カテゴリ: 枚方・交野・寝屋川ネタ(懐古編)


自分の高校時代の「皆勤賞」の件について、 かねがね思うことがあるので、ここで敢えて書くことにしました。

結果をいえば、高校3年間は都合2日間欠席したため、惜しくも皆勤賞は成りませんでした。それでも、手前味噌だが、準・皆勤賞に値するものとして自信を持って良いとは思います(特に高2は皆勤賞を達成)。

何が問題なのかといえば、高1・3学期のときについて後悔することがあります。1月のある日、風邪で何となくだるくて気持ち悪さを感じたんだが、熱を計ると37度台後半。私自身、勉強に熱心だということを周りに見せたがっていたのか、無理に登校しようとするが、親に止められました。結局1日欠席することに。

この件について、いろいろ思うことがあります。

「皆勤賞に異様にこだわる」というのは、賞賛されるどころか、むしろ恥ずかしいことでさえあると思います。なぜなら、無理に登校したところで、さらなる体調悪化を招くばかりか、周りの友達や先生に風邪の感染を広げることにもなりかねず、「思いやりに欠ける」と判断される可能性があります。その結果、他の友達が学校を休むことになって、仮に自分だけ皆勤賞を取れたとしても、反感・恨みを買うだけで、お互いあまり嬉しくないでしょう。

クラス担任の先生には「皆勤賞なんかにこだわるより、もう少し体育の授業を真面目にやれ」と叱られそうです(高1のときの担任が体育の先生だったので)。正直、体育は苦手で、大学入試に直接関係がないからと舐めてかかっていた嫌いがありました。副教科だからと軽視せず、苦手でももう少し誠実に授業に取り組めば良かったと今、後悔しています。

なぜ、無理に登校してまで勉強に熱心なところを見せたがっていたのか。それが自分でもはっきりわからなかったけど、小中学校時代の自分は逆に軽めの風邪(微熱など)ぐらいで学校を休むことも結構あり親にさんざん呆れさせたりしたので、その反動なのか・・・。小学校の運動会のときに組立体操の練習が嫌で風邪・下痢を訴えて早退・欠席した恥ずかしい経験もあり(仮病ではないが)、その後ろめたさが響いているようでもあります。

さらにもう一つ気になっているのは、「こんな寒い日に自転車なんかで走り回ってるからや」と親に論われたこと。つまり風邪を引いたのもサイクリングのせいだと槍玉に挙がり、それは正直悔しかったです。実を言うと、正月明けに一度風邪で寝込んでしまい、回復後1週間ほど経過した矢先にぶり返した格好だったので。ただでさえ、GWに風邪で寝込んだり、夏休みは雨の多い天候不順でサイクリングをろくに楽しめなかった高1だけに、あの冷たい一言は余計応えましたね。

しかし、こんなことになるのも、私自身の不徳の結果としか考えられません。今から思えば、これも中3の夏、自転車で亀岡・篠山・能勢遠征の際のハプニングで家族・親戚に心配させた件がじわり響いているようでした。旅行中の予期せぬハプニングそのものは仕方ないにせよ、自分の非(過ち)を心から認め、事後の対応・改善に本気で取り組めば、周りの反応もまた違ったでしょう。誠実さと感謝がカギのようです。日ごろの健康管理もしっかりやるように心がけたいですね。

「皆勤賞」は果たして意味があるのか疑問視される昨今であり、皆勤賞を廃止する学校や幼稚園も少なからず生まれているようですね。日本ではインフルエンザ等でも出勤を命じる職場すら珍しくなく、働き方が根本から問い直される時でしょう。


1988年11月某日の午後、暇ができたので、全線電化直前の片町線(学研都市線)の小旅行をしました。

出発駅は今はなき片町駅から。120円の片道切符を買い、自動改札機を通過(当時、関西の国鉄・JRの自動改札機は片町線片町-長尾間各駅のみに設置)。片町駅は片町線の終点であり、 京橋から大阪都心部へ一歩進んだ(0.5kmほどの)場所にありました。京阪電車天満橋-京橋間の中間地点にあり、かつて京阪にも片町駅がありましたね。

片町駅は市内中心部、特に天満橋の官庁街や大阪城に近いのに、京橋とは対照的に昼間は閑散としたターミナルでした。片町駅は地下線のJR東西線(京橋-尼崎)開通(1997年)と同時に廃止されました。片町駅の機能はJR東西線の大阪城北詰駅に代わりました。

片町駅からは長尾行きの普通電車(たぶん103系)に乗車しました。

京橋駅は大阪環状線および京阪電車との乗換駅で大阪市東部のターミナルとして賑わいを見せています。駅前ではダイエー京橋店(→イオン→閉店)や京阪モールなどのショッピングセンターを核に、周辺の商店街と連なって繁華街を形成。さらに2年後の1990年には、鶴見緑地で開催される花博開幕に合わせて地下鉄長堀鶴見緑地線(7号線)の部分開通と合わせ、吹き抜けの地下飲食店街「コムズ・ガーデン」がオープン、ターミナルとしての求心力が高まりました。

京橋を発車後、放出を過ぎたあたりで大阪市から抜け出ます。近畿車輛のある徳庵、江戸時代の河内平野一帯の新田開発の歴史を刻んだ鴻池新田を経て、高架工事完成前後の住道駅、そして「野崎まいり」で有名な野崎を通り、四条畷に。

四条畷までの区間は関西の国鉄で最も早く戦前に電化され、下町を走る私鉄のような雰囲気が感じられます(この先、長尾まで戦後1950年に電化)。1977年ごろまで走っていた旧型国電は、この沿線風景に見事溶け込んでいたようですね。また、1970年代初頭までは蒸気機関車C11に牽引された貨物列車も片町線を走り、旧型国電と並ぶ渋い光景も楽しめたことでしょう。

1970年代末から片町線の新性能化(101・103系投入)、四条畷-長尾間複線化と同時に片町-長尾間各駅への自動改札機の実験的導入、合わせて編成増強と冷房化が国鉄末期の数年間で一気呵成に進められ、前進飛躍を遂げました。今度の長尾-木津間電化、および片町線と福知山線を結ぶ計画に始まったJR東西線の開通も、その成長路線の軌道に乗ったものと言えるでしょう。

四条畷駅前といえば、パチンコ屋さんの賑やかな音が聞こえてきて香里園や瓢箪山と何となく雰囲気が似ているが、気のせいでしょうか?(実際、ここと瓢箪山を結ぶ近鉄バスがあった)。駅の北西側は商店街(楠公通り)で賑わいを見せます。

四条畷-長尾間は1979年に複線化工事が完成したため、線路や駅ホームは新しく(東寝屋川→寝屋川公園と藤阪の2駅も同時開業)、また一部は高架線に付け替えられたこともあり、特急【雷鳥】が高速で翔る湖西線と雰囲気は似ています。そういえば、長尾付近から京都山科への連絡線を作って湖西線と接続させ、片町線に北陸筋の特急を走らせる構想もあったみたいで、これが北陸新幹線の京都~松井山手~新大阪ルートとして現実のものになろうとは偶然でしょうか?

電化区間の終点・長尾駅に到着。長尾駅は大阪府最東端(枚方市)の鉄道駅で、ここから先は京都府内の非電化区間でした。地下道を通って気動車用ホームに移ります。



小学校時代の半ば、1年半ほどスイミングに通っていました。

今はなき京阪スポーツセンター郡津でした。

私は、小2の頃までは水が怖くて泳ぐこともままならない状態でした。家族そろって海水浴に出かけたときは、海に入ることよりも往復の移動(鉄道、自動車)のほうが私個人的に楽しかった・・・。

小3以降、スイミングに通わせてもらうことになってから、少しずつ泳げるようになりました。

スポーツセンターへの足は基本的に自転車だったが、雨のときはバス+京阪交野線の大回りで通わせてもらいました。

当時、交野線には吊り掛け車1300系や600系などの溜り場だったが、架線電圧1500Vへの昇圧を前に1900系(主に1929F)そして冷房車2600系も入線を始めるなど、新旧交代の端境期にありました。

プールは全天候型のガラス張り半月ドーム型室内で、交野線の電車がよく見えました。水泳のことよりも電車のほうに視線が向いてしまい、先生に度々叱られましたね。クラスも初級レベルにとどまり、さほど上達はしなかったです。そのせいか、親には「やる気がないのでは」と心配され、続けさせてもらえなかったのは残念でした(保護者が授業の様子を観察できるよう2階の観客席が設置されてた)。

そういえば、雨の日にバス・電車に乗って通うはずが、たまに父が迎えに来てくれて、帰りは車に乗せてもらうこともあったが、正直あまり嬉しくなかった(苦笑) というのも、電車・バスに乗って帰る機会を逸して損した気分なので。しかし、車に乗りながら親子で授業のことなどを話す貴重な機会でもあり、親としては当然のことでしょう。

本当はもう少し、あと1年ぐらいは通わせて欲しかった・・・。それなら諦めもついたことでしょう。

水泳そのものは今一つにせよ、電車を見ること(トレイン・ビュー)、あるいは電車で通うのが楽しいことも、通い続けたいと思う、一つの立派な理由だと自信持って言えますね。泳ぐことそのものも既に嫌いではなかったですし。とにかく「続けること」が何よりではないでしょうかね。

もっとも、授業中は水泳に集中すべきなのは当然のことで、反省。「続けたいんなら、もう少しちゃんと練習しなさい」と説教されそうですね(笑)

* * * *

肝心の水泳のほうですが、小学校卒業までには曲がりなりにも25~50mは泳げるようになりました。小3の夏は、目標を達成できなかったため、夏休み初めに学校の水泳集中指導を受けさせられました。

夏休みには学校のプール開放もあって、小学校の時は時々利用させてもらいました。

問題は中学以降。

中学校は小学校に比べて水泳の授業が少なかったように思います。それもあって、泳ぐ機会が減り、せっかくがんばってつけてきた水泳力も伸び悩むことに。

中学校も夏休みのプール開放はあったが、あまり会いたくない奴もいるし、腹痛を訴えて途中退場しようとしても、仮病と見られたのか「ダメです」と止められる始末。

小学校の時に比べて練習が足りず、これが高校時代にも響いたようで、悔いが残りました。

高1の夏休み前の悔しい経験があるのです。水泳の補習を受けさせられました。同じ時期に他の科目の講習を申し込んで予定が重なってしまい、単位のヤバそうな体育を何とかしなければということで、やむなくキャンセル。

小学校の時、仮にもう1年間スイミングを続けられたら、そこそこの水泳力が維持できて、こんな勿体無い思いをしなくて済んだかもしれません。そして、高校時代に何か習い事を始めようというときも、小学校の時にスイミングを続けられた実績を担保に、わりとすんなり承諾してもらえた可能性もあります。

実を言うと、高校時代は事実上の「帰宅部」状態でした(運動は苦手で運動部はからきしだし、複数の文化部に入るも続かず)。それなら(受験勉強・学習塾以外の)習い事を始める、あるいは一つ特技を身につけるとか、自分の打ち込めるものを見つければよかったと、今更ながら後悔。

いずれにせよ、全ては自分自身の不徳が最大の原因だと反省しています。



1996~97年(平成8~9年)ごろの枚方・交野近辺のことを、思いつくままに挙げてみました。


○1997年3月、朝ラッシュ時の下り京阪特急が枚方市に停車、9000系セミクロス車を導入

○JR東西線(京橋-尼崎間)開通、学研都市線(片町線)がJR東西線を介してJR神戸線・宝塚線と1本につながる。併せて列車本数大増発

○阪急京都線の特急が終日高槻市に停車

○京阪特急(8000系)にダブルデッカー連結&8両化(1998年初までに完了)

