピソードが浮かんでくるもので、実に不思議ですね。

1980年代の高槻営業所管内といえば、枚方高槻線でのバス接近表示装置が挙げられます。当時の路線バスとして先進的なサービスシステムが採用されたことは、注目されるべきでしょう。枚方市駅(北口)~阪急・JR高槻間の各停留所でバスが接近するとき、メロディが鳴ったのも今では懐かしい思い出です。この接近表示装置は1990年代に入ってもしばらく残っていましたが、いつしか撤去。

しかし、枚方高槻線は京阪バストップクラスの黒字路線であり、渋滞の多い国道170号線(外環状線)を主に走行することから、接近表示装置に代わるものとして、2006年に車両運行管理システムとバスロケーションシステムを導入(→モバイルでの新しいバスロケーションシステムを京阪バス全路線に採用されることにより、2014年に終了)。

高槻営業所管内での印象的な思い出といえば、1987年に初めて大型逆T字窓の車両(エアロスターK)に乗ったことですね。従前の二段窓の路線バスとは一線を画する衝撃の姿であり、まるで観光バスのようで「乗り得」感がありました。国鉄がJRになって間もない頃で、方向幕は「国鉄高槻」「国鉄茨木」のままでした。ちょうど小型方向幕車が引退の時を迎え(当時の車両代替サイクルは8~10年だった)、そのタイミングに合わせるようにJRの入った幕に更新されました。

当時の最新車両(逆T字窓車)で車内BGMが流れたのも、懐かしい思い出です。ただ、不快感を覚える乗客も少なくなかったようで、4年ほどで中止されました。

このほか、車両に関しては、小型方向幕の呉羽MRタイプ車体の冷房車が印象に残っています。見た目にはMR470のようで、エンジンサウンドはブルドックと同じ6D20、形式はMP117。ブルドック(三菱自工)と同期ながら、呉羽車体は旧来の図面デザインゆえ年式よりも古く見えたものですね。車両の真ん中に冷房ダクトで柱が太くなってるやつで、外観上はBタイプと似ていました。大阪地区では高槻・枚方営業所のみの配置だったようです。高槻にはほかに富士重3EのMP117もいました。


15年ほど前のJR長尾駅改築前の様子です。

バスの本数・系統が拡大傾向だった時代で、駅前通りの府道736号線渋滞と合わせ、狭い駅前広場での交通整理に苦労されていたようでした。

旧・京阪宇治交通(男山営業所)のエアロスターMも、わずか1年間だけ長尾駅に姿を現し、今となっては貴重な記録ですね。

かつて長尾-木津間非電化時代に使用されていた気動車用ホーム跡の貴重な画像も出てきました。

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阪急京都線の水無瀬駅前。

大阪府島本町の市街地に近く、京都府大山崎町との境界まで直線距離で1~2kmほどの位置にあります。

水無瀬駅からおよそ600m西には、JR京都線の島本駅があり、2008年開業の新しい駅です。

阪急水無瀬駅前から発着するバスについて。

阪急バス・「若山台センター」行きと「新山崎橋」行きのバスが乗り入れています。若山台センター行き(島本町役場前経由)は、平日は毎時3本、土曜・休日は毎時2本の運行本数で、一部の便はJR島本経由です。若山台センター系統の一部は、大山崎営業所への入出庫を兼ね、国道171号線を走り府県境を越境して新山崎橋まで運行されています。したがって、水無瀬駅前に乗り入れる阪急バスは、京都ナンバー(大山崎営業所所属)です。

昔はひたすら国道を走行する京阪急行線などもここを通っていました。急行線廃止後、系統分割が行われ、京都方面からは1980年代初期まで、阪急水無瀬~河原町御池という長距離路線が残っていました。大阪方面からは茨木~水無瀬系統が1997年まで運行されていました(茨木営業所担当。阪急・JR高槻駅前には乗り入れず、ひたすら国道171号線を走行)。茨木~水無瀬系統廃止後、阪急バス京都地区路線(島本町以北)は大阪・兵庫地区路線と完全分離しました。

* * * *

阪急水無瀬駅前からは、かつて京都競馬場(淀)へのシャトルバスが京阪バスによって運行されていました。西山天王山駅開業(2013年)後、水無瀬系統は西山天王山駅発着に切り替えられました。普段は京阪バスが乗り入れることはないが、競馬開催日には大阪地区各営業所の車両を総動員。競馬シャトルバスはJR山崎からも発着します。阪急水無瀬発着便は、香里団地・交野・門真営業所の車両が多かったような印象が強いが、末期は男山営業所も水無瀬系統に入り、旧・宇治交のエアロスターMも阪急沿線に姿を見せることに。


京阪バス寝屋川・守口営業所管内について、 1980年代後半ごろのことを思いつくままに書いてみることにしました。

このエリアは、実を言えば、私個人的にさほど印象の強いところではありません。

一番乗車する機会の多かった系統は、寝屋川【11】号経路ほか摂南大学寝屋川キャンパス関連の路線だったと思います。全国模試などを受けることが目的でした。当時、寝屋川管内では中型車の比率が少しずつ増加しつつあったものの、大型車もまだ多く活躍。三菱ふそう車の姿は見られず(寝屋川名物だったブルドックB-1508・1509は既に大津へ転属)、日野ばかりだったと思います。モノコックのRE・RCもまだ現役でした。摂南大学からの帰り、寝屋川市駅行きでたまに整理券発行のバスに当たったとき、どこから来たやつのか興味がありましたね(たぶん古川橋からの【13】号経路)。

ちなみに、五木模試の会場は大阪電通大寝屋川キャンパスが多かったが、寝屋川市駅から徒歩でした(高宮四条畷線のバスが通るが、本数は少なかったはず)。

寝屋川管内の面白い路線系統として、【16】<枚方市駅~寝屋川市駅>などもあったが、これも機会を見つけて乗っておいたほうがよかったですね。枚方市駅北口で時々【16】号経路を見かけることもあり、Bタイプ(B-3461・3487)での運用が多かったように記憶しています。

* * * *

原付免許を取るために初めて門真自動車試験場へ行く時、古川橋駅から試験場前行きのバスは、富士重3EのRCでした。富士重のRCといえば、枚方営業所に1・2台だけの少数派という印象が強く(末期は主に招提線や樟葉長尾線などで運用)、門真(営)にもいるとは知りませんでした。

門真営業所には1985年ごろまで、四條畷市清滝地区運用の関係上、三菱ふそう車も3割近く所属していたようだが、枚方・高槻および京滋地区へ転出、日野ブルーリボンHT(大型車)やレインボーHR(中型車)に置き換えられました。

あと、門真管内で実際に乗車した面白い路線として、吹田八尾線【52】号経路があります。JR吹田~京阪守口市駅間で、寝屋川管轄【9A】号経路とは運行経路が異なり、千里丘から摂津市役所を経て、中央環状線・鳥飼大橋を渡り、大日から守口市駅に至るルートでした。阪急バスとの共同運行でした。


これも懐かしいですね。

牧野ヤングプラザといえば、プールで泳いだという思い出のある方も多いでしょう。

私はヤンプラのプールに入ったことはありませんでした。でも、ボウリングにはこれまで何度か行ったことあります。 

初めてヤンプラのボウリングに行ったのは、高2の遠足の日。当日、嵐山へ行く予定だったけど、雨のためボウリングに変更。お開きの後、私は雨の中を突いて、なぜか樟葉の市立図書館(最寄りは「あさひ」バス停)まで歩いて寄り道しましたね。どうせなら、樟葉駅から【28】号経路(現【39】)枚方市駅行きに乗って帰っても良かった・・・。

翌年、高3のGWの時には、家族揃ってここのボウリング場に行きました。もちろん、受験生だったため、遠出はできず欲求不満気味。2年前の高1のGWのときは、サイクリングに行きたかったんだけど、風邪で寝込んでしまうし、どうも高校時代のGWは呪われてばかりだったような・・・。

ヤングプラザも気がついたら、いつの間にか消えていました。その後も、ボウリング場は残っており、たまに友人・知人と行くこともあります。最後に行ったのは、6年ほど前だったかな。ボウリングの後、マックに入って歓談したりしましたが、約1名のKYな老人のせいで不愉快な思いが募ったりとか、いろいろありましたな。こうなるのも、それまでの私自身の心がけが宜しくなかったためだと反省。

http://katanogawara.blog.jp/archives/34949064.html
でも書いたように、結局のところ、中学・高校時代以来のあれこれがじわりと響いているみたいです。

今ごろになって、中学・高校時代の夏休みに、ヤンプラのプールへ泳ぎに行ってもよかった、と後悔。どうせなら、枚方市駅から京阪バス招提線(【36】号経路ほか)に乗って行くほうが面白かったことでしょう。当時、招提線には中型車(エアロミディMK)も来れば、観光兼用Bタイプ車も来たりと、車両はバラエティに富んでいました。枚方営業所のBタイプといえば、B-1597・1598・3460にもっと乗っておきたかった(Aタイプ・モノコックも)。樟葉駅発着牧野・招提循環(たまに樟葉八幡線、中書島線にも入ってたようだけど)の運用に入ることも多く、樟葉に行く機会があったら、狙って乗車しておけばよかったですね。


1980年代後半当時の京阪バス香里団地・交野営業所管内について、思いつくままに書いてみようと思います。

香里団地・交野管内といえば、私個人的に最も身近なエリアなんだけど、 枚方営業所管内(枚方市北部・東部、八幡市、京田辺市ほか)のように「もっと乗っておいたらよかった」と思う路線は、意外に少ないんですよね。そもそも、あの当時の香里・交野地区路線について、あまり変化に富んでいなかったためだと思うが、それでも、

【28】     ダイエースーパー ~ 香里団地
【9B】     枚方市駅~高田・東香里・新香里循環
【43】     枚方市駅~四条畷駅
【2】     阪急高槻~枚方市駅~香里団地
【18】     京阪交野市駅~田原台地区~京阪大和田駅前
(【2】号経路は高槻営業所担当)

