カテゴリ:国鉄・JRグループなど > JR西日本(北陸エリア)/ 北陸本線第三セクター


もし北陸本線が全線直流電化だったら、北陸本線と周辺路線はどうなったのでしょうか? 思いつくままに挙げてみました。

◎電車特急は大阪-青森間の【白鳥】を除いて直流型183・189系を大量投入、485・489系の製造両数は史実より少なかった(【白鳥】は廃止までJR東日本所属車両を使用)

◎寝台電車581・583系(「月光型」電車)の製造両数がどうなったのかは微妙。ただ、史実の通り、南福岡所属車が間合いで【雷鳥】【しらさぎ】に入った可能性はある

◎電車急行【くずりゅう】【立山】【ゆのくに】に153・165系を投入、東海道・山陽系統の電車急行と共通運用

◎普通列車電車化のペースは早く115系を投入、165系なども一部使用

◎湖西線の113系は敦賀まで直通運転

◎糸魚川~直江津間には信越本線長岡方面と直通する普通電車を運行、金沢・新潟鉄道管理局境は糸魚川付近だった可能性

◎米原口普通列車の気動車運用は早期廃止(東海道本線京都・大阪方面からの直通電車を設定)

◎583系から改造の419系「食パン電車」、そして413系電車は登場しなかっただろう(普通電車の増発は113・115系の改造で対応しただろう)

◎高山本線は全線直流電化、【ひだ】に381系投入(名鉄から直通の【北アルプス】は早期に廃止の可能性)

◎大糸線全線電化、新宿~金沢間に中央本線・大糸線経由の特急電車を運転、大糸線は全線JR東日本管内の可能性も

◎後年電化された七尾線にも113・115系を投入

◎高山本線に続き太多線も電化(→JR東海管内の非電化路線は紀勢本線・名松線・参宮線のみに)

◎急行【しらゆき】(金沢-青森)は史実と同様、気動車のままだっただろう

◎急行【きたぐに】(大阪-新潟)は廃止まで【銀河】と共通の24系客車で運用?

◎485系が【くろしお】【北近畿】に転用されなかった可能性が大きい



JR西日本に継承されたキハ35系の動きについて調べてみました。

1987年4月JR発足の時点でのキハ35系の配置状況は以下の通りでした。

(1)1987年4月1日現在
【姫路運転区加古川支区(近ヒメ)】
(キハ30)63 69 70 71 72 73
(キハ35)123 137 156 157 167 
 
【亀山運転区(近カメ)】
(キハ35)181 189 194 206 207

【富山運転区(金トヤ)】
(キハ30)27 
(キハ35)116 117 147 175 195 196 202 204

【小郡運転区(広コリ)】
(キハ30)82 83 84


(出典:きはゆに資料室)

まず、この時点で加古川(1987年時点では姫路の支所扱い)と富山にキハ35系がまとまった数だけ在籍していたのは驚きです。加古川線および鍛冶屋線(廃止)はキハ35系が比較的多かったが、支線区の第三セクター化などに伴い、国鉄末期までに相当数廃車されています。加古川線・鍛冶屋線ではキハ20・23・40・47との混結で使用されていました。さっそく加古川のキハたちは、エメラルドグリーンを基調とする地域カラーに順次塗装変更されました。加古川のキハ35系は鍛冶屋線廃止および加古川線ワンマン運転開始(1990年)の時点で、運用離脱(キハ20・23も同時期に撤退)。加古川線ワンマン列車はキハ40・47に統一されました。

雪国の富山にキハ35系がいたのは意外と思われるかもしれません。富山のキハ30系は、主に平坦線区の氷見線・城端線で運用されていました。富山には国鉄末期に名古屋から転入した車両(キハ35-175号)もいました。ちなみに名古屋所属のキハ35系は、武豊線で運用されていたが、国鉄末期までに一掃。

亀山所属車は主に関西本線(亀山-奈良)と片町線(木津ー長尾)において、キハ58系などとの混結で運用(JR東海の紀勢本線亀山-多気間にも乗り入れていた)。関西本線といえばキハ35系発祥の地として有名だが、国鉄時代の最盛期に比べて大幅に数を減らし、JR西日本に継承されたのはわずか5両のみでした。片町線全線電化(1989年)を経て関西本線亀山-加茂間ワンマン運転開始(1990年)までに、関西本線からキハ35系が引退しました(一時的に加古川線色のキハ35が転属したこともある)。ワンマン列車はキハ28・58に統一されるが、早くも3年後にはキハ120に置き換えられました。

小郡区のキハ30は、主に山陰本線仙崎支線と美祢線大嶺支線で使用。


高山本線北部(高山-猪谷-富山)を走った、面白い臨時列車を挙げてみたいと思います。

高山本線は猪谷駅がJR東海とJR西日本の会社境界になっています。岐阜県と富山県との境目でもあり、猪谷駅はJR西日本の所属で、所在地は富山県富山市。かつて、猪谷駅から岐阜県神岡(飛騨市)を結ぶローカル線・神岡鉄道(旧・国鉄神岡線)が分岐していました。 

高山本線の優等列車といえば、特急【ひだ】。名古屋・大阪と高山本線を結ぶことが使命で、高山駅以南は本数が多いが、高山-富山間は本数がグッと減り、閑散とした印象を受けます。

しかし、かつて高山本線北部でも、越中八尾のおわら祭りをはじめ、以下のようなユニークな臨時列車が運転されていました。

特急【ユートピア高山】ほか(大阪~高山、北陸本線経由) キハ65系エーデル・ユートピア
特急【おわら】ほか (大阪~越中八尾、北陸本線) キハ181系ほか
急行【高山まつり】(上野~高山、高崎・上越・信越・北陸本線経由) 14系客車


このうち上2つの列車群は、JR発足以降のもの。【おわら】ほか、京阪神エリアと越中八尾を結ぶ臨時列車は、毎年9月・おわら祭りの日に運転、2003~04年ごろまで設定されていました。昼間の北陸本線を走るキハ181系ということで、大糸線直通のシュプール号ともども、ファンに注目の列車でした。

