カテゴリ: 枚方・交野・寝屋川ネタ(懐古編)


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枚方市の桜の名所の一つ、牧野公園にて(1998年)。


京阪百貨店守口本店2008年新春催し物会場より。ドラえもんショップ「ドラや」に寄ってみました。

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旧声優時代(大山のぶ代ほか)のポスターも展示されていました
のび太格好いいですね

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ミニドラかわいいですね


(その1)
http://katanogawara.blog.jp/archives/43564454.html
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毎年秋のひらパー恒例博覧会だった「ひらかた大菊人形」。1910年京阪電鉄によってひらパー開園以来、100年近い歴史を誇る展示イベントだったが、近年の菊人形職人の高齢化と後継者不足、そして来園者の減少を理由に、2005年を最後に多くの人々に惜しまれながら幕を閉じました。

わが地元民として、その写真記録をとどめたく、最後の大菊人形に足を運びました。2005年のテーマは「義経」でした。

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(その3)
http://katanogawara.blog.jp/archives/43187705.html


14、部活はできれば「ゆるい運動系」に入る
高校の部活は、実質「帰宅部」でした(一応、何らかの部に入ってはみたものの、興味が持てなくて幽霊部員になっていた)。しかし、今振り返れば、運動は苦手であっても、ゆるいスポーツ系の部に入ってもよかったのではないか、と思うことがあります。上下関係のきついいわゆる体育会系、早朝・休日も休みなしの厳しい練習とか、ハードな野球・サッカー・ラグビーは自分に無理だけど、ソフトで緩い感じのテニス・バドミントン・卓球なら何とかやっていけるかもしれないと思っています。入部するからには、一生懸命練習に励む。これを通じて、人間関係を築き、友達あるいは彼女との出会いを見つける。自分で好きな部を立ち上げるとか、文化祭実行委員会をやる前に、運動系クラブで一般部員として練習に励む経験を積むのも悪くないと思いました。辞めたくなったら、無理に続ける必要はないが、我慢できるなら最後まで続けたいですね。

15、表現力を伸ばすための勉強
http://katanogawara.blog.jp/archives/43071803.html
にもまとめた通りです。言葉(母国語)に興味関心を持つことが第一。わからない言葉に出会えば辞書を引く。暇を見つけては読書すること(→両親や祖父母、学校の先生からよく説教されました)。人を思いやり、聞き上手になる。不平不満・罵詈雑言や人の悪口を慎む(ほどほどにする)。人付き合いを通じて、意思疎通の練習を重ねる。ほか、やることはいっぱいあります。

16、健康・体力増強のためにできること
自転車で長距離限界移動というのも一つの方法ですが、果たしてその体力がいつまで持つかは難しいところ。実際、20歳を迎えた途端、急激に体力が低下したように感じます。

自転車旅行はむしろ、近場中心にきめ細かく周回することに重点を置き(所要時間は3~4時間程度がちょうどよいでしょう)、地元と周辺の史跡・見どころ・パワースポットとか美味しいお店を探して地域に対する興味関心を高める、また鉄道・バスの撮影といった楽しみも兼ねたら良かったと思います。長距離遠征の場合も、小回りの利く自転車ならではの機能を生かし、鉄道や自動車での訪問が困難なスポットを巡るようにしたいところ。極端な限界移動ばかりにこだわって消耗、ということだけは避けたいですね。「長距離移動=成功」という発想を根本から転換すべきでした。

そして前項でも書いたように、部活に入って日常的に何かスポーツする(そして体育の授業も一生懸命取り組む)。運動する時間も仲間もないなら、まず「歩く」こと。


(その2)
http://katanogawara.blog.jp/archives/42938750.html


11、家族と出かけるなどの誘いには、なるべく積極的に乗る
育ち盛りの年頃になれば、家族・親戚と出かけるよりも、他人である友達や彼女彼氏と、あるいは一人で行動したい、と思うようになるのは、普通でしょう。自分も小学校の頃までは、枚方三越・近鉄百貨店・イズミヤ、香里園のダイエー、あるいは電車で京都・大阪まで、両親あるいは親戚に連れて行ってもらうことが楽しみでした。

しかし中学以降、家族と出かける毎に、よく一人で行動したいと反抗し、駄々をこねるように。今から思えば、家族揃って買い物・レジャー・外食・映画・観劇を楽しめるのは、なかなか貴重な機会。親が元気で兄弟姉妹みんな揃っているうちに、もっと楽しんでおけばよかったと後悔しています。

それから、祖父母の家に泊めてもらうとき、翌日自分だけ単独で遠出よりも、家族・親戚一同でわちゃわちゃ楽しむほうが良さそうです。せっかく親戚の家に大勢揃うのは、そう滅多にあることではないでしょう。「人付き合いが悪い」と言われない程度に、社交に加わる練習はしておいて損はないでしょう。

12、小遣い帳を付け、ワンコイン貯金に挑戦する
小遣い帳は、手持ちの残高と合うかどうかつき合わせる「正確さ」よりも、一定期間(毎月)の概ねの使い道を把握し、計画的にやりくりする「手段」として使うことにこそ意味があると思います。PC・スマホが普及していなかった昭和~平成初期当時、手書き・筆算で帳面につけていましたが、書き漏れや、「実際の残高」と合わないということもしばしば起きやすく、面倒くさくなって続かなかったです。

書き忘れや計算が合わないときは適当に処理しておけばよい。大切なのは一定期間を通しての収支流れおよび残高現状を書面化し、今後の運用計画を立てるために活用することでしょう(どうも、小遣い帳を記帳することが自己目的化していたようです)。小遣いをもっと計画的にやりくりし、定期的に貯金する習慣がついていれば、スポーツ用自転車やバイクを買う、友達と遠征旅行する、彼女とデートが楽しめるなど、早く経済的自由を確立していたことでしょう。

もし、高校でバイトが許可されていれば、学業に支障がない程度に、社会勉強も兼ねてバイトをやるほうが良いかもしれません。

13、実のところ「ぼっち」のほうがいい
何だかんだ言いつつも、自分は「ぼっち」のほうが良かったですね。「ぼっち」が好きなのは、今思えば、別に恥ずかしいことではありません。どうも「友達が多いほど勝ち組だ」という、世間の呪縛にかかっていたようです。「友達がなかなかできない」と嘆き散らしてたのも、やはりその呪縛にとらわれていたのも理由のようです。

実のところ、「仲間や集団とつるむ・群れる」ということは苦手。自分の周りでも、表面上はともかく、本音でそう思っている人は案外多いかもしれません。「友達ができる」=「仲間に入れてもらう」という発想にとらわれていたようです。無理に仲間に入れてもらったとして、「面倒見てあげてる」という上から目線の恩着せがましさを感じてばつの悪さは拭えず、長続きは難しそうです。人とのつながり方は、別にそれだけではないでしょう。

しかし、表面だけの付き合い、いわゆる社交も、悪くないでしょう。うまく交わしながら、単なる従属・隷属関係ではなく、ほどよい距離感を保つ、という社交術を身に付けるのも、一つの勉強。そこから、もっと親しく、深みのあるつながりを築いていける可能性だってあるし(→最初からそれを高望みしないほうが無難かもしれない)、嫌だったらそれっきりで構いません。誘いを断るなら、誘ってくれた人へお礼の一言を添えて、角が立たないようにうまく断りたいですね。

「友達が欲しい」と思うのなら、自分から変わるよう努力すること。


自分の中学・高校(そして大学)時代を振り返って、もっと努力すれば良かったと思っていること。その一つは、「表現力をアップするための勉強をすること」

正直、自分自身の表現力・コミュニケーション力は高いほうとは言えません。今から思えば、10~20代の高校・学生時代はもっと滅茶苦茶でした。

当時、もし今のようにインターネット・モバイル・SNSが発達していたら、自分でブログやホームページを作る、デジカメで写真を撮ることなどを通じて、文章力その他表現力を少しずつアップする機会に恵まれていたかもしれません。昭和~平成初期の当時、ネット媒体の代わりとなるものといえば、日記や同人誌ぐらいでしょうか・・・。写真を撮ることだって、フィルム代が高くて、残念ながら撮り直しとかそう気軽にできることではなかったですね。

ネットが発達していなかった当時の環境のもとでできること、今からでも心がけたいことを思いつくままにあげてみました。まずは、「表現力を高めたい」というモチベーションが必要でしょう。それを前提として、

1)日記を書く
2)言葉(特に日本語)にもっと興味を持つ、わからない言葉は辞書で調べる
3)プラス思考を持つ
4)他人を思いやること、相手を傷つけないようにする、ものを大切にする
5)地元のことや郷土史に興味関心を持つ
6)漫画を読み、読書好きになるきっかけをつかむ


今から思えば実に恥ずかしい笑い話ですが、雨の多い天候不順やら風邪で寝込むやら、そして家族や親戚の余計な心配の一言に引っ張られ、自転車旅行の計画がままならない、夏休みがろくに楽しめなかった欲求不満の腹いせから、教室の黒板に意味不明なことを落書きしまくる騒動をやらかしたことがありました。もちろんこれでプラスになることは何一つなく、担任の教師から事情聴取を食らい、自分の表現力の乏しさをさらけ出すだけでしたね(苦笑)。落書きするんだったら、好きな絵やアニメ・漫画キャラクターを描く、有名な詩や和歌、名言・ことわざを「写経」すれば、尊敬の眼差しが向けられていたかもしれません。

夏休みの過ごし方も、自転車旅行も、地元の美味しいお店や史跡名所、映画のロケ地などに興味関心を持って巡る、ほか自分の工夫とアイデア次第で2倍3倍楽しくすることもできたはずです。表現力を高めるべく日々精進して豊かなものになれば、人付き合いも人並み程度には何とかこなせるようになり、趣味の楽しみだってもっと広がったでしょう。日本語の表現力が強くなれば、英会話だってもっと楽しく充実できるはず。地元の郷土史に興味を持つことは、歴史(日本史)や古文の勉強が3倍楽しくなるきっかけにもなりうるでしょう。

周囲の人間関係・環境や社会の不平不満をただ嘆くだけ、「悲劇のヒーロー」と言わんばかりに自分の「不幸自慢」を語るだけでは、何も良くなりません。プラス思考の言動を心がけ、自ら変わるためにとにかく行動することです。

自転車旅行について家族(両親)の理解と納得を得たいなら、自分の健康管理をしっかりやる、貯金(旅費ほか)をためる、自分で弁当を手作りして持っていく、歴史や文学に興味を持ち教養を高める、非常時の対策を練る、気候の快適冷涼な時季を選んで計画を実行する、ほかを実践することでしょう。

友だちを作りたいなら、自分から話しかける、部活やバイトをやる、身の周りの困っている人に手を差し伸べる、部活や文化祭で自分の役割を全うし信頼関係を築く、不平不満や人の悪口を言わない、聞き上手になる、など。自分の趣味・価値観を絶対化せず、多様な考え・価値観を受け入れ、尊重する(だからとって、趣味や好きな音楽を、自分の意思を捻じ曲げて周りに合わせる、ということまではしなくてよいでしょう。自分の知らないジャンルの音楽とか、内容をろくに理解もせずに表面だけ取り繕って無理しても、却ってダサく見えて、馬鹿にされるだけでしょう)。学年(年度)が変わってクラスが新しくなるのを待たずとも、できることは多いはずです。


高校 社会科が3倍楽しくなる方法
https://amanogalaxy.livedoor.blog/archives/22108330.html


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枚方市立山之上幼稚園の写真を発掘しました。所在地は枚方市山之上1丁目。

山之上幼稚園は廃園になり、跡地は戸建て住宅地となっているようです。


(その1)
http://katanogawara.blog.jp/archives/42917541.html

7、学業(勉強)面では、「英単語を覚える」を最優先
中学・高校を通して英語は得意科目の一つでした。ただ、高1・3学期の実力テストでは英語の点数が急落でショックを受け、焦りまくることに。それがゆえに、数学・国語その他の科目まで(受験)勉強路線を誤ったり手を抜いてしまい、大学受験は正直苦戦気味でした(勉強も部活も学校行事も遊びも何もかも、結局中途半端に)。大学受験英語を制するには、高校入学が決まった瞬間から、毎日短時間でも英単語をひたすら覚えまくるほうが良いようです(もちろん、英語の語感・発音を身につけるためにも、日ごろの授業でリーディングと文法を真面目に覚えることが第一)。単語力が弱ければ、それだけ長文読解・英作文で苦しむことになりますね。

8、雨・天候不順や体調不良で計画がままならないとき
雨の多い天候不順やら風邪で寝込んだりで、自転車旅行の計画がままならないと、腐ってしまうこともしばしばでした。しかし、現実は自分の思うように物事が進まないのは、むしろ普通でしょう(社会人になればなおさら)。気候の快適な時季に延期かつ理想的なプランを実行する、他の楽しみを見つける(料理、部活、鉄道・バスに乗り回る、可能ならバイトする、ほか)。風邪や体調不良のときは、基本的に学校・仕事を休み、しっかり療養する。「皆勤賞狙い」に固執するのも、他の人に感染を広げるなど迷惑になりそうで、良いのか悪いのか、難しいところ。

9、体育は「苦手なりに一生懸命やる」こと
自分は体育が苦手で、授業態度が今ひとつ不真面目で体育の先生を怒らせたこともありました。また、夏休み前には数学の発展コースを受講予定だったところ、体育(水泳)の補習が入ってしまったために、やむなくキャンセルする羽目に。そもそも体育をはじめ、いわゆる「副教科」の成績など、大学入試への直接の影響は大きくないでしょう(もちろんスポーツや健康科学を専門とする学部などは別。なお、推薦入試を狙う、あるいは高卒で就職の場合、影響は小さくないかもしれません)。ただ、先生を怒らせてしまったことには今でも心残りがあります。ここは「苦手なりに一生懸命授業を受ける」ことで誠実さを見せる、授業の準備・後片付けの手伝いを買って出ること、などを通じて印象アップを図るのが何よりだと思います。そうすれば女子にモテるようにもなるかもしれません。小学校のとき、運動会(組み立て体操)の練習がいやで、半ば仮病使って早退したことを後ろめたく思うのなら、(皆勤賞にこだわるよりも)日ごろの体育の授業を一生懸命やるほうが、自然で感じ良さそうですね。