など、なかなか面白い路線もあり、もっと積極的に乗っておいたほうが良かったですね。

ここは、路線そのものというよりも、機会を見つけて当時活躍していた車両に、もっと乗っておいたら良かった、と思っています。香里・交野エリアには、当時日野ブルーリボン大型車(P-HT235)が主力となりつつあり、三菱ふそう車は数を減らしていました(もともと三菱車自体少ないエリアだが)。

路線・観光兼用のBタイプも、香里・交野には三菱MR470(香里B-1344、交野B-1386)が配置され、昼間の【10】号・釈尊寺団地線(交野管轄)の運用に入ることも多かったが、1986年にはいずれもブルーリボンP-HU235に置き換えられました(香里B-3485、交野B-3486)。新しいBタイプ車は2連窓・暖色系シートの観光仕様となり、これに当たったときはお得感がありましたね(前任のふそうBタイプも、座席シートは赤色で特別感のある車両だった)。交野のB-3486は、1991年ごろまで【10】号経路に入ることが多かったです。

高槻からの【2】号経路は三菱ふそう車で、特に最新型のエアロスターK(P-MP218)は香里団地界隈では違和感がありました。

星田線【43】号経路は、笠松~正縁寺間の狭隘区間(大阪r20旧道)を走るため、中型車限定、しかも日野レインボー・P-RJ172ばかり。中型車導入当初(1984~85年)、星田線に三菱P-MK116も交じってたが、ほどなく枚方営業所に転属。

田原線【18】号経路も同様。田原線については、1984年まで三菱ふそう大型車のブルドック(A-1459、1466ほか1台)が専用車として使用されていたが、閑散路線ということで中型車に置き換えられました。初めはP-MK116が入っていたが、気がついたらここも日野レインボーばかりに。

それよりも、香里・交野エリアにおいては、むしろごくありふれた日野大型車、特に数を減らしつつあるモノコック車(A-3200番台~3470)こそ、もっと味わって乗っておいたらよかった、と後悔。交野管轄の路線だと、時折三菱ふそう(A-1501、1548、1579)に当たることもあり、こちらはなおさらのこと。A-1548は富士重3E+MP118という、異彩を放つ存在でした。香里・交野には富士重3E+日野(RE121、K-RE121)が一定数在籍しており、こちらのほうにはよく当たりましたが(1990年までに引退済)。K-RC301については、なぜかA-3393・3397・3436・3440~3444・3465(交野)、A-3398・3399・3400・3445・3454・3470(香里)あたりが印象に残っているが、これらももっと味わって乗車しておけばよかった。

星田線については、1990年10月より早朝の1便、【43A】交野車庫発枚方市駅行きを新設。春日小学校(枚方市高田)~交野市星田間の道路が開通した頃でもあり、釈尊寺団地や寝屋川団地・寝屋川市駅からの回送にも、この道路が使われるようになります。翌1991年には昼間時間帯に【43A】号<枚方市駅~交野車庫>が増発されました。交野車庫発着便には大型車が使われることも多く、1992年ごろまでは古参のモノコックが入っているのを時折見かけました。ブルドックA-1579が朝の【43A】に入っているのを見かけたこともあるが、捕まえられなかったのは残念・・・。

交野(営)には1990年、突如エアロスターK(A-1758、1765)が配置されました。もう交野にふそうの新車が来ることはないと思っていただけに、びっくりでしたね。ブルーリボンに混じって津田香里線や釈尊寺団地線、寝屋川北部線などでちょくちょく見かけたけど、結局捕まえられずでした。半年ほどで山科営業所へ転属・・・。

交野市内に1989年ごろ、新路線が一つ開通しました。それは、京阪交野市駅~幾野4丁目~西倉治~倉治~津田駅系統で、津田香里線の【8】号経路として運行開始。西倉治~倉治~津田駅間には枚方【14】号経路(村野浄水場・津田循環)も走っていました。1992年の枚方尊延寺線ダイヤ改正で【8】号経路は穂谷まで延伸、京阪交野市駅~穂谷系統が登場。交野営業所の担当でした(2000年廃止)。交野~穂谷系統は中型車(レインボー)で運用されることが多かったが、関西外大(穂谷外大)の下校時間帯には大型車も使用されました。

香里団地管内では、1991年ごろ「深夜バス」を初めて設定。バブル経済の終焉を前後して、終電後の時間帯に大阪梅田・なんばから郊外各地への深夜急行バスが相次いで登場するが、京阪バスは通常の一般路線を深夜時間帯に、運賃倍額とする路線を取りました。【3】号経路の枚方市駅→香里橋→五本松→公孫樹通→新香里→藤田川で、深夜24時台に1本運行。「深夜バス」は20年後の2011年ごろより、京都・滋賀地区を含め各地で相次いで登場するが、近年バス運転士不足などもあって運行日数を減らしたり取り止めたりするところも発生しています。


1980年代後半の枚方市東部(津田・藤阪・長尾・尊延寺・穂谷方面)のバスについて、思いつくままに書いてみることにしました。

開発が遅れ、のどかな農村・里山風景の残る枚方市東部地区(概ね郵便番号573-01地域 あるいは交野警察署管轄地域)。ここにも、大学の新設や新興住宅地開発の波が押し寄せます。東部地区の基幹鉄道である国鉄片町線(→JR学研都市線)は、1989年長尾-木津間電化開業&松井山手駅(京田辺市)と合わせ、快速電車大増発が実施され、ローカル線から都市鉄道に脱皮。松井山手駅は京阪電鉄の全額負担で設置され、京阪東ローズタウンなどの開発が始まります。

これに合わせ、枚方市東部地区のバス路線も大きく変わりました。

まず、関西外大穂谷キャンパス開校(1984年)に合わせ、枚方市駅(南口)・津田駅と新田辺から外大行きのバスを新設。枚方市駅~新田辺間のロングラン系統は1970年代ごろより3往復設定されていたが、1992年ダイヤ改正で穂谷で系統分割と引き換えに、穂谷~新田辺間のバスは毎時1本に増便されます。狭かった津田駅前バスのりばも、1990年ごろまでにバスループが整備されます(整備前は舗装すらされておらず、スイッチバック方式で出入りだったと記憶)。

杉地区には1988年、大阪国際大学枚方キャンパスが開校(杉中学校の近く)。先立って、長尾台へのバス乗り入れを開始、1986年出屋敷線の枚方市駅北口~長尾台住宅系統(【25】号経路)が新設されました。国際大開校に合わせ、大阪国際大学まで延伸されます。また、枚方市駅南口から、池之宮・杉山手経由の大阪国際大学行き【15】号経路(現【65】号)も新設。大阪国際大学には、第二京阪開通後(2009年)、直Q京都号も乗り入れるようになり、京都駅八条口まで一直線です。

長尾駅北東・長尾東町地区へのバス乗り入れも開始。樟葉長尾線【31】号経路を長尾駅から枚方カントリー(杉北町)まで延伸(現【93】号経路)します。枚方カントリー入口付近では、実は京都府(京田辺市、八幡市飛地)に越境しており、現在第二京阪も開通しています。枚方カントリー入口~クラブハウス(「枚方カントリー」バス停)のアプローチ道路には桜並木が連なり、花見のスポットです(今年はコロナ災禍の影響で閉鎖)。

松井山手地区では京阪東ローズタウン街開きも始まり、1992年出屋敷線【21】号経路(枚方市駅~長尾駅)を松井山手駅まで延伸(→【26】号経路)。枚方市駅~松井山手系統は2018年廃止、松井山手~長尾駅~大阪国際大学~穂谷口~新田辺系統(【89】号経路ほか)に代替されました。

1986年ごろまで、毎年夏休みには王仁公園プールへの利便を図り、枚方市駅北口~藤阪間の臨時バスを運行していました。「藤阪」バス停へは、枚方市駅南口から【11】号・長尾駅行き(現【63】【64】号)でアクセス可能ですが、臨時便は須山町・出屋敷・既製服団地を回って、長尾口から【11】号経路・枚方市駅行きと同じルートでr736を南下するという、面白い路線でした。これは循環【20】号経路<枚方市駅北口~長尾駅~枚方市駅南口>の実質区間便であったりします。北口のりばからは【22】号・藤阪ハイツ行き(現【18】号)が発着しており、臨時便の「藤阪」行きと乗り間違いが起きやすかったのかもしれませんね。

* * * *

王仁公園プールといえば、中学・高校時代だった当時の私自身の痛いエピソードを思い出しました。今から思えば、中学・高校時代にもう少し水泳の練習をしておけば良かった、と後悔。もともと泳ぐことは苦手で小2までは水に入ることすら怖がっていたが、小3から少しずつ泳げるようになり小学校卒業までには25~50mは何とか行くようになりました。

しかし、中学以来、泳ぐ機会が減ったこともあって、伸び悩むことに。夏休みに学校のプール開放を利用することもあったが、中学では小学校のときのようにあまり行かなくなりましたね(腹痛を訴えて早く帰ろうとしたが、仮病と見られたのか、監督員に止められた)。実際、中学校のプールではあまり会いたくない友達もいたし、それなら王仁公園へ逃げる手があった。そうそう、夏休みには週1~2のペースで王仁公園へ通って泳ぐ練習をやっても良かった。学校のプールとはちがって、飽きたり疲れたらいつでも退場できるんだし。でも、学校のプールは無料で入れるし、途中退場できない厳しさはあるが、それだけしっかり練習しなさいということと捉えて、真剣にやるのも悪くないでしょう。

高1の夏休み前の「試験休み」に、体育(水泳)の補習を受けさせられることになったが、他の科目の講習を申し込んでて楽しみにしていたのに、予定が重なったためキャンセルという、笑うに笑えぬ話に。もし、中学時代に王仁公園へでも通って、もう少し真剣に練習していたら、水泳力はそこそこ維持できたため、こんなことにならなくて済んだかも、と今頃になって反省。あるいは、今の私だったら、補習の通告を渡されたその時点で、嫌がらずに「今まで練習をサボってた自分が悪かった、反省します」という姿勢を見せ、(目前の補習を含め)今後体育の授業にもう少し誠意を込めて参加するよう気持ちを替える、という大人の対応をしたいところ。10代当時の私にそれができなかったことを、恥じているところです。