これとは別に、JR発足から数年間、大阪駅と高山を北陸本線経由で結ぶ臨時特急もありました。大阪-富山間は、【ユートピア和倉】と同様、485系電車【雷鳥】との協調運転でした。大阪-高山間には古くから岐阜経由の急行【たかやま】(定期列車)があり、2023年現在なお特急【ひだ】(大阪ひだ)として運行中です。岐阜・富山両経由とも、JR西日本・東海の境界を跨ぐことで共通しています。富山経由は走行距離の大半がJR西日本で京阪神中心のダイヤ設定がしやすい半面、如何せん遠回りで実用的な走行ルートとは言いがたく、わずか数年で自然消滅。

上野発の急行【高山まつり】は、国鉄末期1986年10月のみの運転でした。高崎・上越・信越・北陸・高山本線を走行する列車など、今では考えられません。片道(高山行き)のみの運行だったようです。方向転換(スイッチバック)は長岡駅の1回だけというのも、少し驚きです。14系客車はおそらく尾久客貨車区(北オク)所属と思われるが、返却回送ルートが気になります。


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高山本線富山口で運用されていたキハ58系(もしかしたら、両運転台化改造されたキハ53-1000番台?)。JR西日本高山カラーに加え、JR東海の国鉄カラーがともに富山まで顔を出していました。北陸新幹線開業で富山駅の雰囲気もかなり変わっているようですね。

富山の駅弁といえば『ますのすし』がベストセラーですが、 他に安くて美味しい駅弁も多く揃っていますね。
 


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国鉄時代末期のキハ28 2327号の写真を発掘しました。

敦賀駅に停車中の小浜線普通列車のようです。

キハ28 2327(旧327)は1963年新製当初から和歌山機関区(天ワカ)に配置され、紀勢本線の急行【きのくに】【紀州】【はまゆう】で活躍。1985年3月【きのくに】廃止まで、和歌山生え抜きでした。

【きのくに】廃止後、敦賀(金ツル)に転属、小浜線・舞鶴線の普通列車を中心に、急行【わかさ】【はしだて】そして【丹後】敦賀編成で活躍。ただ、敦賀での急行列車としての活躍も意外に長くはなく、JR発足後の1987年度にさっそく近郊化改造を受け、小浜線・舞鶴線ローカル専用に。その後、小浜線色への塗装変更を経て、しばらく小浜線を中心に活躍を続けるが、1992年播但線・姫新線姫路口に転用と同時にロングシート化改造が施され、キハ28 5514に改番。姫路鉄道部(神ヒメ)所属となりました。

しかし、播但線寺前電化(1998年)により、キハ28・58-5000番台は余剰となり、当車両キハ28 5514は1999年に廃車されました。


JR西日本管内を走った「遜色急行」3選。

1、キハ48【つやま】(岡山-津山)
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2、415系800番台【能登路】(金沢-和倉温泉)
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3、キハ75系【かすが】(名古屋-奈良)
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1)「遜色急行」として一番記憶に新しいのは、キハ48【つやま】でしょう。【つやま】は岡山と鳥取を津山・因美線経由で結ぶ【砂丘】の成れの果て。【砂丘】は智頭急行経由の特急【いなば】に移行し、本来、津山線経由の急行列車は快速【ことぶき】(岡山-津山)に置き換えて全廃されるはずでした。

しかし、岡山県北部最大の城下町・津山市の顔を立てるために、1往復だけ急行【つやま】として生き残ったと言われます。しばらく【砂丘】専用編成(キロハ28付き)のキハ58系がそのまま充当されるが、老朽化のため比較的新しいキハ48の2両編成に置き換えられました。キハ48形はキハ40系一般型気動車の仲間ですが、2ドア・デッキ付きの寒冷地仕様であることから、急行列車の体面を何とか保てるので適切との判断だったのでしょう。

ただ、所詮は一般型で、車両両端部はロングシート。急行料金を払っているのに、通勤電車と同じロングシートに座らされるのは、納得できないでしょう。さらに、料金不要の快速【ことぶき】とほぼ同じ停車駅・所要時間で、スピード面でも魅力的と言える状況ではなかったです。「ぼったくり急行」と揶揄される理由も納得ですね。【つやま】は2009年廃止。最後の「昼間の急行列車」でした。

2)415系【能登路】は、どちらかといえば地味な存在でした。【能登路】は金沢から七尾線を経て能登半島各地を結ぶ急行列車。もともと気動車での運転で本数も多く、ローカル急行ながらL特急並みの本数がありました。しかし、和倉温泉以北から能登半島の奥に至る路線は「のと鉄道」に転換ののち一部廃止、七尾線電化を機に特急【雷鳥】などに置き換える形で【能登路】は大幅削減。

七尾線電化後も残った【能登路】のうち、のと鉄道直通はキハ58系のままだが、七尾線(電化区間)内のみの便には普通列車と同じ415系800番台(113系からの改造車)を充当することになりました。急行列車での運用を考慮して、車内は見た目は豪華なボックスシートに改造されるが、キハ58系よりも走行性能はマシなものの、やはり3ドアの近郊型電車ということで、評判はあまり良くなかったようです。

なお、気動車時代の【能登路】も、単行運転区間が存在するためか、キハ20やキハ53などの一般型気動車が連結されることも多かったようで、遜色急行としての歴史も長いです。

3)キハ75系【かすが】。【かすが】は関西本線唯一の優等列車で、かつて名古屋と湊町(JR難波)の名阪間を結ぶ主要列車でした。

キハ75系はJR東海所属の車両で、快速【みえ】を主な用途として量産され、現在も普通・快速列車で好評運行中です。キハ75系そのものは3ドアの近郊型車両ですが、旧来のキハ58系よりも高性能(最高速度120km/h)、座席も転換クロスシートで、旧・急行型車両に比べて快適なことには違いないでしょう。

ただ、同じ車両が料金不要の【みえ】、あるいは同等の設備グレードの車両(221・223・311・313系電車)が料金不要の新快速や快速系統などに当然のごとく使われているだけに、(デッキなし・転換クロスにもかかわらず指定席も設定される)優等列車にふさわしいのかどうかは疑問でした。【かすが】には専用編成が仕立てられ、急行運用時には、中間扉は締め切り、座席カバーも専用のものを使用するなど、一応有料列車としての配慮はありました。ただ、長期的利用客減を止めることはできず、2006年に廃止。


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JR西日本小浜線用125系(金沢総合車両所敦賀支所所属)が、今月のダイヤ改正より舞鶴線経由福知山駅までの定期運用が復活しました。