○京阪交野線に5両編成増加

○京阪寝屋川市駅高架化工事開始

○枚方市北山に大阪工大・摂南大学キャンパスが相次いで開校

○大阪モノレール門真市開通、京阪沿線から大阪国際空港へのアクセスが便利に

○枚方市津田に平和堂「アルプラザ枚方」開業

○ニチイ交野店が「サティ」に店名変更(→現・イズミヤ交野店)

○ 1996年夏、O157食中毒事件で全国的大騒動、堺市の小学校で臨時休校

○香里団地の建替えが始まる

ぐらいでしょうか・・・。


1995年阪神・淡路大震災を機に、京阪神の鉄道輸送体系は大きく変わりました。いち早く復旧したJRは、京都線・神戸線の新快速に223系電車の投入を開始。従来、国鉄・JRよりも運賃面や本数などで有利だった私鉄の苦戦が目立つようになります。

枚方市東部・交野市を走るJR学研都市線も、以前はローカル線の印象が強くて、「牛より遅い片町線」と揶揄されるぐらい不便だったが(長尾以東は非電化だった)、JR東西線開通に合わせ207系電車を投入して沿線のイメージを一新、神戸・宝塚方面と一本の電車で結ばれます。

京阪間の私鉄特急(阪急、京阪)ももちろん無風というわけにはいかず、京阪間ノンストップ運転を断念。高槻市や枚方市など中間の駅に停車することで、中間沿線需要に応える路線へ転換します。京阪特急の枚方市停車も、1997年の時点では朝ラッシュ時下り(大阪行き)のみだったが、2003年には枚方市そして樟葉にほぼ終日停車となりました。

京阪交野線では1996年より5両編成運用が開始、2600系に加えて1900系も姿を見せるようになりました。JR学研都市線・東西線を意識してのことか、2003年より交野線と本線との直通列車が設定されました(→その後、交野線はワンマン運転に合わせ4両に戻る。2013年には本線直通列車も廃止)。

* * * *

枚方市津田には、平和堂の店舗・「アルプラザ枚方」が開業。滋賀県を拠点とする平和堂として、枚方市1号店であり、大阪府北部への本格進出を睨んだ足がかりとなったものと見られます(2年後には寝屋川市に「アルプラザ香里園」開店)。なぜ枚方市の津田が選ばれたのかといえば、大阪と滋賀を最短で結ぶ国道307号線の影響でしょう。

この頃の枚方市駅前といえば、ビオルネやステーションモールが新しく、既存の三越や近鉄百貨店は10年前に比べてあまり魅力的でなくなりましたね(三越・近鉄百貨店はいずれも閉店)。近鉄百貨店でスーツを作ってもらったり、たまに服を買うことはあったが、それ以外で積極的に行くことは・・・。北口にあった長崎屋も数年後閉店しました。

O157事件では、枚方市でも王仁公園プールが閉鎖となるなど、少なからず影響がありました。堺市の小学生は夏休みもろくに楽しめず、本当に気の毒でした。O157の原因が(給食で出た)カイワレ大根だとか、国会で議論になりましたね(当時、薬害エイズ問題を鋭く追及された、かの市民運動家議員は、のちの民主党政権下で首相になりましたね)。今般のコロナ災禍はO157のときのような局地的・限定的なものでは到底済まさるものでなく、全国的そして世界的な規模で深刻なダメージが広がりつつあります。

1997年4月には消費税5%への増税が実施され、持ち直しかけたバブル崩壊以降の景気低迷を悪化させる引き金になったと言われます。半年後の秋には、「金融ビッグバン」として山一證券や北海道開拓銀行が倒産するなど、景況感はいっそう冷え込みました。そして、「失われた平成時代」がいよいよ本格化・・・。

* * * *

戦時中の広大な火薬製造所(旧東京第二陸軍造兵ショウ香里製造所)から新しく生まれ変わった香里団地は、1997年ごろ入居開始から40年以上経過し、建替え工事が順次始まります。建替え後の住宅(UR)は高層化され、低中層の住戸が並ぶ「昭和の団地」から景色が大きく変わりました。2003年には桑ヶ谷の下水処理場跡地に枚方市南部市民センターがオープンしました。

香里団地といえば星型の中層マンション(スターハウス)も特徴で、今も数軒残っています。公設市場や大丸ピーコック(1号店)など、商業施設の建物も建替えが進みました。団地の土地の一部は民間に売却され、戸建て住宅に変わったり、病院の移転などに活用されています。今夏、香里ヶ丘図書館の新建物がオープンする予定です。


小学校の楽しい学校行事の一つ、遠足。

中学校にも「遠足」にあたる行事がありました。それは「校外学習」。

「校外学習」は1・2年次の1学期(6月ごろ)にありました(3年次は修学旅行)。

小学校の遠足と違うところは、

○服装は学校指定の体操服
○社会科見学や体験学習よりも、集団でのスポーツ・レクリエーション重視


でしょうか・・・。

「校外学習」と称するところからして、「集団行動のための学習」という意味合いが強かったと思います。夏季の宿泊学習(キャンプ)も同様の感じでしたね。

実を言うと、中学校の校外学習や宿泊学習は、私にはあまり楽しくなかったです。仲間・集団でのスポーツなど、私には苦手だし、そもそもクラス自体あまり居心地のよいところではなかった。唯一楽しかったのは、修学旅行ぐらいでしたね。

校外学習で行った場所ですが、1年次は私市・くろんど池、2年次は宇治・太陽ヶ丘でした。いずれも京阪電車利用でした。太陽ヶ丘については、京阪バスもしくは京阪宇治交通の貸切バスだったら、私個人的にもう少し楽しかったでしょうね(京阪宇治駅から相当距離があるし)。ちなみに、宇治・淀・太陽ヶ丘方面の京阪バス一般路線は、当時枚方営業所の管轄になっていましたね。

夏の宿泊学習は、1年次はマキノ高原(滋賀県高島市)、2年次は鉢伏高原(兵庫県養父市)でした。マキノ高原のときに確か箱館山に登ったのかな、運動の苦手な私が何とか頑張り抜いたということで努力賞を貰った記憶があります(あまり自慢できるものではないが)。

鉢伏高原では、夏合宿の代わりに冬にスキーという学校もありましたな。しかし、鉢伏高原といえば、鳥取県境とはタッチの差で、随分遠くまで行ったものだと感じましたね。バスの走行ルートは、往復とも中国道~播但道経由でした(現在だったら、舞鶴若狭道~北近畿豊岡道経由が早いでしょう)。



小学校のときの遠足の思い出について、時々記事を投稿してきましたが、なぜか2年のときだけあまり印象に残っていないんですね。 だからこそ、敢えて書いてみたくなったりします。

小1の初めての遠足で、バスに乗って「ひらパー」に行ったときのことは、楽しい思い出としてかなり鮮明に記憶に残っているんだけど、2年の時の遠足はどうも印象が薄いんですね。春の遠足では天王寺動物園、秋は伏見桃山城と、行った場所だけは覚えていますが・・・。

天王寺動物園のときですが、交通手段は京阪+地下鉄御堂筋線でした。御堂筋線では、当時の最新形式である冷房車10系が来て、ちょっとうれしかったような気がします。動物園なら北浜から堺筋線でも行けるし、御堂筋線ほどは混まないんだけど(「動物園前」駅は当時堺筋線の終点だった)。電車利用での遠足も京都方面が多く、大阪市内は天王寺動物園が唯一でしたし。

天王寺動物園界隈について、今の自分としては、下の通天閣や新世界のほうに物色することでしょう。阪急の電車が(堺筋線直通で)この地下を通っているのも、妙な感じがします(あそこは環状線のオレンジ色や南海電車のイメージで、『じゃりン子チエ』のモデル舞台にもなったところ)。

動物園といえば、京都市動物園のほうに連れて行ってもらうことが多かったように思います。天王寺動物園へも連れて行ってもらったことはあるが、どうもあまり印象に残っていませんね。

* * * *

秋の遠足ですが、実は風邪で欠席してしまいました。小2の遠足について印象が薄いのは、そのせいかもしれません。小2の時は、風邪を引きやすくて結構休んでいましたね。丸一週間休んだこともありました。

遠足とは別に、社会科見学も時々ありました。遠足よりも、むしろ社会科見学のほうが印象に残っていますね。国鉄津田駅、牛乳工場、枚方郵便局・消防署などを巡検したものと思います。本当は製パン工場に行くはずだったけど、事情により牛乳工場に変わったと記憶(パン工場で「甘い」体験ができるものと期待してたのに残念)。



これも懐かしいですね。

牧野ヤングプラザといえば、プールで泳いだという思い出のある方も多いでしょう。

私はヤンプラのプールに入ったことはありませんでした。でも、ボウリングにはこれまで何度か行ったことあります。 

初めてヤンプラのボウリングに行ったのは、高2の遠足の日。当日、嵐山へ行く予定だったけど、雨のためボウリングに変更。お開きの後、私は雨の中を突いて、なぜか樟葉の市立図書館(最寄りは「あさひ」バス停)まで歩いて寄り道しましたね。どうせなら、樟葉駅から【28】号経路(現【39】)枚方市駅行きに乗って帰っても良かった・・・。

翌年、高3のGWの時には、家族揃ってここのボウリング場に行きました。もちろん、受験生だったため、遠出はできず欲求不満気味。2年前の高1のGWのときは、サイクリングに行きたかったんだけど、風邪で寝込んでしまうし、どうも高校時代のGWは呪われてばかりだったような・・・。

ヤングプラザも気がついたら、いつの間にか消えていました。その後も、ボウリング場は残っており、たまに友人・知人と行くこともあります。最後に行ったのは、6年ほど前だったかな。ボウリングの後、マックに入って歓談したりしましたが、約1名のKYな老人のせいで不愉快な思いが募ったりとか、いろいろありましたな。こうなるのも、それまでの私自身の心がけが宜しくなかったためだと反省。

http://katanogawara.blog.jp/archives/34949064.html
でも書いたように、結局のところ、中学・高校時代以来のあれこれがじわりと響いているみたいです。

今ごろになって、中学・高校時代の夏休みに、ヤンプラのプールへ泳ぎに行ってもよかった、と後悔。どうせなら、枚方市駅から京阪バス招提線(【36】号経路ほか)に乗って行くほうが面白かったことでしょう。当時、招提線には中型車(エアロミディMK)も来れば、観光兼用Bタイプ車も来たりと、車両はバラエティに富んでいました。枚方営業所のBタイプといえば、B-1597・1598・3460にもっと乗っておきたかった(Aタイプ・モノコックも)。樟葉駅発着牧野・招提循環(たまに樟葉八幡線、中書島線にも入ってたようだけど)の運用に入ることも多く、樟葉に行く機会があったら、狙って乗車しておけばよかったですね。


ふと、高校の芸術鑑賞の日のことについて書きたくなりました。

私の出身高校では、毎年6月ごろ、芸術鑑賞の日が設定されていました。通常の授業は休みでした。

私個人的には、芸術の内容や中身よりも、むしろ会場までの交通手段のほうに興味があります。

まず、高1の芸術鑑賞は、確か大阪のザ・シンフォニーホール?でクラシック音楽鑑賞。JR環状線福島駅下車、 北へ徒歩15分ほどのところです。自分的には、クラシック音楽が一番楽しかったと思います。演奏された音楽は覚えていません。

高2は、枚方市民会館大ホールだったかな、落語会でした。お恥ずかしいが、落語は私には難しかったです。

高3は、八幡市文化センターでミュージカル観劇だったと思います。京阪石清水八幡宮駅(当時は「八幡市」駅)から徒歩20分のところで、バスに乗らないと不便なロケーションにあります(「八幡市役所前」下車)。