王仁公園までの交通手段としては、バス乗り継ぎ、鉄道(京阪交野線+片町線で藤阪駅下車)、自転車の可能な選択肢があるが、鉄道だと河内森~河内磐船間を歩く必要があって乗り換えが面倒ということもあり、やはりバス乗り継ぎが一番面白いところでしょうか・・・。

高1の夏休みといえば、自転車で遠征することにもこだわるが、雨の多い天候不順でままならず欲求不満続きだったけど、それなら水泳の補習を食らった事実を客観的に反省し、自転車でやはり近場の王仁公園へ泳ぎに行くもありだった。しかし、それよりも、やはり当時の面白いバス路線にいろいろ乗っておいたほうが良かった、と後悔しています。


久しぶりに、過去の京阪バスの思い出ネタを。

1994年(平成6年)前後のことについて、思いつくままに書いてみることにしました。

1994年といえば、関西空港開港が何よりのビッグイベントでしょう。関西圏各地から関空へのリムジンバスが新設されました。京阪沿線からは京阪バス・京阪宇治交通が京阪守口市駅・松井山手・宇治発着系統を運行開始。守口発着系統は当初、京阪バス門真営業所の担当でした(現在、守口発着系統は需要低下により大幅減便され、ほぼ寝屋川・枚方系統に代替)。

一般路線については、まず8~10年ぶりに中型車の新車が集中投入されました。三菱ふそうU-MK218J、日野U-RJ3HJAAが導入され、1984~86年投入のP代中型車を置き換え。モノコック車はおろか(最後まで残ったのは枚方のBタイプ車B-1596・1597・3460)、初期のスケルトン車も淘汰される時代に入りました。U-MK218Jは枚方・山科・大津、U-RJ3HJAAは交野・寝屋川・門真にそれぞれ納車されるが、U-MK218Jはその後京都奈良線廃止をはじめ路線再編で発生する余剰から、寝屋川に相当数転属。これらの中型車は、車両の延命策により2007~08年ごろまで活躍を続けるが、最終的にはメーカーを問わず、京田辺営業所(旧・京阪宇治交通田辺営業所)なども含めて、各地へ散らばりました。

1994年導入の車両より、車内のデザインも一新され(座席モケットは柄入り、座席背面や壁の色調は暖色系に)、明るい雰囲気になりました。

旅客サービス面では、車内運賃表示機の更新、および合成音声放送を導入を実施。運賃表示機は、幕式からデジタル表示タイプのものに変わり、まず整理券番号の多い系統(京都奈良線、田原線、樟葉中書島線、淀・宇治・洛南地区路線など)での運用が想定される中型車(枚方、交野、山科所属)を中心に、24コマまたは32コマ表示のものに取り替えられました。その後、1994年夏までに、枚方営業所所属の全車両について、基本的に12コマ表示タイプのものに交換(一部24コマ表示と混在)。合わせて合成音声放送も採用されました。整理券車のない香里団地営業所管内も、いち早く合成音声放送を導入。1995年には山科・大津・高槻営業所、96年には交野・寝屋川・門真営業所管内に拡大されました。

枚方営業所管内では、1994年7月上旬、牧野・招提・樟葉地区を中心に大幅路線再編が実施されました。枚方市駅発着の招提線も、終日ポエムノール北山・家具団地方面へ乗り入れるようになり(【37】号経路)、現行【38】号経路に継承されます(旧【38】号経路・枚方車庫行きは、この改正で廃止)。

同月下旬には、京阪枚方市駅高架化工事完成に伴う南北連絡車道開通に合わせ、出屋敷線の枚方市駅付近での運行経路が変更されました。枚方市駅(北口)行きは、禁野口からかささぎ橋をショートカットするルートに付け替えられ、渋滞回避を図り定時運行の可能性が大幅アップしました。(快速)【22】号経路<枚方市駅~藤阪ハイツ>は、このダイヤ改正時点で健在でした(2002年廃止)。

交野営業所管内においては、1994年11~12月ごろ、交野市南部の路線再編を実施。京阪交野市駅前広場の整備と合わせ、南星台・妙見坂地区への乗り入れが開始しました(狭隘・急カーブの多い区間ゆえ中型車限定)。JR星田駅前へのバス乗り入れも既に始まり、2002年には快速電車が停車するようになりました。


京阪高速バス過去の路線を一つレポートしたいと思います。

高速バス枚方~東京(新宿)系統には、京都駅・三条京阪経由のほか、もう一つのルートが存在しました。 それは、枚方~京田辺(学研都市)~宇治~新宿系統。平成初期~前半頃に運行され、私も何度か乗車したことがあります。運行経路の詳細は、

枚方車庫~枚方市駅北口~(大阪r139・国道307号経由)~近鉄新田辺~(京奈和道・新木津川橋)~(国道24号バイパス)~近鉄大久保~京阪宇治~(京滋バイパス・名神・東名)~新宿

だったはず。枚方市~新田辺間はほぼ枚方尊延寺線のルートであり、津田駅や穂谷口からの乗降扱いがあっても良かったように思います。近鉄新田辺駅(学研都市京田辺)を発車後、田辺ICから城陽ICまでの短距離ながら、京奈和道を走行ののち、近鉄大久保・JR宇治・京阪宇治に停車し、京滋バイパスに入って一路東京へ。京田辺から東京への高速バスは、奈良交通【やまと号】(奈良~学研都市京田辺~東京・千葉)も設定されていたが、こちらも廃止されました。


小学校の時の思い出エピソードを一つ。

低学年~中学年の頃は中耳炎あるいは外耳炎を罹患しやすく、バスで枚方市駅前の耳鼻科に通院することも時々ありました。 

実を言うと、私はバスでの通院を楽しんでいました。特に香里団地界隈では少ない三菱ふそう車に当たると得した気分でした。回復まで概ね1週間、毎日駅前までバスに乗れるので、得した気分でもありましたな。さらに診察が終われば、三越や近鉄百貨店で見たいものも見れるし、美味しい1週間でした。交通費や医療費を支給してくれる親としては呆れたものでしょうが(笑) 

恥ずかしい話ですが、この経験に味を占め、「仮病もどき」を演じたことさえあります。

高学年の頃、喉が腫れて風邪を引きやすく、「耳が痛い」と訴えてみました。すると、仕方なく親と同伴で、あの耳鼻科を受診。診断結果は「大したことはありません」で終わり、以降の通院は無しに。本来、これは喜ぶべきことなんですが、妙なことを考えていたガキの私には「不服」でさえありました。

同じ手口を中学校(1年)の時にも使ってみました。

その頃、「いじめ」や友達関係がうまくいかず、できれば学校に行きたくはなかった。ちょうど耳が痛くなったので、あの耳鼻科にかかることを理由に早退を願い出ました。クラスメートには「それぐらいのことで早引きするんかいな」と変な目で見られ、馬鹿にされましたな。


やはり健康であることは有り難いこと。仮病もなるべく使わないほうが良いでしょう(たまにずる休みするときに使うのはあり)。中学時代に受けた「いじめ」も、それまでの私自身に原因があるはずだということに、今頃気づきました。小学校の時にもっと人間的にしっかり成長できていれば、中学校時代およびその後の自分自身も違うものになっていたでしょう。


京阪バス「1Dayチケット」の前身と言える「枚方市内一日乗車券」。 

自由利用範囲は、「枚方市内の京阪バス路線」だが、もう少し詳しく言えば、

<京阪香里園~京阪交野市駅~津田駅>以北、<枚方市駅~枚方公園口>以東、穂谷口・宗谷以西、<樟葉駅~あさひ>以南

で、少しだけ寝屋川市・交野市にも跨っていました。主に香里団地営業所管内路線と枚方営業所管内の大部分(新田辺・天王・八幡方面、その他京都府内路線を除く)で利用可能でした。高槻・茨木・寝屋川・門真方面や、京阪宇治交通などの他社線ではもちろん不可能。

価格は確か800円で、現行「1Dayチケット」(大阪・京都・滋賀地区のほぼ全路線で利用可能)の650円よりも高かったが、1980~90年代当時においては枚方市近辺を自由に周遊できる貴重なチケットでした。発売箇所は枚方市駅案内所・枚方営業所・香里団地営業所に限られていたこともあり、あまり一般的には知られていなかったようです。今更ながら、これをもっと有効に使って充実した休日を過ごせたはずだと後悔しています。

例えば、高校の夏休みとかに、「一日乗車券」を使って枚方市内の図書館をハシゴしたり、王仁公園プールで泳ぎ、そのついでに面白い路線で寄り道することもできた。「雨ばかりで自転車で遠出できない」と腐っていては、実にもったいない話ですね。バス車内では読書や受験勉強等で時間を有効に使うこともできるし(ただし、勉強は英単語などの暗記物に絞るほうがよいだろう)。


続編です。

(快速)【1】<枚方市駅南口~新香里>(香里団地営業所)
1982年ごろまで香里団地線の快速便が運行されていました。快速【1】号経路には、Bタイプ車が使用されることが多く、香里団地営業所唯一の三菱ふそう車(B-1344)ということもあって特徴的でした。乗る機会は多かったにもかかわらず、なぜか一度も乗らないまま、気が付いたら廃止。

【9B】<枚方市駅南口~高田・東香里循環>(交野営業所)
運行経路は、

枚方市駅→藤田川→高田→東香里→香里ヶ丘10丁目→新香里→藤田川→枚方市駅

香里団地地区には循環路線系統が幾つか存在し、【9B】はその一つ。【9B】は交野営業所管轄でした。実は一度だけ、桑ヶ谷→高田→新香里→枚方市駅まで乗車したことあります(乗車した車両はAタイプK-RCだった)。ちなみに1990年の一時期、交野に三菱エアロスターKが配置された時には、この【9B】の運用に入っているのを見かけたこともあるが、残念ながらうまく捕まえらずでした(結局交野のエアロスターKには一度も乗れず)。