10、社会科の自由研究:枚方市の戦争遺跡めぐり、行基ゆかりの北河内寺院めぐり、
  大陸文化と関係のある枚方史跡めぐり、
東大寺大仏建立と都の変遷をめぐる旅、ほか
上の研究テーマと兼ねて自転車でもバスでも乗り回って3倍楽しむ方法もありました。枚方市内においても、百済寺跡、伝王仁墓、樟葉宮跡、禁野火薬庫跡と中宮平和ロード、香里製造所跡ほか、「日本史」あるいは「現代社会」の研究テーマとして価値の高い材料が豊富に存在します。地元の郷土史にもっと関心を持てばよかったと思います。


不幸に陥る人は、自分のことだけを考えている(アドラー)
https://amanogalaxy.livedoor.blog/archives/21910538.html





大体、次に挙げる通りですね。

1、(自転車旅行1)門真・守口・大阪市内方面
2、(自転車旅行2)南山城・宇治・京都市内・大津方面
3、(自転車旅行3)冷涼な秋・冬のほうが快適に行動しやすい / 手づくり弁当を持参する 
4、祖父母(親戚)の家に泊めてもらうとき
5、文化祭は裏方中心に働く形で参加
6、京阪バス・京阪宇治交通をいっぱい乗り回る
7、学業(勉強)面では、「英単語を覚える」を最優先
8、雨・天候不順や体調不良で計画がままならないとき
9、社会科の自由研究:枚方市の戦争遺跡めぐり、行基ゆかりの北河内寺院めぐり、
  東大寺大仏建立と都の変遷をめぐる旅、ほか



1、(自転車旅行1)門真・守口・大阪市内方面
高槻~亀岡~能勢ルートをはじめ北摂・丹波の山道を攻略し、さらに丹後半島遠征の野心をもって距離を延ばすのも良いが、平坦な地形で都会的なエリアを細やかに回るのも楽しいのでは、と思いました。枚方・交野から比較的行きやすいエリアの一つに、まず門真・守口・大阪市内方面が挙げられます。鶴見緑地、城北公園、赤川鉄橋、千林商店街、京橋、桜ノ宮、大阪天満宮、大阪城公園、天満橋ほか、京阪電車に近いエリアをカバーするのは、時間的・体力的に比較的容易でしょう。

2、(自転車旅行2)南山城・宇治・京都市内・大津方面
1と正反対の京都府・滋賀県エリアでは、南山城・宇治・京都市内(主に伏見・東山・山科)および大津方面を優先的に回るべきでしたね。上津屋の流れ橋(八幡市)、一休寺(京田辺市)、宇治川ライン、三室戸寺(宇治市)、和束町の茶畑、伏見の酒蔵めぐり、大手筋商店街、祇園・円山公園・知恩院、平安神宮・岡崎エリア、琵琶湖疏水、三井寺・石山寺・近江神宮・坂本(大津市)・・・。この機会に、廃止の決まった京阪京津線併用区間(三条-御陵間)の撮影もしておくべきでした。

3、(自転車旅行3)冷涼な秋・冬のほうが快適に行動しやすい / 手づくり弁当を持参する
真夏の蒸し暑い炎天下での長距離遠征は正直無茶でした(「愚かしい自慰的行為」だと揶揄されそうでもある)。気候の冷涼な秋・冬のほうが快適活発に動きやすいです。これをもっと早く学習すべきでした。それから、時々自分で弁当を作って持って行ってもよかった(→要は家事を覚えて自立しようとがんばっている姿を親・家族に見せること。そうすると、周りの理解を得やすくなり、手を差し伸べてくれただろう)。

4、祖父母(親戚)の家に泊めてもらうとき
自らお手伝いを買って出るようにしたいです。買い物・料理づくり・後片付け・掃除、そして祖父と将棋対戦するなど、できることいっぱいあるはずです。家族(特に兄弟姉妹、従兄弟)揃って泊まるとき、皆と一緒に楽しむほうがよいでしょう。翌日、自分だけ自転車旅行とか別行動で遠出しようということでは、祖父母は寂しがる(もしかしたら怒るかも)でしょう。もちろん行動の頻度や内容・程度にもよるし、家族・親類だからといって何でも無理に合わせる義理はないが、単に泊めてもらってるだけの空気な人間、付き合いが悪いなどと陰口をたたかれないよう、考えて立ち回りたいところ。祖父母の家が居心地良くないと思うのなら、「泊まりに行かない」選択肢を取ることだってできます。

5、文化祭は裏方中心に働く形で参加
「文化祭の積極的参加」は、何も実行委員会に入ること、劇でメジャーな役を演じるなど、目立つポジションに就くことだけではありません。テーマ決定は他の人に任せ(ただし、投票権は積極的に行使しよう)、材料収集、小道具づくり、会場・ステージ設営、脇役を演じる、たこ焼き・焼きそばを焼く、掃除・後片付けという地味な役割を買って出るという参加方法もあります。要は、縁の下の力持ち。地味ながらとても重要な役割を担っていることに、自信と誇りを持つべきですね。テーマ・内容はさほど重要ではなく、最後までやり遂げ、信頼を築くことが大切。それを通じて友だち・仲間も自然に得られるでしょう。

6、京阪バス・京阪宇治交通をいっぱい乗り回る
以下の路線にぜひ乗っておくべきでした。

【12】(枚方市駅~穂谷・天王~新田辺)
【22】快速(枚方市駅~藤阪ハイツ)
【16】(枚方市駅~寝屋川市駅)
吹田八尾線(吹田~八戸ノ里)
【1】(寝屋川市駅~京阪京橋)
【13】(寝屋川市駅~古川橋駅)
【18】(京阪交野市駅~大和田駅)
【17】(樟葉駅~宇治)
向島~宇治、桃山~宇治、宇治~石山、京都奈良線ほか


高校 社会科の授業のこと
http://katanogawara.blog.jp/archives/cat_402554.html
について、その後の自分の興味関心とつながる話を思い出しました。

それは、「日本史」の授業でのこと。実は奈良時代(8世紀)に日本の都(首都)が何度も転々としていた、と初めて知ったのは、確か高2の日本史の授業だったと記憶しています。当時は授業を聞いて頭の片隅にインプットするだけだったが、後年あることをきっかけに、このあたりのことに興味を持ち、少し詳しく噛り付いた時期もありました。

奈良時代の都といえば、平城京。現在の奈良市に平城京が置かれたのは710年(和銅3年)。同じ大和国の藤原京(奈良県橿原市・明日香村近辺)からの遷都でした。平城京は唐の都・長安を模倣して建造されたものと言われています。現在残っている平城宮跡公園には、近鉄奈良線が平面上をぶった切っており、ユニークな撮り鉄スポットにもなっていますね。

平城京から平安京に遷都されるまでの84年間、一貫して奈良が都だったわけではありません。聖武天皇の天平年間、疫病や飢饉が度重なる社会不安に襲われ、藤原広嗣の乱(740年)などを引き金に、災いから脱却すべく平城京を捨てて恭仁京(京都府木津川市加茂町)→難波宮(大阪市)→紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽町)と短期間で目まぐるしく遷都が進められるも、最終的にはもとの平城京に復帰、東大寺の大仏開眼(752年)へと落ち着く激動の時代でした。

高2の夏休みの自由研究課題で、自転車に乗って東大寺の大仏を見学に行きました。特に深い理由があったわけでもなく、小学校の遠足で訪れて以来の単純なリピートだったが、上述の遷都史に結び付けて調べることができてたら、もっと魅力的なレポートが書けたかもしれません。大仏は国家安寧を求めて、もともと紫香楽宮にて鋳造着手されたが、紫香楽宮の廃都で頓挫し、奈良・東大寺が引き継いで完成されたものですね。

国鉄・JRバス近城線は、奈良(平城京)~加茂(恭仁京)~信楽(紫香楽宮)を結んでいた路線バスで、天平年間の社会不安の時代に思いを馳せながら旅するのも一興だったでしょう。

平安京建造(794年)の10年前、桓武天皇の勅命で長岡京という都が山城国乙訓郡(現在の京都府長岡京市・向日市)に造営されたということも、日本史の授業で初めて知ったものと思います。


私の高校時代の社会科の授業について、なるべく具に思いつくまま書いてみました。

まず高1では、「現代社会」という科目1つを学びました。この先生の授業はとてもユニークで、(検定)教科書はほとんど使わず、先生自作のプリントを使うものでした。

核兵器の原理と仕組みのこと(ここはまるで理科の授業な感じだったな)から、広島・長崎原爆投下の詳しい経緯、ポツダム宣言~現・日本国憲法が制定・施行されるまでの歴史過程、自民党の怖い自主憲法案(天皇元首制、基本的人権の制限など)の話、そして弁論大会の場まで設けられたと記憶しています。詳しいことはもはや忘れてしまったが、「平和と憲法」というテーマで一貫した授業だったように思います。

定期テストの形式も、「暗記だけで何とかなる」一般的なスタイルとかなり異なり、論述式の問題も相当多かったと記憶(→これも授業のノートをしっかり取っているかどうかがカギだったようですね)。受験勉強の範囲だけではそう教わることもないだろう(いや、本当はわれわれもっと知るべきだろう)授業で、もっと熱心に授業を聴くべきだったと今更ながら反省しています。

せっかくなので、ローカルネタとして枚方市の戦争遺跡(禁野火薬庫、香里製造所)と平和施策についても、授業で少し触れていただければ、なお良かったでしょう。

* * * *

高2・3では「日本史」「世界史」の2本立てでした。「日本史」では、最初のころ、日本の旧国名を覚える小テストがあったと記憶。鉄道・旅行好きの人にはおそらく楽勝でしょう。自分も身近な近畿(畿内)周辺は完璧だったが、九州や東日本になると今ひとつあやふやだったように思います。高2では原始時代~古代・中世史あたりまで、高3では幕末~近代以降(第2次世界大戦終戦まで?)を教わりました。

しかし、高校の日本史・世界史は、とにかく暗記する量がものすごく多いですね。先生の話は聴いて面白いんだけど、定期テストの点数はイマイチで、大学入試(センター試験)でも正直やや苦戦気味でした。(受験の)社会科で比較的ラクなのは、「倫理」「政治経済」「現代社会」のようですね。残念ながら、自分の高校では「倫理」はなかったと思うが。

大学の人文・社会科学系科目(哲学・心理学・教育学・社会学・経済学・政治学・法学ほか)を制することができるかは、どうも高校の「倫理」「政治経済」あたりの基礎知識が前提になっているように思います。今私が大学生だったら、高校の倫理・政治経済の教科書を参考書代わりに使って、電車の中などで予備知識を身につけるための勉強をするでしょう。それから、人文社会系科目の試験は基本的に論述式またはレポートなので、日ごろから論理的で読みやすい文章を書くように心がけ、練習を積み重ねることも必要でしょう(これも関連する基礎知識が足りないと、対応は難しいようです)。


25年以上昔の話ですが、私市から穂谷まで一人ハイキングをした日のことを、ふと思い出しました。

小・中学校の頃、家族や学校の遠足(健足会)などで私市(府民の森、植物園、くろんど池)へ行くことも多かったが、高校以降は足が遠ざかり気味でした。 しかし、20代のある晩秋の休日、思い立って久しぶりに私市へ行くことにしました。

さっそく、京阪交野線に終点・私市(交野市)まで乗車。私市駅から、府民の森・ハイキングコースを久しぶりに歩きます。月の輪滝やすいれん池を経て、くろんど池(生駒市)に。かつて通い慣れた道を体が覚えていたせいか、さほど疲れはせず、快調でした。

くろんど池からどうしようか、少し迷いました。このまま単純に引き返すだけでは面白くないということで、思い切って穂谷(枚方市)まで歩いてみることに。奈良方面から国道307号線・枚方方面への抜け道として重宝されるルートをそのまま辿りました。途中、畜産団地や枚方市野外活動センターなどがあり、小学校の社会科見学・キャンプのときに訪れました。穂谷までのコースも意外に疲れはせず、1時間以内の所要時間だったと思います。

穂谷から京阪バス・枚方市駅行きに乗車。当時、穂谷からは京阪交野市駅行きのバスもありました。


小学校の頃のクリスマスの思い出について、書き出してみました。

自分がもらって一番うれしかったクリスマスプレゼントは、「ゲームウォッチ」だったと思います。小3のときでした。ゲームの名前はパ○○○マンで、結構ハマりました。その数年後、家でファミコンを買ってもらえたら、もっと嬉しかったのですが・・・。

小4のクリスマスのときに初めて腕時計を買ってもらい、少し大人になった気分でした。ゲーム機能などもなく、いたってシンプルなものだったと記憶しています。この腕時計の件について、痛い思い出があります。およそ1年経って小5の正月のとき、実に情けないことにどこかに落としてしまったのです。もちろん親に怒られましたけどね。今更ながら、自分の不注意を深く反省しています。

クリスマスプレゼントを買いに、くずはモールに連れて行ってもらったこともありました。あこがれの鉄道模型(Nゲージ)売場を物色したが(当時、イズミヤと同じ南側の館内にあった)、「高嶺の花」で買ってもらえずでした。結局松坂屋でトランシーバーで買ってもらったものと記憶しています。

以前にも別の記事で書いたが、当時よく祖父母にレゴやプラレールをねだっていました。クリスマスや誕生日の時だけだったらまだしも、ほぼ毎月のペースで「買って買って」とせがんだこともあり、今から思えば恥ずかしいです。これが後々にまで響いて、何かしら「弱み」を握られてしまったようでもあります。