実は、少し時間の余裕があったので、私は樟葉駅から京阪宇治交通の【70】号経路で寄り道しました。樟葉駅と京阪八幡を結ぶバスは、当時京阪宇治交通【70】【71】号経路と京阪バス【32】号経路が存在、【32】と【71】は同じ中央センター前・大芝経由の経路、すなわち両社の共同運行という形でした(→京阪バスへの合併後、【32】に系統番号を統一)。【70】号経路は、船橋・企業団地(→中の池公園)から男山南地区(長谷・しで原)を回り、大芝を経由して京阪八幡に行く路線でした。

乗車した車両は、古参の仲間となったブルドック(K-MP118)。エアロスターMが増殖する中、貴重なモノコック車でした。京阪バスとは異なり、後扉が折り戸で(降車ボタンも「チーン♪」と鳴るタイプだったかな)、ローカル風情が残っていましたね。最新鋭のエアロスターMは、垢抜けて都会的なインパクトある印象で(京阪バスのエアロスターKよりもスタイリッシュだったと思う)、京阪宇治交通の躍進を感じさせる姿でした。


小学校の時の思い出エピソードを一つ。

低学年~中学年の頃は中耳炎あるいは外耳炎を罹患しやすく、バスで枚方市駅前の耳鼻科に通院することも時々ありました。 

実を言うと、私はバスでの通院を楽しんでいました。特に香里団地界隈では少ない三菱ふそう車に当たると得した気分でした。回復まで概ね1週間、毎日駅前までバスに乗れるので、得した気分でもありましたな。さらに診察が終われば、三越や近鉄百貨店で見たいものも見れるし、美味しい1週間でした。交通費や医療費を支給してくれる親としては呆れたものでしょうが(笑) 

恥ずかしい話ですが、この経験に味を占め、「仮病もどき」を演じたことさえあります。

高学年の頃、喉が腫れて風邪を引きやすく、「耳が痛い」と訴えてみました。すると、仕方なく親と同伴で、あの耳鼻科を受診。診断結果は「大したことはありません」で終わり、以降の通院は無しに。本来、これは喜ぶべきことなんですが、妙なことを考えていたガキの私には「不服」でさえありました。

同じ手口を中学校(1年)の時にも使ってみました。

その頃、「いじめ」や友達関係がうまくいかず、できれば学校に行きたくはなかった。ちょうど耳が痛くなったので、あの耳鼻科にかかることを理由に早退を願い出ました。クラスメートには「それぐらいのことで早引きするんかいな」と変な目で見られ、馬鹿にされましたな。


やはり健康であることは有り難いこと。仮病もなるべく使わないほうが良いでしょう(たまにずる休みするときに使うのはあり)。中学時代に受けた「いじめ」も、それまでの私自身に原因があるはずだということに、今頃気づきました。小学校の時にもっと人間的にしっかり成長できていれば、中学校時代およびその後の自分自身も違うものになっていたでしょう。


枚方市駅前周辺のハンバーガーショップといえば、昭和の頃は、南口に存在した三越入口のマクドナルド(マック)でした。

デパートの前のマックとは、少し違和感もあるが、阪神百貨店梅田のスナックパークのような感じでしょうか・・・

三越の前を通りがかる度に、あの独特の匂いが漂ってきて、無性にハンバーガーが食べたくなったりしました。時々ここに寄って買うこともあったが、「ハンバーガー」「チーズバーガー」など安いものしか食べさせてもらえなかったように思います(それでも「ハンバーガー」の当時価格は、確か1個300円ぐらいだった)。一番単価の高い「ビッグマック」がどんなものなのか気になることもあったが、今の年頃では「No Thanks」ですな。

ちなみに、三越には、5階に大食堂があり、西側の窓越しに京阪電車や淀川、高槻の町並み、北摂連山のパノラマ展望が楽しめるロケーションでした。確か食券制だったはず。まさに「デパートの食堂」でしたね。

バスおりばを挟んで三越の向かい側、線路脇のところには、立ち食いの「京阪そば」もありましたな。バスを降りたときに、だしの匂いが香ってきたのを思い出されます。

近鉄百貨店(旧・丸物)も懐かしいです。近鉄百貨店跡地はT-SITEに建替えられました。近鉄百貨店の南側、現在のファミマのところ(市役所方面へ向かう歩道脇)には、ドムドムの店がありました。ドムドムといえば、ダイエーのバーガーショップでお馴染みでしょう。ダイエーの退潮傾向とともに忘れられた存在と化しました。枚方近辺でのドムドムは、ダイエー香里店やニチイ(現・イズミヤ)交野店にもありました。

枚方市駅高架化工事と同じタイミングで、駅南西側(岡本町)再開発事業によりビオルネが開業すると、三越のマックは、ビオルネに移転しました。開業間もない頃は、三越の店舗と共存していたと記憶しているが、統合されたのは自然の流れでしょう。

時代が下がって、平成半ばごろ、駅東口のところ(枚方市駅と禁野方面を結ぶ通りと京阪交野線との交点)にモスバーガーがオープン。20年ほど営業が続くが、今年3月閉店してしまいました。モスのファンになった私としては、誠に残念な話です。

昨年秋、北口のTSUTAYAがあったビルにロッテリアがオープン。2階席まであって座席数も多く、店の中は綺麗でゆったりしていて、なかなか気に入ってます。コーヒーで一服するにも絶好の空間です。2階席のガラス越しからバスを眺めたりするのも面白いでしょう。


小学校の運動会について。

「運動会は嫌いだった」という人は意外に多いようです。私も運動会はあまり好きではなかったかな。 でも、おふくろに作ってもらった弁当ののり巻き・稲荷や、デザートに初物の青いみかんを食べたのは、良い思い出ですな。

さて、小学校最後・6年の運動会ですが、実を言うと恥ずかしいこと、やらかした失敗が多かったです。私・管理人には組み立て体操が何よりの恐怖でした。特に「ピラミッド」。近年、「ピラミッド」は危険なので控えるようにと、行政から厳しい指導が言われているそうですが。腕力に自信のない私は下の段だったようで、上の段の体重を支えきれずにエラーをやらかし、咎められたのが辛かったです。私の失敗ゆえに、下の段の人に怪我させてしまう可能性だってあることを思うと、本当に恐ろしいです。運動会本番のときも失敗に終わりました。

そんな運動会の練習の最中、9月は学校を休んだり早退することがありました。まず、実は大してしんどくはなかったものの風邪気味で、「足が痛い」と訴えて保健室で寝込み、早退(その後、実際に発熱したが)。そして、その2週間ほど後に、今度は下痢からくる胃腸風邪で、学校を一日休みました。風邪を引いてしまったのは事実とはいえ、運動会の練習から逃げているように思われても仕方ないでしょう(むしろ健康管理をしっかりしているのかと疑われそうだ)。

しかし、中学校の体育の時間が本当の「地獄」だったことに比べれば、小学校の運動会は、まだかわいいものだったと思います。






小学校の授業で、「片」という漢字を習ったときのことを思い出しました。

「片」(かた)という漢字には、「2つそろったものの一方」「少ない、わずか」の意味を持ち、この漢字の入る語句に、

片方、片付け、片手間、片親、片思い、片時

などが挙げられます。

私をはじめ、昭和生まれの北河内の鉄道ファンなら、「片」といえば、

片町線

が思い浮かぶ、という人も少なくないでしょう。

片町線は現在のJR学研都市線のことで、今も「片町線」が正式名称となっています。もともと、片町線は関西本線・奈良線と接続する木津駅(京都府木津川市)を起点に、生駒山系山麓に沿うようなルートで京田辺・長尾・星田・四条畷・住道を回り、大阪市の東の繁華街・京橋(大阪環状線、京阪と接続)から、さらに一歩先の片町駅に至る路線でした。「片町線」の由来はその片町駅にあります。片町駅は、京阪の京橋-天満橋間のところにあり(かつて京阪にも「片町駅」があった)、大阪城に近いところですが、JR東西線(京橋-尼崎)開通と引き換えに廃止され、現存しません。それにもかかわらず、正式名称は「片町線」のままです。

国鉄時代は、京都府側の木津-長尾間は単線非電化、大阪府側の長尾-片町間は複線電化と完全に分断状態で、各駅停車(普通)オンリーで列車本数も多くなく、「牛より遅い片町線」と揶揄されるほど不便でした。JRになってさっそく「学研都市線」の愛称が付与されイメージチェンジを図り、ほどなく全線電化開業、そしてJR東西線開通などを通じて、都市鉄道に大きく変貌しました。

「学研都市線」という名称が定着した今では、「片町線」という名称を知らない人のほうが多いのかもしれません。


京阪バス「1Dayチケット」の前身と言える「枚方市内一日乗車券」。 

自由利用範囲は、「枚方市内の京阪バス路線」だが、もう少し詳しく言えば、

<京阪香里園~京阪交野市駅~津田駅>以北、<枚方市駅~枚方公園口>以東、穂谷口・宗谷以西、<樟葉駅~あさひ>以南

で、少しだけ寝屋川市・交野市にも跨っていました。主に香里団地営業所管内路線と枚方営業所管内の大部分(新田辺・天王・八幡方面、その他京都府内路線を除く)で利用可能でした。高槻・茨木・寝屋川・門真方面や、京阪宇治交通などの他社線ではもちろん不可能。

価格は確か800円で、現行「1Dayチケット」(大阪・京都・滋賀地区のほぼ全路線で利用可能)の650円よりも高かったが、1980~90年代当時においては枚方市近辺を自由に周遊できる貴重なチケットでした。発売箇所は枚方市駅案内所・枚方営業所・香里団地営業所に限られていたこともあり、あまり一般的には知られていなかったようです。今更ながら、これをもっと有効に使って充実した休日を過ごせたはずだと後悔しています。

例えば、高校の夏休みとかに、「一日乗車券」を使って枚方市内の図書館をハシゴしたり、王仁公園プールで泳ぎ、そのついでに面白い路線で寄り道することもできた。「雨ばかりで自転車で遠出できない」と腐っていては、実にもったいない話ですね。バス車内では読書や受験勉強等で時間を有効に使うこともできるし(ただし、勉強は英単語などの暗記物に絞るほうがよいだろう)。


私の高1の夏休みといえば、あまり楽しい思い出がなかったというのが正直なところ。

どうも、高1の1年間は、風邪や天候不順のために休日を満足に楽しめないことも多かった。入学式前の春休みはせっかく受験から解放されたというのに、風邪で熱が出て寝込んでしまうし、GWには胃腸風邪(下痢、発熱)にやられ、夏休みは雨の多い天候不順。この年の夏は長期予報では暑い夏になるということだったが、予想に反して梅雨明けは遅れ、盛夏期も太平洋高気圧の勢力が弱くて雨の降りやすい不安定な天気が続きました。本当に運が悪いと言うやら。

このとき、私が一番こだわっていたのは、北摂・丹波の山々へ自転車で遠征すること(サイクリング)でした。雨の心配があれば、当然のことながらサイクリングに出かけづらいですね。しかし、サイクリングを楽しめなかったのも、天候不順や病気のせいばかりではなく、前年夏に無鉄砲をやらかしたために家族に心配をかけたことも響いたのでは、と思います。

すなわち、夏休みの終わりに、→高槻→亀岡→(R372)→篠山市福住→(R173)→池田→というルートを強行軍で回り、帰りが遅くなったことがありました。それだけならまだしも、亀岡市街地でタイヤの空気が抜け、パンクではないかと自転車屋さんに駆け込んで修理を頼んだらお金が足りなくて、慌てて自宅に電話。しかし、そうこうしているうちに虫ゴムを取り替えただけで、有り難い事に回復。親の言うとおりに従って素直に帰路についたほうがよかったところを、「おお、やったぜ」と調子に乗り、さらに遠いところまで行ってしまう無鉄砲をやらかしたのがまずかったようです。京都・兵庫府県境(天引峠)を越えたあたりまで来ると、さすがに「果たして夜遅くならないうちに帰れるんだろうか?」という不安が過ぎり、焦燥感に駆られながら、R173・天王峠をくたばりかけて半押し・・・。