【28】<ダイエースーパー~香里団地循環>(香里団地営業所)
香里団地および成田・三井地区からダイエー香里店への買い物客を意識して設定された路線。運行経路は、

ダイエースーパー→田井→成田山不動尊→末広町→香里ヶ丘9→五本松→香里橋→新香里→末広町→成田山不動尊→田井→ダイエースーパー

で、経路もさることながら、香里団地管内唯一の2桁系統番号であることも面白かったです。香里団地~ダイエースーパー間の区間乗車は何度かあるが、全運行区間乗車するのも面白いですね。ダイエー香里店ともども、過去のものとなってしまいました。

【41】<寝屋川市駅~四条畷駅>(交野営業所)
星田線【43】<枚方市駅~四条畷駅>とともに、r20旧道・笠松~正縁寺間の狭隘区間に対応するため、短尺車または中型車限定で運用されていました。1984年以降は中型車に統一、しかも日野レインボーばかりで車両趣味的にはあまり面白くないが、秦北口~秦公民館前~三井秦団地はr18旧道(市道)、そして前述のr20旧道(東高野街道)狭隘路を走行するという点で乗りごたえがあって面白い路線でした。【43】号経路を枚方市駅から四条畷駅まで何度か乗車したことはあるが、四条畷駅まで直通していたときの【41】号経路も乗っておきたかったです。現在、【41】にかわって【41B】・<寝屋川市駅~東寝屋川駅・梅が丘>が運行中です。

【30】【30A】【30B】【40】【40A】【40B】<樟葉駅~牧野・招提循環>(枚方営業所)
樟葉駅を拠点に牧野・招提地区を循環する路線。長距離路線というわけではないが、この路線系統には、Bタイプ車が充当されることも多く、車両そのものを楽しむには面白い路線でした。牧野・招提循環も路線再編&大幅縮小を受け、今では小型車で運用、寂しくなったものです。

【32】<樟葉駅~京阪八幡>(旧ルート)(枚方営業所)
京阪宇治交通【71】号経路と共通経路ですが、京阪バスへの統合後は【32】号に統一、男山営業所管轄となっています。もともと、

樟葉駅~公園前~八幡第二小学校(現・くすの木小学校)~弓岡~大芝~京阪八幡

という、少々迂回的な経路でした。1983年より、公園前~大芝間は「中央センター経由」に変更。京阪バス担当便は大型車と中型車(三菱エアロミディ)が混用され、Bタイプ車が入ることもあったようです。当時、八幡市内の運賃は大阪地区とは異なるため、整理券対応でした。

【臨時】<京阪八幡~円福寺>(枚方営業所)
毎月4月20日と10月20日の万人講には京阪八幡から円福寺への臨時バスが運行されていました。現在は樟葉駅からの運行(男山営業所担当)となっているようです。


1980年代に乗っておきたかった京阪バスの路線(大阪地区)を挙げてみたいと思います。

【12】<枚方市駅南口~新田辺>(枚方営業所)
枚方市駅発着の数少ない長距離路線。枚方市駅~新田辺間は1日3往復の運行でした。途中、穂谷・天王を経由(一部は津田駅も)。所要時間1時間程度で、十分乗りごたえはあったと思います。 運用車両は三菱ふそう大型車が多く、特にエアロスターKの新田辺行きを見たらテンションが上がったものです。1992年ダイヤ改正で枚方尊延寺線路線再編が行われ、枚方市駅から新田辺直通便は廃止(穂谷で系統分割)。

【14】<枚方市駅南口~津田・村野浄水場循環>(枚方営業所)
現在、バス空白地帯となっている枚方市村野高見台~交野市幾野地区を通っていました。枚方営業所管内で交野市内に乗り入れるユニークな路線系統でした。運行経路は、

枚方市駅-四辻-津田駅-倉治-西倉治-出鼻橋-村野浄水場-四辻-枚方市駅

でした。残念ながら一度も乗れずでした。

【20】<枚方市駅北口~長尾駅~津田~枚方市駅南口>(枚方営業所)
出屋敷線と枚方尊延寺線をくっつけた大循環路線系統でした。当時の系統番号でいえば、【21】と【11】を一本化したものです。全区間乗り通すとかなりな所要時間となり、乗りごたえはあったと思います。朝夕のみの運行でした。

【22】(快速)<枚方市駅北口~藤阪ハイツ>(枚方営業所)
比較的遅くまで枚方市駅~藤阪ハイツの快速便がありました。長距離路線というわけではないが、運用車両が面白く、特に1980年代初頭まではBタイプ車(三菱MR470)で運用されることも多かったようです。

【26】<枚方市駅北口~国道田ノ口~家具団地>(枚方営業所)
出屋敷線の1系統ですが、国道田ノ口からひたすら枚方バイパスを疾走するというものでした。長尾高校の通学専用だったゆえ同高校の生徒・職員以外の乗車は不可能だったそうです。枚方市駅と家具団地を結ぶ路線系統としては、招提線【36】号経路もありました。

【16】<枚方市駅北口~寝屋川市駅>(寝屋川営業所)
これは特に乗っておきたかったと思います。かつての京阪国道線の残滓です。運行経路は、

枚方市駅-枚方公園口-伊加賀-木屋-菅原神社前-寝屋川車庫-寝屋川市駅

でした。運用車両はBタイプが多く(1980年代前半はB-1508・1509、以降B-3460に)、中型車(レインボー)なども入っていました。1995年に廃止されるが、2001年枚方出口線として【16】号経路が復活しました(高槻営業所管轄)。

【13】<寝屋川市駅~古川橋駅>(寝屋川営業所)
これもかなりな長距離路線でした。運行経路も複雑で、

寝屋川市駅~寝屋川車庫~菅原神社前~摂南大学~(R1バイパス)~点野~仁和寺~大久保~古川橋駅

乗りごたえは十分なように思います。

【51】<JR吹田~近鉄八戸ノ里駅前>(門真営業所)
吹田八尾線の1系統。1984年以前は国鉄八尾駅まで運行していました。大阪地区では有数の長距離路線でした。吹田八尾線は京阪・阪急・近鉄・国鉄4社の共同運行体制が取られていたが、JR発足直前に国鉄バスが撤退、その後も路線縮小が続き、1997年大阪モノレール門真市開業と同時期に跡形も無く全廃。京阪バスの八戸ノ里直通は1996年廃止。


京阪バス山科営業所管内のユニークな過去路線について、レポートしたいと思います。

【31】号経路・<阪急東向日~小栗栖団地~京阪六地蔵>。

運行経路は、

阪急東向日駅~JR向日町~下久世~【R171】~東寺南門~七条大宮~五条大宮~【五条通(R9~R1)】~東野~小野~醍醐高畑町~醍醐折戸町~小栗栖団地~大受団地南~石田団地~町並~京阪六地蔵

で、乗り応えのある長距離路線でした。1982年当時は京阪六地蔵発着だったが、のちに小栗栖団地発着に変更、1997年地下鉄東西線開業までに廃止されたようです。

向日市への京阪バス乗り入れは過去のものとなりました。現在、同じ京阪バスグループの京阪京都交通が向日市内を通っています。かつては向日町競輪場へのシャトルバスも運用しており、京阪バス各営業所(大阪地区を含む)の方向幕コマに入っていたが、これもいつしか消えてしまいましたね。

この【31】号経路は、阪急京都線の祖先である新京阪の歴史と興味深い関係があるように思います。

阪急東向日駅の大阪(梅田)方の隣、西向日駅付近の不自然なカーブが、それを物語っています。昭和初期の時代、新京阪は西向日駅から東へ分岐させ、現在の名神に沿うルートで山科・大津を経て、さらに鈴鹿山脈をぶち抜き名古屋までの路線(新京阪山科線)を開業させる、壮大な計画を持っていました。国から建設免許はおりたが、世界大恐慌の影響で名古屋への夢は頓挫。名阪間を結ぶ私鉄は、奈良・三重を経由する近畿日本鉄道(旧・参宮急行電鉄ほか)で実現することに。京阪宇治線の六地蔵駅と新京阪山科線を連絡することを目的に、京阪六地蔵線の計画もあがり、京阪バス山科営業所のある地点で六地蔵線と山科線が接続する予定だったようです。すなわち、山科営業所は、京阪「山科」駅の予定地だったということであり、山科・醍醐地区の京阪バスも新京阪さまさまということになりますね。

【31】号経路の走行ルートそのものも、新京阪山科線を彷彿とさせます。計画ルートとはかなり北に寄って、京都市中心部(五条通ほか)を通っていますが。というより、山科線と六地蔵線を両方まとめたような感じの路線とも言えますね。新京阪山科線のルートに忠実に沿う路線系統としては、京都市バス【南2】系統・<JR長岡京東口~竹田駅西口>、京阪バス【2】号経路・<竹田駅東口~醍醐バスターミナル>が挙げられます。

東寺南門~七条大宮間には、京阪バス桂淀線【22】号経路(洛南営業所→枚方営業所→廃止)も通っていました。


京阪六地蔵線(夢幻鉄道を歩く)
https://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mugen/20160825_6.html

新京阪鉄道山科線(同上)
https://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mugen/20160804_10.html



京阪バス交野営業所開設(1978年)前の路線管轄について。

コメントや他ブログの情報等からの情報を総合すると、以下のようになります。

(津田香里線)
【9A】<枚方市駅~高田~京阪香里園>
【9B】<枚方市駅~高田~東香里~新香里~枚方市駅>
(以上、香里団地営業所)

【9】<京阪香里園~京阪交野><京阪香里園~津田駅>
(枚方営業所?)

(交野南部線)
【17】<京阪交野~藤が尾団地>
【19】<京阪香里園~京阪交野~藤が尾団地>
(以上、枚方営業所?)

(釈尊寺団地線)
【10】<枚方市駅~釈尊寺団地> 香里団地営業所

(星田線)
【41】<寝屋川市駅~星田~四条畷駅>
【43】<枚方市駅~四条畷駅>
(以上、枚方営業所)

(寝屋川団地線)
【21】<寝屋川市駅~寝屋川団地> 枚方営業所

(田原線)
<京阪私市~一ノ坪 八の坪>
一ノ坪 八の坪~京阪大和田駅前>
(以上、枚方営業所)

(寝屋川北部線)
【22】<寝屋川市駅~京阪香里園~仁和寺>
【25】<寝屋川市駅~三井団地>
(以上、寝屋川営業所)

(高宮四条畷線)
【31】<寝屋川市駅~太秦住宅>
【32】<寝屋川市駅~巣本~四条畷駅>
【33】<寝屋川市駅~砂~四条畷駅>
(以上、寝屋川営業所?)