クリスマス・誕生日以外で今どうしても買ってもらいたいのなら、「問題をやらかしたら買ってもらわない」という減点主義の約束ではなく(正直屈辱的でさえあった)、お手伝いをする、勉強がんばってテストで良い点数を取ったら、という建設的な約束を交わせばよかった、と反省しています。


小中学校の家庭科の授業についての思い出を書いてみました。

「家庭科」という授業は小5で初めて履修することになっています。裁縫・料理などが学べるということでワクワク感いっぱいでした。家庭科といえば、調理実習が印象に残る思い出だという人は多いでしょう。 

最初の調理実習は、簡単な野菜サラダだったと記憶。そのすぐ後、カレー作りという本格的な料理を経験することになります。夏休み前のキャンプの予行演習も兼ねていたようです。キャンプの自炊(飯盒炊さん)では、夕食はカレー、翌日の朝食はご飯・味噌汁でした。

夏休みの自由研究ではいろんな料理づくりに挑戦。カレー、野菜サラダ、ポテトサラダ、サンドイッチ、味噌汁、わらび餅、ゼリーなどを作ったと記憶しています。母にいろいろ助けてもらいました。

2学期の12月にホットケーキを作った日は、とても楽しみだったのに、残念ながら風邪で休みました。

中学校になると、「技術家庭」という科目名に変わり、当時2年以降は男女別々の授業でした。唯一1年のときだけ男女共同で調理実習がありました。特徴的だったのは、なぜか手打ちうどんを作ったことですね。中2~3のとき、「技術」で金属加工、機械の仕組みとピストン模型製作、電子回路(ラジオ組み立て)などを学びました。

高校では、男子は家庭科を選択できず、その分を体育で補ったものと思います。

せっかく小学校時代は自由研究で料理づくりに意欲的だった自分なのに、中学以降家で料理作りに消極的になってしまったのは、とても残念で勿体無い話だと思っています。もちろん、「男は料理するものじゃない」という、父親や世間の古い考えに屈してしまったことも大きいでしょう。それは仕方ないにせよ、「受験勉強で忙しい」などと言い訳していた自分の姿を今思うと、実に恥ずかしいです。

大学生になったとき、学食は正直「ハズレ」でした。こんなとき、自分で弁当作るなどの工夫をして有意義に過ごせば、いい人に出会えて自分の人生ももっと変わったのでは、と後悔しています。学食についての不満を言うと、下宿生の一友人から「贅沢な悩み」だと一蹴されましたね(苦笑)。

あと、欲を言えば、おやつも手作りして学校に持って行けば良かった。ホットケーキミックスさえあれば、カップケーキ、蒸しケーキ、どら焼き、きんつばとかいろんなものが簡単に作れそうですね。小腹が空いてコンビニでパンを買ってしまい小遣いがすぐ消えてしまう、と嘆くばかりの自分がこれまた情けないです。


子どもの頃に買ってもらったおもちゃなどについて、思いつくままに書いてみました。

以前から、枚方近鉄百貨店や三越などの思い出を時々書き綴ってきました。 ここでは、子どもの頃にどんなものを買ってもらったのか、欲しがっていたのかを挙げてみたいと思います。

まず、小学校の時、よく祖父母にねだってレゴブロックを買ってもらいましたね。一時期、友達(仲間)と競い合うように、事あるごとに「街シリーズ」の製品を無理して買ってもらったりしていました。

ただ、私自身、他の友達に比べて持っているものは少なく、高額な製品を買ってもらう機会が少なかったのは、遺憾でもあります。時にそのことを不満に思うこともあるが、これも自分自身の不徳によるものだと反省しています。

実際、「レゴを買うための約束」の念書みたいなものを、祖母に書かされたことさえありました(苦笑)。誕生日やクリスマスの特別な時に買ってもらうのならまだしも、ほぼ毎月のペースでねだるようでは、さすがに呆れられるでしょう。どうも、「買ってもらう」ことが自己目的化してしまっていたようです。

今から思えば、小さくとも、もっと自分で工夫して楽しみ、豊かな世界を広げることはできなかったものか? 幸いレゴブロックは、プラモデルや他のおもちゃとちがって、「部品が壊れたらダメになる」ようなものではなく、失敗しても何度でも組み立て直せばよいし、自分の好きなようにピースをはめるだけで、しかも工具や接着剤などを使わずに、面白い作品が作れるはず。これこそ、レゴブロックの醍醐味でしょう。ジオラマのごとく部屋中に広げるだけでなく、鑑賞用に作品を部屋の片隅に飾る、ペンケースやティッシュボックス、プランターなど実用的な収容小道具を作る、ということだってできます。

祖父母にねだるのなら、誕生日やクリスマスの時だけにして、その代わり大きいものを買ってもらう、というふうにすれば、お互いwin-winだっただろうと思っています。あるいは、自分だけ楽しむものはさておいて、兄弟姉妹そして家族全員が楽しめる(コンピューター、TVでない)ゲームセットなどを買ってもらうと、皆大喜びだったでしょう。

それから、親と同伴でくずはモール(当時は「モール街」という名前だったらしい)の鉄道模型の店に入ったことを思い出しました。 当然高嶺の花で買ってもらえず、残念でしたが。

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1978年ごろのことについて、京阪沿線関係を中心に思いつくままに書いてみました。

1978年の一つの大きなニュースといえば、京都市電の廃止でしょう。京都市電の廃止は1970年ごろから徐々に進み、1978年9月に全廃。市電と京阪との平面交差地点が複数(伏見稲荷、七条、四条、東山三条)存在しました。 最後まで残ったのは京津線の東山三条。

京阪の架線電圧1500V化が遅れたのも、京都市電との平面交差が残っていたことが一つの理由でした。京阪線(本線・交野線・宇治線)の1500V化工事が進んでいた頃(1983年完成)で、昇圧に対応して、古い車体を流用改造した新しい冷房車1000系(旧700系)や2600系(旧2000系)が相次いでデビュー。どちらかといえば、旧型車600・1300・1700系(昇圧時に廃車)のほうが好きでした。

京都市内(東福寺ー三条ー出町柳)地下線工事や枚方市駅高架化工事も開始した頃でしたね。2年後の1980年には守口市-寝屋川信号所間の高架複々線化が完成し、私鉄最長(当時)の複々線区間(天満橋-寝屋川信号所間12km)を擁することに。昼間の「区間急行」(淀屋橋-枚方市)も、1980年(守口市以東の高架複々線完成に伴うダイヤ改正)以降は「準急」に変わり、「区間急行」は朝夕のみになりました。

京津線(三条-浜大津間)に初めて乗ったのも1978年のことだったと思います。同じ「京阪電車」なのに、路面電車(併用軌道)であるのが不思議でした。さらに京阪唯一の山岳トンネル(逢坂山トンネル)があったり、そして琵琶湖に面する浜大津(港)の景色も新鮮でした。大津線(京津線、石山坂本線)は当時、260形や350形など釣り掛け車のたまり場でした。京津線には当時、石山寺直通の「準急」のほか、「急行」もあったようです。

バス関係では、京阪バス・京阪宇治交通に冷房車が登場(京阪バスは前年1977年から、一般Aタイプ車にも試験的に冷房車を導入)。京阪宇治交通については、冷房と同時に前面方向幕大型化され、ローカルな雰囲気から都会的なバスへの飛躍を感じました。その後、京阪宇治交通の本社を枚方市樟葉に移転、そして創立60周年を記念して、1983年より車体塗装も一新されました。

国鉄については、1978年10月に全国ダイヤ大改正を実施。この改正の目玉といえば、紀勢本線和歌山-新宮間電化と381系【くろしお】デビューでしょう。特急列車のヘッドマークが絵入りになったのもこの改正からのようです。地元ネタ的には、翌年1979年片町線四条畷-長尾間の複線化と東寝屋川(→寝屋川公園)・藤阪両駅の開業でしょう。片町線は阪和線とともに1977年まで旧型国電の巣窟でした。

枚方市駅前の丸物百貨店(1975年開業)は、気がついたら近鉄百貨店に変わってて、びっくりでした。京阪沿線に近鉄百貨店があるのも少し奇妙な感じだったが、2012年に閉店。近鉄百貨店といえば、6階書店・ファミリー食堂と4階玩具売り場の印象が強いです。駅前には三越(2005年閉店)もあり、5階大食堂(枚方大橋方面の眺望が魅力だった)、屋上遊園地、そして1階入口のマクドナルドが印象に残っています。

寝屋川市にグリーンシティ(ジャスコ→イオン)がオープンしたのも1978年。香里園のダイエーとともに、時々車で連れて行ってもらった思い出があります。グリーシティでは地階の釜飯屋さん、玩具の「ニシダヤ」などが自分の記憶に残っています。ダイエーではミスドやドムドム、1階入口のスナックコーナーでよくお昼・おやつを買ってもらいましたね。グリーンシティもダイエーも全て消えてしまいました。

1978年前後の文化・エンターテイメントといえば、インベーダーゲームやルービックキューブなどが流行っていたようですね。ゲームウォッチも登場した頃だと思います。アニメは、1979年に朝日テレビで『ドラえもん』が放映開始、現在まで続く長寿番組を誇っています。


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かつて、大阪府枚方市に本社を構えるバス会社が存在しました。

それは、京阪宇治交通株式会社。

京阪宇治交通は宇治田原自動車商会として、京都府宇治田原町にて1922年創業。その後、宇治田原自動車株式会社を経て、京阪グループの傘下に入り京阪宇治交通株式会社に社名変更、宇治市に本社と営業所を構えることになります。

京阪宇治交通は宇治・城陽・久御山・宇治田原エリアを拠点とする路線バス事業を展開してきました。1970年以降、枚方市くずは地区&八幡市の大規模住宅地・団地開発に伴い、くずは・八幡・京田辺地区への進出を果たし、八幡市内に男山営業所を開設。従来の観光輸送中心から団地輸送を基幹とする都市型バス事業者への変貌を遂げます。

そして、京阪宇治交通創業60周年を目前に控え、本社を枚方市くずは地区に移転(1980年)。既にくずは・男山地区が京阪宇治交通の輸送主力エリアになっていた事情を反映したものと言えます。わが地元民として、枚方市にバス事業者の本社があることを誇らしげに思っていました。

京阪宇治交通は1990年代以降、グループ子会社新設と再編を経て、本体そのものは京阪バスに吸収合併(2006年)。男山・京田辺営業所※1)は京阪バスに移管されました。「京阪宇治交通」という社名は消滅しましたが、子会社の「京阪宇治バス」※2)が京阪宇治交通の存続会社となり、現在京都京阪バスがそれを継承しています。

ちなみに、京都京阪バスの本社・営業所は八幡市上奈良にあります(宇治営業所は閉鎖)。


※1)1989年田辺営業所を京田辺市(当時田辺町)草内にて開設。京阪バスへの移管後、2008年に同市茂ヶ谷への移転と合わせ、「京田辺営業所」に名称変更。

※2)「京阪宇治バス」の前身は「京阪宇治交サービス」。宇治営業所は京阪宇治バスが管轄していた。


高架前の京阪枚方市駅構内のピンポイント写真を並べてみました(スナップ写真からの編集・加工です)。

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旧・駅名標とごみ箱 1977年ごろ

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枚方市始発の2200系準急 

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更新工事前の2200系準急
背後の近鉄百貨店も懐かしい

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停車中の準急車内より(1983年ごろ)
扉越しに見える行先案内表示機も行灯式?

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2200系普通・淀屋橋行き(1981年)

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1000系急行・三条行き(1986年)
三越もなくなった

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(おまけ)交野線の1300系
 




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かつて交野市倉治に本社のあった昆布の黄金屋。

昆布・佃煮などの製造販売を手がけ、交野・枚方をはじめ、関西エリアの百貨店にも店舗を構えていました。地元民として誇れる老舗だったのに、いつの間にか消えてしまったようで残念に思います。

画像は樟葉にあった店舗。何気なく撮ってみた街角スナップの1枚ですが、これも貴重な記録でしょう。


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枚方市駅北口にある「TAKE2」という商業ビルが解体されるようです。2021年9月20日完全閉館したとのことです。

このビルには、昔長崎屋が入っていました。長崎屋は2002年ごろに閉店。長崎屋は三越・近鉄百貨店・ビオルネに比べてあまり冴えない印象だったが、時々ここで衣類やカバンを買ったことがあります。

北口に隣接する公社枚方団地も解体することになり、大きく動きそうですね。

枚方市駅前の枚方テイクツービルが閉館してる。今後はビル解体へ(枚方つーしん)
https://www.hira2.jp/open-close/take2-20210924.html 


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汚い写真ですが、1977年ごろの京阪1300系を1枚発掘。

枚方市駅交野線ホーム(6番のりば)で、高架化工事の本格的着工前でした。背後にある三越や三和銀行も懐かしいですね。丸物が近鉄百貨店に変わって間もない頃でした。

交野線は当時、吊り掛け車1300・1700・600系の天下で、ローカルムードが濃厚でした。 


かつて香里園にあったダイエー(香里店)の写真を発掘しました(編集加工しています)。1979年ごろのものです。ミスドも懐かしいですね。

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私は基本的に一人旅のほうが好きです。

中学・高校時代の古い話ですが、「一人旅」か「仲間・家族と出かける」かで葛藤に駆られることもしばしばでした。 

家族とお出かけして大喜びだったのは、小学校を卒業する頃までだったと思います。中学以降、私はどちらかといえば一人で電車・バスを乗り回したり、自転車で遠征に挑むことのほうを強く好むようになります。一般論的に、中高生になれば家族・親類よりも「他人」の友達と出かけるほうが楽しい、と思う年頃でしょう。恋愛感情も芽生える年頃でしょうし(私は恋愛と全く無縁ですが)。