125系は2003年小浜線電化開業に合わせて新製。今年で小浜線電化20年目の節目を迎えました。電化当初、125系は福知山電車区の所属で、福知山~(山陰本線・舞鶴線)~西舞鶴~(舞鶴線)~東舞鶴~(小浜線)~敦賀間にて運用されていました。当時、敦賀駅構内では北陸本線は交流電化、小浜線は直流電化のため、小浜線用の(直流)電車は舞鶴線・山陰本線ほかと共通で福知山の所属でした。125系のほか、113系体質改善工事施工車(7700番台)の4連×4本(W41・42・43・46)が小浜線用として、独特の塗装を配して福知山に配属。

しかし、3年後の2006年北陸本線敦賀以南直流化&新快速敦賀直通運転開始に伴うダイヤ改正で、小浜線用125系は敦賀区の所属に。125系の西舞鶴以西の運用はなくなりました。一方、北陸本線用の新車521系交直流電車が、一部小浜線で使用されます。

2010年以降、小浜線の電車は125系に統一。113系は京都所に出戻り、古巣の湖西線・草津線で最後の活躍を務めることに。

今月のダイヤ改正で、125系の福知山乗り入れは17年ぶりとなります。来年の北陸新幹線敦賀延伸開業で、小浜線用の車両の扱いはどうなるのか、気になるところ。北陸本線敦賀以北がJRの路線でなくなるため、小浜線用の車両は福知山区に再移管されることも考えられます。福知山地区に残る113系の処遇ともども、注目材料でしょう。

なお、125系は2004年加古川線電化時に、加古川線にも投入されています。


(その1)
http://katanogawara.blog.jp/archives/41921529.html
(その2)
http://katanogawara.blog.jp/archives/41942349.html
(その3)
http://katanogawara.blog.jp/archives/42075761.html

(その4)は「青春18きっぷ」北陸エリアについて。

7、北陸のローカル線はバス・私鉄ワープで3倍楽しむ
北陸エリアは、短距離の行き止まり式JRローカル線(城端線、氷見線、七尾線、越美北線など)が多いのが特徴です。それゆえ、北陸本線や高山本線など主要幹線に一通り乗ってしまうと、飽きたというか物足りないというか、うつ状態に陥ったこともありました。40年前は、七尾線の現終点・和倉温泉から先、能登半島の奥まで国鉄・JRの路線が伸びていましたが・・・。魅力的な観光地や海の幸・山の幸に恵まれ、個性的な私鉄・路面電車の多い北陸なのに、これでは実にもったいない話ですね。

行き止まり式のローカル線を乗り鉄するとき、単純な往復では面白みに欠けるかもしれないが、ここはバスまたは私鉄で他のJR路線にワープ、あるいはJRと並行する私鉄に乗るなどの工夫をすれば、行動範囲も広がって3倍楽しめるでしょう。その好例は、

氷見駅(氷見線)~七尾駅(七尾線) → バス
越前大野駅(越美北線)~勝山駅(えちぜん鉄道) →バス
城端 または 福光(城端線)~金沢駅 → バス
武生~福井(北陸本線) → 福井鉄道
富山~魚津(北陸本線→あいの風やまと) → 富山地方鉄道

などが挙げられます。

北陸は関西から日帰りで行きやすいエリアであり、リピートで訪れるべきところでしょう。


北陸3県(福井・石川・富山)版 #駅名はちがうが簡単に徒歩連絡できる駅 リストを作ってみました。

【福井県】
武生(JR北陸本線) ~ 越前武生(福井鉄道)
越前花堂(JR北陸本線・越美北線) ~ 花堂、ベル前(福井鉄道)

【石川県】
金沢(JR北陸本線・北陸新幹線、IRいしかわ鉄道)
                  ~ 北鉄金沢、七ツ屋(北陸鉄道浅野川線)

【富山県】
能町(JR氷見線) ~ 荻布、新能町(万葉線)

富山(JR北陸本線・北陸新幹線・高山本線、あいの風とやま鉄道)
電鉄富山(富山地方鉄道本線)
富山駅(富山地方鉄道富山軌道線・富山港線)
          ~ 電鉄富山駅・エスタ前、地鉄ビル前(富山地方鉄道軌道線) 
魚津(あいの風とやま鉄道) ~ 新魚津(富山地方鉄道本線)
黒部宇奈月温泉(JR北陸新幹線)~新黒部(富山地方鉄道本線)


富山県では路面電車・私鉄(富山地方鉄道、路面電車は通称「富山ライトレール」)の路線網が県内の広範囲にわたってカバー、また福井県では福井鉄道とえちぜん鉄道が連携プレーで健闘しているのに対し、北陸の中心都市と位置づけられる金沢市周辺(石川県)ではそれほど私鉄が発達していないことに驚きました。

「富山ライトレール」の富山港線はかつてJR富山港線でした。JRのローカル線から都市型LRTに転換された貴重な事例です。

えちぜん鉄道は旧・京福電鉄。かつて京福越前本線(→現・えちぜん鉄道勝山永平寺線)が大野市内まで乗り入れ、国鉄越美北線(越前大野駅)に接続していたようです。

かつて、国鉄大阪・名古屋方面から富山地方鉄道の宇奈月・立山まで直通する列車もありました。名古屋からは、名鉄のキハ8000系特急【北アルプス】が高山本線を縦断して、さらに地鉄に乗り入れるユニークな列車もありました(名鉄神宮前発着、併用軌道の犬山橋を渡り、鵜沼駅から国鉄高山本線に入る)。

富山地鉄といえば、あと元・京阪特急車(旧3000系)ですね。旧3000系唯一のダブルデッカー車も、富山地鉄でまだまだ活躍中です。


JR東日本のお座敷電車「華」「やまどり」の年内引退が発表されました。

これらは国鉄特急型電車485系を改造したもの。現在営業運行を持つ唯一の485系です。「華」「やまどり」の引退をもって、485系は全廃ということになります。東京五輪開催の1964年に登場以来、東北・北陸・九州を中心に、全国の電化区間において国鉄の花形車両として幅広く活躍してきましたが、およそ58年にわたる歴史にピリオドを打つことになります。

485系全廃を前に、現役時代の頃の485系の姿を並べることにしました。

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田沢湖線を走る【たざわ】
東北新幹線1次開業時に盛岡と秋田を連絡するリレーとして登場

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【雷鳥】で活躍するJR東日本・新潟色のボンネット型
遠路大阪まで乗り入れていた