【21】寝屋川団地線が枚方営業所担当だったことは驚きです。寝屋川団地へは、枚方車庫からr18<枚方交野寝屋川線>経由で回送していたものと推測できます。星田線【41】【43】は笠松~正縁寺間の狭隘区間対応に短尺車(A-1005、A-3001~3004)限定だったが、間合いで【21】号に入った可能性はありそうです。また、1970年代後半の一時期、枚方寝屋川線【16】号経路も枚方営業所が担当、やはり星田線・寝屋川団地線の送り込みを兼ねていた可能性があります。

【10】釈尊寺団地線は1977年に開設。当初、香里団地営業所の担当、経由地が現在と異なり、東香里新町・高田を経てr18を北上するという(茄子作住宅の道路は未開通だった)、迂回ルートでした。

津田香里線の香里園~交野方面路線は、枚方営業所または香里団地営業所の管内だったと思われます。

寝屋川管轄だった【22】【25】については、長距離路線【15】<京阪香里園~仁和寺~京阪守口市駅>で送り込みも兼ねていたようです。

交野営業所開設当初、寝屋川市駅からの【2】【4】号経路が同営業所担当だったとの情報もありますが、如何に。これが事実だとすれば、交野営業所は守口市駅・土居まで足を伸ばしていたことになりますね。


京阪バス寝屋川営業所管内の過去の路線について、一つレポートさせていただきます。

【15】号経路<仁和寺~京阪守口市駅>。

運行経路がこれまた面白く、大阪府道15号<八尾茨木線>経由で古川橋駅(旧【13】号経路と同じルート)を通るのかと思いきや、

仁和寺~大久保~大庭住宅前~梶南口~門真北小学校~門真市役所西詰~門真市駅~西三荘~京阪守口市駅

で、今ではバス空白地帯となった大庭住宅前~梶南口~門真市役所西詰~京阪守口市駅をカバーしていました。

2008年10月廃止。京阪守口市駅から古川橋・大和田駅経由四條畷・清滝団地方面の門真【23】【24】号経路(門真市駅まで【15】号と同じルート)とともに消えました。松下電器(パナソニック)工場通勤者をも意識した路線系統と言えるが、四條畷方面の路線と同時に廃止になるとは、電機産業のまち・守口門真の衰退を示唆するようでした(ちょうど同じ時期に松下電器からパナソニックに社名変更。さらに、守口に本社を持つ三洋電機はパナソニックの子会社化)。

【15】号経路は、かつて京阪香里園~土居までの長距離路線だったようです。香里園~仁和寺間は、おそらく交野【22】号経路と同ルートだったと思われます(香里園からの【22】号経路も仁和寺直通は廃止)。ちなみに、交野営業所開設(1978年)当初、寝屋川市駅からの【2】【4】号経路も交野営業所が担当していたそうですが、実際のところはどうなのでしょうか?  当時、寝屋川市駅から寝屋川団地・星田・太秦・四條畷方面の交野管轄路線系統も、西口から発着していました(東口ロータリーは1986年併用開始)。交野営業所開設前は、星田線・寝屋川団地線は枚方営業所が担当していました(ほかに【16】<寝屋川市駅~枚方市駅>も一時期枚方管轄だった)。


平成1桁台、1996年(平成8年)前後の京阪バスについて、思いつくままに挙げてみました。

私個人的に、1996年以降の京阪バスについては、モノコック車両は既に姿を消し、さほど昔の話ではないように感じますが、もう20年以上経過しているんですね。

1996年前後といえば、

◎【22】号経路<京阪淀~阪急桂駅>廃止(1995年12月、枚方営業所管轄)

◎京都奈良線【2】号経路全廃(1996年3月)

◎淀宇治線・京都南部線を枚方営業所から洛南営業所に移管(1996年2月)

◎交野・寝屋川・門真営業所管内の車内運賃表示機デジタル化 & 合成音声放送対応

◎寝屋川営業所に三菱ふそうエアロミディ中型車が続々転入

◎枚方市長尾家具町の「摂南大学薬学部」(→摂南大学枚方キャンパス)に乗り入れ開始

ぐらいでしょうか・・・。

翌年1997年、大阪モノレール門真市開通、大阪地下鉄長堀鶴見緑地線門真南延伸、京都市営地下鉄東西線開通を受け、大規模な路線改変が行われます。京都市バス醍醐車庫廃止に伴い、山科区と伏見区醍醐地区は京阪バスに一元化(山科営業所)および路線全面再編。地下鉄東西線開通と引き換えに、三条京阪から三条通を経て山科方面へのバスは大幅減便となりました。モノレールと長堀鶴見緑地線延伸開業に伴い、門真営業所管内も大幅な路線変更を実施。吹田八尾線(京阪・阪急・近鉄共管)は全廃されました。交野管轄の長距離路線【18】<京阪交野市駅~京阪大和田駅>も交野~田原台に短縮。


再び、枚方・交野近辺の昭和についての思い出話などを。

今回は、1982年(昭和57年)ごろのことを思いつくままに挙げてみたいと思います。

○ 京阪電車では架線電圧1500V昇圧を前に新1800系登場。前年に続き、夏には交野線に冷房車(2600・2200系)が入る。

○京阪交野市駅前にニチイ(→現・イズミヤ)が開業。

○枚方市立杉中学校開校。

○枚方市立楠葉公民館・図書館新設。

○京阪バス・京阪宇治交通には冷房車が続々投入。香里団地に深夜のおりば専用「けやき1番」「けやき2番」開設。

○TSUTAYA1号店が枚方市駅前に開店。

○8月初旬、台風10号の影響で近畿・東海地方に被害をもたらす。


京阪電車では、翌年1983年12月の架線電圧1500V昇圧を前に、旧型の吊り掛け車(600・1300・1700系)が最後の活躍を続ける一方、600系の車体を活用して2代目1800系が登場(1代目1800系は、1700系と同じ車体でありながら日本初の新性能車)。1700系と600系の混結編成も初めて出現、ファンの目が離せませんでした。1300系ほか吊り掛け車のたまり場だった交野線にも、夏場には冷房車2600系(そして2200系4連口)が入り、好評を博しました(翌年以降は2600系が当たり前になる)。翌年春、新型車両6000系がデビュー、従来の京阪スタイルを刷新する颯爽たる姿で衝撃的、1984年にはローレル賞を受賞しました。

交野市内には次々と新しい大型集客施設がオープン。1981年、郡津駅前に「京阪スポーツセンター郡津」(スイミング・テニス・体操)がオープン、いよいよ最盛期を迎えます(2003年ごろ閉鎖)。交野市駅前にはニチイを核店舗とするショッピングセンター「Jumbo」が開業。当初はドムドムやミスドもあって、香里園のダイエーやイズミヤ枚方店などに負けないぐらい楽しいところでした。ニチイはのちにSATYに店名を改め、2003年に閉店するが、後釜にイズミヤが入り今日に至ります。

枚方市東部(津田・藤阪・長尾・尊延寺・穂谷ほか)の住宅地開発が進み、杉中学校が開校。杉中学校の通学区域は菅原東・氷室小学校区のほか、近年藤阪小学校の校区も加わって(おそらく藤阪~田口南のバイパス開通による道路状況の変化によるものだろう)、とにかく広範囲。氷室台・尊延寺・穂谷方面からはバス通学も認められているそうです。また、1984年に穂谷に関西外大キャンパス(→2018年閉校・移転)、そして1988年ごろには杉に大阪国際大学キャンパスがそれぞれ開校しました。加えて、府立枚方津田高校も1986年に開校。

国鉄片町線(→JR学研都市線)は長尾-木津間非電化。電化区間の片町-長尾間も非冷房の101系が多かったが、1983年より東海道・山陽緩行線から103系が続々転入、冷房化率が大幅アップするとともに、1986年には7連に増強、そして1989年には全線電化が完成しました。非電化区間では1982年当時、キハ35系やキハ40が主力となり、キハ20は姿を消しました。

京阪バスには冷房車が続々投入、非冷房車は数を減らしつつありました。しかし、まだ非冷房車に当たる確率も小さくはなく、夏場にこれが来たときはがっかりでした(しかし、引退寸前の日野・金産車体はバス窓時代の面影を感じるもので、なかなか面白かった)。この頃の新車である日野K-RC301は、従来のRE系と違ってエンジン音は強力化、モノコックながらスタイル(特にフロント)が京阪特注でかなり洗練された印象があります(以前の日野車体のバスは野暮ったい印象が強かったので)。香里団地の快速系統廃止、および深夜のおりば専用停留所新設も、この頃に実施されました。

京阪宇治交通についても、同様に冷房車を続々納車。樟葉・男山地区の車両は、三菱ふそう・呉羽車体でほぼ統一されていたはずだが、三菱自工のみのものと思っていた「ブルドック」(K-MP118)が、いつの間にか宇治交にも登場していて、軽く驚きました(京阪バス・宇治交とも、末期の「ブルドック」は呉羽車体製)。古参のバス窓車(MR470)も残っていて、松井ヶ丘方面の長距離系統を中心に運用されていた記憶があります。翌年1983年以降、宇治交60周年を記念して、塗装変更が順次行われました。

1982年の夏は天候不順でした。梅雨の前半は雨が少なく空梅雨気味だったものの、7月中旬より梅雨空が続き、長崎で記録的豪雨、梅雨明けは大幅に遅れました。また、8月初頭に台風10号が近畿・東海地方を直撃、その後も雨の多い不安定な夏でした。


1978~80年ごろの枚方市駅南口について。

1975年に開店した枚方丸物は、三越とともに枚方市駅南口のランドマークでした。丸物は1977年、近鉄百貨店に商号を改めました(→2012年閉店→跡地にT-SITE)。