私は友達(というより「仲間」と言うほうが的確か?)にあまり恵まれず、「ぼっち」を好んでいました。修学旅行やキャンプ合宿のときなども、私は仲間と盛り上がるのは得意ではなかったですね。ただ、中3のときはなぜかクラスメートの2つのグループ集団と関わりを持つようになりました。泊りがけの卒業旅行、あるいは映画鑑賞に誘われることもあったが、やはり「ぼっち」好きな私にはどちらも気乗りがせず、下手な嘘を言って断ってしまいました。その嘘も今思い出せば爆笑モノで、もう少し知恵を働かせて穏便に断れなかったものかと、恥ずかしくなるばかり。それなら、むしろ「俺、一人のほうが好きだから」とはっきり断っても良かったと思っています(「ぼっち」=「負け組」という世間の呪縛が強く、そこまで言うのは難しいかもしれないが)。

修学旅行のときも、同じ部屋の輩が寄って集ってきやがり、正直ウザかったです。個室での寝泊りが可能ならと思ったほどです(集団行動を重んじる学校行事としての旅行で、それは「無いものねだり」か)。

* * * *

家族・親戚とのお出かけについては、嫌がらずに積極的に参加すれば良かったと思います。集団行動なので必ずしも自分の希望通りになるわけでないのは当たり前のこと。蟠りもあると思うが心のうちに留め、みんなで楽しむことが礼儀でしょう。父母や祖父母もいつまで元気なのかはわかりません。両親および兄弟姉妹とともに暮らしている間に楽しい思い出を作って一つの親孝行をしておけばよかった、と後悔しています(数年前祖母が亡くなった頃からか、そのことを思うようになる)。

家族旅行と一人旅を共存させてもよいでしょう。鉄道・バス利用の場合は現地集合とし、目的地まで各自自由行動にするということもあり得ますね。車で移動する場合も、車酔いしやすい人は鉄道等での別行動も認められしかるべきでしょう。

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1993年(平成5年)のことについて思いつくままに書いてみました。

1993年といえば、戦後最悪の大冷夏・天候不順だったこともあり、私個人的にあまり良い印象は持てませんでした。

この年は春先から秋にかけて低温・多雨傾向が続きました。3・4月の寒波、雨模様・新緑寒波のGW、5月末~6月初旬の異常低温、長梅雨、盛夏期(7~8月)の長雨と九州集中豪雨災害、 9~10月上旬の秋雨前線、11月の多雨・・・。全国的な大凶作で米不足が深刻化、「平成の米騒動」が勃発しましたね。1993年大冷夏は2年前のフィリピン・ピナトゥポ山の噴火が一つの原因とされています(火山灰が大気圏を覆って日照が遮られるため)。一旦発表された梅雨明けも沖縄県を除いて取り消されました。

私個人的にも、「うつ」状態に嵌りやすく、若気の至りからか「間違った努力」に固執し、疲弊消耗しかけました。急な忙しさに呑まれたこともあり、自分の運動不足と体力低下を嘆くこともしばしばでした。

この年、サイクリング中にDQNな車のカップルにいちゃもん付けられる事件に遭遇。轢き殺される一歩手前で怖かったです。おまけにその数ヵ月後、走行中にいきなりチェーンが切れてしまい、家まで押して帰る羽目に(しかも市内のお店へ修理に出したとき、どうも冷たい接客のようだった)。これらマイ自転車をめぐる一連の災厄も、つまるところ自分の不徳ゆえの結果だろうと反省。

7月総選挙で新党ブームと相まって非自民連立政権が誕生しました。自民党の代わる新しい政治への期待が大きかったが、新自由主義・新保守主義・対米隷属化の「右傾化」への準備が整えられ、むしろ自民党政治継続のお膳立てが強化されました。小選挙区制導入に伴い共産党などリベラル勢力がますます排除される傾向が強まります。非自民政権はわずか1年足らずで崩壊、その後自民党政権がまた長く続くことに・・・。

* * * *

1993年の北河内周辺関係といえば、

◎京阪特急が初めて中書島・枚方市に停車
◎京阪枚方市駅高架化完成
◎枚方市人権尊重都市宣言
◎阪急高槻市駅高架化工事完成と市営バス乗り入れ再開

ぐらいでしょうか・・・。

従来、京阪特急は京阪間(京橋-七条)ノンストップだったが、1993年1月ダイヤ改正より、朝ラッシュ時の淀屋橋行きのみ中書島・枚方市に停車するようになります。以降、特急停車駅は追加され、10年後の2003年には、枚方市・樟葉にほぼ終日停車に(平日ダイヤの一部時間帯はノンストップ便が残るが)。対岸の阪急京都線特急は1997年高槻市に終日停車し、それに追随する流れです。

15年間に亙る枚方市駅高架化工事はようやく完成。翌年高架下のショッピングモールがオープンしました(京阪百貨店やキディランドなど出店)。前年1992年末に交野線用ホームも高架化、合わせて全線複線化が完成しました。

この年、京阪は10年間にわたる6000系の製造が終了(8連×14本)。6000・7000系の顔が入れ替わる異端先頭車(6014・7004)も登場しましたね。特急車の8000系への置き換えも一段落、旧3000系が1本残るのみとなりました(→2年後、あっと驚くダブルデッカー車が組み込まれて返り咲き、2013年まで生き延びることになる)。

JR学研都市線(片町線)のほうは、1992年春に207系が量産投入されるが103系もまだ残り、JR東西線開通・片町駅廃止(1997年)までの過渡期状態でした。木津電化時に登場の珍車・クモハ103-5001は元の「クモハ103-48」に再改番され、広島で終生を過ごしたことは有名。クモハ103-5000番台の相棒、珍形式サハ102も余剰となり、環状線・阪和線などへ転属しました。

京阪バスについては、1代目中型路線車の代替が始まり、ようやく新しい顔ぶれが登場したところ。モノコック車は翌年1994年までに全て引退しました。枚方市北部地区路線(招提線・樟葉長尾線)は翌年夏、大きく再編されました。ほぼ同時期、枚方市駅高架化完成に伴う南北連絡道路開通により、出屋敷線枚方市駅行きの経路も変更されました。車内放送合成音声化も1994年より各営業所で順次開始します。



高校時代の文化祭について、私自身としてはどういう形で参加したら一番良かったのかを考えてみました。

実を言うと、私は文化祭のクラス実行委員会に加わったり、劇のときは重要級の役を買って出たこともあります。

その積極的に動くというところは良かったけど、いざ本番を迎えると、受験勉強で忙しいとか、あるいは決定したテーマが自分の趣味と合わないとぶちまけ、中途半端になりがちだった、と今更ながら深く反省しています。

正直、実行委員会を買って出てみたのも、目立ちたがり屋な動機もあったと思います。できもしないことを思いつきであれこれ発言してみるが、結局「意識高い系」な自己満足に泥酔していただけのことでしょう。テーマ企画が決まってから、あれこれ不満や愚痴をぶちまけて半ばボイコット的に訴えるが、実のところ自分は文化祭で何を実現したいのかがわからなかった・・・。

文化祭に積極参加する方法は、何も実行委員会に参加したり、スター級のキャストを買って出ることだけではないはず。別に目立たなくとも、単純作業でも何でも良いので自分の役割を見つけ、必要な課題や練習に一生懸命取り組むのが、一番無難な線だろうと思います。

クラスでのテーマ企画決定は目利きのある他の人に任せるとして、自分は与えられた役割を誠実にこなす。気に入らないテーマだったら、「いゃ~、俺こういうの苦手なんやな」と笑いながら、決まったからには良いものにするよう、みんなで協力する。必要な材料の収集、小道具・装飾の製作、会場ステージの設営、掃除や後片付け、その他できることはいろいろあるはずです。やっているうちに楽しさがわかってくるものでしょう。

大事なのは、「最後までやり切ること」。

* * * *

文化祭以外にプライベートでやりたいことがあるのなら、無理して実行委員会など務める必要はありません。やるもやらないも本人の自由。当時の私自身としては、他にやりたいこと(旅行・サイクリング)、あるいはやるべきこと(受験勉強)があるし、かつ文化祭も程よく楽しみたい、という立場だったと思います。それは全然悪いことではないが、「どっちつかず」ととられることもあり、うまく折り合いをつける工夫が求められるでしょう。そこは優先順位をつけて整理するなどの自己管理能力が求められ、やると決めたら徹底的にやる。

文化祭当日、学校を休むのもありだが、できることならみんなで盛り上がって楽しむほうが良いでしょう。


中学・高校時代の地理の授業の思い出を書き綴ってみました。

まず、中1の社会科では1年間地理分野を学びました。最初に(国土地理院発行)地形図の読み方を学んだものと記憶しています。物心付いた頃から地図が好きで、よく地図ごっことかで遊んでいたので、興味の持てる授業でした。

その後、2学期にかけて日本国内各地方の地誌(地形・気候・産業・文化)を九州・沖縄から北海道まで西から東へと順に学んでいきます。特に近畿地方は最も身近なエリアだけあって楽勝で覚えられましたね。中部地方では木曽三川流域の「輪中」というキーワードが、今も頭の片隅に残っています。

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「輪中」で知られる木曽三川(木曽・長良・揖斐川)下流域
愛知・三重・岐阜3県が入り組む

世界地理については、カタカナの国名・首都・地名、天然資源や聞きなれない気候の特徴などいろいろ込み入ったことを覚えなければならず、やや苦戦気味だったと思います。

中1の夏休み、各教科から宿題がどっさり出され、社会科は枚方市の市町村合併の歴史について自由研究をやりました。

現在の枚方市の大半の地域は旧・交野郡、枚方市中心部(旧・枚方町)から南西部エリア(枚方公園・光善寺・さだ・香里園)が寝屋川・門真・守口市と同じ旧・茨田郡だったことは驚きです。

実際、旧・交野郡エリアは京都・奈良県境を形成する生駒山地・男山丘陵に囲まれ、麓に連なる台地・丘陵地帯が広がる一方、旧・茨田郡のエリアは淀川流域の低地平野部(京阪電車より東側は香里丘陵の西麓)で大阪平野の北東末端部にあたり、地形の様相がかなり異なります。枚方市は意外に高低差の多い町と実感されるでしょう。

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中宮(旧交野郡山田村)・百済寺跡の小高い丘陵地より枚方市街地・香里ヶ丘方面を望む

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長尾台・藤阪東町(旧交野郡菅原村)の高台から枚方市街地を遠望

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低地平野部の広がる出口地区(旧茨田郡さだ村) 淀川自転車道より撮影

しかし地理分野よりは、むしろ2~3年で学ぶ歴史分野のほうが点数が良かったです。

実を言うと、小学校のとき高学年に進むにつれて勉強嫌いになっていました。しかし、中1の3学期以降巻き返しを図り、まずは暗記ですぐ点数に結びつく社会科に気合を入れて稼いだ結果、中2になってさっそく歴史で高得点を取れたものと思います(ちなみに中学時代の一番好きな科目は英語でした)。

あと中2の理科で天気のことを学んだとき、地理好きな自分には楽勝でしたね(湿度の計算の話は少し難しかったが何とか乗り切りました)。

* * * *

高校では残念ながら地理は選択できませんでした。高校の社会科は1年で「現代社会」、2・3年で「日本史」「世界史」を必修科目として学びました。高校の日本史・世界史は暗記する量が膨大で、やや苦戦気味でしたね(嫌いではありませんが)。高3で大学入試に使う予定のない科目まで履修させられ、心理的ストレスも相当なものでした(受験に使わない科目も定期テスト対策はしっかりやっておくべきだったと後悔)。

かなり後になって大学の文学部に「地理学科」があると知り、悔しい思いをしました。この情報をもっと早く知っていたら(誰かが教えてくれてたら)、「余計なもの」に惑わされずに済み、順調な進路を歩んでいたはずだと、周りを嘆いたり怨んだりしていました。

しかし、これも結果責任。自分の不徳が招いた結果でしょう。人のせいにするのは大人としてカッコ悪いです。今更、敢えて大学の地理学科に入り直す理由や必然性はあるのかと言われると・・・。「小中学校時代、社会科が好きだった」「鉄道や旅行が好きだから」というだけでは弱いように思います。

別に高い授業料払って大学に行かなくても、独学でできることは多いはず。今ではインターネットもあり、Google検索でかなり専門的なことまで調べることもできるでしょう。


ふと高校時代の年末年始のことを振り返ってみたくなりました。

さっそく高1の冬休みですが、スキー講習が一番楽しい思い出でした。 場所は信州栂池。講習は自由参加で、私は親の支持・推薦などもあって参加しました。スキーといえば、小学校の雪国見学のときに少し滑った程度で、果たして大丈夫なのか不安でしたが。しかし、現地では若手の体育の先生に親切丁寧にご指導いただき、ある程度滑れる自信がついたのは良かったです。

体育は私の不得意な科目で、高1時代のクラス担任は体育の先生で、私自身について「ちょっと困った奴」という印象だったようです。正直、体育の授業態度が悪く、先生を怒らせることもありました。今更ながら、苦手なりにもう少し一生懸命やっていたらと反省。しかし、幸い体育科には優しい先生が多く、スキー講習に参加して良かったと改めて感じています。

スキー講習から帰って、正月あたりに「青春18きっぷ」を使い、山陰本線鳥取方面へ回りたいと思っていました。しかし、なぜか父と一緒に行こうということになり、行き先も山陽本線岡山・倉敷に。やはり岡山は電車混みますわ。倉敷の美観地区・大原美術館を観てきました。もともと「乗り鉄」党だった私ですが、沿線の美術館巡りもなかなか楽しいものだということを学べたと思います(高校生だった当時、その楽しさはあまりわからんかったが、年齢とともに少しずつわかってきたと思う)。帰りは岡山の名物駅弁「桃太郎の祭ずし」を買い、赤穂線の電車の中で頬張りました。たまには親子水入らずで旅するのも良いものですよ。

それから、冬休み(特に終業式前の「試験休み」)の時こそ、自転車旅行しても良かったと思いました。夏休みは雨の多い天候不順だったり、GWに風邪で寝込んだり、ほか諸々の理由でサイクリングもろくに楽しめなかったからと不貞腐れていました。これも担任の先生に「困った奴」扱いされた一つの理由のようです。サイクリングは真夏の炎天下よりも冬の晴れた日のほうが動きやすく快適、ということを早く学習していれば、また違っていたでしょう(実際、高3のとき、真夏の酷暑の中、三重まで長距離走り回るが、熱射病寸前の地獄だった)。それと同時に、遠くへ旅するばかりでなく、身近な地元の中で楽しみを見つけるなり、課題を見つけて取り組むことも学べば良かったと反省。



懐かしのジャスコ・ロゴマークです!