ここで学んだ教訓は、自転車旅行といえども、旅費は「ただではない」ということ。確かに交通費・ガソリン代は無料だが、食事代や飲料代は不可欠だし、パンクその他故障、異常天候など不意の時には思わぬ出費を食らうことにもなりかねません。その場合に備えて、最低数千円分の現金、もしくはキャッシュカード(大人だったらクレジット)は携帯すべきでしょう。携帯電話・スマホはもちろん必須ですね。

高1の夏休みの話に戻るが、部活もあまり熱心でなかったし、小遣いも少なく、雨が多くて楽しめないと愚痴るばかりでは損。こういうときは、本を沢山読むのが一番でしょう(もちろん大学受験勉強をがんばるのもよいが、高1の夏休みは他のことを思いっきり楽しみたいものですね)。青年時代は自分の生き方をじっくり考えることのできる貴重な時期。夏目漱石や太宰治などの古典文学は苦手でも、中高生に読みやすい岩波ジュニア新書やブルーバックス新書などを片っ端から読んで、科学・歴史・哲学・政治・経済・芸術その他幅広い教養を学ぶだけでも、もっと違う自分に変わるはず。そして、できれば日記も書くようにする。ネット時代の今だったら、スマホやパソコンでブログを使って、写真・画像・動画付きの日記を書けますね。

ボランティア活動や社会活動に参加してみるのも良いでしょう(大学入試用の内申点目当てでもよいので)。

雨でも手軽に楽しめるものとして、地元の京阪バス・京阪宇治交通を乗り回るのでも良かったと思いました(京阪バスでは「枚方市内1日乗車券」を販売していたので、それを使うのも手)。当時、京阪バス・宇治交は10年で車両を代替することになっていて、旧型車置き換えのペースが早く、数を減らしつつあるモノコック車とか、【52】樟葉中書島線や【12】新田辺行き、ほかユニークな路線にいろいろ乗っておくべきだったと後悔しています(笑)。バスを一日乗りまわりながら読書するというのは、一石二鳥の楽しみでしょう。


正直、高校時代のGWについては、あまり楽しかったという印象はありません。

というのも、まず高1のGWには胃腸風邪(下痢、発熱)にやられ、寝込んでしまいました。連休谷間の週明け、朝からどうも体調がおかしく(前日の下痢から始まったようだ)、学校を早退。次の日から休日ですが、当然どこにも外出できず、寝るしかありません。 この連休中、自転車で北摂・丹波の山々を遠征(サイクリング)したいと思っていましたが、計画倒れになったのはとても残念でした。体調が回復したGWの終盤、家族でなぜか六地蔵の迷路(→momoがあるところ)に行きました。小学校のGWのときに、宇治・天ヶ瀬ダムまで行ったときは、手作りの弁当を持って広げ、デザートに茶だんごを食べたあと、アスレチックで汗を流し、京阪宇治交通の宇治川ラインや臨時急行・天満橋行きにも乗れて楽しかったが、今回の六地蔵はどうも中途半端なところという印象があって物足りなかったです(昼食もイズミヤのフードコートだったし)。

高2のGWについては、あまりよく覚えていません。

高3は受験生ということもあって、あまり遠くへ行くことはできませんでした。家族でひらパーに行ったぐらいだったかな。あとは自宅でひたすら受験勉強・・・。

高校生という年頃になると、一家そろって出かけるよりも、各個人が自由に自分の好きなところへ行きたくなるものと思いますが、どうなんでしょうか? しかし、家族との交流が楽しめるのも、せいぜい高校生ぐらいまででしょう。大学に入学すれば親と離れて暮らす人もいるし、就職すればなおさらのこと。既にバイトで働いてて連休中休めない高校生もいる。親もいつまで元気に生きているかわからない。家族交流の機会があるうちに、一家全員で楽しむのが吉でしょう。親や家族・親戚に感謝です。


小学校時代の思い出のある行事の一つに、遠足があります。

遠足は毎年春と秋に実施されました。特に印象に残ったものから、

1)ひらパー(小1・春)
2)宇治(小3・秋)
3)奈良(小4・春)
4)神戸(小5・秋)

を選んで書いてみたいと思います。

1)ひらパー
小学校入学後、初めての遠足でした。行先は、一番近くて手頃な「ひらパー」。交通手段は京阪バス(貸切)でした。私たちのときは一般車(Aタイプ)でした。香里団地営業所所属だったと記憶しています。後輩たちは貸切・観光専用Cタイプだったようですが、一般Aタイプのほうがかえって面白かったです。ひらパー内では、確か「モンキーランド」(猿山)でお猿さんを見物したと思います。「モンキーランド」は1994年、「ワンダーガーデン」としてリニュアルされました。

2)宇治
交通手段は京阪電車でした。宇治線の旧型車が特に楽しかったです。往路は1900系でした。京阪宇治から天ヶ瀬ダムまで徒歩。宇治川沿いの「おとぎ列車」線路跡地を歩いたように記憶しています。「おとぎ列車」は軌道法による鉄道ではなく、観光客向けの遊戯鉄道だったが、1960年天ヶ瀬ダム完成とともに消えたそうです。天ヶ瀬ダムに着いて弁当のあと、確か関西電力の天ヶ瀬発電所を見学しました。周辺にはアスレチック園もあり、後年家庭内行事で訪れました。帰りの京阪宇治から乗った電車は、吊り掛け・600系でした。

3)奈良
京阪沿線から奈良へは、丹波橋で近鉄乗り換えが一般的なルートですが、わざわざ不便な国鉄片町線(→学研都市線)に乗りました。距離的には確かに最短経路ではあるが・・・。列車ダイヤの都合で、通常の登校時間よりも早めの集合でした。河内磐船から長尾まではオレンジ色101系、長尾から先は非電化なので気動車に乗り換え。キハ20あたりを期待していたが、やってきたのはキハ35系の2連でした。田辺(現・京田辺)-祝園間は近鉄京都線と並行、あちら側の電車には何本も追い抜かされます。木津で関西本線(奈良線)に乗り換え。京都から来た奈良線の奈良行きはキハ35系の4両だったと思います。奈良駅から三条通を東へ徒歩。猿沢池・東大寺大仏殿などを見学したあと、奈良公園の草原で鹿と戯れながら弁当タイムに。その後、奈良公園で自由時間ののち、帰路につきました。木津駅ホームで片町線長尾行きをかなり長いこと待ちました。ようやく到着したのはキハ40+キハ35の2連。快適なキハ40のボックスシートに座りました。ちなみにキハ35のほうは絶滅寸前のツートンカラーでした。

4)神戸
神戸の遠足はユニークなものでした。往復の交通手段は貸切バスですが、途中神戸港から大阪までフェリーの旅でした。往路は確か近畿道~名神~阪神高速神戸線経由だったと思います。実を言うと、往路では車酔いで気分悪くなりました。鉄道だと、乗り換えが多くて不便なので、バスになったものと思われます(現在なら学研都市線~JR東西線経由のルートも考えられるが)。神戸市内で見学したものははっきり覚えていません。神戸港・ポートアイランド付近だったと思いますが。フェリーの道中で弁当タイムでした。爽やかな秋晴れで何よりでした。フェリーの旅もなかなか楽しいものです。大阪はたぶん北港(もしかしたら、大阪港・天保山だったかも)の寄港だったかと思います。その後、確か科学館を見学したのかな・・・。


小2の遠足については、なぜかあまり印象に残っていません。秋の遠足は伏見桃山城だったが、残念ながら私は風邪で欠席してしまいました。


再び、枚方・交野近辺の昭和についての思い出話などを。

今回は、1982年(昭和57年)ごろのことを思いつくままに挙げてみたいと思います。

○ 京阪電車では架線電圧1500V昇圧を前に新1800系登場。前年に続き、夏には交野線に冷房車(2600・2200系)が入る。

○京阪交野市駅前にニチイ(→現・イズミヤ)が開業。

○枚方市立杉中学校開校。

○枚方市立楠葉公民館・図書館新設。

○京阪バス・京阪宇治交通には冷房車が続々投入。香里団地に深夜のおりば専用「けやき1番」「けやき2番」開設。

○TSUTAYA1号店が枚方市駅前に開店。

○8月初旬、台風10号の影響で近畿・東海地方に被害をもたらす。


京阪電車では、翌年1983年12月の架線電圧1500V昇圧を前に、旧型の吊り掛け車(600・1300・1700系)が最後の活躍を続ける一方、600系の車体を活用して2代目1800系が登場(1代目1800系は、1700系と同じ車体でありながら日本初の新性能車)。1700系と600系の混結編成も初めて出現、ファンの目が離せませんでした。1300系ほか吊り掛け車のたまり場だった交野線にも、夏場には冷房車2600系(そして2200系4連口)が入り、好評を博しました(翌年以降は2600系が当たり前になる)。翌年春、新型車両6000系がデビュー、従来の京阪スタイルを刷新する颯爽たる姿で衝撃的、1984年にはローレル賞を受賞しました。

交野市内には次々と新しい大型集客施設がオープン。1981年、郡津駅前に「京阪スポーツセンター郡津」(スイミング・テニス・体操)がオープン、いよいよ最盛期を迎えます(2003年ごろ閉鎖)。交野市駅前にはニチイを核店舗とするショッピングセンター「Jumbo」が開業。当初はドムドムやミスドもあって、香里園のダイエーやイズミヤ枚方店などに負けないぐらい楽しいところでした。ニチイはのちにSATYに店名を改め、2003年に閉店するが、後釜にイズミヤが入り今日に至ります。

枚方市東部(津田・藤阪・長尾・尊延寺・穂谷ほか)の住宅地開発が進み、杉中学校が開校。杉中学校の通学区域は菅原東・氷室小学校区のほか、近年藤阪小学校の校区も加わって(おそらく藤阪~田口南のバイパス開通による道路状況の変化によるものだろう)、とにかく広範囲。氷室台・尊延寺・穂谷方面からはバス通学も認められているそうです。また、1984年に穂谷に関西外大キャンパス(→2018年閉校・移転)、そして1988年ごろには杉に大阪国際大学キャンパスがそれぞれ開校しました。加えて、府立枚方津田高校も1986年に開校。

国鉄片町線(→JR学研都市線)は長尾-木津間非電化。電化区間の片町-長尾間も非冷房の101系が多かったが、1983年より東海道・山陽緩行線から103系が続々転入、冷房化率が大幅アップするとともに、1986年には7連に増強、そして1989年には全線電化が完成しました。非電化区間では1982年当時、キハ35系やキハ40が主力となり、キハ20は姿を消しました。

京阪バスには冷房車が続々投入、非冷房車は数を減らしつつありました。しかし、まだ非冷房車に当たる確率も小さくはなく、夏場にこれが来たときはがっかりでした(しかし、引退寸前の日野・金産車体はバス窓時代の面影を感じるもので、なかなか面白かった)。この頃の新車である日野K-RC301は、従来のRE系と違ってエンジン音は強力化、モノコックながらスタイル(特にフロント)が京阪特注でかなり洗練された印象があります(以前の日野車体のバスは野暮ったい印象が強かったので)。香里団地の快速系統廃止、および深夜のおりば専用停留所新設も、この頃に実施されました。

京阪宇治交通についても、同様に冷房車を続々納車。樟葉・男山地区の車両は、三菱ふそう・呉羽車体でほぼ統一されていたはずだが、三菱自工のみのものと思っていた「ブルドック」(K-MP118)が、いつの間にか宇治交にも登場していて、軽く驚きました(京阪バス・宇治交とも、末期の「ブルドック」は呉羽車体製)。古参のバス窓車(MR470)も残っていて、松井ヶ丘方面の長距離系統を中心に運用されていた記憶があります。翌年1983年以降、宇治交60周年を記念して、塗装変更が順次行われました。