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国鉄時代末期のボンネット型【雷鳥】 京都駅にて

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大阪-青森間をロングランの【白鳥】 湖西線を疾走中

kinosaki1988
福知山線電化で新大阪-城崎間に登場した【北近畿】
全区間直流電化にもかかわらず485系が投入された
(→直流化改造により183系に生まれ変わる)

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末期の頃の【雷鳥】
関西~北陸特急の大半は681・683系【サンダーバード】に置き換えられていた

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パノラマ化改造車クロ
もともと「スーパー雷鳥」用だったと思われるが、
末期は国鉄特急色に塗り替えられ、無名?の【雷鳥】で余生を過ごしていた

P8300026
【はしだて】で活躍する183系800番台改造車
福知山から北近畿タンゴ鉄道にも乗り入れていた

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新潟に停車中の【いなほ1号】青森行き
大阪発583系急行【きたぐに】からバトンを受け継ぐ


急行【きたぐに】(583系)の写真を並べてみました。

「東北ワイド周遊券」で東北旅行の初日、大阪駅から新潟まで【きたぐに】で一夜過ごしました。

【きたぐに】は東海道本線(米原)・北陸本線・信越本線経由で大阪と新潟を結んでいました。その昔、さらに青森までの日本海縦貫ロングラン列車(客車列車)だったが、上越新幹線開業(1982年)以降、大阪-新潟間に短縮。その後、1985年から2012年の廃止まで27年にわたって、583系寝台電車が使用されました。

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大阪駅11番ホーム 北への旅情を誘う

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新潟に到着 新潟色115系?とツーショット
奥は485系ボンネット車
 


1997年冬の週末、「青春18きっぷ」でなぜか七尾線日帰りの旅に出ました。

実を言うと、この旅行についての印象は薄いです。金沢までの行路では、福井あたりから列車は大混雑で、立ちんぼに。結構疲れましたな。福井で「越前かにめし」を購入したと記憶。

金沢から乗り合わせた七尾線は初体験でした。113系から改造の415系800番台ですが、急行【能登路】に使用することもあって、座席はボックスシートながら豪華なパケットタイプでした。七尾線電化後、【能登路】はキハ58系に混じって415系800番台も使用されるが、急行料金の必要な列車として、やはり元来の急行型車両、キハ58系が好まれるところでしょう。

七尾線は能登半島を縦断するローカル線。正式区間はもともと津幡-輪島間ですが、和倉温泉を境に南側はJR西日本、北側はのと鉄道が管轄。現・JR区間は1991年に電化されました。電化前は、和倉温泉以北もJRの管轄でした。なお、末端区間の穴水-輪島間は2001年に廃止されました。

七尾線のJRの普通列車は金沢-(津幡)-七尾間の運転。和倉温泉駅の一つ手前で折り返しです。金沢駅から和倉温泉以遠へ乗り入れるのは特急・急行列車のみ。七尾ー和倉温泉間の普通列車は、のと鉄道の車両で運行されるが、JR区間なので「青春18」での乗車は可能なはず。

七尾まで415系を往復乗車しましたが、曇天だったこともあって、沿線風景はあまり印象に残っていません。七尾駅周辺には七尾港、石川県七尾美術館、七尾城址、小丸山城(公園)などの見どころが存在します。

七尾から氷見(富山県)まで特急バス「わくライナー」でワープし、JR氷見線という富山湾岸ルート巡りも面白いでしょう。

七尾の駅弁に、「朝市弁当」という能登のご当地らしいネーミングのお弁当があるようで、ぜひ味わってみたいです。


飛騨山脈を南北に縦断し、岐阜と富山を結ぶ高山本線。総延長225.8kmに及び全線単線非電化ではあるが、名古屋と北陸(主に富山県)を結ぶ幹線で、沿線は下呂温泉、高山、乗鞍岳、白川郷ほか飛騨路や北アルプスの風光明媚な観光資源に恵まれ、名古屋・大阪から特急【ひだ】が運行されています。高山祭やおわら風の盆(越中八尾)は全国各地から遠路はるばる訪れる客も多く、数々の臨時列車が運行されてきました。

ここでは、主に高山本線北部(主に高山-猪谷-富山間)の普通列車について、レポートを書いてみました。

高山本線は岐阜県区間(岐阜-猪谷)はJR東海、富山県区間(猪谷-富山)はJR西日本が管轄しており、路線総延長のおよそ85%が岐阜県(=JR東海区間)を占めています。

高山本線の普通列車は、岐阜口の岐阜-美濃太田間は名古屋近郊区間という位置づけから本数もそれなりにあるが、美濃太田以北は本数が激減し、特急列車の比重が大きくなっています。接続も良いとは言えず、「青春18きっぷ」の旅行プランを立てる際に頭を悩ませるポイント箇所でしょう。

高山-富山間の北部区間は、地形的には富山湾に注ぐ神通川水系に属すこともあり、岐阜県ではありながら富山との結びつきが強く、かつてJR会社境界を跨いで高山-富山間を直通する普通列車が設定されていました(国鉄時代は岐阜・美濃太田-富山間直通の普通列車もあった)。JR東海(美濃太田車両区)のキハ40系やキハ58系が富山まで足を伸ばしたり、逆にJR西日本富山車両センターのキハ120(キハ120導入前は高山線カラーのキハ52・58ほかを使用)が高山まで乗り入れたこともありました。

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高山カラーのキハ58系(JR西日本所属) 
山深い高山本線沿線をイメージする深緑色だった

しかし、2003年ごろに普通列車は会社境界の猪谷で分断されてしまいます。キハ120の猪谷以南への直通もなくなり、猪谷-富山間の普通列車はキハ120のみに。富山まで越境するJR東海車はキハ85系【ひだ】だけとなります。

2006~2011年までの間、越中八尾-富山間で列車増発社会実験が実施されることになり、絶滅危機種となったキハ58系国鉄急行色2両(キハ28 2360+キハ58 477、ワンマン改造車)がその任務に抜擢され、「JR最後のキハ58系」ということで注目の的になりました。キハ28 2360は引退後、千葉県のいすみ鉄道に譲渡され、2021年現在も現役で活躍中です。

かつて、毎年おわら風の盆のときには、京阪神と越中八尾を富山経由で直通する臨時列車が運転され、キハ58系やキハ181系などが白昼の北陸本線を翔けました。

猪谷以南のJR東海区間では、キハ40系ほか国鉄型車両は引退、キハ25系が主体的に使用され、その多くはロングシート車です。


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越美北線のキハ120・ラッピング車です(2014年)。

キハ120はJR西日本のローカル線用に作られた小型気動車(16m)。初期に製造された200番台は普通鋼製車体で、越美北線と木次線に投入。側面窓も2次車以降と異なり、2段式ユニット窓です。
 