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枚方・交野近辺のジャスコといえば、まず寝屋川店(グリーンシティ)を思い出します。高槻・生駒・久御山にもありましたね(高槻・久御山はイオンモールとして存続)。昔、なぜか車で生駒や奈良ファミリー(大和西大寺)のジャスコまで連れて行ってもらったこともあります。奈良ファミリーはジャスコと近鉄百貨店(奈良店)がつながっていて不思議に感じました。

ジャスコといえば、近畿では奈良・三重・兵庫に多かったという印象です。四日市の呉服屋が発祥だからでしょう。京都・滋賀では平成初期の頃、東山二条と九条(近鉄東寺駅前)にあったが、あまり数は多くなかったようです(後年、西大津駅前や久御山にオープンするが)。

せっかくなので、ジャスコの店内テーマソング「ジャスコで逢いましょう」も。


 


以前、自分の高校時代の皆勤賞に関する記事を投稿させていただきました。
http://katanogawara.blog.jp/archives/35727108.html

小・中学校時代ですが、お恥ずかしいですが「軽い風邪」で学校を休むことも結構多かったです。

小2ぐらいまでの低学年なら、体力の未発達な年齢なので、仕方ないでしょう。実際、小2の時は、丸1週間近く休んだこともあるし、秋の遠足に行けなかったり、教室で気分悪くなって嘔吐、中耳炎が引き金で風邪をこじらせたり、いろいろありました。

「軽い風邪」で休むことの多かったのは、小5・6時代。「軽い風邪」というのは、さほどだるいというわけではないが、喉の痛み・くしゃみ・鼻水・微熱(ときには下痢も)などの不快な症状がある状態で、学校を休むべきか微妙なところ。この程度の風邪だと、親(保護者)は簡単に休ませてくれない、学校からも「なるべく休まないように」と注意されるケースも多いと思われます。

私は甘えて何とか休ませてもらいましたが、親には「健康管理ができない不注意な奴」と呆れられましたね。運動会(組立体操)の練習が嫌で、風邪や下痢で早引き、あるいは休んだりしてしまったことさえあります。今から思えば、この「逃げ」と見られる姿勢は格好悪かった(→その後ろめたさなどからも、高校時代には皆勤賞をめざそうとがんばったりするが・・・)。運動が苦手なのは仕方ないせよ、苦手なりに一生懸命がんばるほうが、スマートで後々の利徳も大きいしょう。

* * * *

中学時代も、やはり「軽い風邪」で休んだことはありました。ただ、学年が進むとともに高校入試や進路への自覚が高まりつつあることもあり、年2~3日以下の欠席日数に抑えました。特に中3で皆勤賞を達成したのは自信を持ってよいと思います。

反面、中2のある放課後、大ポカをやらかして、親を怒らせてしまったこともあります。少し風邪気味なのに、学校から帰って近郊区間大回りの旅に飛び出したのです。「大回り乗車」なので途中で折り返して戻るというわけにもいかず、計画通りのルートをそのまま乗り続けるしかなかった・・・。

しかし、風邪気味の状態ではせっかくの旅行も楽しめるはずがなく、家に帰り風邪の不快感を訴えたら、「あんたどこ行ってたんや」と親に怒られましたね。「大回り乗車」とも言えず、適当にお茶を濁しましたが。せめて長尾で諦めて引き返したなら、また違っていたことでしょう(一番理想的なのは、学校から帰ったら家で安静にすること)。結局、翌日は学校を休みました。

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こんな不注意な始末だから、中3以降にサイクリングを始めたときも、親や親戚(祖父母)からの余計な心配の一言で、足を引っ張られるわけですね。

中3の夏、高槻から山道を走って亀岡までの遠征を何度か繰り返したが、夏休みの最後には敢えてR372を西へ突っ走り、丹波篠山(福住)から能勢・天王峠を回るという強行軍を取ってしまって帰りが遅くなり、家の人に要らぬ心配や迷惑をかけることに。この件が後々じわりと響き、翌年以降にまでしこりが残ったようです(亀岡市内でタイヤの空気が抜けるハプニングで慌てふためいたのが大きいかな)。

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* * * *

健康管理は疎かにできませんね。健康であることは実に有難いことです。

皆勤賞ももちろん本人の努力によるものでしょう。ただ、人間は平均的に年あたり数回ぐらい風邪を引くのが普通の状態であり、小中高を通しての完全な皆勤賞は、正直非常に難しいです(成功率は宝くじに当たるよりも低いかもしれない)。取れたら、日頃から物凄い努力をしているか、よほど運が良かったということでしょう。運も実力のうちでありますが。

完璧な「皆勤賞」は無理でも、準・皆勤賞(風邪で年1~2日だけ休む程度。インフルエンザ・新型コロナほか学校感染症の場合は「出席停止」の扱いなので別。「忌引」も同様)なら決して不可能ではないでしょう。高校時代は、小・中学校までとは逆に、「皆勤賞」を取ろうと気張るが、これもよく考えたら賞賛に値するどころか恥ずかしいことだと思いました(その理由は、「友達やクラスに感染を広げない」配慮に欠けると受け取られる可能性があるため)。どっちにせよ、風邪引いたのも自分の不注意じゃないか、と親に論われました。

やはり日頃の自分の行い(健康管理)に左右されるようですね。



「レストラン男山」といえば、八幡市の国道1号線(枚方バイパス)沿いにある洋食レストラン。ご当地の「男山」をお店の名前にしているのが地味に良い感じですね(^-^) 50年以上前からある老舗のようで、ハンバーグ・ステーキが美味しいと評判です。

昔、枚方市駅前のサンプラザ3号館にも「レストラン男山」があり、ハンバーグステーキのランチを食べに連れて行ってもらった記憶があります。もちろん大好評でしたよ(^-^)

3号館の東向かいには近鉄百貨店(サンプラザ2号館)があり、3階どうしが屋内連絡デッキで結ばれていました。近鉄百貨店跡はT-SITEに建て替えられました(3号館とは連絡デッキで結ばれています)。3号館の建物もかなり老朽化しているようで、そろそろ建て替えの時期が来ているが、枚方市駅前再開発事業の一環でどうなるんでしょうか?

「男山」といえば、むしろ日本酒の銘柄のほうで有名でしょう。日本酒の「男山」も、全国で20以上の銘柄があるそうで、その元祖は北海道旭川の「男山株式会社」のようです。その名前も実は、京都八幡の男山八幡宮(石清水八幡宮)から思いつき、伊丹(兵庫県)の蔵で作り始めたのだとか(→その蔵がはるばる北海道に移転したという)。


レストラン男山公式ページ
http://otokoyama.d.dooo.jp/


超有名な日本酒「男山」にも色々あるって知ってた?
マダム下宮のやさしい日本酒講座 Vol.9

https://haccola.jp/2019_07_07_9015/



小中高12年間のうち、中学3年の頃が私自身にとってある意味、楽しく充実した時と言えるかもしれません。

中学・高校時代を通して、正直「友達」と言える人にはあまり恵まれなかった(というか、もともと「ぼっち」のほうが居心地が良かった)が、中3時代はなぜか人並み程度の「友達づきあい」ができて、充実感はありました。自分の中3時代のクラスは、いろいろあったけど押し並べて楽しかったですね。

1年間の学校行事も、春は修学旅行(信州白馬岳)、秋の体育祭・文化祭、冬のマラソン大会、いずれもなかなか面白かったです。

修学旅行の交通手段はバスだったが、往路の日本海を眺めながらの昼食休憩、親不知~姫川渓谷の絶景が印象的でした。旅館の食事も美味しかったですね。復路は塩尻から中央道経由でした。

秋の体育祭では準備のときをきっかけに、友達づきあいが始まりました。もともと運動会・体育祭は苦手であまり面白くなかったけど(小学校の時は組立体操の練習が嫌で、風邪引いて早退・欠席することさえあった)、中3の体育祭は結構楽しかったですよ。クラスの団結力も強く、当日の天気も運動会日和の秋晴れで、確か応援の部あたりで入賞したものと思います。続いて文化祭もなかなか良い調子でした。コーラスの部でエラーをやらかしたために、惜しくも入賞できなかったことは一つの反省点。

冬のマラソン大会も、中1・2のときは最悪だったけど、中3のときは何とか真ん中ほどのポジションにまで漕ぎ着けることができました。それから、中3では「皆勤賞」が達成できたことも良かっですね(→その皺寄せなのかわからないが、高1の春休み・GWに風邪で寝込んでしまい、自転車で遠出できなかったという「悲しい連休」を迎えることにもなる)。

実を言うと、中3時代の友達関係も、もともと「ぼっち」のほうが好きな私自身には「重荷」でもあり、時々絶交宣言をかましてみたり、中学卒業以降続かず禍根を残したことは、重大な反省点です。そして高校時代、「友達がいない」などと嘆くことも多かったけど、実のところ自分には「ぼっち」のほうが心地良いのでしょう。友達が欲しいと思うんだったら、じっと待っているんじゃなく、基本的に「自分から働きかける」ことでしょう。

「ぼっち」「孤独」が好きな素質なのは良いとして、相手の考えや立場を認め合い尊重することも意識し、付き合い方に工夫の余地はあったはず。特に「断り方」が下手くそで、今から思えば誠に恥ずかしい限りです。掃除の時間、誘惑に乗せられてサボったりすることなどもあったが、「ダメなものはダメ」と断りたいですね。「アカン!(あきまへん!) 内申書の点数に響くこともあるので、サボったら損やで」とでも言えば良かったでしょう。実際、担任の先生に与える心象がそのまま内申書に反映される可能性もありますからね。


小・中・高校時代の運動会・体育祭の思い出について。

正直、運動の苦手な私にとって、運動会や体育祭への思い入れはあまり強くないですが、 敢えて書いてみました。

小・中・高ではどちらが一番楽しかったのかといえば、高校の体育祭のほうが気楽だったように思います。小学校や中学校のときは練習にかなり時間が割かれ、私にはどちらかといえば苦痛でしたね。翻って高校の体育祭は練習時間も少ない分、「お祭り」気分もあって、むしろ楽しみやすかったです。

小学校の運動会は、1~4年まではダンス、5・6年は組立体操がメインディッシュと言うべき位置づけの競技でした。ダンスはまだしも、組立体操が嫌でしたね。特に「ピラミッド」が最大の難関でしたね。お恥ずかしいですが、組立体操の練習が嫌で、風邪や下痢を訴えて早引き・欠席することもありました(実際、発熱・下痢の症状が出ましたが)。組立体操のときは、できれば祖父母や親戚も誘い合わせて見に来てもらえたら、励みにもなって嬉しかったんだけど、確かあのとき忙しくバタバタされていたそうで・・・。

中学校の体育祭は、応援の練習に皆気合が入っていましたね。中1・2のときは日祝日も練習のため学校に駆り出され、運動部並みの厳しいスタンスであまり面白くありませんでした。それでも、中3時代は、応援の太鼓に使うドラム缶を集めるために、ガソリンスタンドをグループで回った時、なかなか楽しかったですよ。体育祭当日は秋晴れの運動会日和で、応援の部では自分のクラス(チーム)は入賞したのかな、中学最後の体育祭を飾るべく充実した行事だったと思います。

続いて文化祭も終始円満に進みました。劇では名も無い通りがかりの脇役だったけど、地味ながら縁の下の力持ちな役割が自分に向いているということでしょう。高校の文化祭では、中3での成功体験から調子に乗ってしまったこともあって、自分に相応しいと言い難い役割を無理に買って出て半ば自爆という、痛いエピソードがあるので・・・。



ふと、子どもの頃(小学校時代)のおでかけのことを思い出しました。

正月3が日に家族・親戚総出で賑やかに大阪城へ行ったときのことです。

京橋で京阪から国鉄環状線に乗り換えて、森ノ宮下車(大阪城公園駅は確か未開業だったはず)。 森ノ宮駅前北西角から大阪城公園の敷地に入りました。公園内での詳しいことは殆ど記憶に残っていないが、帰りは西側の大手前・府庁前から天満橋駅まで歩きました。

天満橋の松坂屋でお昼を食べてもよかったはずだけど、なぜか枚方近鉄の6階レストランで遅いランチをとることに。松坂屋大阪店も枚方近鉄も過去のものになってしまいましたね。帰りの電車は枚方市まで普通三条行きに乗りました。珍しく1000系が来ました(当時、1000系をはじめ7連冷房車といえば急行・準急のイメージが強かったので)。正月ダイヤなので、1900系の臨時特急も走っており、物珍しさに興奮して写真を撮りました。残念ながら、その写真は紛失してしまったようです。あと、残り少なくなったスーパーカー2000系も見かけたと記憶しています(2600系への代替新造も大詰めを迎えていた)。

枚方近鉄では、食事の後、確か親戚にねだって4階玩具売り場でレゴブロックを買ってもらったように思います。


自分の高校時代の「皆勤賞」の件について、 かねがね思うことがあるので、ここで敢えて書くことにしました。

結果をいえば、高校3年間は都合2日間欠席したため、惜しくも皆勤賞は成りませんでした。それでも、手前味噌だが、準・皆勤賞に値するものとして自信を持って良いとは思います(特に高2は皆勤賞を達成)。

何が問題なのかといえば、高1・3学期のときについて後悔することがあります。1月のある日、風邪で何となくだるくて気持ち悪さを感じたんだが、熱を計ると37度台後半。私自身、勉強に熱心だということを周りに見せたがっていたのか、無理に登校しようとするが、親に止められました。結局1日欠席することに。