バスのりばの雰囲気自体は大きく変わっていないと思いますが、まず【10】号・釈尊寺団地線は香里団地線(枚方公園、京阪香里園方面ほか)と同じ南2番のりばからの発車だったと記憶しています。ちょうど交野営業所が開設(1978年4月)されて間もない頃で、それまで【10】号経路は香里団地営業所が担当していました。【10】号経路は1977年の開設当初、高田経由だったそうです。南3番のりばは、【9A】【9B】号の高田・東香里方面と【43】号・四条畷駅行きが発車していたように思います。 【43】号経路・星田線は交野営業所開設前は枚方営業所が管轄していました。

1979年ごろに、南口のりばの路線がほぼ現在と同様のものに変更となりました。すなわち、【9A】【9B】は2番のりば、【10】は3番のりばからの発車です。

また、1979~80年ごろ、山之上~桑ヶ谷間に「宮ノ前橋」バス停を開設、当初はなぜか【10】号経路しか停車しなかったそうですが、1982年ごろより香里団地線も含め全系統停車するようになりました。

南1番のりばから発車する枚方尊延寺線(枚方営業所管轄)については、長距離路線の【12】号・新田辺行きとか、【14】号(村野浄水場・倉治・津田循環)、そして【20】号(長尾駅~出屋敷~枚方市駅北口行き)といった特徴ある路線系統も多かったです。

南4番のりばは、1978年当時はなかったと思いますが、1980年代前半ごろ、枚方尊延寺線の星ヶ丘病院行き(【13】→【61】号)、および関西外大穂谷キャンパス(閉校)直行バス用に設置されました。

なお、1982年頃まで、快速【1】号経路・新香里行きもあり、主に香里団地営業所唯一の三菱Bタイプ車(B-1344)で運用されていました。

このほか、高槻から香里団地に直通する【2】号経路もありました。香里団地(新香里)行きは南口2番のりばから発車、折り返して高槻行きのりばは府道139号(京阪踏切前)に設置されていました。


今年のセンター試験も終わりました。
センター試験は2020年より「新テスト」となり、大学入試全体的に大きく変わりそうですが、どうなることでしょうか?

ふと、私がセンター試験を受けた当日の寄り道について思い出しました。
平成初期の頃で、試験会場は京都大学。

テスト2日目が終わって一息つき、バスで寄り道することにしました。
百万遍バス停で京阪バス比叡平線【56】号経路にうまい具合に間に合い、
三条京阪までこれに乗車。
どこの営業所が担当しているのか気になっていたが、山科営業所の担当だとわかりました。 
東山通~三条通経由で、競合する京都市バス【206】系統などに比べて空いており、
Bタイプ車(三菱P-MP218)運用とあって、少し優雅な旅行気分でした。

三条京阪でもう1本京阪バスに乗り継ぎました。
ここからは【12】号経路・京阪六地蔵行き。
【12】号経路は、三条京阪発車時点で混雑していたように記憶しています。
本数が多く、地下鉄東西線開通前の山科営業所における
ドル箱路線だったことを示唆していると言えます。
三条通~外環状線~醍醐三宝院経由で、
現在の地下鉄東西線のルートにほぼ従う経路でした。
御陵の京阪京津線踏切手前で渋滞にはまり、スピードダウンを強いられました。
京津線の併用軌道区間(三条-御陵間)が地下鉄東西線に代替されることにより、
三条通の渋滞はかなり解消されましたが、バスの本数まで大幅に減らされたのは
問題だと思います。


昭和の頃の京阪バスの歴史を伝える物件写真(路線図、時刻表、掲示物、サインほか)をアップしてみました。


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枚方市駅南口の路線案内図(2006年)
2014年枚方尊延寺線ダイヤ改正に全面更新された


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京阪香里園 路線案内図(2008年)

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上の拡大(1)
「大谷橋」が懐かしい!

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上の拡大(2)
「天王・新田辺」の文字まで入ってる!


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京阪守口市駅 3番のりば案内サイン(2008年)
「京阪京橋」は過去のものに

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同 発車時刻表
京阪京橋行き2008年廃止直前は平日3本


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四条畷駅 バス停柱の路線図(2006年)
【43】号・枚方市駅行きもあり、【8】穂谷にも注目!


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西大津駅(現・大津京駅)のりば行先案内サイン(2007年)
山科駅行きのバス(【47】号経路)は廃止された
さらに昔、三条京阪・四条大宮行きがここから発着していた

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新田辺のバス路線図(京阪バス、旧・京阪宇治バス、奈良交通)(2011年)



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この度は、サブブログを開設しました。

昨年末、諸般の事情により、京阪バス過去車両データの記事を非公開にしておりましたが、新しいサブブログ「交野が原道草+α」 に移転の上、再公開させていただきました。今後、過去車両に関する情報はサブブログのほうで随時更新をさせていただきます。

今後ともご愛顧のほど宜しくお願い致します。



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京阪バス・京阪宇治交通過去の車両データの記事につきまして、諸般の事情により暫く非公開とさせていただくことにしました。場合によっては、このまま削除破棄をさせていただくこともあります。

せっかく皆様から貴重な情報提供を頂いたにもかかわらず、管理人の至らぬところも多々ございまして、またデータ(車両番号、登録番号、形式、所属ほか)の記載等に軽率さがあったことは認めざるを得ません。誠に遺憾ですが、一旦取り下げたほうが良いと判断いたしました。心より感謝とともに深くお詫び申し上げます。

近日中に、皆様から当ブログにご投稿いただいたコメント文のみを、別の記事にまとめて復元公表したいと考えております(当方の判断で一部割愛させていただく部分もあるかもしれません)。今後とも、どうか宜しくお願い申し上げます。

2018年12月16日


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かつて京阪バス交野営業所管内にて運行されていた【20A】号経路・<三井団地~緑町>

この路線系統は、寝屋川市北東部の三井団地・三井秦団地と、緑町に存在していたショッピングセンター・「グリーンシティ」(ジャスコ寝屋川店→イオン寝屋川店→閉店)を結ぶユニークなものでした。運行経路は、大阪r18<枚方交野寝屋川線>とR170<外環状線>経由、

三井団地~三井秦団地~観音橋~寝屋川警察署前~緑町

でした。1999年1月に廃止。「緑町」バス停はちょうどR170上にあって折り返しのための回転場がなく、どのようにして折り返していたのか気になります。かなり昔、

(循環)【20】三井団地→三井秦団地→漢音橋→緑町→石津元町→(大阪r13)→菅原神社前→市立総合センター前→八坂町→漢音橋→三井秦団地→三井団地

という面白い路線系統もあったようですが・・・。

緑町を通る路線系統には、他に【27】号・<寝屋川市駅~緑町~太間公園>もあったが、現在緑町周辺のバスは軒並み<タウンくる>に転換されています。



かつて京阪バスは、京阪守口市駅からエキスポランド(万博記念公園)までシャトルバスとして乗り入れていました。

京阪沿線から万博記念公園方面への需要に応じて設定されていましたが、モノレール門真市延伸(1997)間近の1995年ごろに廃止されたようです。似たような路線系統として京阪・阪急・近鉄バス共同運行の吹田八尾線もあったが、やはりモノレール門真市開通までに跡形もなく消滅しました。近鉄バスにとっては、本家の近鉄沿線である東大阪・八尾市エリアと、茨木・摂津市を管轄する鳥飼営業所管内をつなぐ路線として重要な意味も持っていましたが、鳥飼営業所管内は他の近鉄バスエリアと切り離されてしまいました。

なお、1970年大阪万博開催時には、国鉄茨木駅前から万博会場へ京阪バスもシャトルバスを出していました(京阪バス社史にその旨が記されている)。


http://katanogawara.blog.jp/archives/28576742.html
の続きです。


 香里団地営業所は日野車で統一されており、K-RC301は後期型が多く(前期型はA-3398~3400の3台)、ラストA-3470は香里団地生え抜きでした。1986年まで在籍していた唯一の三菱車B-1344(MR470)は日野B-3485(P-HT235)に置き換えられました。なお、香里団地営業所は以前、枚方営業所の支所扱いだったが、もともと交野営業所管内と地域的つながりが強く、現在は交野営業所の支所となっています(交野営業所が設置されたのは1978年、それまで交野・寝屋川東部・四條畷方面の路線は枚方営業所が受け持っていた歴史的経緯から、香里団地営業所が枚方営業所の支所扱いだったと思われる)。


交野営業所。1978年開設当初は枚方営業所からの路線移管および四條畷市清滝地区運用(→門真営業所も同様)の関係もあって三菱車も多少なり配置されていたが、1984年の中型車運用開始後、特に1986年以降日野車に統一されてゆきます。最後まで残った三菱車モノコックはA-1548とA-1579の2台。1984年夏、大津・山科から突如転入、特にA-1548は富士重3Eで交野管内では見慣れない車両でした(富士重3E+日野は多かったが)。A-1579は呉羽ブルドック。これら2台が転入した理由として、短尺K-RC381×3台(A-3462~3464)が交野に納車された件と関係していると推測できます。すなわち、A-3462~3464は当初、狭隘区間の星田線運用にも入っていたが、1984年夏ごろより中型P-RJ172の運用開始に伴い、A-3462を残して大津・山科に各1台ずつ転属したトレードと見ることができます。その後1年ほど経過して、A-3463・3464は門真に転属しています。A-1548・1579はともに釈尊寺団地線や寝屋川団地線などで時々見かけることも多かったが、1991年春ごろA-1548は引退、A-1579は92年初頭まで朝の【43A】<枚方市駅~交野車庫>に固定的に入るようになったのち、高槻に転属した模様です。

日野モノコック車については、1990年までにK-RE121(富士重3Eを含む)、翌年1991年には前期型K-RC301(A-3377、3393、3397、・・・)が引退。交野営業所においては後期型RCが多く、こと1984年初頭に納車されたA-3465は終生交野所属で1993年まで活躍、バスコレ12弾のモデルにもなりました。なお、交野生え抜きのA-3435・3436は晩年、寝屋川に転属しました。