国鉄時代末期頃、東京~大阪間を「電車急行のみ」で移動するプラン(ルートは一部の例外を除き「一筆書き」)を立ててみました。

それはもちろん可能でした。当然のことながら「電化区間」という条件が付くため、気動車急行と比べて経路選択の自由度は限定的で、行動範囲も比較的小規模となります。

1985年3月14日ダイヤ改正以前だと、基本的に次の4ルートが可能でした。

【ルート1】
新宿 → 塩尻  【アルプス】(中央東線)
塩尻 → 名古屋 【きそ】【つがいけ】(中央西線) 
(1982年11月15日以降は【赤倉】のみ)
名古屋 → 大阪 【比叡】(東海道本線)
(【比叡】は1984年2月1日廃止)

または

塩尻 → 大阪  【ちくま2・3号】【くろよん】(中央西線・東海道本線)

【ルート2】
東京 → 富士  【東海】(東海道本線)
富士 → 甲府  【富士川】(身延線)
甲府 →塩尻   【アルプス】(中央東線)
(塩尻以西【ルート1】に同じ)

【ルート3】
上野 → 長野  【妙高】【信州】【志賀】(高崎線・信越本線)
長野 → 名古屋 【きそ】(篠ノ井線・中央西線)
名古屋 → 大阪 【比叡】(東海道本線)

または

長野 → 大阪  【ちくま2・3号】(篠ノ井線・中央西線・東海道本線)

【ルート4a】
上野 → 長岡  【佐渡】(高崎線・上越線)
長岡 → 長野  【とがくし】(信越本線)

【ルート4b】
上野 → 直江津 【よねやま】(高崎線・上越線・信越本線)
直江津 → 長野 【とがくし】【妙高】(信越本線)

(長野以西は【ルート3】に同じ)
(1982年11月15日以降、基本的に長岡~名古屋間【赤倉】通し乗車のみが選択可能)


北陸本線経由は末端区間の糸魚川~直江津間に電車急行が走っていないため、不可能でした。ロングランの【赤倉】(新潟~名古屋)は1982年11月ダイヤ改正まで気動車で存置されていたが、ようやく165系電車に置き換えられました(1985年3月廃止)。

【比叡】は1984年2月1日ダイヤ改正で廃止され、以降信州および名古屋と関西を結ぶ電車急行は【ちくま2・3号】(季節)・【くろよん】(臨時)のみに限られます。電車急行【ちくま】【くろよん】は1986年11月以降も臨時列車として、2000年ごろまで毎年多客時に細々と運転されていました。

1985年3月以降、北陸本線を走る寝台急行【きたぐに】(新潟~大阪)が583系電車化されたため、北陸本線経由が可能となりました。北陸本線経由のルートは2010年まで、定期列車の【能登】(上野~長岡~金沢、489系)+【きたぐに】ルートが可能でした(いずれもJR西日本所属の車両でした)。

他に、
上野~(常磐線)~岩沼 または 仙台~(東北本線)~小山~(両毛線)~高崎~(信越本線または上越線・・・)
ルートで無理矢理距離を伸ばすこともやろうと思えば可能でした(両毛線直通の電車急行【わたらせ】【あかぎ】もあったが、線内は一部区間で普通・快速扱い)。

「電車急行」の条件を緩め、「急行型電車」縛りの旅(快速・普通も可)なら、以下の乗り継ぎも可能でした。

【ルート5】
東京 → 大垣 (大垣夜行普通列車)
大垣 → 大阪 【比叡】

【ルート6a】(1982年ごろまで)
新宿 → 上諏訪 【アルプス】【こまがね】(中央東線)
上諏訪 → 豊橋 【伊那】(飯田線)
豊橋 → 名古屋  (東海道本線快速)
名古屋 → 大阪 【比叡】

【ルート6b】(1982年ごろまで)
新宿 → 上諏訪 【アルプス】【こまがね】(中央東線)
上諏訪 → 豊橋 【伊那】(飯田線)
豊橋 → 米原  (東海道本線快速)
米原 → 大阪  【ゆのくに】

名古屋地区快速電車は1982年ごろまで153・165系など急行型電車が使用されていました。京阪神地区新快速も1980年まで153系だったので米原から新快速も可能と思ったが、当時新快速の運転区間は野洲-姫路間だったはずなので外しました。ただ、米原-大阪間では北陸からの【ゆのくに】(475系)も可能でした。


昔、20歳前後の頃、ある虚無感のようなものに嵌り、うつ状態に陥ったこともありました。

私は中学・高校時代より国鉄・JRの「乗り鉄」にこだわり続け、なるべく多くの路線・区間に乗ることが第一でした。 学校の春・夏・冬休みには「青春18きっぷ」を使って日帰り可能な近畿・東海・北陸地方を中心に乗り回ってきました。大学生になると夜行列車や周遊券なども使い、首都圏・信州・九州・東北へと行動範囲を広げました。

ただ、3回生になって、あれこれ何かと忙しくなったこともあり、旅行もあまり行かなくなりました。「青春18きっぷ」を使おうにも、日帰り可能な近畿・東海・北陸エリアの路線は大部分乗ってしまったがゆえ、虚無感のようなものに襲われることさえあり、あまり気が乗りません。

「乗り鉄」と並行して自転車旅行もやってきたが、同様に日帰り可能なエリアは(一応)ほぼ一通り回り尽し、急激に遠征意欲も減退。その途端、風邪を引きやすくなって、運動不足や体力低下を嘆くようになります。サイクリングに代わるスポーツ(草野球でもテニスでもサッカーでも)を何か手軽に楽しみたいと思ったりもするが、なかなか時間・場所・相手が見当たらないと愚痴る始末でした(→中学・高校の体育の先生から「君、体育も部活もちゃんとやらんかったからやろ、今更泣き言並べても遅い」と説教されそうで、ある意味自業自得)。