この件について、いろいろ思うことがあります。

「皆勤賞に異様にこだわる」というのは、賞賛されるどころか、むしろ恥ずかしいことでさえあると思います。なぜなら、無理に登校したところで、さらなる体調悪化を招くばかりか、周りの友達や先生に風邪の感染を広げることにもなりかねず、「思いやりに欠ける」と判断される可能性があります。その結果、他の友達が学校を休むことになって、仮に自分だけ皆勤賞を取れたとしても、反感・恨みを買うだけで、お互いあまり嬉しくないでしょう。

クラス担任の先生には「皆勤賞なんかにこだわるより、もう少し体育の授業を真面目にやれ」と叱られそうです(高1のときの担任が体育の先生だったので)。正直、体育は苦手で、大学入試に直接関係がないからと舐めてかかっていた嫌いがありました。副教科だからと軽視せず、苦手でももう少し誠実に授業に取り組めば良かったと今、後悔しています。

なぜ、無理に登校してまで勉強に熱心なところを見せたがっていたのか。それが自分でもはっきりわからなかったけど、小中学校時代の自分は逆に軽めの風邪(微熱など)ぐらいで学校を休むことも結構あり親にさんざん呆れさせたりしたので、その反動なのか・・・。小学校の運動会のときに組立体操の練習が嫌で風邪・下痢を訴えて早退・欠席した恥ずかしい経験もあり(仮病ではないが)、その後ろめたさが響いているようでもあります。

さらにもう一つ気になっているのは、「こんな寒い日に自転車なんかで走り回ってるからや」と親に論われたこと。つまり風邪を引いたのもサイクリングのせいだと槍玉に挙がり、それは正直悔しかったです。実を言うと、正月明けに一度風邪で寝込んでしまい、回復後1週間ほど経過した矢先にぶり返した格好だったので。ただでさえ、GWに風邪で寝込んだり、夏休みは雨の多い天候不順でサイクリングをろくに楽しめなかった高1だけに、あの冷たい一言は余計応えましたね。

しかし、こんなことになるのも、私自身の不徳の結果としか考えられません。今から思えば、これも中3の夏、自転車で亀岡・篠山・能勢遠征の際のハプニングで家族・親戚に心配させた件がじわり響いているようでした。旅行中の予期せぬハプニングそのものは仕方ないにせよ、自分の非(過ち)を心から認め、事後の対応・改善に本気で取り組めば、周りの反応もまた違ったでしょう。誠実さと感謝がカギのようです。日ごろの健康管理もしっかりやるように心がけたいですね。

「皆勤賞」は果たして意味があるのか疑問視される昨今であり、皆勤賞を廃止する学校や幼稚園も少なからず生まれているようですね。日本ではインフルエンザ等でも出勤を命じる職場すら珍しくなく、働き方が根本から問い直される時でしょう。


1988年11月某日の午後、暇ができたので、全線電化直前の片町線(学研都市線)の小旅行をしました。

出発駅は今はなき片町駅から。120円の片道切符を買い、自動改札機を通過(当時、関西の国鉄・JRの自動改札機は片町線片町-長尾間各駅のみに設置)。片町駅は片町線の終点であり、 京橋から大阪都心部へ一歩進んだ(0.5kmほどの)場所にありました。京阪電車天満橋-京橋間の中間地点にあり、かつて京阪にも片町駅がありましたね。

片町駅は市内中心部、特に天満橋の官庁街や大阪城に近いのに、京橋とは対照的に昼間は閑散としたターミナルでした。片町駅は地下線のJR東西線(京橋-尼崎)開通(1997年)と同時に廃止されました。片町駅の機能はJR東西線の大阪城北詰駅に代わりました。

片町駅からは長尾行きの普通電車(たぶん103系)に乗車しました。

京橋駅は大阪環状線および京阪電車との乗換駅で大阪市東部のターミナルとして賑わいを見せています。駅前ではダイエー京橋店(→イオン→閉店)や京阪モールなどのショッピングセンターを核に、周辺の商店街と連なって繁華街を形成。さらに2年後の1990年には、鶴見緑地で開催される花博開幕に合わせて地下鉄長堀鶴見緑地線(7号線)の部分開通と合わせ、吹き抜けの地下飲食店街「コムズ・ガーデン」がオープン、ターミナルとしての求心力が高まりました。

京橋を発車後、放出を過ぎたあたりで大阪市から抜け出ます。近畿車輛のある徳庵、江戸時代の河内平野一帯の新田開発の歴史を刻んだ鴻池新田を経て、高架工事完成前後の住道駅、そして「野崎まいり」で有名な野崎を通り、四条畷に。

四条畷までの区間は関西の国鉄で最も早く戦前に電化され、下町を走る私鉄のような雰囲気が感じられます(この先、長尾まで戦後1950年に電化)。1977年ごろまで走っていた旧型国電は、この沿線風景に見事溶け込んでいたようですね。また、1970年代初頭までは蒸気機関車C11に牽引された貨物列車も片町線を走り、旧型国電と並ぶ渋い光景も楽しめたことでしょう。

1970年代末から片町線の新性能化(101・103系投入)、四条畷-長尾間複線化と同時に片町-長尾間各駅への自動改札機の実験的導入、合わせて編成増強と冷房化が国鉄末期の数年間で一気呵成に進められ、前進飛躍を遂げました。今度の長尾-木津間電化、および片町線と福知山線を結ぶ計画に始まったJR東西線の開通も、その成長路線の軌道に乗ったものと言えるでしょう。

四条畷駅前といえば、パチンコ屋さんの賑やかな音が聞こえてきて香里園や瓢箪山と何となく雰囲気が似ているが、気のせいでしょうか?(実際、ここと瓢箪山を結ぶ近鉄バスがあった)。駅の北西側は商店街(楠公通り)で賑わいを見せます。

四条畷-長尾間は1979年に複線化工事が完成したため、線路や駅ホームは新しく(東寝屋川→寝屋川公園と藤阪の2駅も同時開業)、また一部は高架線に付け替えられたこともあり、特急【雷鳥】が高速で翔る湖西線と雰囲気は似ています。そういえば、長尾付近から京都山科への連絡線を作って湖西線と接続させ、片町線に北陸筋の特急を走らせる構想もあったみたいで、これが北陸新幹線の京都~松井山手~新大阪ルートとして現実のものになろうとは偶然でしょうか?

電化区間の終点・長尾駅に到着。長尾駅は大阪府最東端(枚方市)の鉄道駅で、ここから先は京都府内の非電化区間でした。地下道を通って気動車用ホームに移ります。



小学校時代の半ば、1年半ほどスイミングに通っていました。

今はなき京阪スポーツセンター郡津でした。

私は、小2の頃までは水が怖くて泳ぐこともままならない状態でした。家族そろって海水浴に出かけたときは、海に入ることよりも往復の移動(鉄道、自動車)のほうが私個人的に楽しかった・・・。

小3以降、スイミングに通わせてもらうことになってから、少しずつ泳げるようになりました。

スポーツセンターへの足は基本的に自転車だったが、雨のときはバス+京阪交野線の大回りで通わせてもらいました。

当時、交野線には吊り掛け車1300系や600系などの溜り場だったが、架線電圧1500Vへの昇圧を前に1900系(主に1929F)そして冷房車2600系も入線を始めるなど、新旧交代の端境期にありました。

プールは全天候型のガラス張り半月ドーム型室内で、交野線の電車がよく見えました。水泳のことよりも電車のほうに視線が向いてしまい、先生に度々叱られましたね。クラスも初級レベルにとどまり、さほど上達はしなかったです。そのせいか、親には「やる気がないのでは」と心配され、続けさせてもらえなかったのは残念でした(保護者が授業の様子を観察できるよう2階の観客席が設置されてた)。

そういえば、雨の日にバス・電車に乗って通うはずが、たまに父が迎えに来てくれて、帰りは車に乗せてもらうこともあったが、正直あまり嬉しくなかった(苦笑) というのも、電車・バスに乗って帰る機会を逸して損した気分なので。しかし、車に乗りながら親子で授業のことなどを話す貴重な機会でもあり、親としては当然のことでしょう。

本当はもう少し、あと1年ぐらいは通わせて欲しかった・・・。それなら諦めもついたことでしょう。

水泳そのものは今一つにせよ、電車を見ること(トレイン・ビュー)、あるいは電車で通うのが楽しいことも、通い続けたいと思う、一つの立派な理由だと自信持って言えますね。泳ぐことそのものも既に嫌いではなかったですし。とにかく「続けること」が何よりではないでしょうかね。

もっとも、授業中は水泳に集中すべきなのは当然のことで、反省。「続けたいんなら、もう少しちゃんと練習しなさい」と説教されそうですね(笑)

* * * *

肝心の水泳のほうですが、小学校卒業までには曲がりなりにも25~50mは泳げるようになりました。小3の夏は、目標を達成できなかったため、夏休み初めに学校の水泳集中指導を受けさせられました。

夏休みには学校のプール開放もあって、小学校の時は時々利用させてもらいました。

問題は中学以降。

中学校は小学校に比べて水泳の授業が少なかったように思います。それもあって、泳ぐ機会が減り、せっかくがんばってつけてきた水泳力も伸び悩むことに。

中学校も夏休みのプール開放はあったが、あまり会いたくない奴もいるし、腹痛を訴えて途中退場しようとしても、仮病と見られたのか「ダメです」と止められる始末。

小学校の時に比べて練習が足りず、これが高校時代にも響いたようで、悔いが残りました。

高1の夏休み前の悔しい経験があるのです。水泳の補習を受けさせられました。同じ時期に他の科目の講習を申し込んで予定が重なってしまい、単位のヤバそうな体育を何とかしなければということで、やむなくキャンセル。

小学校の時、仮にもう1年間スイミングを続けられたら、そこそこの水泳力が維持できて、こんな勿体無い思いをしなくて済んだかもしれません。そして、高校時代に何か習い事を始めようというときも、小学校の時にスイミングを続けられた実績を担保に、わりとすんなり承諾してもらえた可能性もあります。

実を言うと、高校時代は事実上の「帰宅部」状態でした(運動は苦手で運動部はからきしだし、複数の文化部に入るも続かず)。それなら(受験勉強・学習塾以外の)習い事を始める、あるいは一つ特技を身につけるとか、自分の打ち込めるものを見つければよかったと、今更ながら後悔。

いずれにせよ、全ては自分自身の不徳が最大の原因だと反省しています。



1996~97年(平成8~9年)ごろの枚方・交野近辺のことを、思いつくままに挙げてみました。


○1997年3月、朝ラッシュ時の下り京阪特急が枚方市に停車、9000系セミクロス車を導入

○JR東西線(京橋-尼崎間)開通、学研都市線(片町線)がJR東西線を介してJR神戸線・宝塚線と1本につながる。併せて列車本数大増発

○阪急京都線の特急が終日高槻市に停車

○京阪特急(8000系)にダブルデッカー連結&8両化(1998年初までに完了)

○京阪交野線に5両編成増加

○京阪寝屋川市駅高架化工事開始

○枚方市北山に大阪工大・摂南大学キャンパスが相次いで開校

○大阪モノレール門真市開通、京阪沿線から大阪国際空港へのアクセスが便利に

○枚方市津田に平和堂「アルプラザ枚方」開業

○ニチイ交野店が「サティ」に店名変更(→現・イズミヤ交野店)

○ 1996年夏、O157食中毒事件で全国的大騒動、堺市の小学校で臨時休校

○香里団地の建替えが始まる

ぐらいでしょうか・・・。


1995年阪神・淡路大震災を機に、京阪神の鉄道輸送体系は大きく変わりました。いち早く復旧したJRは、京都線・神戸線の新快速に223系電車の投入を開始。従来、国鉄・JRよりも運賃面や本数などで有利だった私鉄の苦戦が目立つようになります。

枚方市東部・交野市を走るJR学研都市線も、以前はローカル線の印象が強くて、「牛より遅い片町線」と揶揄されるぐらい不便だったが(長尾以東は非電化だった)、JR東西線開通に合わせ207系電車を投入して沿線のイメージを一新、神戸・宝塚方面と一本の電車で結ばれます。

京阪間の私鉄特急(阪急、京阪)ももちろん無風というわけにはいかず、京阪間ノンストップ運転を断念。高槻市や枚方市など中間の駅に停車することで、中間沿線需要に応える路線へ転換します。京阪特急の枚方市停車も、1997年の時点では朝ラッシュ時下り(大阪行き)のみだったが、2003年には枚方市そして樟葉にほぼ終日停車となりました。

京阪交野線では1996年より5両編成運用が開始、2600系に加えて1900系も姿を見せるようになりました。JR学研都市線・東西線を意識してのことか、2003年より交野線と本線との直通列車が設定されました(→その後、交野線はワンマン運転に合わせ4両に戻る。2013年には本線直通列車も廃止)。

* * * *

枚方市津田には、平和堂の店舗・「アルプラザ枚方」が開業。滋賀県を拠点とする平和堂として、枚方市1号店であり、大阪府北部への本格進出を睨んだ足がかりとなったものと見られます(2年後には寝屋川市に「アルプラザ香里園」開店)。なぜ枚方市の津田が選ばれたのかといえば、大阪と滋賀を最短で結ぶ国道307号線の影響でしょう。

この頃の枚方市駅前といえば、ビオルネやステーションモールが新しく、既存の三越や近鉄百貨店は10年前に比べてあまり魅力的でなくなりましたね(三越・近鉄百貨店はいずれも閉店)。近鉄百貨店でスーツを作ってもらったり、たまに服を買うことはあったが、それ以外で積極的に行くことは・・・。北口にあった長崎屋も数年後閉店しました。

O157事件では、枚方市でも王仁公園プールが閉鎖となるなど、少なからず影響がありました。堺市の小学生は夏休みもろくに楽しめず、本当に気の毒でした。O157の原因が(給食で出た)カイワレ大根だとか、国会で議論になりましたね(当時、薬害エイズ問題を鋭く追及された、かの市民運動家議員は、のちの民主党政権下で首相になりましたね)。今般のコロナ災禍はO157のときのような局地的・限定的なものでは到底済まさるものでなく、全国的そして世界的な規模で深刻なダメージが広がりつつあります。