最後に高槻営業所。こちらは三菱大型車のみで揃えられていてあまり特徴的なことは見当たらないが、排ガス規制P代のブルドックP-MP118(A-1600)が1台だけ配置されていました(ほか、A-1601・1602は山科・大津に配属)。ブルドック最終期の車両であり、スケルトン化エアロスター(P-MP218系)への過渡的な形式でした。ブルドックのK-MP118はもちろんのこと多数配置され、枚方・寝屋川・門真などからの転入車も少なからずあり、洛南からもA-1581が来ました。末期には交野からA-1579が転入したという話も・・・。


京阪バスのモノコック車が姿を消したのは1994年のこと。

ある方からコメントをご投稿いただき、(主に大阪地区の)モノコック車の末期(1990~94年)について書いてみたいと思いました。

当時、京阪バスは車両の代替サイクルが7~10年と短く、1985年には一般路線車も含め冷房化率100%を達成。その翌年1986年より、さっそく初期の冷房車の廃車が発生し、1994年までにモノコック車が順次引退します。冷房化率アップに大きく貢献した末期モノコック(K-RC301、K-MP118ほか)までが引退するとは、まさに十年一昔という感じでした。


まず、寝屋川営業所ですが、1984年夏、中型車P-RJ172の運用開始に伴い、K-RC301後期型(1982年夏~84年初頭納車分)および三菱ふそう車(B-1508・1509、A-1515・1557・1558)が他の営業所へ流出。以降、しばらくK-RC301後期型については、枚方営業所から転属のB-3461を除いてあまり見かけることはなかったが、1990~91年ごろに前期型K-RC301(1981~82年初頭納車分)の引退後、交野営業所などから一時的に後期型K-RC301が転入しました。交野生え抜きのA-3435・3436が転入する一方、寝屋川から交野に転属したA-3439・3440はそのまま戻ることなく、交野営業所で余生を過ごしました。


寝屋川とともに前期型K-RC301の多かった枚方営業所(クーラーユニットが前側に付いてるA-3387~3391や、富士重3EのA-3409といった特徴ある車両も多かった)。枚方営業所には当初後期型K-RC301はB-3460・3461を除いて納車されることはなかったが、1985年ごろより洛南営業所(→京都南部地区路線の大半を枚方営業所へ移管)からA-3416・3417・3458、寝屋川・香里団地からはA-3422・3426・3430が転入。主に樟葉・牧野・招提循環および樟葉長尾線の運用に入っていたようです(前期型K-RCについては当初枚方尊延寺線に入ることも多かったが、86年ごろより後期型と同様、招提線・樟葉長尾線で活躍することが多くなる)。3422・3426は後に門真へ転属。元洛南のA-3458は1991年まで【11】号経路・<京阪淀駅~京阪宇治駅>などでも時々見ることができました。最後まで残ったのはB-3460で、三菱B-1596・1597(K-MP518)とともに1994年7月枚方北部地区ダイヤ改正まで主に招提線で活躍していました。枚方のBタイプ車は引退後、栃木県の東野交通に移籍しています。

三菱Aタイプ車K-MP118についても、前期型ブルドック(82年初頭までの納車分)が多く、富士重3Eも3台(A-1545・1546・1547)も配置されていました。三菱大型Aタイプ車については、もとから枚方尊延寺線に入ることが多かったようです(洛南からの転入車など一部は、方向幕コマ数等の関係からか中型車やBタイプ車と同様に、招提線・樟葉長尾線・八幡・京都南部地区で運用されることが多かったように見える)。


門真営業所については、1983年まで三菱大型車が相当数納入されていたこともあって、K-RC301前期型はA-3377(→交野)と富士重3E×4台(A-3406・3407・3408・3410)のほかは少なく、同後期型は交野・寝屋川・枚方からの転属も含め(ほかに短尺車K-RC381×2台、A-3463・3464)かなり多かったです。特に最末期のA-3466~3469は短尺RC381とともに最終的に門真に結集。1991年春、【5】試験場線で引退直前の富士重RCに乗車することができました。なお、門真の三菱ブルドック(K-MP118)たちは、1985~86年ごろ、枚方・高槻・山科・大津へ転出しています。


1984年(昭和59年)ごろの京阪バス車両の動きについて。

この年は京阪バスで初めて中型車を導入すると同時に、それまでのモノコック車体から角張ったスケルトン車体に代わり冷房化率を促進、翌年2月に冷房化率100%を達成するという、記念すべき一年だったと言えます。

まず、1984年春(3月ごろ)までは、旧来と同じモノコック車体の新車を導入。 

【三菱K-MP118M(呉羽ブルドック)】
A-1598(枚方)、
 1599(高槻)

【三菱K-MP518M(呉羽ブルドック)】
B-1596、1597(枚方)

【三菱P-MP118M(呉羽ブルドック)】
A-1600(高槻)、
 1601(大津)、
 1602(山科)

【日野K-RC301】
A-3459(寝屋川)、
 3465(交野)、
 3466、3467、3468、3469(門真)、
 3470(香里団地)

【日野K-RC381】
A-3462、3463、3464(交野)

【日野K-RC301P】
B-3460,3461(枚方)

という内容で、排ガス規制はKからPに切り替わる端境期でもありました。このときの特筆すべきこととしては、何よりも路線・観光兼用車のBタイプがメトロ窓の豪華仕様となってデビューしたことでしょう。こと日野のBタイプ車は初めてであり、当初は三菱・日野合わせて4台とも枚方営業所に配置されました(その後、B-3461が寝屋川へ転属)。さらに大型短尺のK-RC381も3台交野営業所に配置され、狭隘区間の星田線冷房化促進を図ったものと思われます。


1984年夏ごろまでに、スケルトンの中型車が高槻・香里団地を除く各営業所に登場。

【三菱K-MK116J】
A-1001(山科)、1002(交野)

【三菱P-MK116J】
A-1003、1004、1005(大津)、
 1006、1007、1008、1009(山科)、
 1010、1011、1012(大津)、
 1013(洛南)、
 1014、1015、1016、1017(枚方)、
 1018、1019(大津)

【日野P-RJ172BA】
A-3003、3004、3005、3006、3007、3008(交野)、
 3009、3010、3011、3012、3013、3014、3015(寝屋川)、
 3016、3017、3018(門真)、
 3019、3020(洛南)、
 3021、3022、3023、3024、3025(寝屋川)

で、三菱MKの初めの2台(A-1001、1002)のみ排ガス規制Kとなっています。


中型車の大量導入により、夏に大規模な車両異動が発生しました。

まず、交野の短尺K-RC381のうちA-3463は大津、3464は山科?にそれぞれ転出。当時の大津・山科営業所管内では貴重な日野車ということになります(A-3464はほどなく大津へ。そして1年後には2台とも門真へ再転属)。以降、星田線(正縁寺-笠松間対応)には中型車が充当されることになります。同期に交野営業所へ三菱ふそう車が2台

A-1548(K-MP118M、富士重3E) 大津→交野
A-1579(K-MP118M、呉羽ブルドック) 山科→交野

転入した理由が今まで謎だったが、これはK-RC381とのトレードだったものと思われます。

加えて三菱中型車のトップバッターA-1001も山科から交野へ転属。清滝地区急勾配対応ゆえ従来三菱MP117M(A-1439?、1459、1466)が専属的に充当されていた田原線【18】号経路は、中型車A-1001・1002へ代替(田原線もおよそ1年後には日野RJに統一、MKは枚方営業所へ転出)。

寝屋川営業所においては、新しめのK-RC301、および数少ない三菱ふそう車(Bタイプ除く)が他の営業所へ転出。A-3459(ほかにA-3438も?)は香里団地、A-3456・3457は門真、A-1557・1558ほか三菱Aタイプ車は高槻へそれぞれ転属となった模様です。


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1984年(昭和59年)当時の枚方・交野・寝屋川をはじめ北河内周辺について、思いつくままに書いてみたいと思いました。私個人的には、

○前年1983年12月京阪電車(大津線除く)の架線電圧1500Vに昇圧、6000系車両晴れ晴れデビュー & ローレル賞受賞、吊り掛け車全廃

○関西外大穂谷キャンパス開校、京阪バス「穂谷外大」乗り入れ開始

○国鉄片町線(→JR学研都市線)に103系冷房車続々転入

○京阪バスに中型スケルトン車両登場

といったところでしょうか?


京阪電車の架線電圧1500V化に合わせ、旧型吊り掛け車600・1300・1700系は全廃。1300系の天下だった交野線は2600系が主役となってしまい、冷房車に当たる確率は大幅に上がった反面、車両趣味的には面白みが半減しました。非冷房車1900系や1800系(2代目)も時々交野線の運用に入っていましたが、やはり600・1300・1700系が主役だった頃に比べたら・・・。しかし、今から思えば、非冷房時代の1900系や1800系ももっと味わって乗っておいたほうが良かったです。

ニューフェイスの6000系は京阪沿線住民に大きなインパクトを与えるほどの画期的スタイルでした。6000系は昇圧前1983年12月まで暫定的に4両編成として営業運用を行い、交野線にも入っていました。1500V化完了後、7連に組み直され、本線の急行・準急から普通、そして正月の臨時特急にも堂々たる姿で活躍、まさに京阪の新時代を迎えたと言えます。そして、その斬新的なスタイルから1984年夏にローレル賞を受賞しました。

2200系の車体更新工事も始まり、正面種別・行先幕が設置され、イメージはかなり変わりました。

枚方市駅高架化工事も進みつつあり、翌年1985年4月より樟葉急行の8連運用が始まりました。


枚方市東部の山間部、穂谷地区には関西外大穂谷キャンパスが開校。京阪バスが穂谷外大に乗り入れを開始、枚方尊延寺線の発展期を迎えます。数年後に杉山手・大阪国際大学への路線も新設されたり、新田辺-穂谷間の便数も増発するなど、かなり賑やかにはなるが、2018年4月の閉校(→御殿山キャンパスへ移転)後、路線・本数とも大幅に整理され、1984年以前に戻ったような感じです。