今から思えば、大学時代(特に2~3回生の頃)の自分は、かなり滅茶苦茶だったようです。旅の限界虚無感もその一環でしょう。

* * * *

しかし、この虚無感は1年ほどで解消。「乗り鉄」の新たなテーマを一つ見つけました。

国鉄急行型車両(165系、475系、キハ58系ほか)に乗ること

JRになってから、国鉄型車両は各地域ごとの独自カラーに塗り替えられる中、旧来の国鉄時代の塗装のままの姿が新鮮に映るようになりました。国鉄時代の急行全盛期の姿を保っていた【東海】【丹後】も終焉を迎え、急行型車両は一つのブームでしたね。

近畿・東海周辺には、山陰本線・紀勢本線・北陸本線・中央西線などの普通列車で急行型車両が多く残っており、「青春18きっぷ」でリピート訪問するようになります。特に風光明媚な紀勢本線や中央西線の国鉄色をよく追いかけていたものですね。そのうち、深みにはまって現実逃避に傾くようにもなるが・・・。

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日常の通勤・通学で利用する近郊型電車についても、221系や223系が台頭しつつある中、113系や115系が来ると、国鉄時代の汽車旅気分が味わえて嬉しく思うようになったものです。

* * * *

国鉄急行型車両も完全引退へのカウントダウンが始まり、国鉄時代も遠くなりにけりと感じた頃からか、「昭和の町並み風景」が私の旅の新たな追求テーマになったと思います。

単純な「乗り鉄」一辺倒だった少年時代の頃に比べ、自分自身成長したつもりでいましたが・・・。これもなかなか難しいもので、拒絶の壁にぶち当たって自信喪失に陥り、自暴自棄になったこともあります。しかし、結局のところ、やはり私自身の不徳でしょう。何年も思い悩んだ末、突破口への近道は

趣味人である前に、大人になること

だと思いました。



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特急【雷鳥】といえば、やはりこのスタイル・カラーでしょう!


 


1998年1月の週末、岐阜県中津川市のイベントに参加するため、「青春18きっぷ」で寄り道の旅をしました。当日、京都府綾部市に寄るため、やや変わった乗車ルートを取りました。

まず、京都駅から綾部まで少し急ぎたかったので、特急【きのさき】(183系)に乗車。綾部で所用(というほとでもないが)を済ませたあと、舞鶴線・小浜線・北陸本線経由で名古屋から中津川をめざします。舞鶴線・小浜線は非電化で、キハ58系がワンマン普通列車として最後の活躍中でした。実を言うと、このキハ58系に乗ることも一つの目的でしたね。舞鶴線はキハ47だったかもしれません。舞鶴線は翌年秋に電化されました。

東舞鶴で舞鶴線から小浜線に乗り換え。舞鶴線のキハ58系(福フチ)は国鉄急行色なのに対して、小浜線(金ハマ)は派手な青の小浜線カラーでした。かつて、東舞鶴と名古屋を直通する臨時急行【エメラルド】が海水浴シーズンに運行されていましたね(さらに昔は名古屋と山陰を結ぶロングラン【大社】もあった)。山陰本線園部-綾部(福知山)間電化後、小浜線の優等列車は急行【わかさ】が細々1往復だけ残るが、これも舞鶴線電化で廃止。舞鶴線に4年遅れて小浜線も電化されました。

敦賀-長浜・米原間は475系または419系交直流電車でした。米原-大垣・名古屋間は117系だったかもしれません。JR東海の117系は2013年までに引退しました。

名古屋からの中央西線は211系快速だったと思います。中津川から先、165系に乗って木曽路を楽しみたいところですが・・・。駅前のホテルに1泊しました。風呂は屋上の大浴場だったのは良かったです。ホテル宿泊時の入浴といえば個室のシャワーが一般的だけど、できれば大浴場なり近くの銭湯に入りたいところ。

翌日の帰りは、駅前の食堂で名物釜めしを食べたあと、単純に中津川~名古屋~(東海道本線経由)~京都の乗車ルートでした。大垣で途中下車し、名阪近鉄バスの京阪移籍車を見てみたが、RCは姿を消してしまったようで、P代のHTに入れ替わっていました。


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JR西日本越美北線(九頭竜線)のキハ120。

九頭竜線のキハ120は初期に納車された200番台で、車体は普通鋼製、側面窓はユニット窓で、以降の0番台・300番台と仕様が異なります。普通鋼製車体のため、塗装が施されているが、後年の単色化路線により、キハ120-200番台も国鉄タラコ色に塗り替えられました。

画像のキハ120は、特別ラッピング車です。
 


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南小谷駅に停車中のキハ52・糸魚川行きです。キハ52 125のようですが・・・。

大糸線のJR西日本区間(南小谷-糸魚川間)は、急勾配区間が多いことから、2010年までキハ52が活躍していました。引退直前には国鉄ツートンカラー2種類のリバイバルが登場し、ファンたちで賑わいました。 糸魚川のジオステーションに、国鉄カラーのキハ52 156号が展示されています。

現在、大糸線にはキハ120が岡山色のまま運用中です。


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20年以上昔の写真を1枚。

高岡駅の氷見線のりばです。

キハ23が活躍していました。隣の車両は12系客車から改造のキサハ34。キサハ34は、ラッシュ時間帯、キハ58系の中間に組み込まれ、輸送力アップに一役買いましたが、・・・。もっとも、12系客車は客用扉が折り戸、側面窓は二段とキハ65形と同じスタイルであり、キハ58系の編成に組み込まれても違和感はなかったように思います。

画像右側に映る「SATY」も懐かしいですね。

北陸新幹線開通で高岡駅の様子も大きく変わったことでしょう。


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来年秋、JR七尾線に521系を導入すると発表されました。

https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/09/page_14890.html

今度、七尾線に導入される521系は227系と同じスタイルとなりそうです。

七尾線では1991年の電化以来、113系初期型を交直流対応に改造した415系800番台が主に活躍してきましたが、ついに余命宣告が言い渡されました。今や113系初期型は絶滅と言っていい状況ですが、七尾線の415系がその生き残りです。415系に混じって413系も運用に入っており、413系の一部編成には急行型455系のクハ(700番台)が連結されているものもあります。国鉄急行型電車(165系、455・475系ほか)もほぼ絶滅で、七尾線のクハ455-700番台が最後の生き残りとして、地味に注目を集めています。
 