1982年の夏は天候不順でした。梅雨の前半は雨が少なく空梅雨気味だったものの、7月中旬より梅雨空が続き、長崎で記録的豪雨、梅雨明けは大幅に遅れました。また、8月初頭に台風10号が近畿・東海地方を直撃、その後も雨の多い不安定な夏でした。


ひょんなことから、高校入学前のことを思い出しました。

無事に公立高校合格を勝ち取った喜びでいっぱいの「15の春」。

合格発表後の保護者同伴での入学前説明会の時に、さっそく痛い宿題が・・・。
それは作文2題で、一つは読書感想文、もう一つは進路(+高校生活への抱負)
についての考えだったかと。

読書感想文が私には特に痛かったですね。
数学の宿題だったら喜んで取り組むところだったが、
感想文の宿題のために、せっかくの春休みが半分つぶれたような
気がしないでもなかったです。
とにかく親に薦められた1冊を読み、何とか手伝ってもらって完成させましたが・・・。

さらに、この春休みは風邪で発熱して寝込んで一日潰れてしまったのも、
とても恨めしかったです。

あの当時は国語があまり好きではなかったけど、ちなみに今の私だったら、
例えば村上春樹とか本山賢司あたりの本を読んで、感想文を書いてみたいと思います。

少しズルいかもしれないが、読書感想文を簡単に完成させる方法として、
以下の動画は参考になります。




私が高校生だった時代、大阪府の公立高校には「試験休み」というものがありました。 

「試験休み」とは、学期末テスト(考査)~終業式までの1週間程度の授業休みであり、学生にとっては、テスト終了後、終業式の日のみ登校すればよいので、事実上の長期休暇(夏・冬・春休み)も同然でした。ただ、両親(保護者)にとっては、理解しづらいものだったようです。

というのも、期末のテスト返しはなく、終業式当日に点数の付いた通知表が渡されるだけであり、テストで間違ったところの復習ができない、といった問題などが指摘されていました。一方、高3生の8月下旬には、大学受験等の関係で授業時間を減らし履修単位が不足となるのを補う(すなわち、文科省の法律基準を満たす)ために補講があったが、これまた両親が戸惑いやすく、それなら学期末の「試験休み」期間に授業してしまえば済むことじゃないのか、と。もっとも、実力テストや9月文化祭の準備たけなわで、8月下旬の補講はタイミング的に悪くないとも思えるが・・・。

私個人的な「試験休み」の思い出といえば、高1のときに体育・水泳の補習に参加させられたこと。本当は英語の自主参加講習に参加したくて申し込んでいたが、日程が重なってしまい、単位がちょっとヤバそうな体育の補習を受けざるを得ないということで断念。ただ、教師はとても優しい新人のイケメンな方だったので、良かったと思っています。

なお、1学期の「試験休み」期間は青春18きっぷの有効期間ではありません(7月20日以降に利用可能)。


今から30年ほど昔の話ですが、高1の冬休み(12月下旬)のとき、スキー合宿に参加しました。この合宿は希望者のみの参加で、翌年の修学旅行での本番に備えた練習を兼ねたものでした。 宿泊地は信州・栂池高原。

このスキー講習は私個人的に高校時代の一つの忘れられない思い出でした。

私がスキーを本格的に経験するのは、このスキー講習が初めて。小学校卒業前の雪国見学(滋賀県高島市のマキノ高原)で少しだけスキーを経験するが、あまり上手に滑れなかったと思います。中学校の合宿ではスキーだったという友人や知り合いも多かったが、私の中学は夏休みにキャンプでした。

クリスマス当日だったかな、その日の夜、学校に集合、バスで車中泊。車中泊を含め3泊4日の行程だったはずです。走行経路はR1~名神~中央道~(中津川IC)~R19~R147・148でした。途中、多賀SAと恵那峡SAでトイレ休憩。翌朝の現地到着までの所要時間を稼ぐためか、中津川ICから下道R19に入り、深夜の木曽谷をゆっくりと走るが、せっかく景色がとてもよいところなのに暗闇の中では・・・。確か馬籠で有名な旧・山口村を過ぎたあたりから眠りについたのかな。夜が明けて信濃大町あたりまで来ると、雪がみるみる積もり、スキーには絶好のコンディション。暖冬が毎年のように続く時代であって、前年の講習は可哀想なことにあまりの雪不足でとんぼ返りになったとか。

栂池高原に到着後、車中泊の疲れを取るため昼まで仮眠休憩。昼食後、スキー講習が始まります。確か母校出身の若い体育の先生に親切・丁寧にコーチをいただき、かなり自信がついたことは今も忘れられません。学校行事で白銀のシュプールを経験できたことはとても貴重でした。旅館の食事は、昼のカレーはイマイチだったけど、夜はなかなか美味かったと思います。お土産を買う時間もあったと思うが、一部の不届き者の問題行動のとばっちりで、確か現地2日目は(スキー講習以外の)外出禁止になったような。

栂池での2泊3日のスケジュールを終え、最終日は午前中からバスで帰路に。今度は松本ICから長野道・中央道に入り、駒ヶ根SAで昼食休憩。雄大な南アルプス・木曽山脈の谷間である伊那路の景色もとても良かったと思います。恵那山トンネルをぶち抜いて岐阜県、さらに名神に入って竜王あたりまでは順調だったが、京都南IC付近が渋滞だったため、草津市あたりから枚方市の学校までバスはジグザグ迷走ルートを取ることに。まず、開通したばかりの京滋バイパスに進路を取り、久御山からR1に入ったかと思えば、国道出屋敷からなぜかr18に。さらに京阪バス【10】号経路の通る道に入って茄子作や香里団地を回りつつ、学校に到着。


1989年(平成元年)前後の枚方・交野近辺について思いつくままに挙げてみることにしました。

1989年といえば、

○JR片町線(学研都市線)長尾-木津間電化、松井山手駅開業、片町線に快速電車本格運行開始

○京阪鴨東線三条-出町柳間開通、新型特急車8000系登場、京阪線冷房化率100%達成

○翌年の「花の万博」開催を前に、京阪のPRラッピング編成3本登場(1000・2200・6000系)

○枚方近鉄百貨店(→近鉄百貨店枚方店)大改装

○京阪バス夜行高速枚方~新宿系統運行開始

○翌年3月、枚方市駅本線大阪行きホーム高架化

○翌年4月、枚方ビオルネがグランドオープン

といったところでしょうか?

昭和から平成に変わり、折りしもバブル経済絶頂期。バブルのピークは翌年1990年までと言われるが、日経平均株価は1989年年末に40,000円手前でピークを付け、その後長期下落が続くことに。

枚方から新宿へ直通する夜行バスが登場したのは、私個人的にサプライズでした。その後、枚方から福岡・長崎・熊本方面へのバスも運行開始するが軒並み廃止、現在は枚方新宿線のみが存続しています。

近鉄百貨店のロゴマークは前年1988年あたりに刷新、枚方近鉄も店内大改装でした。確か改装と同時に6階ファミリー食堂はなくなり、うどんメニュー中心の「ファミリー四国」に変わりました。三越の大食堂も1989年の時点で既になくなっていたように記憶しています。

京阪電車については、唯一の非冷房車・2代目1800系がひっそり引退、冷房化率100%を達成。10月には鴨東線が開通、京都洛北へ飛躍的に便利になりました。新型特急車8000系は大好評を博し、旧3000系を置き換えることになりました。枚方市駅の高架化事業も進み、1990年春大阪方ホーム立体化完成に続き、1991年には交野線も仮設ホームで高架化(→この間、交野線と本線との乗り換えが不便だった)、1992年までに全ホームの高架化が完成しました。同時期、交野線全線複線化も完了、ローカル線の雰囲気だった河内森駅も近代的な地下改札口・エスカレーター・エレベーターが設置され、大きく変わりました。

この時期、世間は大阪・鶴見緑地で開催される1990年花博で盛り上がっていました。京阪電車ではラッピングPR編成を用意。鴨東線開通や枚方市駅高架化供用なども、花博開催までに間に合わせたような感じでした。会場最寄の百貨店・ショッピングセンターである京阪百貨店守口店および京橋の京阪モールなどは花博商戦ムード満開だったと思います。

枚方ビオルネのオープニングセールもやはり大盛況でした。以降、ここで服や家電製品を買ったり食事にも寄るようになるが、2008年の枚方ビオルネ破産前後あたりからか、以前に比べて魅力が落ちてしまったような感じがします。

1989年の時事ネタといえば、消費税導入(3%)と参院選での自民大敗・社会党大躍進が筆頭に浮かびます。当時の社会党党首だった土井たかこさんの「山が動いた」は1989年を代表する言葉でしょう。海外では「ベルリンの壁」崩壊=東西ドイツ統一を皮切りに旧・共産主義体制崩壊が始まり、1991年の旧・ソ連解体へと雪崩を打ちました。この世界情勢のあおりを受け、社会党躍進とは対照的に、旧・共産主義のネガティブイメージとダブる日本共産党は苦戦を強いられました(→最近になって、日本共産党は旧共産主義の抑圧体制とは無縁な「まっとうな野党」として、少なくない国民に認識されるようになったと思うが・・・)。


夏休みも終わりなので、中学校の夏休みの宿題の思い出について書いてみたいと思いました。

中学1・2年のときは各教科からわんさか宿題が出され、間際になって追い込まれ、親に手伝ってもらったりした記憶があります。

宿題の内容は、1年のときは確か

【国語】   読書感想文
【数学】   プリント
【英語】   プリント
【社会】   プリント、自由研究
【理科】   植物採集
【美術】   デッサン
【技術家庭】  ?

だったかと思います。

数学・英語・社会のプリント類は比較的簡単に手をつけやすいが、数学の応用問題でつまづいたり、国語の読書感想文は夏休みの終わりになってかなり慌てたようです。社会の自由研究は、枚方市の市町村合併の歴史を調べたレポートでした。植物採集やデッサンは親に手伝ってもらいました。ほかに、技術家庭の宿題もあったような・・・。

小学校もさることながら、中学校になれば勉強する量が一気に増え、小学校時代にあまり勉強していなかったら苦労します。私自身、小学校時代は「勉強嫌い」なほうでした(苦笑)。中学・高校時代に何とか挽回しましたが、やはり小学校のときからすすんで読書等に励んでおれば、もっと豊かな表現力が身につき、他の進路選択の可能性も広がったのでは、と後悔しています。


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1984年(昭和59年)当時の枚方・交野・寝屋川をはじめ北河内周辺について、思いつくままに書いてみたいと思いました。私個人的には、

○前年1983年12月京阪電車(大津線除く)の架線電圧1500Vに昇圧、6000系車両晴れ晴れデビュー & ローレル賞受賞、吊り掛け車全廃

○関西外大穂谷キャンパス開校、京阪バス「穂谷外大」乗り入れ開始

○国鉄片町線(→JR学研都市線)に103系冷房車続々転入

○京阪バスに中型スケルトン車両登場

といったところでしょうか?