1997年4月には消費税5%への増税が実施され、持ち直しかけたバブル崩壊以降の景気低迷を悪化させる引き金になったと言われます。半年後の秋には、「金融ビッグバン」として山一證券や北海道開拓銀行が倒産するなど、景況感はいっそう冷え込みました。そして、「失われた平成時代」がいよいよ本格化・・・。

* * * *

戦時中の広大な火薬製造所(旧東京第二陸軍造兵ショウ香里製造所)から新しく生まれ変わった香里団地は、1997年ごろ入居開始から40年以上経過し、建替え工事が順次始まります。建替え後の住宅(UR)は高層化され、低中層の住戸が並ぶ「昭和の団地」から景色が大きく変わりました。2003年には桑ヶ谷の下水処理場跡地に枚方市南部市民センターがオープンしました。

香里団地といえば星型の中層マンション(スターハウス)も特徴で、今も数軒残っています。公設市場や大丸ピーコック(1号店)など、商業施設の建物も建替えが進みました。団地の土地の一部は民間に売却され、戸建て住宅に変わったり、病院の移転などに活用されています。今夏、香里ヶ丘図書館の新建物がオープンする予定です。


小学校の楽しい学校行事の一つ、遠足。

中学校にも「遠足」にあたる行事がありました。それは「校外学習」。

「校外学習」は1・2年次の1学期(6月ごろ)にありました(3年次は修学旅行)。

小学校の遠足と違うところは、

○服装は学校指定の体操服
○社会科見学や体験学習よりも、集団でのスポーツ・レクリエーション重視


でしょうか・・・。

「校外学習」と称するところからして、「集団行動のための学習」という意味合いが強かったと思います。夏季の宿泊学習(キャンプ)も同様の感じでしたね。

実を言うと、中学校の校外学習や宿泊学習は、私にはあまり楽しくなかったです。仲間・集団でのスポーツなど、私には苦手だし、そもそもクラス自体あまり居心地のよいところではなかった。唯一楽しかったのは、修学旅行ぐらいでしたね。

校外学習で行った場所ですが、1年次は私市・くろんど池、2年次は宇治・太陽ヶ丘でした。いずれも京阪電車利用でした。太陽ヶ丘については、京阪バスもしくは京阪宇治交通の貸切バスだったら、私個人的にもう少し楽しかったでしょうね(京阪宇治駅から相当距離があるし)。ちなみに、宇治・淀・太陽ヶ丘方面の京阪バス一般路線は、当時枚方営業所の管轄になっていましたね。

夏の宿泊学習は、1年次はマキノ高原(滋賀県高島市)、2年次は鉢伏高原(兵庫県養父市)でした。マキノ高原のときに確か箱館山に登ったのかな、運動の苦手な私が何とか頑張り抜いたということで努力賞を貰った記憶があります(あまり自慢できるものではないが)。

鉢伏高原では、夏合宿の代わりに冬にスキーという学校もありましたな。しかし、鉢伏高原といえば、鳥取県境とはタッチの差で、随分遠くまで行ったものだと感じましたね。バスの走行ルートは、往復とも中国道~播但道経由でした(現在だったら、舞鶴若狭道~北近畿豊岡道経由が早いでしょう)。



小学校のときの遠足の思い出について、時々記事を投稿してきましたが、なぜか2年のときだけあまり印象に残っていないんですね。 だからこそ、敢えて書いてみたくなったりします。

小1の初めての遠足で、バスに乗って「ひらパー」に行ったときのことは、楽しい思い出としてかなり鮮明に記憶に残っているんだけど、2年の時の遠足はどうも印象が薄いんですね。春の遠足では天王寺動物園、秋は伏見桃山城と、行った場所だけは覚えていますが・・・。

天王寺動物園のときですが、交通手段は京阪+地下鉄御堂筋線でした。御堂筋線では、当時の最新形式である冷房車10系が来て、ちょっとうれしかったような気がします。動物園なら北浜から堺筋線でも行けるし、御堂筋線ほどは混まないんだけど(「動物園前」駅は当時堺筋線の終点だった)。電車利用での遠足も京都方面が多く、大阪市内は天王寺動物園が唯一でしたし。

天王寺動物園界隈について、今の自分としては、下の通天閣や新世界のほうに物色することでしょう。阪急の電車が(堺筋線直通で)この地下を通っているのも、妙な感じがします(あそこは環状線のオレンジ色や南海電車のイメージで、『じゃりン子チエ』のモデル舞台にもなったところ)。

動物園といえば、京都市動物園のほうに連れて行ってもらうことが多かったように思います。天王寺動物園へも連れて行ってもらったことはあるが、どうもあまり印象に残っていませんね。

* * * *

秋の遠足ですが、実は風邪で欠席してしまいました。小2の遠足について印象が薄いのは、そのせいかもしれません。小2の時は、風邪を引きやすくて結構休んでいましたね。丸一週間休んだこともありました。

遠足とは別に、社会科見学も時々ありました。遠足よりも、むしろ社会科見学のほうが印象に残っていますね。国鉄津田駅、牛乳工場、枚方郵便局・消防署などを巡検したものと思います。本当は製パン工場に行くはずだったけど、事情により牛乳工場に変わったと記憶(パン工場で「甘い」体験ができるものと期待してたのに残念)。



これも懐かしいですね。

牧野ヤングプラザといえば、プールで泳いだという思い出のある方も多いでしょう。

私はヤンプラのプールに入ったことはありませんでした。でも、ボウリングにはこれまで何度か行ったことあります。 

初めてヤンプラのボウリングに行ったのは、高2の遠足の日。当日、嵐山へ行く予定だったけど、雨のためボウリングに変更。お開きの後、私は雨の中を突いて、なぜか樟葉の市立図書館(最寄りは「あさひ」バス停)まで歩いて寄り道しましたね。どうせなら、樟葉駅から【28】号経路(現【39】)枚方市駅行きに乗って帰っても良かった・・・。

翌年、高3のGWの時には、家族揃ってここのボウリング場に行きました。もちろん、受験生だったため、遠出はできず欲求不満気味。2年前の高1のGWのときは、サイクリングに行きたかったんだけど、風邪で寝込んでしまうし、どうも高校時代のGWは呪われてばかりだったような・・・。

ヤングプラザも気がついたら、いつの間にか消えていました。その後も、ボウリング場は残っており、たまに友人・知人と行くこともあります。最後に行ったのは、6年ほど前だったかな。ボウリングの後、マックに入って歓談したりしましたが、約1名のKYな老人のせいで不愉快な思いが募ったりとか、いろいろありましたな。こうなるのも、それまでの私自身の心がけが宜しくなかったためだと反省。

http://katanogawara.blog.jp/archives/34949064.html
でも書いたように、結局のところ、中学・高校時代以来のあれこれがじわりと響いているみたいです。

今ごろになって、中学・高校時代の夏休みに、ヤンプラのプールへ泳ぎに行ってもよかった、と後悔。どうせなら、枚方市駅から京阪バス招提線(【36】号経路ほか)に乗って行くほうが面白かったことでしょう。当時、招提線には中型車(エアロミディMK)も来れば、観光兼用Bタイプ車も来たりと、車両はバラエティに富んでいました。枚方営業所のBタイプといえば、B-1597・1598・3460にもっと乗っておきたかった(Aタイプ・モノコックも)。樟葉駅発着牧野・招提循環(たまに樟葉八幡線、中書島線にも入ってたようだけど)の運用に入ることも多く、樟葉に行く機会があったら、狙って乗車しておけばよかったですね。


ふと、高校の芸術鑑賞の日のことについて書きたくなりました。

私の出身高校では、毎年6月ごろ、芸術鑑賞の日が設定されていました。通常の授業は休みでした。

私個人的には、芸術の内容や中身よりも、むしろ会場までの交通手段のほうに興味があります。

まず、高1の芸術鑑賞は、確か大阪のザ・シンフォニーホール?でクラシック音楽鑑賞。JR環状線福島駅下車、 北へ徒歩15分ほどのところです。自分的には、クラシック音楽が一番楽しかったと思います。演奏された音楽は覚えていません。

高2は、枚方市民会館大ホールだったかな、落語会でした。お恥ずかしいが、落語は私には難しかったです。

高3は、八幡市文化センターでミュージカル観劇だったと思います。京阪石清水八幡宮駅(当時は「八幡市」駅)から徒歩20分のところで、バスに乗らないと不便なロケーションにあります(「八幡市役所前」下車)。

実は、少し時間の余裕があったので、私は樟葉駅から京阪宇治交通の【70】号経路で寄り道しました。樟葉駅と京阪八幡を結ぶバスは、当時京阪宇治交通【70】【71】号経路と京阪バス【32】号経路が存在、【32】と【71】は同じ中央センター前・大芝経由の経路、すなわち両社の共同運行という形でした(→京阪バスへの合併後、【32】に系統番号を統一)。【70】号経路は、船橋・企業団地(→中の池公園)から男山南地区(長谷・しで原)を回り、大芝を経由して京阪八幡に行く路線でした。

乗車した車両は、古参の仲間となったブルドック(K-MP118)。エアロスターMが増殖する中、貴重なモノコック車でした。京阪バスとは異なり、後扉が折り戸で(降車ボタンも「チーン♪」と鳴るタイプだったかな)、ローカル風情が残っていましたね。最新鋭のエアロスターMは、垢抜けて都会的なインパクトある印象で(京阪バスのエアロスターKよりもスタイリッシュだったと思う)、京阪宇治交通の躍進を感じさせる姿でした。


小学校の時の思い出エピソードを一つ。

低学年~中学年の頃は中耳炎あるいは外耳炎を罹患しやすく、バスで枚方市駅前の耳鼻科に通院することも時々ありました。 

実を言うと、私はバスでの通院を楽しんでいました。特に香里団地界隈では少ない三菱ふそう車に当たると得した気分でした。回復まで概ね1週間、毎日駅前までバスに乗れるので、得した気分でもありましたな。さらに診察が終われば、三越や近鉄百貨店で見たいものも見れるし、美味しい1週間でした。交通費や医療費を支給してくれる親としては呆れたものでしょうが(笑) 

恥ずかしい話ですが、この経験に味を占め、「仮病もどき」を演じたことさえあります。

高学年の頃、喉が腫れて風邪を引きやすく、「耳が痛い」と訴えてみました。すると、仕方なく親と同伴で、あの耳鼻科を受診。診断結果は「大したことはありません」で終わり、以降の通院は無しに。本来、これは喜ぶべきことなんですが、妙なことを考えていたガキの私には「不服」でさえありました。

同じ手口を中学校(1年)の時にも使ってみました。

その頃、「いじめ」や友達関係がうまくいかず、できれば学校に行きたくはなかった。ちょうど耳が痛くなったので、あの耳鼻科にかかることを理由に早退を願い出ました。クラスメートには「それぐらいのことで早引きするんかいな」と変な目で見られ、馬鹿にされましたな。


やはり健康であることは有り難いこと。仮病もなるべく使わないほうが良いでしょう(たまにずる休みするときに使うのはあり)。中学時代に受けた「いじめ」も、それまでの私自身に原因があるはずだということに、今頃気づきました。小学校の時にもっと人間的にしっかり成長できていれば、中学校時代およびその後の自分自身も違うものになっていたでしょう。


枚方市駅前周辺のハンバーガーショップといえば、昭和の頃は、南口に存在した三越入口のマクドナルド(マック)でした。

デパートの前のマックとは、少し違和感もあるが、阪神百貨店梅田のスナックパークのような感じでしょうか・・・

三越の前を通りがかる度に、あの独特の匂いが漂ってきて、無性にハンバーガーが食べたくなったりしました。時々ここに寄って買うこともあったが、「ハンバーガー」「チーズバーガー」など安いものしか食べさせてもらえなかったように思います(それでも「ハンバーガー」の当時価格は、確か1個300円ぐらいだった)。一番単価の高い「ビッグマック」がどんなものなのか気になることもあったが、今の年頃では「No Thanks」ですな。

ちなみに、三越には、5階に大食堂があり、西側の窓越しに京阪電車や淀川、高槻の町並み、北摂連山のパノラマ展望が楽しめるロケーションでした。確か食券制だったはず。まさに「デパートの食堂」でしたね。

バスおりばを挟んで三越の向かい側、線路脇のところには、立ち食いの「京阪そば」もありましたな。バスを降りたときに、だしの匂いが香ってきたのを思い出されます。

近鉄百貨店(旧・丸物)も懐かしいです。近鉄百貨店跡地はT-SITEに建替えられました。近鉄百貨店の南側、現在のファミマのところ(市役所方面へ向かう歩道脇)には、ドムドムの店がありました。ドムドムといえば、ダイエーのバーガーショップでお馴染みでしょう。ダイエーの退潮傾向とともに忘れられた存在と化しました。枚方近辺でのドムドムは、ダイエー香里店やニチイ(現・イズミヤ)交野店にもありました。

枚方市駅高架化工事と同じタイミングで、駅南西側(岡本町)再開発事業によりビオルネが開業すると、三越のマックは、ビオルネに移転しました。開業間もない頃は、三越の店舗と共存していたと記憶しているが、統合されたのは自然の流れでしょう。

時代が下がって、平成半ばごろ、駅東口のところ(枚方市駅と禁野方面を結ぶ通りと京阪交野線との交点)にモスバーガーがオープン。20年ほど営業が続くが、今年3月閉店してしまいました。モスのファンになった私としては、誠に残念な話です。

昨年秋、北口のTSUTAYAがあったビルにロッテリアがオープン。2階席まであって座席数も多く、店の中は綺麗でゆったりしていて、なかなか気に入ってます。コーヒーで一服するにも絶好の空間です。2階席のガラス越しからバスを眺めたりするのも面白いでしょう。


小学校の運動会について。

「運動会は嫌いだった」という人は意外に多いようです。私も運動会はあまり好きではなかったかな。 でも、おふくろに作ってもらった弁当ののり巻き・稲荷や、デザートに初物の青いみかんを食べたのは、良い思い出ですな。