かつて国鉄時代、北陸本線敦賀近辺もなかなかの気動車王国でした。

北陸本線は既に電化され、485系の特急列車などが賑やかに行き交う中、普通列車は客車または気動車が多かったです。というのも、大半が交流電化であり、高価な交直流両用の近郊型電車を北陸本線に導入する余裕がなかったことが理由のようです(国鉄時代末期になって急行列車の廃止で余剰となった457・475系電車がローカルに転用、客車列車は全廃)。また、京阪神に最も近い米原-敦賀間においては、交直流セクションにあたるため、 東海道・山陽本線からの直流電車(113・117系ほか)を直通させることが不可能で、米原口の短距離区間普通列車を中心に気動車が運用されていました。同様に、京阪神と北陸を短絡する湖西線(1974年開通)も、永原-近江塩津間に交直流セクションが設置されていたため、113系は終点・近江塩津の一つ手前の永原までしか運用できず、近江今津以北には敦賀直通の気動車列車が設定されていました。

敦賀近辺の気動車は、敦賀機関区(金ツル)が運用管轄していました。敦賀の気動車は、国鉄末期は

キハ58・28、キハ40・48、キハ20

が配置されていました。キハ40・48が投入される前は、キハ26が配置されていたようです。敦賀には西日本では数少ない寒冷地用のキハ48形が5両(0番台3両、1000番台2両)だけ配置されたことが特徴的で、0番台・1000番台自体少数派で、JR西日本に継承されました。キハ40形は暖地用の2000番台です。


敦賀区の気動車は、主に小浜線(敦賀-東舞鶴)向けであり、小浜線の急行列車<わかさ><はしだて>、そして山陰本線京都口<丹後>の小浜線直通付属編成(小浜線内普通列車)などにも充当され、山陰本線京都~福知山、宮津線天橋立まで足を伸ばしていました。<はしだて>は、1982年11月改正前は<大社>であり、福井-天橋立間(1978年以前は金沢-米子間だった)の運転で、同じ<大社>のロングラン名古屋~出雲市間編成(名古屋編成は美濃太田所属)に併結運転が行われていました。名古屋編成はキロ28連結なのに対して、福井編成は普通車のみの身軽な3両でした。敦賀所属のキハ58・28は、福知山局(福知山・豊岡区)のほか、名古屋局(美濃太田区)の気動車とも併結運転が行われていたわけです。<はしだて>の送り込みも兼ねて、朝の上り・夕方の下り<わかさ>は、県都・福井まで直通運転が行われていました。

小浜線も1984年2月改正まで客車列車が設定されていたが、全列車気動車化されました。また、小浜線・舞鶴線の普通列車として、福知山までキハ40・48やキハ20が乗り入れ、キハ47王国・福知山鉄道管理局管内では異彩を放っていました(キハ20は1982年頃まで福知山管内に在籍していたが)。逆に小浜線には福知山区のキハ47も乗り入れていたが、本数は少なく、小浜線でのキハ47はあまり馴染みがありません。

北陸本線米原口・湖西線北部末端区間のローカルには、主にキハ40・48が使用されていたが、時折キハ58・28も連結され、また米原から1区間だけ東海道本線に乗り入れ彦根まで足を伸ばしていました。

このほか、国鉄時代は越美北線の気動車も敦賀機関区が管轄していたようで、キハ23・52が使用されていました。

JR発足以降、普通列車用の気動車は新・敦賀色に塗り替えられました(急行列車の運用に入る一部のキハ58系は急行色のまま)。1991年9月、北陸本線米原-長浜間の直流化工事完成、京阪神から長浜まで新快速電車が直通運転を開始しました。これに伴い、北陸本線・湖西線での気動車普通列車は廃止、湖西線北部の普通電車にも413・419・457・475系電車が使用されるようになりました。加えて、小浜線ワンマン運転も始まり、キハ58・28がワンマン仕様に改造を受けました。キハ48ははるばる山陰本線下関口へ飛ばされます。キハ48形はその後、岡山のぼったくり急行<つやま>で有名になったり、その着せられた汚名を返上すべく、最近では七尾線の観光特急<花嫁のれん>用に大改造を受けたものもあります。キハ40系が敦賀からいなくなった代わりに、キハ53が転入。キハ53もワンマン改造を受け、2003年の電化までキハ58・28ともども小浜線のローカル運用をこなしました。また、キハ53は、なぜか急行<はしだて>格下げの天橋立快速にも使用され、宮津線(北近畿タンゴ鉄道→京都丹後鉄道)では違和感のある存在でした。



JR東日本と西日本を跨ぐ列車について見ましょう(JR東海経由は除く)。

かつてJR東日本と西日本を直接結ぶ在来線列車は北陸・信越地区を中心に多かったが、北陸新幹線開通後は皆無となりました。

JR東日本と西日本の会社境界は、在来線では北陸本線・信越本線直江津駅と大糸線南小谷駅の2つですが、北陸本線金沢以東は第三セクター化されたこともあって、直江津駅にJR西日本の列車は1本も乗り入れなくなりました。 

JR発足当初、北陸特急<雷鳥><白鳥><北越><白山>、急行<きたぐに><能登>、寝台特急<日本海>ほか、数多くの優等列車が会社境界をまたいで活発に行き来していました。しかし、1997年長野新幹線(→北陸新幹線)開通時に長野経由首都圏-北陸間の列車が廃止(信越本線碓氷峠区間も廃止)。さらに長距離旅客の減少および北陸新幹線金沢開業準備の情勢を反映して、昼間特急として日本最長距離を誇っていた<白鳥>【大阪-青森】は2001年に金沢・新潟で系統分割、新潟<雷鳥>は金沢もしくは富山止め、数少なくなった定期急行<きたぐに><能登>も2012年までに廃止、そして大人気の<トワイライトエクスプレス>【大阪-札幌】なども2015年までに惜しまれながら引退・・・。

JR発足当初のバブル期は、京阪神地区さらには岡山や和歌山方面から信越方面へのスキー臨列車が北陸本線経由で旺盛に運行していました。白馬・栂池方面へは糸魚川からスイッチバック、14系客車<リゾート>からキハ181系やキハ65エーデルなどを総動員してまで大糸線(JR西日本区間のみ非電化)に直通、南小谷を跨いでJR東日本エリアに乗り入れたり、また軽井沢方面へは直江津から信越本線(現・えちごトキメキ鉄道、しなの鉄道)に直通運転するなど、思い切った運行体制が取られていました。国鉄時代なら名古屋から中央西線での運転になると思われるところを、JR東海を敬遠してまでわざわざ北陸回りのルートを取るような格好でした。仮に本州がJR東日本・西日本で折半される形なら、関西から信州へのシュプール列車は中央西線経由のルート中心で設定されることでしょう(これならわざわざ気動車まで用意する必要はないだろう。ただ、キハ181系などを使ってJR難波・天王寺・奈良から関西本線経由のルートで設定される可能性は考えられるし、あるいは長野から飯山線直通もありそうだ)。