京阪電車の架線電圧1500V化に合わせ、旧型吊り掛け車600・1300・1700系は全廃。1300系の天下だった交野線は2600系が主役となってしまい、冷房車に当たる確率は大幅に上がった反面、車両趣味的には面白みが半減しました。非冷房車1900系や1800系(2代目)も時々交野線の運用に入っていましたが、やはり600・1300・1700系が主役だった頃に比べたら・・・。しかし、今から思えば、非冷房時代の1900系や1800系ももっと味わって乗っておいたほうが良かったです。

ニューフェイスの6000系は京阪沿線住民に大きなインパクトを与えるほどの画期的スタイルでした。6000系は昇圧前1983年12月まで暫定的に4両編成として営業運用を行い、交野線にも入っていました。1500V化完了後、7連に組み直され、本線の急行・準急から普通、そして正月の臨時特急にも堂々たる姿で活躍、まさに京阪の新時代を迎えたと言えます。そして、その斬新的なスタイルから1984年夏にローレル賞を受賞しました。

2200系の車体更新工事も始まり、正面種別・行先幕が設置され、イメージはかなり変わりました。

枚方市駅高架化工事も進みつつあり、翌年1985年4月より樟葉急行の8連運用が始まりました。


枚方市東部の山間部、穂谷地区には関西外大穂谷キャンパスが開校。京阪バスが穂谷外大に乗り入れを開始、枚方尊延寺線の発展期を迎えます。数年後に杉山手・大阪国際大学への路線も新設されたり、新田辺-穂谷間の便数も増発するなど、かなり賑やかにはなるが、2018年4月の閉校(→御殿山キャンパスへ移転)後、路線・本数とも大幅に整理され、1984年以前に戻ったような感じです。

当時の京阪バスといえば、狭隘路線向けに中型車を始めて導入。直前まで投入していたモノコック車体(三菱ブルドック、日野RE・RC)に代わり、この時から角張ったスケルトン車となりました。また、1984年初頭にはモノコックの路線・観光兼用車(Bタイプ)がメトロ窓の豪華仕様となって枚方営業所に登場。翌年1985年2月には一般路線車の冷房化率100%を達成しました。

旧・京阪宇治交通も前年1983年に創業60周年を記念して、紫系のストライプ新塗装を導入。従前の緑系塗色から順次塗り替えられます。現在の京都京阪バスの一部車両にこの塗装が継承されており、本年秋までに消滅予定です。


国鉄片町線も、103系冷房車が京阪神緩行線から続々転属し非冷房101系を置き換え、冷房化率は大幅アップ。転属の過程で青色の103系も見られました。その後、1986年までに6両から7両に増強。非電化で残っていた長尾-木津間についても、同志社大学京田辺キャンパス開校に合わせ同志社前駅開業(1986年)、1989年に電化。快速電車の運転も本格的に始まり、長尾-大住間に松井山手駅(京田辺市)を開業、京阪電鉄グループの住宅地開発が始まり、今日に至ります。


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今から7年前、2011年はどんな年だったのか、枚方・交野周辺のことを中心に振り返ってみたいと思いました。

2011年といえば、東日本大震災・福島原発事故(3.11事件)の苦しい経験を思い出す方も多いことと思います。

私個人的にも、2011年といえば民主党政権の崩壊とともに将来不安ばかりが募り、あまり楽しめなかった、というところですね。

枚方・交野・寝屋川・北河内の話題については、

○近鉄百貨店枚方店閉店発表(閉店日は2012年2月29日)
○京阪電車ダイヤ改正で中之島線直通優等列車削減、昼間の樟葉急行新設
○JR学研都市線日中の快速電車の宝塚・新三田方面直通廃止(塚口折り返し)
○寝屋川市寝屋地区にビバモール開業
○大阪W選挙(11月)で維新勝利、橋下ファイバーが過熱化

などが思いつきます。

京阪中之島線の利用客は予想以上に伸び悩み、昼間時間帯の優等列車(快速急行)は廃止されました。枚方市特急も廃止され、代わりに昼間時間帯に樟葉急行が増発されます。交野線のほうも2000年代は七夕伝説イベントで盛り上がっていましたが、原発稼動停止を理由にした節電キャンペーンの影響もあり、2011年以降私市駅でのイベントはなくなり寂しくなりました。さらに2年後には交野線直通<おりひめ><ひこぼし>も廃止。

近鉄百貨店枚方店の閉店もかなり衝撃的でした。気がつけば、どうも枚方市駅前は商業施設の老朽化が目立って以前に比べて元気がなく、近鉄百貨店は閑散としているし、ビオルネも今一つ冴えず、買い物を楽しめるようなところでなくなっている。服を買おうにも、枚方・交野・寝屋川近辺にはあまり良い店がなく、対岸の高槻もイマイチ、どこで買えば良いかわからなくて困り果てました(→梅田のグランフロントで探すのが一番無難だろう)。

JR大阪駅ビル開業に合わせて列車の大阪駅集中が進み、これと引き換えに大阪駅・梅田へ乗り入れていない学研都市線(大阪駅・梅田南側の北新地は通るが)の減便が始まりました。さらに4年後の2015年には、昼間の快速は四条畷以東各駅停車の区間快速に変わって列車本数は半減。大学キャンパスの閉鎖・移転や高齢化・人口減の影響でバスも減便され(特に津田駅発着のバスはえげつないほどの減便)、学研都市線沿線の枚方市東部や交野市は寂れるばかり。これも福知山線(JR宝塚線)事故の影響と決して無関係ではないと思います。

政治もどんどんひどくなるばかり。民主党政権(というよりは小沢一郎)に期待していたが、「反・小沢」の菅直人政権あたりから裏切られるばかりで、その次の野田佳彦は公約を破って消費増税法案等を強行、民主党政権崩壊に追い込み自爆解散。自民党政権に戻った後は・・・。最近、小沢一郎への期待感すら薄らいでしまいました。しかし、「小沢信者」にも困ったものです(小沢一郎個人はすばらしい政治家として尊敬しているが、今では「反・小沢」だった枝野幸男のほうにより好感が持てる。それにしても、熱烈な小沢信者たちを見てると、キモイと感じる)。

野党がバラバラで弱いのも、枚方・交野や学研都市線沿線(片町線)が寂れるのも、国鉄分割民営化のせいだと決め付けたくなることがあります。実際、中曽根元総理が進めた国鉄分割民営化の一つの目的は、労働組合(国労)の解体だったと言われており(その後、労組とは名ばかりの「連合」が発足、旧・社会党の解体・弱小化、民主党政権も「連合」言いなりで崩壊)、また国鉄の分割民営化はローカル線の切り捨て→地域衰退・過疎化に拍車をかけている面もあるので。

大阪駅前のJR駅ビル(ルクア、伊勢丹)よりは、ヨドバシ西側のグランフロントのほうに好感が持てます。グランフロントは阪急阪神百貨店グループだけあって、関西人のおしゃれ感覚をしっかりつかんでいるように思うし、また単にショッピングやグルメだけでなく他のユニークな体験のできる施設が整っているということで支持が広がっており、2013年開業以来、4年連続で売上げを伸ばしています。


大阪府北河内地域で最後の「村」は、北河内郡水本村でした。

水本村は枚方市・寝屋川市・交野町・四條畷町(当時)に隣接、現在の寝屋川市東部、寝屋・打上・梅が丘地区などにあたります。東寝屋川駅や寝屋川公園、ビバモール寝屋川も旧・水本村に含まれています。水本村は1961(昭和36)年6月、寝屋川市と合併。これにより北河内地域から「村」は消滅、大阪府下でも南河内郡千早赤阪村と豊能郡東能勢村の2つだけとなりました。寝屋川市への合併直前、府下では北河内郡水本村のほか同田原村で合わせて4つの「村」が残っていたが、水本村消滅3ヶ月前に田原村が四條畷町(→四條畷市)へ合併しました。

水本村は明治初期、交野郡(主に現在の枚方市の大半と交野市)の一部であり、現・寝屋川市では唯一交野郡だった地域です。その歴史的経緯も関係しているのか、東寝屋川駅を中心とするJR片町線沿線の地域は交野市あるいは四條畷市と誤解されやすく、片町線が寝屋川市を通っていることを知らない人もかなり多いのではと思われます。

なお、「水本」の由来は、先日コメントをいただきましたが、寝屋川の上流とのことです。寝屋川の源流は交野市星田です。



旧・マイカルグループの総合スーパー、「ニチイ」。

確か関西系列の小売業だったが、ダイエー・イズミヤ・ジャスコに比べてローカルな印象でした。
マイカルグループには「ニチイ」とは別に、衣料品主体の高級店という位置づけの「ビブレ」がありました(ビブレ1号店は確か京都河原町だったかな)。「ニチイ」は後に「サティ」に順次名称を改めます。マイカルグループは2011年イオン(旧・ジャスコ)の傘下に飲み込まれました。

京阪沿線のニチイは枚方店と伏見店がかなり古くからありました。
枚方のニチイは岡本町商店街にあって現在のビオルネの核店舗であるビブレ(→サティ→イオン)枚方店にあたります。ビオルネができる前、岡本町商店街を訪れる機会は少なく、ニチイの存在すらあまり知られていなかったかもしれません。

1980年代前半、京阪沿線の交野・八幡・大久保(宇治市)にニチイが相次いで新規開店しました。特に交野に初めて大型ショッピングセンターができたことは、私個人的にとても嬉しかったです。

しかし、1990年代末ごろから「食料品・衣料品・家具・家電何でもそろう」総合スーパー全体そのものが陳腐化、京阪沿線の旧マイカル店舗は一部を残して軒並み撤退しました。交野店は2002年閉店ののちイズミヤが新規出店。旧マイカル系の後釜にイズミヤが入るのはかなり異例でしょう。八幡店は中小食料品スーパーに代わり、最近までがんばり続けた大久保店も閉店。伏見店は現在「イオン」の店舗で営業中、大手筋商店街と共存しています。ビブレ枚方店は「サティ」にダウングレードののちイオン(旧・ジャスコ)の傘下に入りイオンの店舗として残っているが、ビブレ時代に比べて店舗全体の魅力は落ちたように感じます。ビブレの頃は、あそこでよく服や家電製品・趣味のものを買っていましたが、今は・・・。


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ジャスコ・旧ロゴマーク時代のグリーンシティ寝屋川です。


久しぶりに百貨店(デパート)関係の記事を書いてみることにした。

以前から、時折枚方・高槻を中心に京阪間近辺の百貨店の件に関する記事を投稿してきたが、
今回、その思い出を綴ってみることにした。


京阪間近郊の百貨店といえば、枚方三越(1968~2005年)が一番歴史が深いだろう。
枚方の三越には子どもの頃の思い出がある。ガラス張りの5階大食堂はスカイレストランで、窓越しに京阪電車や淀川および対岸の高槻方面の眺望が良かった。屋上遊園地もいろんなゲームコーナーがあって賑やかだったし、1階正面入口には堂々とマクドナルドが店を構えていた。枚方三越のマクドナルドは大阪府郊外1号店だったという。

枚方市駅前には1975年に丸物百貨店も開店。
枚方市駅南口駅前広場の整備に合わせたもので、サンプラザ3号館に入店する。
丸物は京都駅前に本店を構える老舗の百貨店(旧・京都物産館)だが、経営悪化により1977年、近鉄百貨店と救済合併することになる。京都本店は京都近鉄百貨店、枚方店は枚方近鉄百貨店にそれぞれ商号が変わる。京阪沿線の枚方に近鉄百貨店があることに少しばかり違和感もあったが、これも丸物の流れを汲んでいたため。京阪交野線が旧・信貴生駒電鉄として近鉄生駒線と兄弟関係だった名残のようにも見えるが、偶然そうなっただけのこと。

枚方駅前には三越と近鉄の2つの百貨店を持ち、郊外都市ではかなり恵まれていたほうと言える。
加えて、1990年代前半、京阪枚方市駅高架化完成に合わせて高架下に「ステーションモール」がオープン(1994年)、合わせて京阪百貨店ひらかた店も開店する。
これにより、京阪枚方市駅前には3つの百貨店が立地することになり、松坂屋くずは店も加えて、百貨店の店舗数は大阪郊外都市でトップクラスを保っていたことになる。

対岸の高槻では、西武百貨店(→西武高槻ショッピングセンター)が国鉄(JR)高槻駅北口(1973年)、国鉄高槻駅前再整備事業完了に合わせて松坂屋が南口(1979年)にそれぞれオープンする。