さて、小学校最後・6年の運動会ですが、実を言うと恥ずかしいこと、やらかした失敗が多かったです。私・管理人には組み立て体操が何よりの恐怖でした。特に「ピラミッド」。近年、「ピラミッド」は危険なので控えるようにと、行政から厳しい指導が言われているそうですが。腕力に自信のない私は下の段だったようで、上の段の体重を支えきれずにエラーをやらかし、咎められたのが辛かったです。私の失敗ゆえに、下の段の人に怪我させてしまう可能性だってあることを思うと、本当に恐ろしいです。運動会本番のときも失敗に終わりました。

そんな運動会の練習の最中、9月は学校を休んだり早退することがありました。まず、実は大してしんどくはなかったものの風邪気味で、「足が痛い」と訴えて保健室で寝込み、早退(その後、実際に発熱したが)。そして、その2週間ほど後に、今度は下痢からくる胃腸風邪で、学校を一日休みました。風邪を引いてしまったのは事実とはいえ、運動会の練習から逃げているように思われても仕方ないでしょう(むしろ健康管理をしっかりしているのかと疑われそうだ)。

しかし、中学校の体育の時間が本当の「地獄」だったことに比べれば、小学校の運動会は、まだかわいいものだったと思います。






小学校の授業で、「片」という漢字を習ったときのことを思い出しました。

「片」(かた)という漢字には、「2つそろったものの一方」「少ない、わずか」の意味を持ち、この漢字の入る語句に、

片方、片付け、片手間、片親、片思い、片時

などが挙げられます。

私をはじめ、昭和生まれの北河内の鉄道ファンなら、「片」といえば、

片町線

が思い浮かぶ、という人も少なくないでしょう。

片町線は現在のJR学研都市線のことで、今も「片町線」が正式名称となっています。もともと、片町線は関西本線・奈良線と接続する木津駅(京都府木津川市)を起点に、生駒山系山麓に沿うようなルートで京田辺・長尾・星田・四条畷・住道を回り、大阪市の東の繁華街・京橋(大阪環状線、京阪と接続)から、さらに一歩先の片町駅に至る路線でした。「片町線」の由来はその片町駅にあります。片町駅は、京阪の京橋-天満橋間のところにあり(かつて京阪にも「片町駅」があった)、大阪城に近いところですが、JR東西線(京橋-尼崎)開通と引き換えに廃止され、現存しません。それにもかかわらず、正式名称は「片町線」のままです。

国鉄時代は、京都府側の木津-長尾間は単線非電化、大阪府側の長尾-片町間は複線電化と完全に分断状態で、各駅停車(普通)オンリーで列車本数も多くなく、「牛より遅い片町線」と揶揄されるほど不便でした。JRになってさっそく「学研都市線」の愛称が付与されイメージチェンジを図り、ほどなく全線電化開業、そしてJR東西線開通などを通じて、都市鉄道に大きく変貌しました。

「学研都市線」という名称が定着した今では、「片町線」という名称を知らない人のほうが多いのかもしれません。


京阪バス「1Dayチケット」の前身と言える「枚方市内一日乗車券」。 

自由利用範囲は、「枚方市内の京阪バス路線」だが、もう少し詳しく言えば、

<京阪香里園~京阪交野市駅~津田駅>以北、<枚方市駅~枚方公園口>以東、穂谷口・宗谷以西、<樟葉駅~あさひ>以南

で、少しだけ寝屋川市・交野市にも跨っていました。主に香里団地営業所管内路線と枚方営業所管内の大部分(新田辺・天王・八幡方面、その他京都府内路線を除く)で利用可能でした。高槻・茨木・寝屋川・門真方面や、京阪宇治交通などの他社線ではもちろん不可能。

価格は確か800円で、現行「1Dayチケット」(大阪・京都・滋賀地区のほぼ全路線で利用可能)の650円よりも高かったが、1980~90年代当時においては枚方市近辺を自由に周遊できる貴重なチケットでした。発売箇所は枚方市駅案内所・枚方営業所・香里団地営業所に限られていたこともあり、あまり一般的には知られていなかったようです。今更ながら、これをもっと有効に使って充実した休日を過ごせたはずだと後悔しています。

例えば、高校の夏休みとかに、「一日乗車券」を使って枚方市内の図書館をハシゴしたり、王仁公園プールで泳ぎ、そのついでに面白い路線で寄り道することもできた。「雨ばかりで自転車で遠出できない」と腐っていては、実にもったいない話ですね。バス車内では読書や受験勉強等で時間を有効に使うこともできるし(ただし、勉強は英単語などの暗記物に絞るほうがよいだろう)。


私の高1の夏休みといえば、あまり楽しい思い出がなかったというのが正直なところ。

どうも、高1の1年間は、風邪や天候不順のために休日を満足に楽しめないことも多かった。入学式前の春休みはせっかく受験から解放されたというのに、風邪で熱が出て寝込んでしまうし、GWには胃腸風邪(下痢、発熱)にやられ、夏休みは雨の多い天候不順。この年の夏は長期予報では暑い夏になるということだったが、予想に反して梅雨明けは遅れ、盛夏期も太平洋高気圧の勢力が弱くて雨の降りやすい不安定な天気が続きました。本当に運が悪いと言うやら。

このとき、私が一番こだわっていたのは、北摂・丹波の山々へ自転車で遠征すること(サイクリング)でした。雨の心配があれば、当然のことながらサイクリングに出かけづらいですね。しかし、サイクリングを楽しめなかったのも、天候不順や病気のせいばかりではなく、前年夏に無鉄砲をやらかしたために家族に心配をかけたことも響いたのでは、と思います。

すなわち、夏休みの終わりに、→高槻→亀岡→(R372)→篠山市福住→(R173)→池田→というルートを強行軍で回り、帰りが遅くなったことがありました。それだけならまだしも、亀岡市街地でタイヤの空気が抜け、パンクではないかと自転車屋さんに駆け込んで修理を頼んだらお金が足りなくて、慌てて自宅に電話。しかし、そうこうしているうちに虫ゴムを取り替えただけで、有り難い事に回復。親の言うとおりに従って素直に帰路についたほうがよかったところを、「おお、やったぜ」と調子に乗り、さらに遠いところまで行ってしまう無鉄砲をやらかしたのがまずかったようです。京都・兵庫府県境(天引峠)を越えたあたりまで来ると、さすがに「果たして夜遅くならないうちに帰れるんだろうか?」という不安が過ぎり、焦燥感に駆られながら、R173・天王峠をくたばりかけて半押し・・・。

ここで学んだ教訓は、自転車旅行といえども、旅費は「ただではない」ということ。確かに交通費・ガソリン代は無料だが、食事代や飲料代は不可欠だし、パンクその他故障、異常天候など不意の時には思わぬ出費を食らうことにもなりかねません。その場合に備えて、最低数千円分の現金、もしくはキャッシュカード(大人だったらクレジット)は携帯すべきでしょう。携帯電話・スマホはもちろん必須ですね。

高1の夏休みの話に戻るが、部活もあまり熱心でなかったし、小遣いも少なく、雨が多くて楽しめないと愚痴るばかりでは損。こういうときは、本を沢山読むのが一番でしょう(もちろん大学受験勉強をがんばるのもよいが、高1の夏休みは他のことを思いっきり楽しみたいものですね)。青年時代は自分の生き方をじっくり考えることのできる貴重な時期。夏目漱石や太宰治などの古典文学は苦手でも、中高生に読みやすい岩波ジュニア新書やブルーバックス新書などを片っ端から読んで、科学・歴史・哲学・政治・経済・芸術その他幅広い教養を学ぶだけでも、もっと違う自分に変わるはず。そして、できれば日記も書くようにする。ネット時代の今だったら、スマホやパソコンでブログを使って、写真・画像・動画付きの日記を書けますね。

ボランティア活動や社会活動に参加してみるのも良いでしょう(大学入試用の内申点目当てでもよいので)。

雨でも手軽に楽しめるものとして、地元の京阪バス・京阪宇治交通を乗り回るのでも良かったと思いました(京阪バスでは「枚方市内1日乗車券」を販売していたので、それを使うのも手)。当時、京阪バス・宇治交は10年で車両を代替することになっていて、旧型車置き換えのペースが早く、数を減らしつつあるモノコック車とか、【52】樟葉中書島線や【12】新田辺行き、ほかユニークな路線にいろいろ乗っておくべきだったと後悔しています(笑)。バスを一日乗りまわりながら読書するというのは、一石二鳥の楽しみでしょう。


正直、高校時代のGWについては、あまり楽しかったという印象はありません。

というのも、まず高1のGWには胃腸風邪(下痢、発熱)にやられ、寝込んでしまいました。連休谷間の週明け、朝からどうも体調がおかしく(前日の下痢から始まったようだ)、学校を早退。次の日から休日ですが、当然どこにも外出できず、寝るしかありません。 この連休中、自転車で北摂・丹波の山々を遠征(サイクリング)したいと思っていましたが、計画倒れになったのはとても残念でした。体調が回復したGWの終盤、家族でなぜか六地蔵の迷路(→momoがあるところ)に行きました。小学校のGWのときに、宇治・天ヶ瀬ダムまで行ったときは、手作りの弁当を持って広げ、デザートに茶だんごを食べたあと、アスレチックで汗を流し、京阪宇治交通の宇治川ラインや臨時急行・天満橋行きにも乗れて楽しかったが、今回の六地蔵はどうも中途半端なところという印象があって物足りなかったです(昼食もイズミヤのフードコートだったし)。

高2のGWについては、あまりよく覚えていません。

高3は受験生ということもあって、あまり遠くへ行くことはできませんでした。家族でひらパーに行ったぐらいだったかな。あとは自宅でひたすら受験勉強・・・。

高校生という年頃になると、一家そろって出かけるよりも、各個人が自由に自分の好きなところへ行きたくなるものと思いますが、どうなんでしょうか? しかし、家族との交流が楽しめるのも、せいぜい高校生ぐらいまででしょう。大学に入学すれば親と離れて暮らす人もいるし、就職すればなおさらのこと。既にバイトで働いてて連休中休めない高校生もいる。親もいつまで元気に生きているかわからない。家族交流の機会があるうちに、一家全員で楽しむのが吉でしょう。親や家族・親戚に感謝です。


小学校時代の思い出のある行事の一つに、遠足があります。

遠足は毎年春と秋に実施されました。特に印象に残ったものから、

1)ひらパー(小1・春)
2)宇治(小3・秋)
3)奈良(小4・春)
4)神戸(小5・秋)

を選んで書いてみたいと思います。

1)ひらパー
小学校入学後、初めての遠足でした。行先は、一番近くて手頃な「ひらパー」。交通手段は京阪バス(貸切)でした。私たちのときは一般車(Aタイプ)でした。香里団地営業所所属だったと記憶しています。後輩たちは貸切・観光専用Cタイプだったようですが、一般Aタイプのほうがかえって面白かったです。ひらパー内では、確か「モンキーランド」(猿山)でお猿さんを見物したと思います。「モンキーランド」は1994年、「ワンダーガーデン」としてリニュアルされました。

2)宇治
交通手段は京阪電車でした。宇治線の旧型車が特に楽しかったです。往路は1900系でした。京阪宇治から天ヶ瀬ダムまで徒歩。宇治川沿いの「おとぎ列車」線路跡地を歩いたように記憶しています。「おとぎ列車」は軌道法による鉄道ではなく、観光客向けの遊戯鉄道だったが、1960年天ヶ瀬ダム完成とともに消えたそうです。天ヶ瀬ダムに着いて弁当のあと、確か関西電力の天ヶ瀬発電所を見学しました。周辺にはアスレチック園もあり、後年家庭内行事で訪れました。帰りの京阪宇治から乗った電車は、吊り掛け・600系でした。

3)奈良
京阪沿線から奈良へは、丹波橋で近鉄乗り換えが一般的なルートですが、わざわざ不便な国鉄片町線(→学研都市線)に乗りました。距離的には確かに最短経路ではあるが・・・。列車ダイヤの都合で、通常の登校時間よりも早めの集合でした。河内磐船から長尾まではオレンジ色101系、長尾から先は非電化なので気動車に乗り換え。キハ20あたりを期待していたが、やってきたのはキハ35系の2連でした。田辺(現・京田辺)-祝園間は近鉄京都線と並行、あちら側の電車には何本も追い抜かされます。木津で関西本線(奈良線)に乗り換え。京都から来た奈良線の奈良行きはキハ35系の4両だったと思います。奈良駅から三条通を東へ徒歩。猿沢池・東大寺大仏殿などを見学したあと、奈良公園の草原で鹿と戯れながら弁当タイムに。その後、奈良公園で自由時間ののち、帰路につきました。木津駅ホームで片町線長尾行きをかなり長いこと待ちました。ようやく到着したのはキハ40+キハ35の2連。快適なキハ40のボックスシートに座りました。ちなみにキハ35のほうは絶滅寸前のツートンカラーでした。

4)神戸
神戸の遠足はユニークなものでした。往復の交通手段は貸切バスですが、途中神戸港から大阪までフェリーの旅でした。往路は確か近畿道~名神~阪神高速神戸線経由だったと思います。実を言うと、往路では車酔いで気分悪くなりました。鉄道だと、乗り換えが多くて不便なので、バスになったものと思われます(現在なら学研都市線~JR東西線経由のルートも考えられるが)。神戸市内で見学したものははっきり覚えていません。神戸港・ポートアイランド付近だったと思いますが。フェリーの道中で弁当タイムでした。爽やかな秋晴れで何よりでした。フェリーの旅もなかなか楽しいものです。大阪はたぶん北港(もしかしたら、大阪港・天保山だったかも)の寄港だったかと思います。その後、確か科学館を見学したのかな・・・。


小2の遠足については、なぜかあまり印象に残っていません。秋の遠足は伏見桃山城だったが、残念ながら私は風邪で欠席してしまいました。

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