当時の京阪バスといえば、狭隘路線向けに中型車を始めて導入。直前まで投入していたモノコック車体(三菱ブルドック、日野RE・RC)に代わり、この時から角張ったスケルトン車となりました。また、1984年初頭にはモノコックの路線・観光兼用車(Bタイプ)がメトロ窓の豪華仕様となって枚方営業所に登場。翌年1985年2月には一般路線車の冷房化率100%を達成しました。

旧・京阪宇治交通も前年1983年に創業60周年を記念して、紫系のストライプ新塗装を導入。従前の緑系塗色から順次塗り替えられます。現在の京都京阪バスの一部車両にこの塗装が継承されており、本年秋までに消滅予定です。


国鉄片町線も、103系冷房車が京阪神緩行線から続々転属し非冷房101系を置き換え、冷房化率は大幅アップ。転属の過程で青色の103系も見られました。その後、1986年までに6両から7両に増強。非電化で残っていた長尾-木津間についても、同志社大学京田辺キャンパス開校に合わせ同志社前駅開業(1986年)、1989年に電化。快速電車の運転も本格的に始まり、長尾-大住間に松井山手駅(京田辺市)を開業、京阪電鉄グループの住宅地開発が始まり、今日に至ります。


久しぶりに京阪バス懐かしいネタを。

Twitterでミッシェルさまが日野RE121・富士重3E(1980年式、A-3343)の画像をアップされました:
https://twitter.com/fuso_ms615/status/1023159463400730625

A-3343の登録番号は「大阪22あ3613」、交野営業所所属でした。

このA-3343ですが、廃車時期は1990年ごろで、引退後も数年間ほど交野車庫の隅に置かれ、私も時々この姿を見たことがあります。

当時、京阪バスは8~10年ほどで廃車することになってて車両の代替サイクルが早く、地方のバス事業者にて第二の活躍をするものも多かったが、このA-3343は現役を退いた後、嫁ぎ先がないまま車庫に置かれ、倉庫もしくは休憩所として使われていたようです。

1990年代初頭の頃の交野車庫といえば、日野ブルーリボン(P-HT235BA、U-HT2MMAA)、同レインボー(P-RJ172)が主力を占め、同じく主力だったモノコックのK-RC301は徐々に引退が始まり、REは全廃、三菱ふそうの呉羽ブルドックおよび富士重3E(K-MP118M)が各1台ずつ残存(A-1548、1579)、という陣容でした。もう少し以前だと、三菱ふそう車も数台所属していて面白かったんだが・・・。



昨年秋以降、京阪バス過去の車両についてのデータ
http://katanogawara.blog.jp/archives/21003704.html
を随時更新しています。皆様からのコメントへの情報提供により、大阪地区の車両についてかなりのことが明らかになりました。京滋地区については「青いバス停」さまおよび他の方々の多くの写真を参考にさせていただいております。

さて、このデータ収集で一つ気になったのは、1979年前後の三菱ふそう車(社番1400番台)。

まず、高槻営業所に配置されていたMP117・呉羽車体(大阪22あ3287~3291の5台)の社番。方向幕大型化前の車両でA-1440番台あたりだと推測していましたが、もう少し前へずれているような気もしています。同グループの車両として山科のA-1444(京22か2221)があり、ほかに富士重3E架装のA-1446(京22か2234)もいました。MP117で呉羽・小型方向幕車は枚方営業所にも配置されていたと記憶しています。ちなみにB-1450(滋22か735)以降の車両は方向幕大型化されています。

高槻営業所には方向幕大型の呉羽のMP117(大阪22あ3628)および富士重3EのMP117が2台(大阪22あ3538・3539)配置されたとのご報告をいただき、私も実際に乗車した記憶があります。惜しいことに、こちらも社番は不明です。同期の車両として呉羽車体のA-1473(山科、京22か2313)、A-1480(大津、滋22か777)、A-1482(山科、京22か2504)があります。

このほか、1978年に納車されたブルドック(三菱自工)について、大阪地区および山科営業所に配置された分の社番も定かではありません。同じグループで大津営業所のA-1413・1414(滋22か681、682)は確定で、山科営業所にBタイプのブルドックB-1407(京22か1969)があったとは驚きです。

排ガスK-規制車は1980年式C-1483(京22か2534)以降の車両となります。


京阪バス寝屋川・高槻営業所に配置されている車両について、興味深い事実を一つ。

それは大阪ナンバー4200番台の車両が配置されていること。

まず、寝屋川営業所にN-6260・6261・6262(いすゞLV290)の3台が配属、登録ナンバーは

N-6260 大阪200か4206
N-6261 大阪200か4209
N-6262 大阪200か4214

京阪バスで大阪ナンバー4200番台の車両はこの3台のほか、京田辺から高槻に転属したブルーリボンIIも数台あります。

面白いことに、過去の「大阪22あ」の時代も、4200番台は三菱ふそうブルドックの

A-1557 大阪22あ4277
A-1558 大阪22あ4278

の2台だけであり、最初は寝屋川営業所に配置されたのち高槻に転属となりました。

なぜか、大阪ナンバー4200番台の車両は寝屋川と高槻に集中するという習性があるようです(笑)


今から20年ほど昔、路線バスで大阪~奈良~京都を回ることが可能でした。
そのルートは、

梅田~<近鉄バス阪奈生駒線>~近鉄奈良駅~<近鉄バス、奈良交通、京阪バス>~京都駅前


で、バス2本を乗り継いで三都を回ることができたのです。

梅田~奈良間の近鉄バス阪奈生駒線は国道1号~大阪府道8号~阪奈道路経由のわかりやすいルートで、梅田からの大半の便は産業大学・生駒山上まで、近鉄奈良へ直通するバスは確か1日1~2便ぐらいだったかと思います。確か1995年頃まで運行されていたようです。奈良市と大阪梅田を結ぶ交通といえば、JRの大和路快速が有名だが、関西本線電化以前は近鉄バス阪奈生駒線がおそらく唯一の手段だったのでしょう。阪奈生駒線は2016年末に廃止、大阪駅・梅田への近鉄バス乗り入れはなくなりました。

奈良~京都間は近鉄バス・京阪バス・奈良交通の3社体制で本数調整して運行(近鉄バスの比重が最も大きかった)。国道24号線(旧道の府道69号を含む)~府県道753754号経由で近鉄・JR奈良駅に乗り入れ、近鉄京都線・JR奈良線と並行しているにもかかわらず、最盛期には毎時1本程度の本数が確保されていました。しかし、長距離路線ゆえ慢性的な道路渋滞に悩まされる上に鉄道に比べて運賃が高く、利用客激減で年々本数は減少、1998年に全廃されました。奈良交通は京都~大和八木間の1往復のみ、末期の1993年ごろ大和八木直通は廃止、1996年京阪バスと同時に運行終了。最後まで残った近鉄バスも1998年に全廃と同時に奈良営業所は閉鎖。奈良での京阪バス・近鉄バスは異色の存在でした。また、京都市内区間(観月橋以北)では京都市交通局との協定で近鉄・奈良交通はクローズドドア制度を採っていたことも痛かったようです。運用車両は近鉄・奈良交通は日野車(RE、RC、RJなど)、京阪は末期は三菱ふそうエアロミディ(山科営業所担当)で、やはり京阪のふそうは異色の存在でした。


「青いバス停」さまの最新記事で、京阪バス山科営業所所属A-1578(K-MP118M、1983年式、京22か3260)が樟葉中書島線【52】号経路の運用に入っていた写真がアップされていてびっくりしました。

樟葉中書島線は1983年開通、2005年に廃止された長距離路線で終始枚方営業所管轄のはずですが、まさか山科営業所所属のままのナンバーで樟葉駅まで乗り入れていたとは・・・。

撮影時期は、A-1578のフロントが「京阪」マークではなく「FUSO」ロゴで新車ピカピカの艶があり、隣の京阪宇治交通ブルドックが緑の旧塗装などから、1983年のものと推定できます。

その下のモノクロ写真は同じくA-1578ですが、方向幕は「35・藤阪ハイツ」であり、これは樟葉中書島線開通直後の車両需給の関係からか暫定的に枚方営業所に貸し出していたものと思われます(方向幕は枚方営業所仕様に差し替えられていたと見られる)。少し後、枚方営業所にA-1592(大阪22あ4786)が納車されており、その時点で本来の山科営業所に戻ったものと考えられそうです。

ちなみに、同じく山科配置のA-1579(京22か3261)は1984年夏、交野営業所に転属しています(大阪22あ5094)。


久しぶりの京阪バス過去の路線系統レポート。

今回は交野営業所管内【19】号経路・<京阪香里園~藤が尾団地>について。

香里園から京阪交野市駅経由、交野市南部の藤が尾団地・妙見坂地区を結ぶ路線で、運行経路は、

京阪香里園~末広町~東香里~高田~逢合橋~京阪交野市駅~さくら丘住宅~天野が原~私市四丁目~藤が尾団地

香里園~交野市駅間は津田香里線【9】号経路の補完も兼ねており、大型車で運行されていましたが、1994年12月のダイヤ改正で交野市駅~南星台~星田駅系統(【17】号経路ほか)開通と引き換えに廃止。南星台地区は住宅密集地とはいえ、生駒山系中腹のかなり高いところにあり急坂・急カーブ・狭隘路が続くため、中・小型車での限定運用となっています。

1994年12月改正に合わせて京阪交野市駅ビル&バスロータリーが整備完了、現在に至ります。それ以前の京阪交野市駅前バスのりばは、駅から少し離れたところ(イズミヤ前交差点南東角)にあり、バス停の正式名称も「京阪交野」でした。

妙見坂・南星台界隈は某大手企業労組の影響力が強いと見られ、旧・民主党系衆議院議員のお膝元として知られる地域です(今年10月の衆院選で共産党は小選挙区の立候補を見送り支援に回られた)。

1978年の交野営業所開設前、香里園~交野方面系統についてどこの営業所が担当していたのかが気になります。星田線・田原線は枚方営業所、【10】釈尊寺団地線および【9A】枚方市駅~香里園は香里団地、香里園~三井団地~寝屋川市駅および寝屋川団地線は寝屋川営業所がそれぞれ受け持っていましたが、・・・。



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