しかし、1980年代末~90年代初頭の平成バブル経済をピークに、長引く構造不況に入り、百貨店の売り上げは低迷するようになる。特に郊外・地方店では客足の伸び悩みが目立ち、近年各地で閉店が相次ぐ。枚方も例外ではなく、2012年までに後発の京阪百貨店2店舗(ひらかた・くずは)を残し、全て閉店する。

枚方市駅南西側の岡本町にビオルネがグランドオープン(1990年)、核店舗としてビブレ(マイカルグループ→イオン)が入り、大好評を博した。

すると、旧来の三越・近鉄には陰りが目立ち、1994年のステーションモール開業で低迷に拍車がかかる。
三越の大食堂はいつしか姿を消し、売り場も縮小(最盛期には別館のビルも間借りしていた)。三越からは足が遠のき、昭和の頃の楽しかった思い出もどこへやら・・・。2005年、大阪店(北浜)と同時に閉店。
近鉄百貨店も度重なる店舗改装に関わらず客足は遠のくばかり、気がついたら6階の大型書店はなくなり、同フロアのファミリー食堂もうどんレストランに変わる。ステーションモール・京阪百貨店の開業以降、近鉄百貨店へは駅と少しばかりの距離もあって客足は遠のきがちだった(立体歩道橋、空中歩道で駅と直結していたが)。三越閉店後も何とかがんばっていたが、やはり郊外店舗撤退の流れに逆らえず、2012年2月末、枚方市民に惜しまれて閉店。
枚方近鉄跡地は建替えられ、「新しいタイプの百貨店」としてT-SITEが2016年オープン、連日朝から深夜まで賑わいを見せている。今後の枚方市駅前の活性化が大いに期待されるところだ。

くずはの松坂屋は1974年の開店から30周年を迎えた2004年春、新しいくずはモール(旧・モール街)へのリニュアル工事が進む中、閉店。松坂屋跡の建物はくずはモール西館として活用されるが、2014年のリニュアルに合わせて建替えられ、北館とつながって一体化する。

京阪百貨店は1985年、京阪守口市駅前(旧・守口車庫跡)に本店がオープンする。百貨店業界では後発でマイナーだが、枚方・くずは・京橋・住道と京阪沿線に店舗網を着実展開する。守口本店以外は、食料品・婦人服中心の小型店舗。
しかし、近年のイオンモール大日の影響で守口本店は低迷傾向が目立ち、京阪守口市駅は地盤沈下、寝屋川・守口市内の京阪バスも大日駅中心の路線に再編される始末だ。地下鉄谷町線の守口・大日延伸の影響はここまで根深いものかと改めて感じる。


枚方とは対照的に、高槻の百貨店はまだ何とかがんばっている。
しかし、昭和の頃に比べ、やはり陰りが目立つことは否めない。
西武高槻は阪急阪神百貨店(H2O)と業務提携の上で譲渡する予定で、今後に期待できよう。ただし、近い将来、建替えも検討課題となろう。
関西唯一となった松坂屋も開店から40年近く経過しており、やはり建物の老朽化は目立つ。5階のスカイレストランは4階に移転し、売り場面積は縮小。ただし、屋上遊園地は今も残っており、夏にはビアガーデンも開かれる。



枚方企業団地内にあるソフトクリームの日世工場が閉鎖されたとの記事を投稿するや、小学校時代の社会科見学の思い出を書き綴ってみたくなった。

小学校の校外学習といえば、毎年春・秋の遠足や林間学校(5年)、修学旅行(6年)のほか、適宜「社会科見学」などもある。「社会科見学」は、大きく

A)日常の時間割の1~数コマ分を割いて徒歩で近くの工場や田畑、商店などを見学する
B)丸一日分を割り当てて電車・バスで移動して弁当持参

のスタイルに分けられる。

A)については、社会科以外に理科の自然観察や図工の写生など、いわゆる野外学習というものがある(体育のマラソンも校外近辺を走るので一応校外学習と言えなくもない)。

B)については、遠足のようなもので、遠足と一まとめにする場合もあるし、遠足の前後に別途社会科見学を実施する場合もある。ただし、午前中もしくは午後のみ、給食は通常通り(弁当不要)ということもある。社会科見学と遠足との違いは、「おやつ」があるかないか、だったように思う。遠足のおやつは確か給食費の一部から出ているはず。

さて、私の小学校のときの社会科見学だが、まず2年のときには、牛乳工場、消防署、郵便局、駅などを見学に行ったと記憶している。本当は製パン工場に行くはずだったが、事情があって牛乳工場に変更になった。私個人的には甘~くておいしいパン工場のほうが楽しそうだったが。ただしYパン(一番近いところで宇治市に工場がある)は添加物まみれでまずく敬遠したほうがよさそうだ。そういえば、「パン屋」から「和菓子屋」に変えた教科書について、SNSなどで騒がれているが・・・。和菓子関係といえば、長尾家具町に製餡工場がある。
駅の見学は確か片町線の津田駅だったはず。津田駅への交通手段は貸切バスだったような(徒歩ではあまりに距離があるので)。

3年では、一学期に校区見学(徒歩)、二学期にはバスで枚方市内巡検だった。枚方市内巡検では、穂谷の畜産団地、王仁公園の農業研究所(→ここは確かなくなったかな)と昼食(弁当)、そして企業団地のダイコロ(アルバム製造)の順に回ったことは覚えている。

4年になると、いろんな校外学習があった。

まず、春には近くの田んぼで写生スケッチ。絵の具用の水は水筒に入れて持参するので、少し遠足気分が味わえた。

遠足の前にはバスで枚方市内巡検。穂谷川清掃工場、山田池公園(弁当)、村野浄水場の順に見学する。前回3年は地場の商工業・農業が主眼だったのに対し、今回は公共インフラが主役であり、前年に比べて楽しさはさほど感じなかったように記憶している。しかし、公共インフラは人間の生存権にかかわる重大な問題で、琵琶湖が汚染されたら、枚方市をはじめ、近畿全体の人々の生存にどれだけ深刻な影響を及ぼすのか、という非常に大事なことを学んだ。森友学園問題・共謀罪・北朝鮮問題の裏側で今国会で水道民営化法案(そして種子法廃止法案)をコソコソ通し、人間の生存権を外資に売り渡すというトンデモ愚行を許すわけにはいかない。

そして、秋の遠足は社会科見学を兼ねたものであり、今度は枚方市内から大阪府下全域に視野を広げて、堺泉北工業地帯、浜寺公園(弁当)、そして弁天町の交通科学博物館を見学。堺の産業といえば、重工業もさることながら、自転車や刃物も忘れてはならないだろう。




今から28年前の1989年3月11日、片町線(学研都市線)長尾-木津間の電化が完成する。

前日まで大阪府最東端の長尾駅(枚方市)で気動車に乗り換えなければならなかったが、全線電化により片町(廃止)・京橋から同志社前・木津への直通電車が終日運転されるようになった。電化開業当初、オレンジ色の103系が使用された。非電化だった京都府内区間は気動車(キハ35、58・28、47など)2両編成だったため、一気にホーム編成長を7両まで拡大することは難しく、103系の改造で間に合わせて3両編成(大阪口は超満員だったため翌年1990年以降は4両に増強)で運用することになった。電化と同時に長尾-大住間に新駅・松井山手駅が開業、合わせて長尾-松井山手間の新線付け替えと複線化も行われた。

さっそく、当日、近郊区間大回りの小旅行に出た。

河内磐船駅から快速|木津行き(103系3両編成)に乗る。快速は長尾から先、各駅停車だ。長尾の次の松井山手駅では、たまたまこの電車の発着に合わせて電化開業記念式典が盛大に行われる。その後関係者たちが一斉に乗り込み、同志社前で下車(→おそらく田辺町の職員の方々だったと思われる)。地元の電化に対する期待は大きかったことだと思う。

同志社大学京田辺キャンパスの開校は全線電化へのきっかけだったと言える。既に3年前の1986年、田辺-上田辺(現・JR三山木)間に同志社前駅が開業しており、全線電化への動きを予感させるものだった。

電化開業後、今度はJR東西線(片福連絡線)開業(1997年)に合わせて、先行的に207系電車が投入され、片町線と沿線のイメージチェンジを図る。少し前まで気動車がのんびり行き交っていた時代から大きな変化を遂げることになるが、それでも沿線のローカルムードは色濃く残っている。東西線開通後は、神戸・明石・宝塚・三田各方面から東西線経由片町線へ直通する電車が終日運転されるようになり、阪神間から同志社大学への通学も便利になった。

しかし、2005年4月福知山線尼崎脱線事故の大惨事で、片町線および沿線の発展が天井を打ったように思われる。同志社大学の京都市内回帰(主に文系学部)などの動きも、福知山線事故と無関係とは言えないだろう(実際、この事故で亡くなられた同志社大学学生もいる)。片町線の電車も2010年には木津までの全区間にわたって7両編成で運用されるようになるものの、その後列車本数は減少傾向、昼間時間帯は宝塚・三田方面直通を間引いたり(尼崎・塚口折り返し)、さらに四条畷以東は各駅停車(区間快速)が発着するのみとなっている。

さて木津から先、奈良線の105系で京都へ向かう。
奈良線も電化されてから年月は浅く、当時は105系または113系の普通電車のみでローカル線の雰囲気が濃かった。
しかし、快速電車運転開始と利用客大幅増加、新駅設置および一部区間複線化が行われ(近い将来、複線区間がさらに拡大する予定)、奈良線は都市間連絡鉄道に脱皮しつつある。さらに近年、外国人観光客の姿も目立つようだ。

京都駅でJR京都線(東海道本線)大阪方面行きに乗り換える。
すると、このダイヤ改正の目玉、新車221系の快速電車がやってきた(^-^) 大阪へは新快速が先着だが、この快速(高槻まで各駅停車)に乗って快適な221系を堪能する。
221系は3ドア・転換クロスシートで、やはり従来の113系などとは比較にならないほどすばらしいデザインスタイルと乗り心地、そのインパクトは強烈だった。221系が関西私鉄に与えた影響は大きく、私鉄からJRへの旅客奪還を果たすことになる(→1995年阪神大震災後は、いち早くJRが復旧を果たし、新快速に223系を大量投入、ますますJRの一人勝ちを強める)。

221系電車は前年にデビューした近鉄5200系のデザインをモデルとし、系列の近畿車輛がJR西日本に売り込んだと言われている。

221系は東海道・山陽本線のほか、関西本線(大和路線)~大阪環状線快速にも投入され、同年夏までに赤帯113系を置き換えた。その後も東海道・山陽の113系はまだまだ残り、221系は新快速に優先的に使用されるようになる。それまで新快速で使用してきた117系は福知山線および奈良線の快速電車で運用されるようになる。さらに1995年以降の223系投入により、2000年までに221系は新快速運用から撤退し、福知山線、阪和線、奈良線の快速に転用される。



「枚方つーしん」の記事で、

「中学校のとき、どこで服を買っていましたか?」


という、面白いアンケートがありました(2016年11月~12月)。

http://www.hira2.jp/statistics/20161212.html


回答結果について年代別にレポートされているのがこれまた興味深いです。

10代では、全体の回答数は少ないが、

「しまむら」

がトップで、さすが今時の子どもなんだなぁ、と思いましたね。

しかし、20代30代では、

ビオルネ(ビブレ・サティ・イオン)

が首位。

ただ、どの年代も、イズミヤで買った人は多かったです(特に40代以上は「イズミヤ」がトップ)。


私(管理人)個人も、やはり中学時代はイズミヤまたはダイエーで両親と探して買ってもらっていました。
大学時代~20代になると、ビオルネが多くなるが、イズミヤで買うこともまだまだ多かったです。
また、単価の高いスーツやコート類などアウター系を中心に、枚方近鉄百貨店で買っていました(これも両親に見てもらったりした)。