国鉄時代は大糸線糸魚川から南小谷を跨いで信濃大町まで気動車が直通(1982年以前は金沢-松本間の急行<白馬>、さらに昔は新宿や名古屋からの急行が糸魚川まで直通)、JR発足当初も残っていたが、JR西日本(非電化)区間のワンマン化とともに南小谷折り返しとなりました。

このほかの面白い列車として、JR東日本「夢空間」を使用した臨時列車もありました。特に上野~出雲市間を信越・北陸・小浜・舞鶴・山陰本線経由で結ぶ「夢空間山陰路」号は最高の傑作列車だったと言えます。


久しぶりに過去の旅行記を書くことにしました。

今回は1993年春の福井旅行。

目的は越美北線完乗。

例によって「青春18きっぷ」使用ですが、往路はちょっと贅沢気分を味わおうと、京都から福井まで特急<雷鳥>に乗車。福井には確か朝9時台に到着したかと思うが、越美北線の列車は昼の13時ごろまでなく、あまりに時間を持て余したので、適当に福井市街地をぶらり。京福電鉄バスの元・京阪バスと思しき日野K-RE121を見かけたので、これに乗って福井市街地の小旅行を楽しんでみました。京福電鉄はグループの京都バスと塗装は同じ、京阪バス中古車もそれなりに導入していたようです。昼食は確か鯛の寿司の駅弁を味わったかと思います。

午後は越美北線で九頭竜湖までの単純な往復をしました。少し前まではキハ52が活躍していたが、既にキハ120に置き換えられていました。越美北線は、越前と美濃(岐阜県)を結ぶことを目的に建設され、岐阜県側の越美南線(→長良川鉄道)と結ぶ計画でした。越美南線の終点・北濃と九頭竜湖を結ぶバスが長い間運行されていたが、現在は廃止となったようです。

福井からの帰りは、敦賀から小浜線~舞鶴線~山陰本線を寄り道しました。小浜線の普通列車はキハ58系のワンマンカーが基本だったが、今回乗車したのは確か福知山行き、急行<わかさ>などに使用されるオリジナル急行塗装編成で、得した気分でした。小腹が空いたので敦賀で夕食用に駅弁「角鹿弁当」を購入して車内で味わい、最高に美味かったように記憶しています。やはりキハ58系は急行色が最高ですね。

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1994年8月訪問しました。
富山港線は北陸地方では珍しく直流電化で、かつては青の直流型旧型国電が活躍していたが、北陸本線と共通の457・475系に置き換えられました。
富山港線は2006年、富山ライトレールに転換されました。


北陸本線(米原-直江津)は交流電化路線のイメージが強いですが、両末端区間は直流電化となっています。
もともと東側の糸魚川以東(→現・越後トキめき鉄道)が最初から直流電化、西側の米原口は1991年に長浜、2006年に敦賀まで順次直流化され、京阪神から新快速電車が敦賀まで直通運転しています。

さて、ふと気になった北陸本線での115系ですが、直江津側の直流区間に谷浜や能生への海水浴臨時列車で乗り入れた可能性はあるようです。実際、JR東日本管内の長野および新潟地区115系の方向幕で北陸本線の「谷浜」・「能生」コマが入っているのはかなり有名で、山国の信州から直江津経由能生まで海水浴臨が運転されたこともあります。使用車両はもちろん電車ですが、どんな車両が使われたのかが気になります。115系の可能性が濃厚ですが、165・169系の可能性ももちろんあります。

ちなみに、米原口でも1990年代の一時期、長浜まで115系が乗り入れたことがあります。米原口での115系は京阪神快速電車の113系チームの一員として岡山から転入したもので、113系と共通運用でした。



梅雨明け発表ももうすぐ、いよいよ夏本番を迎えます。

海水浴で賑わっていた頃の小浜線の面白い列車について、思いつくままに書いてみたいと思いました。

せっかく電化されたにもかかわらず、現在の小浜線はあまり元気がありませんね。
舞鶴線綾部・福知山方面へ直通する列車さえなく、寂しい限りです。

しかし、国鉄時代~JR初期の頃は、京阪神・名古屋から若狭湾への海水浴臨時列車がいろいろ運転され、賑わっていました。列車名があまりに多すぎてとても覚え切れませんが、列車は大体以下の経路で運転されていました。

1)大阪・京都~(山陰本線・舞鶴線経由)~若狭高浜・小浜・敦賀
2)大阪~(福知山線・舞鶴線経由)~若狭高浜・小浜・敦賀
3)神戸・大阪・京都~(湖西線・敦賀経由)~小浜・若狭高浜
4)名古屋~(米原・敦賀経由)~東舞鶴

大阪・京都方面からは経路が3通りもあってかなり複雑でした。しかも1)3)と2)は大阪駅基準では進行方向は正反対。京都発着列車は基本的に2)のルートですが、大阪から発着することもありました(途中、新大阪・高槻に停車)。3)の湖西線・敦賀経由について、かなり古い時代の湖西線開通前は草津・米原経由で運転されたこともあります。神戸・阪神間地域からは、福知山線経由よりもむしろ湖西線経由のほうが早くて便利なようです(現在は新快速で敦賀まで一本)。列車種別・使用車両もさまざま、キハ58系・キハ181系・キハ65系「エーデル」・12系客車・20系客車ほか、より取り見取りです。

名古屋方面からは急行<エメラルド>でお馴染みでしょう。1982年までは山陰の出雲市までロングランの<大社>(宮津線経由)がありました。



2007年4月、鯖江で撮影しました。今はどれも見ることのできない車両たちです。



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北陸本線の顔だった485系「雷鳥」


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パノラマ化改造された485系
もとは「スーパー雷鳥」として登場したが、末期は国鉄特急色となる


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475系リバイバル塗装
国鉄時代は急行「立山」「ゆのくに」「くずりゅう」で活躍
急行廃止後は普通列車で運用


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419系「食パン」
583系寝台電車を近郊型化改造されて登場
同じタイプの車両715系が東北・九州にも配置されたが短命に終わる
北陸の419系は2010年まで25年近く活躍を続けた


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