最近は、カジュアルな普段着は基本的にユニクロもしくは通販(楽天市場)で購入することが多いです。
スーツやコート類、靴など第一印象を左右するアイテム、あるいはよそゆきな綺麗めのものにはそこそこお金を掛けたいもので、梅田・心斎橋・四条河原町の百貨店や専門店へ探しに行きます。
ジーンズ・デニム類も、通販で買う前にやはり試着してサイズを合わせるほうが望ましいですが、枚方・寝屋川近辺にいいデニムショップがなかなか見つからなくて困っています(くずはモールやイオンモール内の大手チェーン店で買うことももちろん可能だが、40代以上の大人向けな雰囲気ではなさそうだ。昔はビオルネのジーンズショップで買うことが多かった。ユニクロのものは安くて良くできているが、やはり世界的ブランドのLevi'sなどにあこがれる人も多い)。実は、去年秋、電車で尼崎の店まで行って、Levi'sのホワイトデニムを買いました。


関西 大人のための推薦デニムショップ
http://katanogawara.blog.jp/archives/8420594.html

京阪間郊外における大人のメンズカジュアル店について
http://katanogawara.blog.jp/archives/5662959.html



このほど、「枚方つーしん」さまのブログ記事に、昭和36年の枚方公園駅前の古写真がアップされました。
記事は、
http://www.hira2.jp/photo/hirakatakouen-20161226.html
です。

私個人的に、一番下の1985年の写真が気になりました。
バックに京阪バス(後面)が映っているのですが、ナンバープレートと社番は、

大阪22あ 5006
社番 A-3470

と解読できることから、モノコックの日野K-RC301最終増備車(1984年式)と判定できます。
「京阪バス情報局」さまの「車両台帳」で確認できるので、興味のある方はぜひ調べてみてください。

A-3470は香里団地営業所生え抜きでしたが、確か日野モノコック最終納入車という意味で記念すべき車両と言えます。その直後に、さっそくスケルトンの中型車が納車され、冷房化の遅れていた【43】号・星田線系統(交野営業所)などに充当されるようになったと記憶しています。

なお、バスコレ第12弾のモデルとなった京阪K-RC301は、交野所属のA-3465(大阪22あ5001)で、A-3470と同時納車されたものです。



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京阪「ミュージアムトレイン」展示コーナーの写真より。
交野線はまだ単線で、小型車500形(3連)などがのんびり行き来していた頃です。
駅前周辺の団地(府営松塚住宅ほか)も建設中ですね。
その後、駅前には京阪デパート(→京阪・ザ・ストア)および京阪スポーツセンター郡津がオープンするが、いずれも過去のものとなってしまいました。


今のマクドナルドには肯定的なイメージを持っていないが、1980年代まではなかなか良かったと思っている。

私にとってマクドナルドで一番思い出のある店といえば、枚方三越の店だ。ここは大阪府下郊外1号店だったようだ。百貨店の店頭にファーストフードのマクドナルドとは違和感無きにしもあらずだが、1970~80年代当時、日常的になかなか味わうことのできないマックだっただけに、これはこれでなかなか良かったとは思う。南口に到着するバスを降りると、独特の匂いがしてきたことを思い出す。

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(写真:@西舞鶴鉄道管区さまより拝借)
https://twitter.com/do_nishimaizuru/status/706822682302484480


当時、一番安い「ハンバーガー」「チーズバーガー」でも300円前後の値段だったようで、値段に見合った高級感があって美味しかったように記憶している。ハンバーガー・ポテト・コーラは当時の私たち子どもには一つのご馳走だった。今は100円と非常に安くなっているが、その分品質が落ちているように感じる。最近、「店内が騒がしい」「ゴミが散らかってて汚い」「食べ残しが多い」など顧客のレベルも下がっていることもあって、マックを敬遠する人が増えている。

三越前のマックは、1990年4月、ビオルネがオープンしてからそちらに移転する。ビオルネの華々しいオープンから26年経過するが、三越・近鉄百貨店閉店とともに、ここも近頃はあまり冴えない。

ここ3年ほど、マックの重なる不祥事がニュースになったことも業績悪化の引き金になっているようだ。枚方・交野・寝屋川でもマックの店舗が多いが、今年東田宮と香里園駅前が閉店となった。今、マックはテキサスバーガーと「ポケモンでGo」がプラス要因で「復調の兆しがある」と伝えられているが、果たして本物なのか?

ちなみに、枚方近鉄南側の「現代枚方ビル」のあるところには、ドムドムの店もあった。ドムドムといえばダイエー(→イオン)店舗の中に必ず入っていたが、マックやロッテリアに比べて地味で、忘れられた存在となっている(ダイエーそのものが姿を消しつつある)。味は悪くはないが・・・。


昔、京阪交野線郡津駅前に京阪スポーツセンター郡津があった。
オープンしたのは1981年とそれほど古くはない。

小学生だった私は、さっそくスポーツセンター郡津のスイミングコースに通うことになる。センター内のプールは年中オープンで全天候型だった。もともとろくに泳げなかった私は、郡津のスイミングコースに通っても水泳はさほど上達せず(それでも少しは泳げるようになったが)、水泳を習うことよりも横を通る電車のほうに目が行ってしまう癖があって、教員に叱られることが多かった。もちろん進級もままならずだった。結局、スイミングコース通いも長続きしなかった(それでも一年以上は続いた)。

1980年代半ばに、京阪バス車両(交野営業所管内)にも京阪スポーツセンター郡津の看板が掲示されるようになったと記憶している。

しかし年月の経過とともに、京阪スポーツセンターのこともすっかり忘れてしまい、気がついたら閉鎖されていた。センターの施設は全て取り壊され、戸建て住宅地に変わった。

郡津駅の東口に「京阪デパート郡津店」(→「京阪ザ・ストア」)もあったが、こちらも2002年に閉店、跡地はマンションに変わった。

郡津駅前周辺にはコンビニが一軒もなく、駅前の商店街もあまり流行っていない。昔は書店とかもあったんだが・・・。スーパーは近くに万代があるが、現在建替え中のため、イズミヤ交野店、もしくは万代倉治店まで行かなければならないのは不便だ。

郡津駅改札は地下にあったが、バリアフリー化工事で枚方市行き・私市行き両側のホームに面して改札機が設置され、電車の乗り降りが便利になった。

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2014年12月、枚方市内の公民館で昔の香里団地の写真展があったように記憶しています。
なぜか大雨で浸水したときの写真ばかりですね。

かつて京田辺市大住にあった宿泊施設・中心山荘。

最寄り駅はJR学研都市線(片町線)の大住駅(徒歩)、バス停でいえば「松井ヶ丘」。
当時、片町線は長尾から先、非電化のローカル線で松井山手駅も開業しておらず、京阪沿線からほんのすぐのところにありながら、のどかな里山の中の旅館だった。とはいえ、大住ヶ丘・松井ヶ丘界隈は1970年代ごろから宅地開発も既に進んでいて、やがて片町線の全線電化、そして松井山手周辺に大規模な街開きの波が押し寄せる。

私も小学校の時、夏休みに家族連れで中心山荘に宿泊したことがある。
樟葉駅から旅館の無料送迎バスに乗った。路線バスなら京阪宇治交通(当時)の【16】・松井ヶ丘行きに乗ることになるが、私個人的には京阪宇治交通バスのほうが面白かった。京阪宇治交通(そして京阪バス)に冷房車が大量に投入される過渡期の頃だが、松井ヶ丘方面へのバスには未だ非冷房・バス窓の古い車両が使われていたように記憶している。ちなみに、中心山荘の送迎バスは富士重3Eの非冷房車だった。

中心山荘には温泉や川の流れる食事処のほか、テニスコートやプールなどのレクリエーション施設が充実していたが、小学生の私にとっては、枚方市からあまりに近すぎることもあって遠出したような気分になれなかったこともあって、物足りなさを感じた。翌日、午前中にチェックアウトが終わって送迎バスで樟葉駅へ、お昼ごろまでに家に帰り着いてしまった(笑)。

なお、送迎バスは樟葉駅のほか、長尾駅からも運行されていたようだ。最寄り駅は長尾の次の大住だが、長尾から先、非電化のため乗り換えないといけなかったし、列車本数も少なくてあまりに不便なので・・・。せっかくなので、近鉄新田辺駅からも送迎バスがあってもよさそうだったが(新田辺からは宇治交【65】・松井ヶ丘行きに乗車)・・・

中心山荘のことはその後、すっかり忘れていたが、2002年ごろに倒産したようだ。

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「京阪時刻表1982」に掲示されていた中心山荘のCM
5桁の市外局番と送迎バスがのどかな時代を表しているようだ




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建替え前のピーコック 「大丸ピーコック」だったのがイオングループの店に


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香里ヶ丘11番街(現・CONOBA)


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真夏のこもれび水路(旧・公設市場付近)

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さくら通り(香里ヶ丘5~6丁目) このあたりの住棟も全て取り壊された
現在、この界隈は病院・メディカル施設が整備されつつある

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TOP WORLD向かい側(旧・A地区)が更地だった頃
その後、民間のマンションが建てられる

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ピーコック通り商店街にあった三輪そうめんの店

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ABCセンター この付近は昔と大きく変わっていない
地階食料品スーパーは今月閉店するようだ

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紅葉輝く頃のけやき通り

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新香里バス停

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ピーコック商店街西側 奥は香里ヶ丘図書館
現在、ここは新しい商業施設CORIOと駐車場に変わった


2003~04年ごろに撮影した香里団地の点景写真をアップしてみました。
香里団地の建替えは1998年ごろより既に始まり、かなり景観が変わってしまいました。
2003~04年ごろといえば、建て替えで高層化した住宅と、1950~60年代の古い中層住宅がまだ共存していた頃です。それほど昔のことのようには思えないが、当時デジカメで撮影しまくってた写真を引っ張り出して整理すると、あれから街の様子が大きく変わったんだなということを痛感しますね。

※他の写真も随時追加アップします。




近鉄百貨店枚方店跡地にT-SITEがグランドオープンしたことを記念に、
2012年2月枚方近鉄閉店の模様の動画(作成 枚方つーしん様)を貼り付けてみました。

近鉄百貨店枚方店がオープンしたのは1975年。
当初、京都に本店を持つ「丸物」百貨店として営業するが、丸物グループが経営悪化で近鉄百貨店と救済合併することとなり、1977年以降「枚方近鉄百貨店」という商号に変わりました(本店の京都店は「京都近鉄百貨店」となる)。
なぜ、京阪電車の沿線なのに近鉄百貨店?、と思う方も多いと思いますが、枚方に近鉄百貨店が登場したのは上の事情ゆえのものです。鉄道の歴史に詳しい人には、京阪交野線の前身・信貴生駒電鉄(私市から先、生駒まで敷設して現在の近鉄生駒線と結ぶ計画だった)の名残のようにも思えるが、それとは全く無関係とのことです。

近鉄百貨店枚方店は1990年のビオルネ・オープン~1994年の京阪枚方市駅高架化完成の頃までは、4階のおもちゃ売り場、6階の旭屋書店とファミリー食堂もあってそれなりの賑わいを見せ、少年の頃の楽しい思い出でした。しかし、京阪枚方ステーションモール(京阪百貨店など)の開業後、長引く景気低迷も手伝って客足が伸び悩み、書店もレストランもいつの間にかなくなってしまい、晩年は閑散としていたように記憶しています。


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閉店直前の近鉄百貨店枚方店の建物

ミュージアムトレイン車内展示資料より。

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南口バスターミナル完成前だと思われる 

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南口改札口より 北口の「駅前デパート」が懐かしい

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南口バスおりば(三越前) 懐かしい日野RE121のバックが写っている! 
三越は2005年に閉店、三和銀行は現在三菱東京UFJ銀行となる
近鉄百貨店のシンボルマークにも注目(おそらく1979~80年代前半ごろだと思われる)

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